以前、墓前祭の様子はレポートしておりましたが、慰霊碑等の詳細に言及しておりませんでしたので、改めて再訪の上で記載をしていきます。
慰霊顕彰し、深く拝す。
ありがとうございます。
目次
馬門山横須賀海軍墓地墓前祭
馬門山横須賀海軍墓地・入口
入り口に、かつての門柱がある。
馬門山墓地
馬門山墓地
横須賀海軍墓地
旧石積みに使用されていた佐島石
馬門山墓地(旧海軍墓地)
明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。
昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」
右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
海軍関係
単独埋葬者 279柱
供養塔
軍艦河内殉難者の碑 621柱
軍艦筑波殉難者の碑 152柱
特務艦関東殉難者の碑 68柱
北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑 5柱
上海事変死者の碑 59柱
第4艦隊遭難殉職者の碑 36柱
支那事変大東亜戦争戦歿者の碑 372柱
一般市民 305基
横須賀市営馬門山墓地
馬門山横須賀海軍墓地・上段
上段には7つの慰霊碑、士官、下士官の墓があつまる。
以下、入り口向かって右から順番に参拝していく。(反時計回り)
上海事変戦死者之碑
59柱を祀る。昭和8年1月建立。
上海事變戦死者之碑
海軍中将野村吉三郎 書
昭和7年(1932年)、第一次上海事変が勃発。日本海軍は1月31日に第三艦隊(司令官は野村吉三郎海軍中将)を派遣。ついで犬養内閣は金沢第9師団を派遣。さらに2月23日に善通寺第11師団と宇都宮第14師団を以て上海派遣軍を編成。司令官は白川義則陸軍大将。3月3日に戦闘中止。
上海事件終結の4月29日に上海で開催された、天長節祝賀会の最中に上海天長節爆弾事件が起こる。韓国の独立運動家である尹奉吉が爆弾を投げつけたもの。この事件で野村吉三郎海軍中将は右眼を失明、特命全権公使の重光葵は右脚を失い、同席していた白川義則陸軍大将は瀕死の重傷を負って翌月に死去した。
上海事変で海軍の責任者であった野村吉三郎の名でもって上海事変の戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために昭和8年1月に馬門山墓地に建立。上海事変に関しては、各鎮守府から出兵したということもあり、横須賀馬門山のほか、呉海軍墓地と佐世保海軍墓地にも慰霊碑が建立されている。
支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔
372柱を祀る。昭和21年8月、28年9月23日建立
題字は、最後の横須賀鎮守府長官となった戸塚道太郎中将。
由来記は、同じく最後の横須賀鎮守府参謀長となった古村啓蔵海軍少将。
横須賀鎮守府下の英霊372柱を祀る。
忠霊塔
支那事變大東亞戰爭戰歿者
昭和十二年支那事變勃發シ次ニ大東亞戰爭トナリ皇國未曽有ノ危局ニ到達スルヤ一家ヲ忘レ祖國ノ爲勇躍從軍シ砲煙彈雨ノ中酷熱瘴癘ニ抗シ或ハ寒風怒涛ト戰ヒ又ハ内地ニ於テ激務ニ從事中壮烈ナル戰死ヲ遂ゲ或ハ其ノ職ニ殉シ若クハ病魔ノ爲不歸ノ客トナレル舊横須賀鎮守府管下諸英霊ノ忠誠ヲ記念シ永遠ニ其ノ遺烈ヲ語リ傳ヘン爲此處ニ忠霊塔ヲ建立ス
昭和二十一年六月
横須賀地方復員局長官 古村啓藏
昭和二十一年八月十五日
第四艦隊遭難殉職者之碑
36柱を祀る。昭和11年9月建立。
第四艦隊遭難殉職者之碑
昭和十年九月
第四艦隊事件は、昭和10年(1935年)に岩手県沖で台風により大日本帝国海軍の艦艇が被った大規模海難事故。前年に発生した友鶴事件と共に、海軍艦艇の設計思想に大きな影響を与えた。
昭和10年の海軍大演習で臨時編成された第四艦隊は台風と遭遇し参加艦艇41隻のうち約半数の19隻に何らかの損傷を受け、水雷戦隊にいた最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦の初雪と夕霧は艦橋付近から前の艦首部分が切断される大損害を受けた。
第四艦隊遭難殉職者之碑は、昭和11年九月に建立され初雪の艦首殉職者24名、ほか12名の36名を祀る。
軍艦河内殉難者之碑
621柱を祀る。大正8年2月建立。
軍艦河内殉難者之碑
大正七年七月十二日爆沈 大正八年二月建之 正木義太書
軍艦「河内」は、日本海軍が最初に保有した弩級戦艦。姉妹館は摂津。明治45年(1912年)竣工。
大正7年(1918年)7月12日、山口県徳山沖にて火薬庫爆発により爆沈。乗組員1035名のうち621名が殉職。
軍艦河内殉難者之碑は、翌大正8年2月に建立された。
揮毫の正木義太は、爆沈当時の河内艦長であり、後、海軍中将となる。沈没地の山口県にも「帝國軍艦河内殉難者英霊之碑」が建立されている。海軍大佐(海兵51期)の正木生虎は、正木義太の長男。
軍艦筑波殉難者之碑
152柱を祀る。大正8年4月建立。
忠烈(篆額)
東伏見宮依仁親王篆額
軍艦筑波殉難者之碑
海軍大将 名和又八郎 書
大正六年一月十四日午後三時十五分於横須賀軍港遭難
大正八年四月建之
巡洋戦艦「筑波」は、戦艦「薩摩」とともに日本国内で初めて建造された装甲艦。
明治40年(1907年)竣工。大正6年(1917年)に停泊中の横須賀港で火薬庫爆発事故により沈没。乗員約340名のうち125名が死亡、27名が行方不明となる。
軍艦筑波殉難者之碑は、殉職者152名を祀る。大正8年4月建立。
なお、「筑波」爆沈の翌年に、「河内」が爆沈している。
特務艦関東殉職者碑
68柱を祀る。大正14年4月建立。
特務艦関東殉職者碑
海軍中将加藤寛治書
大正十四年四月建之
特務艦(工作艦)「関東」は、日露戦争で拿捕したロシア艦艇マニジューリヤ。
大正13年12月9日、舞鶴に向け兵員物資を輸送するため呉軍港を出港したが、12月12日、暴風雨のため、福井県下糠浦海岸(南越前町糠)の二ッ栗岩に激突し座礁沈没。便乗者含め99名が死亡。殉職者68柱が合祀された。
北京籠城軍艦愛宕戦死者碑
5柱を祀る。明治34年5月建立。昭和7年8月29日移設。
北京籠城軍艦愛宕戦死者碑
明治三十四年五月建立
扁額は、海軍大将正三位勲一等功二級子爵 伊東祐亨
碑文は、愛宕艦長海軍中佐正六位勲五等 竹内平太郎
明治33年(1900年)5月、清国にて義和団の乱(義和団事件・北清事変)が勃発。砲艦「愛宕」の乗組員は陸戦隊25名を編成。5月から9月まで北京公使館を保護のために籠城し、死者5名、重軽傷者多数を出したが、最後まで奮戦し、日本公使館を守り抜いた。
明治34年5月横須賀市大勝利山天栄寺境内に建立されたが、昭和7年に移設。
手前左右に砲弾、碑の隣に錨が納められている。
関口特攻兄弟之碑
特攻隊として国難に殉じた関口兄弟の碑で、昭和32年5月、父(海軍大尉 関口辰次)によって建立された。
次男海軍少佐関口哲男(24歳)は神風特別攻撃隊新高隊長として昭和二十年一月二十一日台湾東方海面に於て三男海軍少尉関口剛史(19歳)は神風特別攻撃隊水心隊員として同年五月七日沖縄海面に於て何れも敵艦隊を邀撃して之に突入偉功を奏し壮烈なる戰死を遂げた。
関口特攻兄弟之碑
元第三航空艦隊司令長官寺岡謹平 敬書
馬門山墓地の下段
猿九重野女史留魂碑
猿九重野女史留魂碑
大川内傳七 書
馬門山墓地の下段にある。
上海にて特志看護婦として海軍のために献身的な奉仕を果たし、「海軍婆さん」の愛称で親しまれた猿丸重野女史(昭和28年2月3日横須賀市で永眠)の遺徳を永遠に顕彰し慰霊する。
大川内傳七は、海軍中将。
昭和11年に、上海海軍特別陸戦隊司令官に就任し、翌年の昭和12年(1937)に支那事変が勃発。上海海軍特別陸戦隊司令官として第二次上海事変を戦い、上海派遣軍の増援が来るまでの3ヶ月間を死守した。
海兵37期。同期は、井上成美、小沢治三郎、草鹿任一など。
馬門山墓地の中段
中野良之助君招魂碑
明治20年、初代「金剛」(コルベット)で職務執行中に殉職した中野良之助の招魂碑。
馬門山横須賀海軍墓地・上段
下段、中段は兵の墓。
中段は明治10年代、下段は明治20年代が多い。
馬門山横須賀海軍墓地・拝霊堂
昭和7年8月建立。下段の入り口正面にある。
一括礼拝に便利なように建設された。
馬門山旧海軍墓地合祀者靈位
合掌拝礼
ありがとうございます
場所
※参拝:2022年5月