呉・海軍墓地(長迫公園)

平成29年3月

広島県呉市。長迫公園の呉海軍墓地。

護国の為に戦いし艦と人に。
感謝と哀悼を。


明治23年開設の大日本帝国海軍墓地。
呉鎮守府が管理し毎年この地で慰霊祭が行われていたが昭和20年に祭祀は廃止。

昭和46年以降に再整備が行われ呉市管理の下で現在に至る。

合祀碑91基。
個人墓碑157基。
英国水兵墓碑1基。

この日(平成29年3月5日)は僅かな持ち時間の中での参拝。
呉海軍墓地の全てを網羅するのは難しい。
かといって鎮魂慰霊の心に優劣をつけたくはない。
なるべく端から端を。
ゆっくりと手を合わせ、ゆっくりと頭を垂れながら、静かに巡ってきました。
写真は展望台より。

墓地案内図を見ながら、中央から右上に向い右上から左に向い中央へという順で巡ることにしました。
とりこぼしあるかもしれません。
また個人墓は撮影せず、あくまで軍艦等の合祀碑の掲載とさせていただきます。

国のため戦いし海軍軍人たちに感謝と哀悼を…


軍艦日向慰霊碑

伊勢型戦艦の2番艦「日向」。
太平洋戦争中盤に(いわゆる)航空戦艦に改造される。
昭和20年7月24日の呉軍港空襲で米軍機の波状攻撃を受け呉軍港内で着底大破。

碑文「軍艦日向の略歴」
 軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成た日本最古の名鑑である。
 大正七年に「陸奥」「長門」ができるまでは、日本最大の巨艦であった。
 日本海軍が列強に誇った、「八八艦隊」の主力艦として、昭和十八年太平洋戦争「捷号作戦」に、旗艦として出動、この作戦中、サイパン沖で空母「瑞鶴」「翔鶴」などが撃沈された。
 昭和二十年三月呉港に帰投、情島の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっていた。敗色は日増しに濃くなった来た。二十年七月二十四日七時三十分
 米艦上「グラマン」戦闘機約110機が200キロの大型爆弾による 高度3000米の上空よりの空襲を受け 第二波は更に十一頃より 第三波は三時頃より波状攻撃により さしもの帝国海軍の象徴、「日向」の巨体も十五時三十八分頃より沈没し始め翌二十五日未明 艦体は遂に情島沖100米の海底に達した。 乗組員1000余名中 戦死者一九七名 重軽傷者六〇〇余名に及んだ。
 艦長草川淳中将は十機目の「グラマン」の投下した爆弾の破片にたおれ 前甲板の戦闘艦橋で壮烈な戦死を遂げた。

献辞
南太平洋の海を征服し比島沖海戦に出撃し颯そうと旗艦の重任を果して還る 
 ああ恨は深し昭和20年7月24日 米グラマン数百の奇襲にあい勇戦奮斗のすえ呉情島の北岸に沈む
されど日本を護り国に殉ぜし尽忠のまことは星移り月かわるとも、とわにこの国の歴史にとどめられん
 ねがわくば197勇士の霊よ 
  永遠に安かれ!

昭和44年7月24日
軍艦日向慰霊碑建設委員長 景山勝義

駆逐艦綾波戦歿者之碑

源田実謹書
「綾波」 特型駆逐艦(一等駆逐艦吹雪型)11番艦。
吹雪型改良艦であり特型II型駆逐艦(綾波型)1番艦とも。

第三次ソロモン海海戦で、敵艦隊に単艦で挑み敵駆逐艦2隻を撃破1隻を炎上、戦艦サウスダコタに命中弾を与えて沈没。

日本駆逐艦綾波の戦歴
 第19駆逐隊駆逐艦綾波は太平洋戦争開戦以来、マレー沖、アンダマン、ミッドウェー、印度洋等に転戦奮斗し、昭和17年8月ガダルカナル島奪回作戦に投入されるや極めて困難なる状況のもとに8回に亘り出撃、赫々たる戦果を挙げた。
 同年11月14日敵飛行場砲撃部隊の最前方を掃蕩、単艦分離してサボ島西岸を索敵南下中、午後9時敵新大型戦艦ワシントン・サウスダコタの前衛駆逐艦4隻を発見綾波はサボ島を利用して単艦よくこの6隻に向って全速驀進近接し、自らも損傷を受け炎上しつつも正確無比なる数百発の12.7糎砲の零巨離射撃と、満を持して放った6本の魚雷によって敵駆逐艦プレストンを轟沈、次いでウォークを撃沈、ベンナムを大破、沈没、グインを大破させ海戦史上稀に見る大勝利を収めた。しかし自艦も亦敵駆逐艦4隻の集中砲火と新大型戦艦2隻の巨弾を一身に浴びて、闇のソロモン海に燃え爛れる鉄魂となって漂流し翌15日午前0時10分サボ島の南5000米の地点で大爆発、眠れる戦友と共に南溟の永遠のピケットラインについた。
 ガダルカナル海戦は事実上この夜を以て終焉し駆逐艦綾波生存乗組員はその後の戦斗に於て多数散華され終戦を迎えた。
 現生存有志一同ここに綾波戦歿者の碑を建立し、亡き戦友のため哀悼の意を表すると共にその勲を記念する次第である。
昭和45年5月14日
当夜戦斗参加の一人  第19駆逐隊司令付  小 池 英 作 題


軍艦高砂戦死下士卒墓

1905年(明治38年)1月15日建立
吉野型防護巡洋艦2番艦「高砂」
日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日、旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)にロシア海軍の機雷により沈没。

第十一掃海隊慰霊碑

第十三号~第十八号掃海艇
平成8年建立
13号14号は1942年1月12日のボルネオ攻略作戦時にタラカン陸上砲台の砲撃により沈没し、それにより第十一掃海隊は解隊。
残った4隻も終戦まで残ること無く沈没している。

第十一駆逐隊慰霊碑

平成4年9月23日建立
吹雪型(特型駆逐艦)4艦で構成。駆逐艦吹雪・白雪・初雪・深雪

碑文
第十一駆逐隊吹雪白雪初雪深雪の四隻は彼の過酷な太平洋戦争に於て遥か南の海に吹雪型特型駆逐艦としてその優秀性機敏性行動力等から艦隊の花形として縦横無尽の大活躍をなし大きな戦果を挙げたるも、吹雪は昭和十七年十月十一日サヴオ島六十度十五カイリにて敵艦隊と交戦、被弾に依り沈没、艦長以下総員二二六名戦死され、白雪は昭和十八年三月三日クレチン岬附近にて敵機の攻撃をうけ沈没、戦死者三十二名。
初雪は昭和十八年七月十七日ブイン沖の爆撃にて沈没。
深雪は昭和九年六月二十九日済州島西方に於て雷と衝突し沈没されました。
今や我国は平和で豊かな国となりたるもこれを見る事なく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し感謝の誠を捧げ又御遺族の方々の御心の寄りどころと御遺族の方々の御心の寄りどころと安らぎを得られる場所となればと、ここに有志相計、鎮魂の慰霊碑を建立しその遺徳を顕彰し祖国日本の永遠の平和を願うものであります。
平成四年九月二十三日
第十一駆逐隊慰霊碑建立者一同

駆逐艦早蕨殉職者之碑

呉鎮守府司令長官海軍中将中村良三書
昭和8年10月16日建立

日露戦争後の大正期に建艦された若竹型駆逐艦「早蕨」(さわらび)。
早蕨は昭和7年12月5日、台湾海峡で荒天により転覆沈没している。
それゆえに碑銘も戦死ではなく殉職者銘。

時維昭和7年12月3日駆逐艦早蕨は僚艦3隻とともに南支那警備の重任を帯び呉軍港を発して遠く馬公に向う。
偶々東支那海は北風強吹して波浪山の如く、航行真に困難を極む。
越えて同月5日風愈々強く波浪益々高く艦の操縦極度の困難に陥り早蕨遂に覆没の厄に会す。
而して僚艦必死の努力に依り一部乗員を救助し得たるのみにて爾後幾十日に亘り荒天を冒しあらゆる捜索を試みたるもその効なく艦長門田中佐以下104名は艦と運命を共にせるものと断ずるのやむなきに至る。
鳴呼悲痛なんぞ堪ふべけんや。
此の報一夕に伝へらるるや挙国殉難将士の壮烈を悼み、捐金忽ちに聚りて数万に達す。
則ち之を頒ちて遺族を賑恤し、茲に碑を建て其の遺烈を長へに後世に伝ふと爾言。
昭和8年10月

第十五駆逐隊慰霊碑

夏潮・早潮・親潮・黒潮・陽炎
昭和61年9月22日建立

碑文
第十五駆逐隊は昭和十五年に編成され、第二水雷戦隊一番隊として開戦劈頭比島蘭印攻略に参加し、次いでミッドウェイ海戦に参加した。
この間に夏潮はマカッサル沖に於て被雷沈没した。
陽炎を加えた十五隊は、昭和十七年八月に始まった米軍のガ島反攻に対し、南太平洋海戦・第三次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦等を含むガ島増援作戦に縱橫の活躍をした。
この間早潮はラエ増強作戦中、敵機の爆撃を受けて沈没した。
わが軍は十八年二月遂にガ島を撤退した。
十五隊は内地で整備した後、再びソロモンに復帰し、今や第一線となったコロンバンガラ島へ輸送中、五月八日触雷し次いで敵機の爆撃を受けて全艦沈没し勇戦の幕を閉じた。
ここに十五駆逐隊の偉勲を後世に伝えるとともに御霊の安らからんことを祈念してこの碑を建立する。
昭和61年9月22日
第十五駆逐隊慰霊碑建立委員会

駆逐艦東雲慰霊碑

平成14年5月17日建立
吹雪型駆逐艦の6番艦「東雲」

東雲は第十二駆逐隊に所属し南方作戦に参加。ボルネオ島中部北岸ミリ泊地に進出行動中の昭和16年12月17日、蘭軍機の空襲を受けて沈没。笹川艦長以下乗員228名全員戦死。

駆逐艦深雪殉職者之碑

吹雪型駆逐艦4番艦「深雪」

昭和9年6月29日、第十一駆逐隊は第二水雷戦隊に所属して連合艦隊の済州島南方海域演習に参加。
演習中に「深雪」は吹雪型24番艦「電」と衝突。深雪は艦隊切断沈没。雷は前部大破。この衝突事故で5名が殉職。

上海満州事変戦歿者之碑

昭和8年10月23日建立。
昭和7年の上海事変(第一次上海事変)及び昭和6年の満洲事変の戦死慰霊碑。
海軍は上海共同租界地に「上海陸戦隊(上海海軍特別陸戦隊)」を展開しており陸軍部隊が到着するまでの間を海軍陸戦隊が上海で奮戦している。

大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

昭和42年5月27日建立
九段緒方久人書。
緒方氏は広島呉の柔道家。呉鎮守府の柔道教師として海軍軍人の心身鍛錬に寄与されていた人物。

大東亜戦争戦歿者之碑

呉地方復員局長森下信衛書
昭和22年1月25日建立

森下氏は天一号作戦(大和特攻)時の第二艦隊参謀長。大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将とは海兵同期。
遺族希望や引取遺族不明のもの及び氏名該当者不明の遺骨を合祀納骨。

潜水母艦長鯨戦歿者慰霊碑

武政孝雄謹書
昭和60年9月建立

迅鯨型潜水母艦の2番艦「長鯨」。
潜水母艦は潜水艦への補給能力を持つ艦。
昭和20年7月30日、舞鶴港にてに敵艦上機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破。 戦後に修理され復員輸送に従事。昭和22年解体。

呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

呉鎮守府第六特別陸戦隊(呉六特)は昭和18年1月バラレ島に進出。バラレ島はソロモン諸島西部州ショートランド諸島に属す。バラライ島とも。
米軍により基地機能無効化されるも上陸作戦はなく、そのまま残存部隊はバラレ島で終戦を迎えた。

駆逐艦桑戦没者之碑

昭和57年12月2日建立
松型駆逐艦(丁型)の5番艦「桑」

昭和19年12月3日、姉妹艦「竹」と共に第七次多号作戦従事中(レイテ増援輸送作戦)にレイテ島オルモック湾で米駆逐艦3艦ほかと交戦。1隻撃沈1隻撃破するも桑は沈没する。

第六三四海軍航空隊・第九三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。
第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊。

第六三四海軍航空隊碑文
第六三四海軍航空隊瑞雲隊は、水上爆撃機瑞雲二十四機を以て、昭和十九年五月岩国基地に於て編制し、呉海軍航空隊で訓練を実施した。
その搭乗員は隊長及び分隊長等一部を除き、二十歳前後の祖国愛に燃え元気溌剌たる若者たちであった。
戦局愈々急迫を告げ、敵軍比島レイテに上陸するや、命に依り呉基地を発進、これより苛烈な比島攻防戦に突入し、主としてラモン湾及びレイテ湾の敵艦艇を攻撃した。 戦闘は激烈を極め多大の損害を受けたが、呉残留隊の進出並に新たに偵三〇一飛行隊の編入を得て、レイテ湾を発進し怒涛のレイテ湾を発進し怒涛の如く北上する敵艦隊を、ミンドロ島サンホセ及びリンガエン湾に捕捉、攻撃を反復し敵艦艇撃沈破百三十隻以上、敵機撃墜破数十機に達する戦果を挙げ、大西海軍航空隊司令により、数度に亘り感状・賞詞を受くる栄誉に浴した。
戦局の推移と共に、命に依り昭和二十年二月台湾に転進、三月には沖縄戦に出撃、亦五月新たに偵三〇二飛行隊の編入を得て、終戦に至るまで、沖縄周辺の敵艦艇を反復攻撃し多大の戦果を獲得せり。
然し乍ら、我が方の損害も甚だしく、地上勤務員を含めて、三百余名の有意な人材を失うに至った。是将に痛恨の極みである。 吾等生存者相計りて、ここに碑を建て之を後世に伝え、併せて鎮魂の徴とする。
昭和五十七年十月
元第六三四海軍航空隊 司令 江村日雄 隊員一同

第九三四海軍航空隊碑文

第九三四海軍航空隊は、昭和十七年二月三座水偵隊として編制され、マニラリツクババンを経て、同年六月には南遣艦隊付属となり、アンボン島ハロンに進出、マイコール基地を併用、観測隊、水戦隊を加え、豪州北方アラフラ海方面の警備、制空権保持等の為、勇戦奮闘数々の偉勲を挙げたのである。
昭和十九年にはマカッサルに、同二十年にはフィリピンに移動、その間克く困苦欠乏に耐え任務の全力傾尽せしも敵機との空中戦及び敵の爆撃等による戦死者は二百余名の夥しい数に及び、悔いて尚且つ余りあり、真に痛恨の限りである。
このたび、当時の部隊関係生存者有志相はかり、これら戦死者の冥福を祈ると共に、苦戦の実情を、永く後世に伝えんと、 ここに、第六三四、第九三四海軍航空隊の、合同慰霊碑を建立するに至る。
昭和五十七年十月
元第九三四海軍航空隊 司令 時永縫之助  隊員一同

軍艦大井戦没者慰霊碑

軽巡洋艦球磨型の4番艦「大井」 同型艦の北上と共に、重雷装艦に改装されたが活用できず高速輸送艦へ改装され輸送任務に従事。
昭和19年7月19日、マニラからシンガポールに向けて南シナ海を航行中に米潜水艦フラッシャーに雷撃され沈没。

祖国永遠の平和を念じつつ艦と運命を共にした戦友の武勲を後世に伝え、その霊を永久に安かれと祈り我等有志相計ってこの碑を建つ
軍艦大井戦友会

平成元年(1989) 7月19日建立

軍艦球磨慰霊碑

軽巡洋艦球磨型1番艦「球磨」
蘭印周辺の哨戒と輸送に従事していたが昭和19年1月11日、球磨は対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港。イギリス海軍T級潜水艦タリホーに補足され雷撃を受けマラッカ海峡附近にて沈没。

碑文
大正9年8月佐世保工廠に於いて竣工 
爾来20有余年広大なる地球に其の雄姿を顕し、祖国防衛の重責を果たせる 
巡洋艦熊は苛烈なる太平洋戦争の真只中、第2南遣艦隊第16戦隊に編入され、南方洋上にて臨戦行動中、昭和19年1月11日午前11時57分、ペナンの西方11浬、マラッカ海峡に於いて、英国潜水艦タリ・ホウの雷撃を受け戦友の尊き英魂139柱と共に、海底深く永遠にその姿を没したり 
巡りて40有余年の星霜を経たるも、切々の情念を新たにして追惜禁じがたく、茲に有志相計り「軍艦球磨戦没者慰霊碑」を建立す 
合掌の中に球磨を象徴する磨き球の下 在天の英魂来りて鎮まり給え 英会陰に其の英霊を慰むべしと記念す

軍艦三隈戦歿者慰霊碑

最上型巡洋艦2番艦「三隈」
昭和17年6月7日ミッドウェー海戦。第七戦隊第2小隊(三隈、最上)と第8駆逐隊(荒潮、朝潮)は衝突を起こし艦首を喪失した最上を護衛し退避行動へ。米軍追尾を受け、更に単艦退避した三隈は米軍機により爆撃され沈没。

碑文
 軍艦三隅は彼の過酷な太平洋戦争に於いて西南太平洋並に東南太平洋海域に奮戦せるも遂に昭和17年6月7日ミッドウェー北方洋上にて艦長以下695名の将兵と共に没す。
 今や我が国は平和な豊かな国となりたるもこの幸を見ることなく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し切々なる感謝の誠を捧げるものである。
 ここに有志相計り鎮魂慰霊碑を建立し祖国日本の永遠の平和を希うものである。
昭和59年6月7日
軍艦三隅会

軍艦初鷹慰靈碑

昭和58年4月建立。
初鷹型敷設艦(急設網艦)1番艦。

急設網艦とは自軍勢力圏内にある港湾、海峡及び水道等へ防潜網や捕獲網を敷設するための艦種。当艦は東南アジア方面で補給や船団護衛任務に従事。
昭和20年5月16日、マレー沖にて米潜水艦ホークビルの雷撃により沈没。

第一〇三海軍工作部 戦没者之碑

昭和59年5月27日建立。
呉海軍工廠を主体とし艦船修理や小型艦船建造等の技術部隊として昭和17年1月、比島キャビテ軍港に設置。
米軍ルソン反攻上陸により陸軍山下奉文師団と協力しマニラ防衛部隊に編入。
軍の陰に隠れ敢えなく逝った非戦闘部隊の偉業を偲ぶ。

ソロモン方面第十二防空隊慰霊碑

昭和17年12月編成。ラバウル方面に展開。 昭和21年2月復員により解隊。

工作艦朝日・山彦丸・山霜丸合同慰霊碑

工作艦「朝日」は元は敷島型戦艦2番艦。日露戦争、第一次世界大戦では主力艦として参加し、太平洋戦争では工作艦として参加。40年に渡る活躍であった。

昭和17年5月25日に旧型低速故に米潜水艦により雷撃を受け翌日沈没。

「山彦丸」 昭和19年1月10日、米潜水艦の雷撃を受けて航行不能となり13日に沈没。
「山霜丸」 昭和19年2月22日、米潜水艦の雷撃を受け翌23日にも米潜水艦の雷撃を受けて沈没。
二隻とも元は山下汽船の大型貨物船。

駆逐艦叢雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦5番艦「叢雲」
開戦時は第12駆逐隊に所属。のち第11駆逐隊に編入。

昭和17年10月12日、サボ島沖海戦で損傷した古鷹の救援に出動。サボ島西40海里で米軍機の爆撃を受け大破し雷撃処分。

駆逐艦天津風之碑

陽炎型9番艦「天津風」。
当艦には次世代型駆逐艦「島風」用試作高性能機関が搭載されていた。

昭和19年1月16日米潜水艦の雷撃にて大破し艦前部を喪失。昭和20年3月下旬、仮艦首を装備。
4月10日、歴戦の駆逐艦「天津風」は日本本土へ帰投中に米軍機の攻撃を受け アモイ島南岸に座礁し航行不能となり爆雷の自爆により爆破処分。

最後の天津風艦長森田友幸大尉による謹書
「戦友よ安らかに眠り給へ」

第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

第六艦隊隷下部隊として昭和19年8月編成。
第三十一潜水艦基地隊としてフィリピン・セブ島に進出し、対空警戒や甲標的整備に従事。またマニラ防衛等に参加。

工作艦明石慰霊碑

日本海軍唯一の新造工作艦「明石」。
「移動する海軍工廠」として南方海域で活躍。米海軍からはその活躍ぶりから最重要攻撃目標とされる。 昭和19年2月17日、トラック島空襲により損傷しパラオに回航。同年3月30日のパラオ空襲で大破着底する。

戦歴表碑文

本艦は日本海軍が最初より工作船としての設計建造した唯一の艦で建造佐世保工廠 艤装呉工廠 竣工昭和14年7月
(略)

戦歴
竣工と共に連合艦隊に附属行動を共にし 船体兵器機関の小修理を行い工作艇としての機能を発揮した
昭和17年8月トラック島に進出し南東方面海域で損傷せる艦艇の修理を行って大きな戦果を挙げ沈没に類した重巡最上 青葉 阿賀野などを帰還せしめた

最後
トラック大空襲の被害を免れパラオ方面に転進 修理活動を続けたが19年3月30日 ウルグターブル島の海岸に鎮座し 悲愴な最期を遂げ 187名の勇士が尊い犠牲となって散華された。

「工作船明石 慰霊碑」と表題したのは明石が船と人とが一体となり大きな戦果を挙げた事に対し戦歿英霊の功績と共に永くこれを顕彰せんとするものである。

海防艦稲木戦歿者慰霊碑

鵜来型海防艦12番艦「稲木」 昭和19年12月16日竣工し近海の船団護衛に従事。 昭和20年8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没。

善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

昭和16年10月、呉一特(呉第1特別陸戦隊)高射砲中隊として編成。ニューギニア戦線に展開。昭和18年9月、ラエ防衛陣地からサラワケット越えを敢行、標高4000m高山戦として史上類を見ない長距離行軍となる。部隊はキエリで終戦。

伊号第十一潜水艦之碑
呂号第百四潜水艦之碑

伊九型潜水艦(巡潜甲型)3番艦「伊11」 オーストラリア周辺海域通商破壊戦に従事。 昭和18年7月20日に豪海軍軽巡洋艦「ホバート」を雷撃し大破させる。 昭和19年1月サモア方面に向かった後に消息不明。

呂百型潜水艦(小型)の5番艦「呂104」 南方海域で哨戒や輸送任務で活躍。 昭和19年5月17日、サイパンを出港し「あ号作戦」のため散開線に配備されたが米軍護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受け沈没。

軍艦熊野慰霊碑

最上型巡洋艦4番艦「熊野」 昭和19年10月。捷一号作戦に於いて栗田艦隊第七戦隊として出撃するも大破しマニラに退避。同じく大破していた青葉とともに本土回航の為に出港し道中奮闘したが帰還は果たせず11月25日に沈没。(同航した青葉は呉に帰還)

呉海軍設営隊顕彰慰霊碑

海軍大将嶋田繁太郎書 呉軍港より出撃した設営隊27部隊を合祀。 太平洋全域に渡る軍設備の建設や運営に従事。

軍艦古鷹戦没者慰霊碑

源田實謹書
古鷹型巡洋艦1番艦「古鷹」
平賀譲が手掛けた代表艦

昭和17年10月11日-12日、サボ島沖海戦。 第六戦隊旗艦青葉・古鷹・衣笠、第11駆逐隊第2小隊初雪・吹雪で進軍中に米軍と交戦、古鷹は集中砲火を浴び航行不能となり沈没。

碑文
軍艦古鷹は20糎砲を搭載する重巡の第一艦として江田島の霊峰古鷹山の名を取り大正15年3月31日に竣工した。
当時諸性能極めて優秀にして艦容又独創的となった。
大東亜戦争開戦劈頭、ウエーキ島及びグアム島攻略を支援、次に珊瑚海々戦、第一次第二次ソロモン海戦等に参加、就中第一次ソロモン海戦に於ては抜群の戦果を収めた。
昭和17年10月11日サボ島沖夜戦に於いて勇戦奮闘せるも遂に23:30沈没した。
茲に重巡古鷹の慰霊碑を建立して戦没者の冥福を御祈りする。
尚 本慰霊碑は古鷹関係生存者有志の献資により建立した。
昭和49年9月10日

軍艦鬼怒慰霊碑

長良型巡洋艦5番艦「鬼怒」 昭和19年10月の捷一号作戦時には、鬼怒・重巡洋艦青葉・駆逐艦浦波からなる第16戦隊を編制しレイテ島への兵員輸送に従事。 10月26日レイテ島オルモックからの帰路に米軍機の爆撃を受けパナイ島北方で被爆沈没。

碑文
軍艦鬼怒は大東亜戦争に端を発せれるや南方方面第4潜水戦隊旗艦としてマレー半島を南下スラバヤ、セレベス、シンガポール方面の激戦に数々の功績を重ね最期には第16戦隊旗艦としてレイテ湾作戦に参加、昭和19年10月25日敵空50機と交戦、翌26日午後5時25分遂にさすがの鬼怒も最終の美を飾り去った、
軍艦鬼怒竣工以来同艦に於いて戦死された方がこっら今の日本の礎となられた尊い戦友の英霊に対し思い出の鬼怒よみたま今 母港に帰りし安んじて眠り給へと祈る
昭和55年5月25日
軍艦鬼怒慰霊碑建設賛同者一同

軍艦隼鷹慰霊碑

日本郵船客船橿原丸を改装した航空母艦「隼鷹」 ミッドウェーで主力空母喪失後に穴を埋める活躍をする。また高速輸送艦としても運用され佐世保に疎開し終戦まで残存。 戦後は機関損傷から復員船指定もなく商船への復帰もなく昭和22年8月1日解体終了。

駆逐艦秋風慰霊碑

峯風型駆逐艦9番艦「秋風」
昭和19年10月下旬、比方面への緊急輸送作戦従事中の「隼鷹」護衛任務に従事。11月3日、米潜水艦は隼鷹に対し雷撃するも秋風に命中し秋風は沈没。辛くも隼鷹は難を逃れた。
秋風慰霊碑は隼鷹慰霊碑の隣に建立されている。

献辞碑文
昭和十九年十月三十日空母隼鷹は高千穂空挺部隊八五〇名と各種兵器弾薬を満載これを護衛する軽巡 木曽 第三十駆逐隊(卯月、夕月、秋風)と共に夕闇迫る佐世保軍港をマニラへと出港した
緊迫した航海が続いた十一月三日夜半隼鷹の左舷を護衛中の秋風に左六十度方向より米潜ビンタード発射の魚雷が隼鷹に命中するのを避けるため全速で前進体当りを行ない一瞬の間に山崎艦長以下二〇四名が全員戦死した
時正に二十二時五十三分 北緯十六度四十一.五分 東経一一七度二十一分マニラ西方海面で秋風はその勇姿を消したのである
思えばあの重大な輸送作戦が成功し戦後我々が無事復員して今日あるのは偏えにこの尊い犠牲の賜と確信するものである
このため秋風の戦没者に感謝し この偉勲を後世に傳え また御霊の安らかに眠られんことを願って隼鷹戦友会の有志一同 御遺族そして秋風の御遺族並びに賛同者の協力を得て鎮魂の碑を建立し亡き秋風戦没者に哀悼の意を表わすものである
平成三年九月二十二日 
建立委員長 吉川亘 

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴
我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。
初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。
雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。
茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日

駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑

陽炎型13番艦「浜風」
第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。 最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。

呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑

昭和18年、呉で編成されラバウルに進出。 その後、ブーゲンビル島ブインに転戦。 そのままブーゲンビル島ブイン基地にて終戦を迎える。

軍艦加古戦没者慰霊碑

元加古艦長高橋雄次書
古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」
昭和17年8月8日、第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)は第一次ソロモン海戦に参加し活躍。戦闘終了後の8月10日。その帰路に米潜水艦の雷撃により沈没。

第四艦隊遭難殉職者之碑

第四艦隊事件。
昭和10年の台風により海軍艦艇が被った大規模海難事故。参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を被った。
なかでも最新鋭の吹雪型特型駆逐艦「初雪」「夕霧」は艦橋付近で艦首切断の大損害を受けた。殉難者54名。

軍艦矢矧殉職者之碑

筑摩型防護巡洋艦2番艦「矢矧」
(当艦は初代。阿賀野型「矢矧」は2代目)

大正7年(1918)秋、南太平洋及び印度洋方面の警備任務の帰途に艦内にインフルエンザが流行し乗員471名のうち殉職者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。

第三十四号駆潜艇戦歿者慰霊碑

初代艇長逆井保治謹書
第十三号型駆潜艇を改良した第二十八号型駆潜艇の1隻。同型艦31隻。 昭和17年8月31日竣工。昭和20年3月26日英艦と交戦沈没(小アンダマン島東方沖)。

軍艦神通戦没者慰霊碑
海軍中将 伊崎俊二之墓

川内型巡洋艦2番艦「神通」
第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将。

昭和18年7月、コロンバンガラ島沖海戦において旗艦「神通」が戦没し運命を共にした。死後、海軍中将に進級。

碑文
昭和十八年七月十二日コロンバンガラ島沖夜戦に於いて米巡洋艦と交戦し神通は百十糎探照灯で敵艦を照射し子隊の雷撃砲撃を容易にし、自から標的となりながらも勇猛果敢に戦い多大なる戦火をあげたが尊い命を失いました。

駆逐艦椿戦没者慰霊碑

元艦長田中一郎少佐書
松型駆逐艦(丁型)15番艦「椿」

昭和19年11月30日竣工。昭和20年7月に瀬戸内海の備讃瀬戸で空襲にあい中波。終戦時は中破状態で呉に残存。昭和23年7月28日に解体が終了した。

伊二九潜戦没者慰霊碑

第十四潜水隊司令寺岡正雄謹書
伊号第二十九潜水艦。 インド洋で通商破壊任務を行い船舶7隻撃沈。また日独往復に成功寸前まで行った艦。昭和18年7月26日ドイツ帰路に比島沖にて敵潜の雷撃を受け木梨鷹一艦長以下全乗員が戦死し沈没。

不朽
艦と共に身おば砕きし火柱の
  一瞬をただ見つめたるまま

大東亜戦争中輝かしい戦歴を重ねた伊号第29潜水艦は昭和19年7月26日午後4時15分頃ドイツ派遣の重大使命を果して一路帰国の途上米国潜水艦の雷撃を受けて沈没。
乗組員107名もまた艦と運命を共にせり。 バタン島沖バリンタン海峡の、そうそうたる海原水深く波静かなる紺ぺきの海。
そこは祖国に生命を捧げた精鋭と艦の不朽の偉勲を語るところ、その海には今もなお壮烈偉大なる殉国の魂が永遠の眠りをつづけている。

伊三六三潜殉職者之碑

伊号第三百六十三潜水艦。
回天攻撃隊に参加。8月14日に呉帰港し終戦を迎える。
昭和20年10月29日、呉から佐世保へ回航の途中、宮崎県沖で触雷沈没。 墓碑の上の潜望鏡は、その後引き上げられた本艦の夜間潜望鏡、という。

レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

レンドバ島で戦死した「呉鎮守府第六特別陸戦隊」および「第三十八師団歩兵第二二九連隊第七中隊」の慰霊碑。レンドバ島守備隊は米軍上陸を打電したのち消息を絶っている。

ソロモンの
 孤島に散りし
  戦友の
英霊よながく
 ここにやすかれ

軍艦青葉戦没者慰霊碑

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。 修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。昭和22年7月解体完了。

 風荒れ雨はくるうじ
 草木は空にもえ出でて
 やがて青葉いろどられ
 真夏の苦熱如何あらん
 ますらたけおの胸の血は
 青葉の如くもゆるなり

軍艦吉野戦死者之碑

吉野型防護巡洋艦1番艦「吉野」
1893年(明治26年)完成当時は世界最速の軍艦。
日露戦争では第三戦隊に所属。1904年(明治37年)5月15日、旅順港閉塞作戦従事の帰路に濃霧に遭遇し味方艦「春日」と衝突沈没。戦死者319名。

軍艦信濃戦歿者之墓

靖國神社宮司 筑波藤磨 書(第五代宮司)
大和型戦艦3番艦を航空母艦改装したものが「信濃」。 昭和19年11月下旬、未完成のまま横須賀から呉へ回航中に米潜水艦の魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没。合祀者885柱。

第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

嶋田繁太郎書
第一号型輸送艦(一等輸送艦)3番艦。日本海軍で最初にブロック工法を導入した艦型とされる。 本艦は昭和19年6月29日竣工。昭和19年9月15日、ミンダナオ島で座礁中に米潜水艦より雷撃を受けタンク破裂炎上し火災沈没。

軍艦衣笠慰霊碑

青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」 昭和17年10月のサボ島沖海戦で古鷹と吹雪が沈没し青葉が大破した第六戦隊は解隊し健在だった衣笠は第八艦隊直属に再編成。(青葉は呉修理へ) 11月、第三次ソロモン海戦において米軍機の攻撃を受け航行不能となり沈没。

碑文
軍艦衣笠は、先の太平洋戦争において、勇戦奮闘するも、昭和17年11月14日 南太平洋ニュージョージア島南方洋上に沈む。
今やわが国の平和と繁栄を目の当たりにするとき、祖国の礎となって艦と運命を共にされた亡き戦友に対し我々は切々たる感謝の思いを禁じ得ない。
ここに40周年を迎えるにあたり、鎮魂慰霊の碑を建立して、その遺徳を顕彰し祖国日本と世界の永遠の平和を心より念願するものである。
昭和57年11月14日
軍艦衣笠慰霊碑建立委員会

駆逐艦浦波慰霊碑

吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)10番艦「浦波」
昭和19年10月26日、第十六戦隊(青葉、鬼怒、浦波)はレイテ沖海戦に伴う輸送作戦(オルモック湾揚陸作戦)に従事。「浦波」は揚陸の帰路に米軍機の空襲により長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」等と共に撃沈。

第十六防空隊戦没者慰霊碑

昭和18年4月、横須賀海軍砲術学校にて編成。 第八艦隊第七連合特別陸戦隊編入。 5月ラバウルに進出し、次いでブーゲンビル島ブインに進出。コロンバンガラ島撤退作戦ニ参加。ショートランド諸島で終戦。

第百十三號輸送艦慰霊碑

特設輸送艦(二等輸送艦) 昭和19年10月竣工。 昭和19年11月25日、サンタクルーズ湾からマニラに向う途中にルソン島ダソル湾外で米空母機の攻撃を受け沈没。

駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

吹雪型駆逐艦9番艦「磯波」 昭和18年4月9日、船団護衛中にスラバヤ方面セレベス島南東で米潜水艦の雷撃で戦没。

駆逐艦呉竹慰霊碑

若竹型駆逐艦2番艦「呉竹」(くれたけ) 大正11年(1922)12月竣工。当初名は「第四駆逐艦」。 昭和3年8月1日「呉竹」と改名。昭和19年(1944)12月30日、バシー海峡にて米潜水艦の雷撃を受け戦没。

駆逐艦白雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦8番艦「白雲」
開戦時は第十二駆逐隊所属。昭和17年3月に第十二駆逐隊は解隊となり第二十駆逐隊に編入。昭和18年に北方部隊の第九駆逐隊に編入。昭和19年3月16日、ウルップ島向船団護衛中、襟裳岬沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没した。

駆逐艦白雲慰霊碑

「吹雪」型特型駆逐艦の八番艦として、昭和3年7月28日竣工。

白雲について
白雲は昭和3年7月28日、第42号駆逐艦として呉で竣工、わずか4日後に艦名が改められている。
当時帝国海軍が精強を誇った特型駆逐艦の8番艦である。
昭和16年12月太平洋戦争の勃発時には、第12駆逐隊の司令駆逐艦としてマレー半島上陸作戦を支援、次いでボルネオ、スマトラ、ジャワ島などの攻略戦、インド洋制圧作戦に参加、昭和17年8月ガダルカナル島争奪戦で傷つくまで南方洋上各地を転戦し、数々の武勲を立てている。
その後北方部隊に編入され千島防衛の任に当っていたが、昭和19年3月16日夜、船団護衛中、北海道釧路沖に於いて無念にも米潜水艦の雷撃を受け、輸送船日連丸とともに沈没、艦長以下乗員270名、悉く壮烈な戦死を遂げられた。
波高く月明なき暗夜の海上で、将に沈まんとする白雲は全艦に灯火を点じていたと伝えられる。
祖国への訣別の点灯であったのかとおもえば痛恨の念が胸に迫り、哀惜の情は尽きない 。
爾来星霜を重ねて四十三年、今は我が国北辺鎮護の礎として、永遠の眠りに就く白雲の栄光を讃え、ともに殉じた戦没将兵の霊を慰めるため、有志相図ってここに鎮魂の碑を建立する。
昭和62年3月16日
白雲会

駆逐艦初風慰霊碑

陽炎型7番艦「初風」 昭和18年11月2日、初風は第十戦隊旗艦軽巡洋艦阿賀野の指揮下(阿賀野・駆逐艦長波、初風、若月)でブーゲンビル島沖海戦に参加、第五戦隊重巡妙高と衝突し、艦首を失い米艦隊の集中砲火を受けて沈没。

駆逐艦初風は、昭和18年11月2日 ブーゲンビル沖海戦に於いて壮烈な最期を遂げました。
その初風と運命を共にされました265名の鎮魂を願って 私ども遺族はこの趣旨にご賛同の方々露力を合わせて、遅ればせてはありますが、呉の母港の見えるこの地に、慰霊碑を建立いたします。祖国日本が永遠であることを念じつつ散華されましたその霊を御慰めし、ここに御冥福を御祈りいたします。

第六三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は昭和19年9月の時点では海軍屈指の航空隊であった。
基地隊員四百余名は部隊に合流すべく新鋭空母雲龍に便乗し12月17日呉軍港出港したが19日午後4時57分、東シナ海舟山列島沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没、殆どが戦死。

呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

合祀潜水艦、伊号29隻、呂号6隻、合計35隻。

轟沈
轟沈 轟沈 凱歌が上りゃ
つもる苦労も苦労にゃならぬ
うれし涙に潜望鏡も
くもる夕日の
くもる夕日のインド洋

碑文
さきの凄絶なる大東亜戦争において、祖国の隆昌発展を願いつつ、万里の果てに敵を撃ち、至誠と情熱とを捧げて己が努めを尽くしたる後従容として戦没せし潜水艦三十五隻、艦と運命を共にされし英霊は三千余柱を数う。
戦いの日過ぎ去りて半世紀、今日の祖国の平和と繁栄とはここに眠れる尊き英霊の犠牲の賜にして切々たる追惜の情もだし難く有志相計り「呉鎮守府潜水艦戦没者之碑」を母港の上に建立す。
諸兄の示されたる純粋にして無垢、崇高なる殉国の真心とその輝かしい勲とを、後世に伝えてその遺徳を顕彰し、併せて祖国の永遠の平和を希うものである。
在天の英霊ここに還りて、ありし日を我等と共に静かに語らん。
平成3年4月23日
呉鎮戦没潜水艦合同慰霊碑建立委員会

駆逐艦敷波戦没者慰霊碑

吹雪型(特型駆逐艦)12番艦「敷波」 昭和19年9月4日、内地向船団を護衛してシンガポールを出港。9月12日に海南島東方沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没。

昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑

文字通り、昭和15年に徴募(召し募ること)された主計科の戦歿者のことであることはわかるが詳細は不明。

第二十四特根付 
特設駆潜艇 第十八日東丸戦没者慰霊碑

徴傭漁船を改造した特設駆潜艇「第十八日東丸」 昭和16年8月28日徴傭、昭和20年終戦時に残存。 第二十四特根とは「第24特別根拠地隊」のこと。

ショートランド島戦没者慰霊碑

元連合艦隊参謀長草鹿龍之介謹書
ソロモン諸島ブーゲンビル島南東のショートランド泊地に展開された第13防空隊の慰霊碑。 旧呉鎮十三防空隊員及呉六特南海砲台員の英霊を謹んで慰霊の為建立。

駆逐艦陽炎之碑

陽炎型駆逐艦1番艦。
昭和18年5月8日、第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)にてコロンバンガラへ輸送の帰途、同島南岸西方で触雷。航行不能となった陽炎は米機爆撃を受け沈没。なおこの1日で親潮・黒潮も沈没しており第15駆逐隊は全滅。

戦歴
駆逐艦「陽炎」は、「陽炎」型駆逐艦の一番艦として、昭和14年11月6日竣工した。
太平洋戦争開戦時は、第十八駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊としてハワイ真珠湾攻撃、ついでインド洋作戦に参加した。
その後、ミッドウェー海戦に参加した後、第十五駆逐隊に編入された。
ガダルカナル島方面の作戦に於いて一木支隊を緊急輸送、ルンガ沖海戦では米重巡艦隊に大損害を与えた。
昭和18年5月7日ソロモン諸島クラ湾で触雷、翌8日米陸軍機の空襲により被爆し沈没した。

軍艦天龍遭難死者紀念碑

明治31年7月23日建立。合祀者3柱。
明治18年(1885)3月5日竣工。日清日露戦争に参加。 明治30年(1897)11月26日に発生した火災で犠牲になった殉職者の慰霊碑。

軍艦廣丙遭難哀悼碑

広丙(こうへい)
明治29年(1896)5月建立。
清国海軍の防護巡洋艦。日清戦争の際に降伏、戦利艦として日本海軍に編入。新鋭艦として期待されていたが編入後1年足らずの明治28年12月21日に座礁し沈没。

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)3番艦「鈴谷」
昭和9年11月20日の鈴谷進水式には昭和天皇が臨席。 昭和19年10月25日、レイテ沖海戦・サマール島沖追撃戦で空襲を受け酸素魚雷が誘爆し沈没。

軍艦鈴谷
ソ連領サハリン南部のチエホバ岳が旧日本領土の樺太であった頃に鈴谷岳と呼ばれ山裾を流れる鈴谷川にその名を取り二代目鈴谷として誕生する。 然し地球上に存在しなくなった地名鈴谷をこの世から忘れ去られる事に忍びず軍艦鈴谷とその犠牲者の功績を此処に伝える。

昭和十九年十月二十五日十時三十分頃撃墜した米空母機が魚雷甲板舷側にて爆発炎上し搭載魚雷の誘爆により北緯十一度四十五分東経一二六度十一分のサマール島東方海面の太平洋上に六百有余名の乗員と共に十三時二十二分その姿を海中に没す。
駆逐艦沖波に救助された四百余名も翌二十六日の米空母機の追撃により沖波は損傷、多数の死傷者を出したがマニラに帰着し、更に半数は陸戦隊としてマニラに残留し、又本国に帰った者もそれぞれ過酷な戦いに終戦迄に大多数が護国の花と散った。

鈴谷慰霊碑の片隅に鈴谷乗組員を救助した沖波慰霊碑がある。

救助駆逐艦沖波戦死者慰霊

昭和十九年十月二十六日、鈴谷乗員救助後マニラ帰投中、アメリカ機の追撃を受け死闘して斃れた沖波乗員戦死者の霊に捧ぐ

沖波はその後マニラにて昭和19年11月13日に大破着底

戦艦扶桑戦没者慰霊碑

扶桑型戦艦の1番艦「扶桑」
昭和19年10月25日。扶桑は通称西村艦隊(西村祥治)全7隻(戦艦山城・扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦満潮、朝雲、山雲、時雨)でレイテ湾へ突入。スリガオ海峡で米艦隊集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅。

碑文 戦歴
戦艦扶桑は呉鎮守府管下最初の超弩級戦艦として平時の連合艦隊に於いて輝かしい成績を挙げ、大東亜戦争勃発するや各地に転戦し、最後となった昭和十九年十月の捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し、捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し西村中将指揮のもとに比島スリガオ海峡よりレイテに向け突入、米艦隊と激戦、敵戦艦重巡戦隊の集中砲火と魚雷艇駆逐艦の雷撃を受け沈没。 阪艦長以下殆ど全員が戦死した。 時に昭和十九年十月二十五日午前二時四十五分。

特務艦間宮戦歿者慰霊碑

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

碑文
竣工後第一艦隊に所属続いて連合艦隊に編入し、当時唯一の給糧艦として支那事変、太平洋戦争に参加、揚子江沿岸並に比島トラック、パラオ、サイゴン等各方面に糧食酒保物品等の補給任務に従事した。
昭和十九年十二月十日物資を満載しサイゴン出港、マニラに向け航行中十二月二十一日午前一時、米潜水艦二隻の雷撃を受け海南島東方にて沈没。 艦長以下四百六十余名の乗組員が艦と運命を共にした。
誠に痛恨の極みである。
ここに間宮の栄光を後世に伝え且つ戦没者の御霊を慰めるべく生存者元乗組員及び旧海軍有志相集い浄財を得てゆかりの地にこの碑を建立す。
昭和五十八年十一月二十日 特務艦間宮

軍艦鹿島 有終之碑

香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」
有終之碑。鹿島は呉で終戦を迎えている。
開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦(司令長官井上成美)を務める。 戦争末期は輸送任務に従事。(特設護衛船団・海上護衛総隊)

第十戦隊旗艦 巡洋艦阿賀野慰霊碑

元第十戦隊司令官木村進謹書
阿賀野型軽巡洋艦1番艦。昭和17年10月竣工。第十戦隊旗艦。
昭和18年11月ラバウル空襲で損傷しトラックで明石の応急修理を受ける。
昭和19年、呉に回帰途中2月17日に米潜水艦雷撃により沈没。

阿賀野艦
 身は南海に
  沈めども
永久に護らん 
 秋津洲ねを
昭和49年10月12日 元通信長 太田守

第十戦隊旗艦 阿賀野 慰霊碑の回りには多くの駆逐艦の名が刻まれている。

昭和19年2月17日に沈没した阿賀野。阿賀野乗組員らは駆逐艦追風に救助されたが、追風も翌日のトラック空襲で爆沈。松田艦長以下多数の阿賀野乗組員も散華。

第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

島村浩二書(大佐・陸戦指揮官)
比島ミンダナオ島方面海軍部隊。第三十二特別根拠地隊はミンダナオ島ダバオを中心に防衛に従事。 昭和20年4月27日、米軍ダバオ攻撃が始まり部隊は陸軍と協力して防衛に務めるが漸次消耗し終戦を迎える。

軍艦伊勢慰霊碑

捷号作戦当時艦長 中瀬泝謹書
伊勢型戦艦1番艦「伊勢」
昭和18年、僚艦の日向とともに航空戦艦へ改装され「第四航空戦隊」編成。 昭和19年10月レイテ沖海戦で活躍。昭和20年北号作戦成功後、7月28日の呉軍港空襲にて大破着底し終戦を迎える。

碑文・献辞
第二次世界大戦起るや航空戦艦として各地に転戦し武威を輝かし、昭和廿年七月二十四日及び二十八日敵機の大群の攻撃を受け、勇戦奮斗のかいなく倉橋島北岸に擱座着底し護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど戦友よ星移り月かわれども永遠にその名をとどめ之れを顕彰せん 願はくば安らけく眠り給へ
昭和四十五年十月二十五日 
軍艦伊勢慰霊碑建設委員長 師岡勇

第五三一海軍航空隊慰霊碑

昭和18年編成。最前線の雷撃機隊。天山を主力とする。マーシャル諸島に展開。 昭和18年12月クエゼリン環礁地上戦開始。ルオット島司令部通信途絶。 昭和19年2月解隊。地上戦が発生しなかったウォッゼ基地隊員は戦後鳳翔にて復員。

戦歴
第531航空隊は昭和18年7月1日天山11型艦上攻撃機36機をもって舘山において編成 直ちに北千島方面に進出 同年11月舘山及び北千島の擂鉢・片岡に派遣隊を残し本隊はマーシャル群島ウオッゼ島に転じ 同方面の作戦に従事 輝かしい戦果を収めたが 翌19年初米機動部隊との戦いにおいて全航空機を失い搭乗員は全滅 同年2月20日をもって解隊 ウオッゼ基地隊員は全員第四艦隊司令部附・第64警備隊付となる。 同島にて米軍の絶え間ない攻撃と想像を絶する飢餓との闘いのうちに20年8月終戦を迎え同年11月生存者58名全員鳳翔にて帰国、戦死戦病死者206名。
篠崎 英夫 記

八十二号海防艦戦没者慰霊碑

艦長 森武 謹書 丁型海防艦(第二号型海防艦)。同型艦67隻。
昭和19年12月31日竣工。昭和20年8月10日、北鮮東方沖でソ連航空機の雷撃を受け沈没。

重巡最上戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦の1番艦「最上」
ミッドウェー海戦で損傷し後部主砲二基を撤去し航空巡洋艦に改装。 昭和19年10月25日、西村艦隊としてレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦に参戦し大破、退避中に志摩艦隊の那智と衝突、曙により雷撃処分。

軍艦雲鷹戦歿者之碑

大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」 もと日本郵船所有の新田丸級豪華客船「八幡丸」。 新田丸級三姉妹船(新田丸=沖鷹、春日丸=大鷹、八幡丸) 昭和19年 9月17日、ヒ船団護衛任務に従事中、米潜水艦の雷撃により沈没。

軍艦比叡戦歿者之碑

金剛型コルベット艦2番艦「比叡」
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦で大破、同海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年8月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

軍艦厳島乗組員之碑

「三景艦」と呼ばれた松島型防護巡洋艦の二番艦。
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年9月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

呉所管海軍 看護長看護師看護手 看護之墓

大正3年4月30日建立。
当初は呉海軍看護科員を祀るために呉市和庄共同墓地に建立。 建立以来80年以上を経て無縁仏となっていたため、旧看護科の有志が平成9年9月23日に呉海軍墓地に移設した。

戦艦大和戦死者之碑

大和型戦艦1番艦「大和」。日本海軍が建造した史上最大の戦艦。
昭和16年12月16日に竣工。
昭和20年4月7日14時23分、天一号作戦において第二艦隊旗艦として第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃し米機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈。


以下の慰霊碑は撮影し損ねたり、訪れ損ねたりしました。
大変悔しいですが、またの機会を期したい、と。

航空母艦飛鷹の碑
英国水兵の墓碑
駆逐艦島風戦没者之碑
伊號第八潜水艦之碑
伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑
第三十三警備隊戦歿者慰霊碑
大東亜戦争戦没者名碑

今回の慰霊碑参拝で新たに知ることが出来た艦や歴史も多くあり、ほんの一握りではあれど、その最期を偲ぶよすがもまとめることも出来ました。 ありがとうございました。