佐世保海軍墓地

平成28年(2016)7月撮影

佐世保市の「東公園」(「東山公園」)
「佐世保東山海軍墓地」「佐世保旧海軍墓地」「東山旧海軍墓地」

平成28年7月。
実は嫁さんが旧佐世保海軍墓地を詣でておりました。(私は未訪問です。)
以下、嫁さん撮影写真をベースに、佐世保ゆかりの海軍艦艇の慰霊碑を展開をしてみようと思います。

※現地(佐世保海軍墓地)の写真は、嫁写真を拝借です。
※私自身は佐世保海軍墓地は未訪。
※文責は私にあります。

佐世保海軍墓地

明治22年(1889)7月1日佐世保鎮守府開庁とともに区画整備がはじまり、明治25年10月2日から軍人軍属の埋葬がはじまったという。
終戦後は、佐世保市の所管となり墓地を中心とした「東公園」として再整備。 現在は合葬碑62基・個人碑437基、そして御英霊約17万6千余を祀っている。

佐世保旧海軍墓地案内図
 この墓地は、天神山の北麓、東山町に位置し、敷地面積は約2万8000平方メートル(8.763坪)あります。終戦までは旧海軍の所有地でしたが、終戦後は、種々の経緯を経て佐世保市有地となっています。
 各墓碑は、主として旧佐世保鎮守府管下の九州・四国・沖縄各県の出身者のもので、明治25年の初埋葬以来、国難に殉じた旧海軍の軍人・軍属の英霊約17万余柱を祀った墓地となっています。また、域内には各艦船ごとの慰霊碑や東郷平八郎元帥像なども建立されています。

著名なる英霊碑
日清戦争の勇敢なる水兵 三浦 虎次郎
旅順港閉塞隊 江戸丸指揮官 高柳 直夫
美しき天然の作曲者 田中 穂積
旅順港閉塞隊の勇士 杉野兵曹長
赤城艦長 坂元 八郎太
明治陸軍一等卒 箱山 善之助
ドイツ水兵三等機関兵 シュミット

慰霊殿(礼拝殿)

昭和46年3月8日建立

東郷平八郎元帥像

墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「慰霊殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。

東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。
明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。
凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内で発生した爆発事故で一度沈没している。

戦没者を追悼し平和を祈願する
佐世保東山海軍墓地保存会

 東郷平八郎元帥は、明治16年、第二丁卯の艦長として佐世保港の調査測量に来港され、佐世保開港に大きく寄与されるとともに、明治32年には、第7代佐世保鎮守府司令長官として佐世保港の整備充実に力を尽くされました。又その後明治38年には連合艦隊司令長官として勤務する等、極めて当市に縁の深い武人であり、その人格、識見は、国内のみならず、広く世界に「アドミラルトーゴー」として名声を広め、尊敬されている歴史上の人物でもあります。
 戦後40数年、日本の平和と繁栄は、ようやく安定し、わが佐世保市も観光立市を目指してその貴能はますます充実しているところであります。
 「みなと佐世保」の象徴として同氏の遺徳を偲び、国民教育のシンボルとして銅像を建立いたしました。
 平成5年5月
 東郷平八郎元帥銅像建立期成会
 会長 中村克介

海の防人之碑

礼拝殿の隣に。
海軍から海自に至る海に殉じた御霊を慰霊顕彰した碑としては、戦後初めての碑という。
平成15年5月17日建立

碑文
この碑は、明治22年日本海軍佐世保鎮守府開設以来、崇高な使命に殉じられた日本海軍将兵軍属の御霊を、そして昭和28年海上警備隊佐世保地方隊発足以来、志半ばにして職に殉じられた海上自衛隊隊員の御霊を、共にお慰めしその功績を称えるため、佐世保市制百周年並びに海上自衛隊創設50周年の平成14年に発起、海軍の英霊が眠るこの地に建立するものであります。
 平成15年5月17日

佐世保総監 谷川清登 海将揮毫
(海軍時代は雷航海長・嵐水雷長・横須賀航空隊教官で終戦・海軍少佐)

隣の錨は「護衛艦ちくご主錨」平成8年4月除籍。

錨台座の赤レンガは明治40年台に帝国海軍が建設した佐世保倉島倉庫に使われていた壁材の一部を使用という。

錨の由来
この錨は護衛艦「ちくご」の主錨です。
護衛艦「ちくご」は、ちくご型護衛艦として 三井玉野造船所で建造され、昭和45年7月就役、平成8年4月除籍されるまでの間、主として「みくま・いわせ」と共に佐世保を母港とした当時の第34護衛隊の一艦として活躍しました。
なお、台座の赤レンガは海上自衛隊佐世保基地業務隊のL字型倉庫(明治41~44年頃日本海軍が建築)に使われていた壁材の一部であります。
海上防衛顕彰碑建立委員会

大東亜戦争戦役者慰霊塔

昭和32年5月13日建立

戦後、忠魂碑建立に制限がかかるなかで遺骨を旧海軍墓地で埋葬して欲しいという申し出などが多く昭和24年に納骨所建設。
昭和31年に慰霊塔建立が決まり昭和32年竣工。
納骨所約4万余柱の遺骨分骨や13万余柱の戦没者芳名録が慰霊塔塔内に格納されている。

この塔は佐世保鎮守府所属ならびに同府関係海軍軍人軍属にして、日華事変及び大東亜戦争において戦没した13万余柱の英霊を慰め、その功を顕彰せんとするものである。
これらの軍人軍属はこの地において海軍の教育訓練をうけ、夙に有数の精兵練達者の域に達していたものであるが、事変戦争に際しては、身を挺して救国の難に赴き、南溟朔北の空に地に戦って散華した。
戦い終わって十余年往時を追想してその面影を偲べば、哀惜の情ことに切々たるものがある。
仍って、われら九州四国の海軍復員者ならびに有志は、縁深きこの地を卜として一塔を建て、戦没者の遺骨と芳名録とを安置収納して永く後世に伝えんとするものである。
 昭和32年5月
 大東亜戦争戦没者慰霊塔建立期成会

東公園休憩所

墓地管理人さんとのおはなし。
ちょうどこの日(平成28年7月6日)、佐世保海軍墓地に居た墓地管理人さんのお父様が空母「加賀」乗組の生き残りの方であったという。
「加賀」沈没後は「榛名」乗艦しガダルカナル島・ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦にも参戦したという。その後は海防艦などの乗組をへて終戦。
そして御子息は、今は「加賀」や「榛名」の慰霊碑を見守る管理人さんとして聖域を守っていらっしゃった。

個人墓

左右に軍人軍属の個人墓が立ち並んでいる。
砲弾は定遠のものという。

今回撮影データはないが、ここ佐世保には旅順閉塞隊勇士の杉野兵曹長や日清戦争での勇敢なる水兵(三浦虎次郎)などの墓もある。


艦船慰霊碑

戦艦 金剛 戦没者慰霊碑

昭和47年11月21日建立
金剛型戦艦1番艦「金剛」

捷一号作戦・レイテ作戦(サマール沖海戦)後の昭和19年11月21日、修理のため内地へ回航中、台湾北方海面において敵潜水艦(シーライオン)の魚雷攻撃により沈没。
生存者は約250名。
艦と運命を共にした第三戦隊司令官鈴木義尾中将、艦長島崎利雄少将以下1250名を祀る。

戦艦 榛名 戦没者慰霊碑

昭和56年11月8日建立
金剛型戦艦3番艦「榛名」

各作戦を戦い抜いた武勲艦「榛名」。
昭和20年に呉鎮部隊警備艦となり呉工廠に係留。3月19日の米軍艦載機攻撃で被弾、6月22日にも被弾。江田島小用沖に転錨したが7月24日28日の呉大空襲で大破着底。
榛名乗組の戦死者135名を祀る。

建立の記
忠誠を誓い熾烈なる愛情を捧げた国家そしてこの象徴こそ我等が戦艦榛名であった
平時にありては海上兵力主力の一艦として重きをなし 昭和16年12月大戦開始と共に佛印及びボルネオの上陸支援作戦を緒戦として 南支那海遠くは印度洋を制圧 更にその高速を利して急遽中部太平洋ミッドウェー海戦と息つく暇なき連戦であった
そして南太平洋 就中ソロモン群島要衝を巡る彼我の攻防は今次戦局の帰趨を決するとして凄絶を極めた
10月半ば第3戦隊榛名、金剛は敵拠点ガダルカナル島挺身攻撃の命下る
暗夜漆黒の海ソロモンの島を縫って目的地に近接 ガ島飛行場に対し榛名は実に36糎主砲483発、副砲21発の砲弾を浴びせ三斉射目にして天をも焦す大爆発誘爆を起し 一面火の海と化せしむる大任を全うした
戦況次第に緊迫の度を深め南太平洋海戦・ア号作戦と南北半球を往復すること幾度か その神出鬼没の行動と沈着果敢な奮戦は大いに敵を震撼せしめたのである
昭和19年10月 日本海軍がその命運をかけた捷一号作戦の令下るや 直ちにブルネイの基地を出撃した我等主力は比島ミンドロ島北方より海峡を東進する
制空権既になく敵大編隊の波状攻撃実に十数回に及ぶ
一艦又一艦が消える
被弾し戦列を離れる艦が続出漸くにして比島東方海上に到達すると同時に敵艦隊と遭遇忽ち対空対水上の死闘が繰り広げられた
その間 空母1を撃沈
榛名又凄まじい闘魂を漲らせ言語に絶する苦闘の3日間を戦い抜いたのである
内地に帰投した榛名は間もなく第2艦隊より除かれ錨地を小用沖に移し本土防衛に任じたるも執拗なる敵機大小延240機の来襲により 昭和20年7月28日午後5時過ぎ 遂に被爆着底す
秀麗榛名の山にあやかり天運を恵与された榛名 曽ては御召艦の栄を担いよく勇戦奮闘 日本海軍の誇りを全うした光栄あるその30年の歴史を閉じたのである
来るべきの日を既に直感しながら後に続くを渇望し雄々しくも海に散華せし榛名桜
そして互いに愛国の至情に燃え艦と共に戦い生存せし我等
その運命の深遠を追憶し遥に港を望むこの台地に碑を建て 永劫の鎮魂顕彰の場として心からなる慰霊の誠を捧ぐ

英魂 とこしえにこの聖地に眠れ 合掌

 昭和56年11月8日
 戦艦榛名生存者有志一同
        遺族一同

戦艦 霧島 戦没者慰霊碑

昭和56年11月8日建立
金剛型戦艦4番艦「霧島」
霧島神宮宮司小久保光雄謹書

昭和17年11月14日、第三次ソロモン海戦にて米戦艦ワシントンのレーダー射撃により航行不能となる。 救難手段を講じるも効果なく11月15日午前1時25分沈没。
艦と運命を共にした将兵は212名であった。

碑文
巡洋戦艦霧島は明治42年3月17日長崎三菱造船所に於て起工
大正4年4月19日進水
第一次第二次の大改装を経て沈没時その主なる要目次の如し
全長219.61米常備状態に於ける屯数36601屯最大速力30.5ノット航続距離18ノットにて1万浬乗員1430名兵装主砲36糎砲8門副砲15糎砲14門その他高角砲機銃及水偵3機搭載す
昭和5年10月26日神戸沖特別大演習観艦式には御召艦の光栄に浴し大東亜戦争中旗艦比叡と共に作戦に従へり
(艦長山口次平大佐後少将)
昭和17年11月12日ガダルカナル飛行場砲撃の為ルンガ沖に突入せり
此の時比叡は敵の集中砲火を受け舵機故障航行不能となりたる処更に米軍機の雷爆撃を受け13日1305サボ島沖に自沈す
明けて14日第2艦隊に合同の命を受け霧島は長官近藤信竹中将の指揮下に入り旗艦愛宕を先頭に高雄長良川内他駆逐艦6隻と共に再度ガダルカナル飛行場砲撃を企図し突入せんとしたるもその南西方向を西航する米戦艦ワシントン及サウスダコダの2隻を発見之と交戦初弾よくサウスダコダをして戦列を離脱せしむるの損害を與え之を撃破するも霧島も又ワシントンの16吋砲弾6発5吋砲弾40発の集中砲火を受け舵機故障大破航行不能に陥り艦長岩渕三次大佐(後中将マニラにて散華)は総員退去を命じキングストン弁を開いてサボ島の265度11浬の地点に自らその栄光の生涯を閉ず
時に昭和17年11月15日0130噫
茲に艦と共に散華せる英霊を顕彰してその勲を永久に欽仰するものなり
 昭和55年11月14日
  霧島乗組生存者一同
       有志一同

航空母艦 飛龍 戦没者慰霊碑

昭和49年6月5日建立
源田実書

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦。
南雲機動部隊(第一航空艦隊)直下の第二航空艦隊にて山口多聞少将の旗艦として出撃。最後の一艦として奮戦するも飛龍は6月6日午前0時15分総員退去、沈没。山口司令官、加来艦長以下800余名を祀る。

慰霊碑建立の記
航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す
 昭和49年6月5日
 航空母艦飛龍遺族生存者有志一同

在天の 山口司令官
加来艦長はじめ たくさんの戦友たちよ
あの日のことども ともに語りたい
その後のことも 聞いてほしい
だが今日は それもかなわず
とこしえに この聖地に
み霊安らかに 眠れかしと
ただ祈るのみ

※附記
「飛龍」艦上攻撃機隊飛行隊長として、ミッドウェー空襲隊隊長を努めた友永丈市中佐の生誕地碑が大分県別府市にあります。

海軍中佐 友永丈市 誕生地

別府市野口中町
場所→ https://goo.gl/maps/vGkw8azgPQKxDS4a8
墓所も別府市内にあるようですが未訪問。
なお、この写真も嫁提供(私は未訪問)

航空母艦 加賀 戦没者慰霊碑

昭和50年6月5日建立

南雲忠一海軍中将を司令長官とした「第一航空艦隊」。
第一航空戦隊(赤城・加賀)と第二航空戦隊(飛龍・蒼龍)で編制。

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で赤城、飛龍、蒼龍とともに没する。
岡田次作艦長以下800余命の戦死者を祀る。

碑文
泪く時になく
 笑ふ時に笑ふ
そんな立派な
 戦友だった
御国のため
 身を投し
  もう笑う事も
   泪く事も
出来なくなった
 戦友の御霊を
  少しでも
   安らかにと
こゝに碑を建てる
 安らかに遠久に
   ねむれかし

慰霊碑建立の記
航空母艦加賀は大正9年7月19日神戸川崎造船所にて戦艦として起工
進水後は横須賀工廠にて航空母艦に改装
昭和3年3月31日竣工し昭和9年6月25日から約1年の歳月をかけ近代的最新鋭空母に大改装した
昭和12、3年支那事変に際しては支那沿岸各地に於て幾多の戦功を樹て 昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭長躯真珠湾を奇襲し敵に壊滅的打撃を与え更に印度洋蘭印ラボールと数次の作戦に参加数々の戦果を収めた
昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於ては敵陸上基地を猛攻し反復攻撃のため準備中敵機の集中攻撃を受け艦を挙げての必死の防戦にも拘わらず敵艦上爆撃機の急襲により武運拙く被弾誘爆火災を起し全艦火に包まれ遂に総員退去の止むなきに至り同日16 25頃ガソリン庫に引火し大爆発を起し沈没
岡田次作艦長以下多数の戦没者は艦と運命を倶にされた
茲に慰霊碑を建立し航空母艦加賀の数々の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念する
 昭和50年6月5日
 航空母艦加賀遺族生存者有志一同

航空母艦 瑞鳳 戦没者慰霊碑

昭和53年3月10日建立

昭和19年10月24日。
レイテ沖海戦・エンガノ岬沖海戦にて小澤機動部隊(第三艦隊・小澤治三郎海軍中将)の空母として出撃。
千歳・瑞鶴が沈むなかで奮戦するも午後3時27分奮戦虚しく沈没。
戦死者216名を祀る。

おとうさん、お兄さん、愛しい吾子達よ、永遠に安らかに

建碑の詞
あれから星霜30有余年!!
想いおこせばあの大東亜戦争で赫々の武勲に輝く空母瑞鳳とその「瑞鳳」と共に散華された7百余名の戦友は今だにレイテ湾沖に瞑りその収骨は絶望で戦友は永遠に還らぬ人となりました。
私達「瑞鳳」生存者一同相計り英霊の瞑りの安らかなことを願い懐かしい母港「佐世保」を一望できる此処東山の景勝の地に慰霊の碑を建立いたしました。
数多の遺族が、かけがえのない肉親の遺影を偲び時には私達が訪れて戦友を弔い香華を手向ける静かな心の里としたいとおもいます。
今祖国日本は平和で世界有数の経済大国といわれていますこれも偏にあなた方諸勇士の犠牲でなくてなんでありましょう。
英霊よこの聖地から祖國日本の益々の繁栄と御遺族の御多幸をお護りください。
こゝに空母「瑞鳳」と共に殉じた諸勇士の輝かしい武勲とその殉国の精神を後世に伝え又今後の戦争再発防止と祖国日本の永遠の平和を祈りながら「瑞鳳」と共に殉じた戦友よ祖国の地にこころやすらかにお瞑りください。
 昭和53年3月20日
 瑞鳳生存者一同

航空母艦 大鷹 戦没者慰霊碑

昭和59年10月16日建立

日本郵船春日丸を改装した特設空母。
昭和19年8月18日夜、ヒ71船団護衛中にルソン島西方で米潜水艦(ラッシャー)雷撃により撃沈。給油艦「速吸」や海防艦「松輪」「日振」「佐渡」も沈没。
大鷹沈没時に運命をともにした477名を含む戦没者484名を祀る。

碑文
軍艦大鷹は日本郵船欧州航路の貨客船として昭和15年9月19日三菱重工業長崎造船所にて進水しその後佐世保海軍工廠において改装、16年9月5日佐世保鎮守府所管の特設航空母艦春日丸として軍艦旗を掲揚し、排水量20000屯速力21ノット搭載飛行機27機12センチ単装高角砲6門25ミリ連装機銃48門を装備し乗組定員747名なり。
17年7月1日連合艦隊に同年8月31日軍艦籍に編入され航空母艦大鷹と命名せらる。
太平洋戦争の当初、飛行機の発着艦訓練に当り以後トラック、クエゼリン、ルオット、ラバウル、ウルシー、タロア、マニラ、スラバヤ等南方基地への零式艦上戦闘機輸送を主任務とし、17年8月には戦艦大和、駆逐艦曙あけぼの、潮うしお、漣さざなみと共に作戦主隊となり18年5月にはシンガポールへの船団護衛に従事し、その行動は前後17回に及び南西太平洋の全域にわたり数百機の零戦を輸送したるは特筆すべきことにして赫々たる戦果を収めたりと言うべし。
されども戦局は次第にわれに利あらず、マニラにおもむくヒ71船団14隻を護衛航行中フィリピン群島ルソン島北西部ボヘヤドール岬沖40海里にてアメリカ潜水艦ラッシャーの魚雷攻撃を受け、19年8月18日22時48分北緯18度10分東経120度22分、濛雨の南支那海に艦首を直上にして沈没す。
就航以来3年余その行動力と武運の久しきを誇りし大鷹は被雷後僅か20分にて忠勇なる将士数百名とともに1400メートルの深海にその艦歴を閉じたり。
ああ痛恨の極み悲壮これに過ぐるものなし。
従前17年9月28日トラック島南水道南方40海里にて3柱、18年9月24日父島北東200海里にて4柱、いずれもアメリカ潜水艦の魚雷攻撃による戦没者あり、その終焉の際第931航空隊員を含め戦没せられしは477柱、本艦乗員にて國に殉ぜられしはあわせて484柱なり。
護国の英霊に慰霊の誠を捧げその功績を永く後世に伝えんことはつとに各々心にあるところなりしも世情人心不安定にして思うにまかせず、ようやく一昨年元乗組、生存者、遺族をもって空母大鷹会を組織し英霊ゆかりの佐世保旧海軍墓地に軍艦大鷹慰霊碑を建立するに至れり。
すでに戦後39年を閲せしことわれら慙愧ざんきに堪えざるもあやに尊き英魂の各位、冀こいねがわくはこの地に神霊として鎮まり、時あれば天を翔かけりて祖国日本をみそなわせ給わんことを。
 昭和59年10月16日
 空母 大鷹会

航空母艦 雲龍 戦没者慰霊碑

昭和62年12月19日建立

昭和19年12月19日。内地よりフィリピン方面に軍需物資・陸軍兵員輸送及び桜花30機輸送従事中に米潜(レッドフィッシュ)に雷撃され沈没。
艦長小西要人少将以下乗組員1240名及び便乗していた第634海軍航空隊・陸軍滑空歩兵聯隊など約3000名の犠牲者を祀る。

碑文
 航空母艦雲龍(174,840噸)は太平洋戦争愈々苛烈を極める中、昭和19年8月6日横須賀海軍工廠にて竣工し海軍機動部隊の主力である第一航空戦隊に編入された。
 竣工するや否や海軍少将小西要人艦長のもと千5百余名の乗員一致団結祖国と民族の為身を鴻毛の軽きにおき日夜ひたすらに出撃に向けての訓練に励み昭和19年12月17日マニラ方面緊急輸送作戦に呉軍港を出撃東支那海大陸沿岸を一路激戦地のマニラに向かった。
 12月19日1637時及び1651時敵潜水艦の雷撃を受け勇戦空しく海底深く沈んだ。
 小西艦長はじめ乗組員将兵、便乗中の第634海軍航空隊将兵、陸軍滑空歩兵第1連隊将兵、比島方面へ赴任中の海軍将兵を含み3千名の多数が艦と運命を共にされ生存者は僅に142名であった。
童顔の15歳の少年兵も 学徒出陣の少尉もいた。
 父、母に、兄弟姉妹に、最愛の妻や子にも別れを告げることもなく嵐の海にのまれてしまった。
 あれから43年、今日のこの平和な繁栄は英霊の方々の尊き犠牲により築かれた。
 このたびやっと遺族、生存者相つどい御魂らを慰め再び戦争の悲劇を繰り返さないことを希ってここ佐世保の海軍墓地に慰霊の碑を建立する。

 御霊よ 安らかに 鎮まり給え   合掌

昭和62年12月19日
 航空母艦雲龍戦没者慰霊碑建設委員長 森野 廣
 元 雲龍航海士

※附記

航空母艦 千歳 慰霊碑

  • 「千歳」の慰霊碑は福岡県久留米市の水天宮境内にある。
  • 佐世保海軍墓地には案内標が建立。千歳は佐世保を母港としていた。
  • こちらの写真は平成16年に私の撮影。この頃の私は神社散策メインで慰霊碑はあまり撮影していなかったのが悔やまれます。

昭和19年10月25日、千歳はエンガノ岬沖海戦にて小澤機動部隊として出撃し沈没。艦長岸良幸大佐以下468名が艦と運命をともにした。

水天宮境内(福岡県久留米市)

碑文
いつよりの千歳かわかぬ千歳川 
 始めも果もなき名なりけり

 昭和十三年就役以来、日支事変・太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃。赫赫たる戦果を挙げた軍艦千歳は、フィリピン沖海戦に於て勇戦奮闘するも衆寡敵せず。遂にフィリピン・エンガノ岬東方に艦長以下数百の将兵と共にその勇姿を没した。
 時に昭和十九年十月二十五日午前九時三十七分

 軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり、艦内神社に水天宮を奉祀してありました

軍艦千歳郷土会に就いて
軍艦千歳が呉海軍工廠で竣工、就役間もない昭和13年10月久留米を中心とした筑後地方一帯より、一千九百余名の有志の方々で軍艦千歳会を発足させ(会長 石橋徳次郎氏 当時久留米市長)その頃珍しかった蓄音機、レコード絵葉書及び軍艦旗など多数献納されております。この度の千歳慰霊碑建設に当っては生存者及び遺族の方々は申す迄もなく、軍艦千歳の事を全く知らない多くの方から又筑後川遥か上流の方々からも暖い御協力を賜り見事な慰霊碑が出来ました。軍艦千歳は6ヶ年の短い生涯でありましたが、他の艦に見られない一般の方々の祝福を受けた幸せの艦であったと思います。艦長、副長機関長など幹部の方々は殆んど戦死いたしました。もし艦長存命ならば皆様に対し、どんなに御礼の言葉を述べた事でありましょう。
 昭和53年10月25日 軍艦千歳慰霊碑建設委員会

300年前は筑後川を千歳川と呼んでいたそうであります
いつよりの千年かわかぬ千歳川 始めも果もなき名なりけり

軍艦 羽黒 戦没者慰霊碑

昭和46年5月16日建立
防衛庁長官 中曽根康弘謹書
妙高型重巡洋艦4番艦「羽黒」

昭和20年5月16日、マラッカ海峡にて英国駆逐隊と遭遇し沈没。
司令官橋本信太郎中将、艦長杉浦嘉十少将以下800余名が戦没。
慰霊碑前には平成17年にペナン沖で引揚げられた羽黒舷窓枠が奉納されている。

軍艦羽黒
昭和4年三菱長崎造船所に於て当時最新鋭重巡として進水
帝国海軍の精鋭として常に我が国海上防衛の第一線に在り
大東亜戦争勃発するや比島攻略戦に従事
以来スラバヤ沖海戦珊瑚海々戦第二次ソロモン海戦ブーゲンビル島沖海戦等主要海戦に従事し赫々たる武勲を樹たり
然れども昭和20年5月16日このとき日本艦隊既に影なく羽黒は駆逐艦神風を従へ陸海の将兵が孤立するアンダマン諸島に輸送作戦中戦艦を含む30余隻の英国機動部隊と交戦
緒戦克く駆逐艦を轟沈し志気いよいよ旺んなるも羽黒も又雷撃を受け操艦意の如くならず勇戦奮斗1時間有余
衆寡敵せず遂にその勇姿を橋本第5戦隊司令官杉浦艦長以下8百余名の将兵とともに波高き印度洋に没せり
時将に午前3時35分

併記
戦後交戦せし英国司令官をして日本海軍の精華なりと称賛せしめたりと謂う

軍艦羽黒舷窓枠
西暦2006年3月 福島県いわき市 堀 龍一 氏ら世界的ダイバーグループによって、マラッカ海峡ペナン島南西48浬 水深64mに 戦没している軍艦羽黒 艦橋前方左舷側上甲板より、60年振りに引き揚げられたものです。
(素材真鍮・内径31cm・重さ約9kg)
軍艦羽黒会

軍艦 那智 戦没者慰霊碑

昭和46年11月5日建立
妙高型重巡洋艦2番艦「那智」

沈没時の鹿岡艦長以下850名の犠牲者を含む乗組戦没者1000余名を祀る。 昭和19年10月、レイテ沖海戦にて第五艦隊(志摩艦隊)旗艦として参戦。スリガオ海峡にて先行する西村艦隊の敗退を受け撤退。11月5日に米軍120機の波状空襲にて沈没。

忠魂
軍艦 那智 佐世保鎮守府所属一等巡洋艦
大正13年11月26日呉海軍工廠において起工、昭和3年11月26日竣工
帝國海軍技術の粋を結集せる当時世界第一の威力を誇る重巡洋艦として誕生し、爾来我が国海上防衛の第一線部隊に在り。
大東亜戦争勃発するや緒戦、比島、蘭印攻略作戦、スラバヤ沖海戦に参加、以後西太平洋に戦闘行動を続け、アッツ沖海戦、レイテ作戦等に第5艦隊旗艦として活躍、何れも大なる戦果を挙げたり。
昭和19年11月5日比島方面作戦中、米機動部隊艦載機120機以上の集中攻撃を受け、克く敵機多数を撃墜、勇戦激闘8時間余の末、那智もまた被害続出、満身創痍となり操艦、応急意の如くならず、遂に戦雲高きマニラ湾にその勇姿を没せり。
時に午後3時40分。
このとき艦と運命を共にするもの艦長以下将兵800余名。
開戦以来累次の戦闘に戦死せる乗員を併せ、英霊約1000名。
その勇戦は壮烈無双にして、その武勲は赫々たり。

軍艦 足柄 戦没者鎮魂之碑

昭和47年6月8日建立
妙高型重巡洋艦3番艦「足柄」

緒戦以来の同艦戦死者300余名を祀る。
レイテ沖海戦は志摩艦隊所属で参加。
昭和20年6月8日にシンガポールに向け航行中に米潜水艦(トレンリャント)の雷撃により沈没。
※カメラ不調により撮影失敗
※画像は公式サイトより( http://kaigunbochi.jp/publics/index/61/

建碑の詞
太平洋戦争が終って20数年 世情もようやく平和に慣れて あの悲惨な戦いも忘れ去られようとしている今日 私達は 軍艦足柄と共に南溟の果てに散華した3百有余の戦友を思うとき 断腸の念を禁じ得ません
軍艦足柄は 昭和4年神戸川崎重工において 世界注視の最新鋭巡洋艦として進水
昭和12年5月英国皇帝ジョージ6世の戴冠式には 秩父宮殿下のお召艦として参加した
日中戦争が勃発するや 中国方面派遣艦隊の一翼をになって海の護りにつき 太平洋戦争の緒戦におけるスラバヤ沖海戦には 僚艦妙高那智等と共に 英国重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を撃沈した
続く蘭印作戦では支援艦隊の旗艦として南海に活躍し その後北方警備の任を果たし 昭和19年10月25日 捷1号作戦における志摩艦隊の2番艦として スリガオ海峡よりレイテ湾に突入
同年12月24日ミンドロ島サンホセ沖海戦では 決死の突撃を敢行して数多くの敵商船団に痛撃を加えたが その攻撃中我が艦の対空砲火で撃墜された敵機によって火災を起こし数多くの戦友を失った
昭和20年6月8日未明 第2回陸軍輸送作戦においてジャカルタ港を出港
厳重警戒航行中敵潜水艦の雷撃に遭い 急ぎ応戦避退したが 浅海と減軸運転中のため 遂に敵魚雷4本をうけ 3百余名の戦友と共にその勇姿をジャカルタ沖に没した
時に6月8日正午 ああ悲しあの勇壮な足柄の艦影も あの元気な戦友の英姿も 今は遂に帰らぬものとなった
今ここに母港を一望する景勝のこの地を選び 英霊が帰り集う霊場と定め またの遺族が我が子 我が夫を偲ぶよすがの地とし 又私達が時に訪れて戦友を弔い 平和達成への誓いを新たにする馬ともし 軍艦足柄と共に殉じた諸勇士の輝かしい武勲と その殉国の精神を後世に伝え且又戦没諸子の霊を供養して平和の礎とするために 我等足柄生存者一同相はかってこの碑を建てるものであります
 昭和47年6月8日建之
 軍艦足柄生存者一同

軍艦 妙高 戦没者慰霊碑

昭和48年9月15日建立
妙高型重巡洋艦1番艦「妙高」

戦没者90余名を祀る。 レイテ沖海戦では栗田艦隊所属で参加。米軍機猛攻で戦線離脱しブルネイに退避。その後シンガポールに入港し応急修理後を施して内地に向かう途中に米潜水艦雷撃で大破。そのままシンガポールで終戦。海没処分。

建碑のことば
軍艦妙高は昭和4年 最新鋭の重巡洋艦として世界注視の中に横須賀海軍工廠で建造
その秀れた性能とシャープな艦型は まさに日本刀の鋭さと美しさであった
国運を賭けた大東亜戦争が起こると比島作戦を始め スラバヤ 珊瑚海 ミッドウェー アリュウシャン ソロモン サイパン等々の大海戦に参加し スラバヤ沖海戦では英重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を屠る赫々たる戦果をあげた
だがマララグ湾では米軍機の爆撃によって40余名が戦死傷し シブヤン海及びサイゴン沖では米軍機米軍潜水艦の雷撃をうけて多数の戦死者を出した
昭和20年終戦をむかえ連合軍の命によってマラッカ海峡で注水しその勇姿を永久に海底に没したのである
時に昭和21年7月14日
以来28有余年これらのことも今や既に国民の脳裏から消えようとしている
ここにおいて我々は妙高の輝やかしい武勲を伝え国に殉じた70余名の戦友の霊を慰さめ かつは祖国日本の永久平和を祈念するため ここにこの碑を建てるものである
艦よ 英霊よ 静かに眠れかし

 昭和48年9月15日
  軍艦妙高生存者一同
  各界有志一同

碑歌
泣くにあらず 悲しむにあらず
若き日の命捧げし 君よ 武人の鑑なる
今平和甦る日に 過ぎし戦場の惨烈を想い
水漬く屍の君を憶ふ
潮騒と倶に 尽くることなし

画像

軍艦 鳥海・藤波 慰霊碑

平成10年12月建立
高雄型重巡洋艦4番艦「鳥海」
夕雲型駆逐艦11番艦「藤波」

重巡洋艦「鳥海」駆逐艦「藤波」はともにレイテ沖海戦に参戦。 レイテ沖海戦において鳥海は当初、第四戦隊(愛宕・摩耶・高雄・鳥海)に編成。
が、愛宕・摩耶が沈没し高雄が大破し鳥海は第五戦隊に編入。サマール沖海戦において鳥海は舵故障により戦列離脱。
昭和19年10月25日。米軍艦載機が戦列を離れた鳥海を攻撃し鳥海は被弾し航行不能状態に陥る。そこで警戒にあたっていた第32駆逐隊の藤波が鳥海救助を命じられ鳥海乗組員を収容し、航行不能となった鳥海を雷撃処分している。
「鳥海」乗組員を救助した「藤波」は栗田艦隊から別れ、別航行中にさらに米軍機の空襲を受け轟沈。
戦没者は鳥海乗組員830名、藤波乗組員130名。藤波・鳥海ともに一人の生存者もいなかったという。
慰霊碑は遺族により平成10年に建立。
以後は護衛艦「ちょうかい」が毎年慰霊祭を行っている。

時経るも 消えゆる嘆きの あらなくに 「鳥海」「藤波」 ここに慰霊す

銘碑
大東亜戦争において巡洋艦「鳥海」は昭和19年10月25日比島レイテ沖海戦において戦没しました
その生存者を駆逐艦「藤波」が収容して 反転中その藤波も昭和19年10月27日比島シブヤン海において戦没しました
それで「鳥海」「藤波」の生存者は一人もなしという最後でした
それから50数年の歳月が流れておりますが このままでは 尊い生命を犠牲にされた殉国の英霊に対し申し訳ないと遺族数名が立ちあがり ここに慰霊碑建立がなされましたことを誠に感激します
 平成10年12月吉日建立 鳥海 藤波 遺族有志
 発起人 内田美津代

軍艦 矢矧 戦没者慰霊碑

昭和44年4月13日建立
阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」

昭和20年4月7日、大和護衛の第二水雷戦隊旗艦として活躍し大和とともに轟沈。
艦と運命をともにした内野副長以下446名及び他海戦の戦死者などを含む486柱の英霊を祀る。

※カメラ不調により撮影失敗
※画像は公式サイトより( http://kaigunbochi.jp/publics/index/64/

いしぶみ
みたまら いま ここにねむる
おんみら 軍艦矢矧 のつわものとして
マリアナ海戦 フィリピン沖海戦に散じ
はたまた国家の存亡をかけし沖縄特攻作戦に
戦艦大和 らとともに徳之島西方に没す
この日 昭和20年4月7日なりき
戦敗れ 苦難の道をあるくこと二十有五年
いま 世は太平
このたび ようやく機熟して
戦没者の霊をなぐさめ かつは
再び戦争の悲劇をくりかえさざることをね希い
母なる港をのぞむ東山の聖地に
慰霊の碑をつくりたり
みたまらよ
とわに 安らかに眠れかし
  ゆきしふね
    かえらぬおかに
         はなふぶき
 昭和44年4月7日
 矢矧会有志一同

軍艦 矢矧
昭和18年12月末佐世保海軍工廠において最新鋭巡洋艦として完工しマリアナ海戦フィリピン沖海戦など数次の海戦に参加す
昭和20年4月6日片道燃料をつんで徳山沖を抜錨し翌4月7日鹿児島西方海上において米空母艦隊の艦上機群と遭遇しその連続攻撃をうけ勇戦奮闘もむなしく徳之島西方海上において大和その他とともに爆沈す

併記
海上自衛隊の御援助により
沖縄および徳之島より石各々1個を運び
つわもののみたまやすらかれと念じつつ安置す

軍艦 阿武隈 慰霊碑

昭和57年10月24日建立
長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」

碑題字は清水芳人謹書。海軍少佐。阿武隈沈没時の副長兼砲術長。(その後は大和第十分隊長として大和特攻に出撃し生還)

阿武隈は昭和19年10月25日、志摩艦隊としてスリガオ海峡海戦に参戦、翌26日に空襲により沈没。
戦死者262名を祀る。

慰霊のことば
軍艦阿武隈(5千5百噸級軽巡洋艦)は大正14年5月浦賀ドックにて竣工し数度の改装を行い昭和16年12月8日大東亜戦争開戦時第1水雷戦隊旗艦としてハワイ作戦に参加
同17年ビスマルク諸島、ポートダーウィン、ジャワ、インド洋作戦
同18年アリューシャン方面作戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤収作戦等に活躍
同19年10月25日比島沖海戦に第2遊撃部隊としてスリガオ海峡突入時交戦被雷
翌26日 B24 30機の猛爆を受け勇戦奮闘空しく遂にミンダナオ海に多くの戦友と共に勇姿を没す。(時刻午後零時42分位置北緯9度9分東経121度54分ダピタンの西北西約180粁)
38年後旧乗組員有志相諮り母港佐世保市東公園旧海軍墓地に参集
軍艦阿武隈の輝く戦歴を記念すると共に祖國の難に赴き名誉の戦死を遂げ今日の日本の繁栄の礎となりし戦友を永く顕彰せんと欲しその芳名を刻み慰霊碑を茲に建立す

英霊よ軍艦阿武隈よ
     安らかに眠り給え

 昭和57年10月24日
  軍艦阿武隈戦友会
  会長 元副長 清水芳人
  他 会員有志

駆逐艦 杉 戦没者慰霊碑

昭和54年3月10日建立
戦時急造の松型駆逐艦7番艦「杉」

昭和19年8月竣工。護衛輸送作戦に従事。終戦を呉で迎える。復員輸送に従事したのち昭和22年に賠償艦として中華民国に引き渡され「恵陽」と改称。国共内戦で座礁し1951年に解体。
戦死者43名の霊を祀る。

建碑の詞
あれから星霜三十有余年の才月も容赦なく過ぎ去ろうとする今駆逐艦杉生存者一同相計りあの大東亜戦争末期かの過酷な余りにも厳しい悪條件下のレイテ沖海戦を始め幾多の戦いにも只々ひたすらに祖国日本の為に散華された戦没者の英霊よ永遠に安かれと願い懐かしい母港が一望出来る此地佐世保東山旧海軍墓地に慰霊碑建立しました
慰霊碑に瞑する時あの童顔の中にも逞しい姿、かけがえのない青春おも、いといもせず殉じた戦友の思影が脳裏の底に髣髴します
遺族に変り戦友を偲び折り見て私達が此処を訪づれ戦友を吊い香華する中に亦得がたいものがあろうかと思います
且つ動静の場としたいものです
今日祖国日本も平和の一言につきます経済的にも一驚する発展を遂げました
而し片時も忘れてならない心すべき事は極限の中にも動ぜず殉じた戦友の代償でなくてなんでありましょう
駆逐艦「杉」の名に恥じない諸勇士の不滅なる武勲を永久に後世に伝へ祖国日本の真の平和を吾々の手で「シッカリ」守り二度と繰り返してならない戦争の悲惨を固く心に誓い其の平和の永久ならん事を祈り乍ら駆逐艦杉戦没者戦友よ祖国の土に安らかに瞑って下さい
 昭和54年3月10日
 駆逐艦杉生存者一同建立

戦友よ皆さん永遠に安かれ

駆逐艦 若葉 戦没者慰霊碑

昭和55年10月24日建立
初春型駆逐艦3番艦「若葉」
二ノ方兼文海軍少佐謹書(若葉最後の艦長)

昭和9年10月竣工。
レイテ沖海戦では志摩艦隊に属し輸送任務に従事。志摩艦隊本体に合流するために航海中の10月24日空襲にて沈没。
戦没者93名を祀る。

建碑の言葉
駆逐艦若葉は昭和9年佐世保海軍工廠に於て進水す
第21駆逐隊(若葉 初春 初霜 子ノ日)の司令艦なり
排水量1700トン速力34ノット12.7糎砲4門61糎魚雷発射管6門機銃多数搭載の新鋭艦にして支那事変及大東亜戦争始まるやダバオ方面に出撃マカッサル、バリ島攻略作戦に参加す
17年北方に転じアッツ島攻略作戦に参加
アリューシャン方面に行動す
18年奇蹟と称されたキスカ撤収作戦に参加し、陸軍部隊を収容す
19年10月米軍比島に上陸の報に接し10月15日呉軍港を出撃
同23日マニラを出港レイテ湾突入の志摩艦隊と合流すべく追尾中24日0800米海軍空母「フランクリン」の艦上機「グラマン」20機の攻撃を受け補機室付近に爆弾命中して機銃掃射を受け戦死戦傷者続出す
艦腹の破孔よりの浸水はげしく吸い込まれる如くに海中に没す
時に0900なり
此の海面をスルー海と称す
加えて沈没直後艦内の火薬の大爆発のために漂流中の乗員多数水中爆傷を受く
後僚艦初春、初霜の救助を受く
二ノ方艦長の進言により効なき突入を中止し後日を期しマニラに入港す
戦死者を火葬に付し戦傷者は海軍病院に入院す
一部の乗員転勤者は帰還し得たるも、ほとんどが上陸米軍と交戦戦死す
沈没後36年を経て此所に乗員及遺族の方方の協力を得て戦没者ゆかりの此の地に慰霊碑を建立し、招魂の式典を行ない多年の念願を果すを得たり
在天の英霊来たりて肉親と語られん事祈るものなり
 昭和55年10月24日
 第21駆逐隊 駆逐艦若葉戦友会

第六十一駆逐隊
駆逐艦 秋月 慰霊之碑

昭和56年10月24日建立
秋月型駆逐艦1番艦「秋月」
緒方友兄大佐謹書(秋月最後の艦長)

昭和17年6月竣工。昭和19年10月25日、レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)では小澤艦隊に所属し対空戦闘に従事。米機空襲により二つに折れ沈没。
戦没者208名を祀る。

碑文
駆逐艦秋月は昭和17年6月11日秋月型防空駆逐艦第1号艦として舞鶴海軍工廠で竣工
総排水量3800トン特殊性能10糎高角砲8門3連装25粍機銃5基4連魚雷発射管1基更に全甲板に単装機銃を配し最新鋭の防空駆逐艦として誕生す
秋月は竣工間もなくアリューシャンに向け出撃
北方作戦に参加後マカッサル、カビエン、ラバウル、トラック島等南太平洋方面作戦に従事
ガ島攻防戦から「あ号」「捷1号」作戦まで機動部隊附属の防空駆逐艦として活躍転戦亦連戦
敵味方が共に瞠目する輝しい戦果と武勲を挙げ駆逐艦秋月の名声轟かせり
然し度び重なる戦斗で損傷も著しく昭和17年10月25日ガ島沖の戦で11名昭和18年1月19日ソロモン方面にて14名の尊い命を失う
併して昭和19年10月25日「捷1号」作戦中比島沖の航空戦で秋月は身を捨て旗艦瑞鶴始め空母の援護射撃中被爆遂に命運盡きて沈没せり
秋月の命は短くもその功績は偉大なり
ガ島から比島沖までの長い戦斗で最後の勝利と栄光とを信じて散華して逝った乗員数208名の多数に上る
茲に生き残りし我等一同尊き御霊に対して祖国日本の復興は成り平和と繁栄が続いている旨を告げ願くは心安らかに御冥福あらんことを心から祈ってこの碑を建てゝ祭る
 秋月会

第六十一駆逐隊
駆逐艦 初月 慰霊之碑

昭和59年10月20日建立
秋月型駆逐艦4番艦「初月」
緒方友兄大佐謹書(僚艦秋月艦長)

第61駆逐隊司令天野重大佐・艦長橋本金松中佐以下355名の霊を祀る。昭和19年10月25日レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)において小澤艦隊に属し撤退戦で奮戦し撃沈。

碑文
駆逐艦 初月 は防空駆逐艦として昭和17年12月29日舞鶴海軍工廠にて竣工、直ちに第61駆逐隊に配属され以来「い号作戦」に行動し「マリアナ沖海戦」では旗艦「大鳳」を護衛して奮戦した。
戦局急を告げる昭和19年10月25日「レイテ沖海戦」に於ては旗艦「瑞鶴」を直衛し4次に亙る延べ5百余機の米艦載機と交戦、多大の戦果を挙げるも「瑞鶴」の沈没を見るや身を挺してその乗員の救助作業中突如襲い来つた15隻の米艦隊の重囲に陥るも孤艦奮斗2時間有余、為に我が艦隊は遠く北方に戦場から離脱するを得た。
而し我が初月は遂に力盡き同日午後8時57分エンガノ岬の沖深く無念を胸に愛する者への萬感の思いをこめて最後の水中爆発と共にその英姿を没した。
全員戦死の為その凄絶なる最後を語る者無きも戦後米国の戦史が発表されるに及びその勇戦奮斗が明白となった。
米海軍にさえ高く称賛されるその奮戦は永く子子孫孫に語り継がれよう。
茲に駆逐艦 初月 の栄誉を顕彰し英霊の冥福を祈らんと遺族及び元乗組員 生存者の有志相寄り謹んで此の碑を建立する。
 昭和59年10月20日
 委員長 阪口雄三 謹書

鎮魂歌
魂きはる
 生命をかけて
  國鎮る
わが初月の
 御霊安かれ
  初月乗組員生存者代表
  有澤貞彦謹書

駆逐艦 涼月・冬月・柳 慰霊碑の案内標

上記3艦の慰霊碑は北九州市若松区の高塔山に鎮座。
その案内標が佐世保海軍墓地にある。

秋月型駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」
桃型駆逐艦4番艦「柳」

涼月・冬月は大和特攻作戦に参加し2艦ともに佐世保に帰還。(涼月は大破後進帰還)
尚、涼月・冬月・柳は「軍艦堤防」として北九州の地で防波堤になっている。

駆逐艦 涼月・冬月・柳三艦の慰霊碑は左記の地に建立して有ります
北九州市若松区高塔山中腹忠霊塔東側
 涼月会

※附記

軍艦堤防(軍艦防波堤)

北九州市若松区
秋月型防空駆逐艦3番艦「涼月」8番艦「冬月」 桃型駆逐艦4番艦「柳」(初代) この3艦は今も「軍艦防波堤」として北九州市若松港の防波堤として国土を護っている・・・

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駆逐艦 初霜 慰霊碑

昭和58年10月8日建立
酒匂雅三少佐謹書(初霜最後の艦長)
初春型駆逐艦4番艦「初霜」

戦没者26名を祀る。 大和の沖縄特攻に直衛艦として参加するも奇跡的に損傷を受けず佐世保に帰還。昭和20年7月30日宮津港において対空戦闘回避中に機雷触雷し大破着底し終戦を迎えた。

碑文
駆逐艦初霜は昭和9年9月27日浦賀造船所にて竣工、直ちに聯合艦隊に編入就役す。
昭和16年12月第1艦隊、第1水雷戦隊、第21駆逐隊に属し、同年12月8日太平洋戦争勃発するや、南にマカッサル、バリ島の攻略作戦に参加し、続いて北にアッツ、キスカの攻略撤収作戦に勇戦す。
更には艦艇、船団護衛の任を帯び南海に走駆し、その大任を全うせしこと再度ならず。
いよいよ戦局急を告ぐるや、昭和19年6月マリアナ沖海戦、レイテ島作戦に参加し、その武勲赫々たり。
就中昭和20年4月6日戦艦大和を基幹として第2艦隊、第2水雷戦隊として、沖縄洋上特攻作戦に決然として出撃し、その眞価を発揮するも、戦運われに利あらず、大和他沈没損傷し、雄図空しく佐世保に回航す。
その後第17駆逐隊に編入され、宮津湾にて港湾警備に従事中、同年7月30日米軍機の来襲をうけ、対空戦斗中触雷、艦体切断し、獅子ヶ崎に擱座す。
あに歴史変転の悲運の命と云んや。
ゆめ予測だにせざりし終戦を目前にして、歴戦の武運を誇りし初霜の雄姿は無残に潰え、さらに幾多戦友の屍を重ねたるは、誠に痛恨の極みである。
茲に駆逐艦初霜の栄光を後世に伝え、且つは亡き戦友の英魂の冥福を祈り、今世のわれら戦友一同の安心立命の定礎として、謹んでこの碑を建立する。
 昭和58年10月8日
 駆逐艦初霜戦友会一同

※附記:初霜の錨

平成28年5月撮影 旧帝国海軍駆逐艦「初霜」の錨 墨田区:山田記念病院 【初霜の錨】 一等駆逐艦初春型の4番艦...

駆逐艦 蓮 戦没者之碑

平成8年10月建立
樅型駆逐艦17番艦「蓮」

大正11年(1922)竣工。
昭和12年、支那事変勃発に際しては揚子江流域の輸送・揚陸支援・警備活動などに従事。
昭和16年、大東亜戦争開戦時は支那方面艦隊・上海方面隊として活躍。
青島にて終戦。
支那事変の犠牲者3名、大東亜戦争の犠牲者19名を含む戦病死者計23名を祀る。

鎮魂
駆逐艦蓮は、二等駆逐艦樅型の一艦として、大正11年7月31日浦賀船渠において竣工、聯合艦隊水雷戦隊、舞鶴及び鎮海要港部警備駆逐艦として活躍した後、昭和9年から南支方面の警備に当たった。
昭和12年支那事変勃発するや、第3艦隊第11戦隊に属し、揚子江流域における海陸軍部隊の輸送・揚陸支援、水路啓開・交通保護等に任じ、15年以降は中支沿岸の海上封鎖作戦に従事し、赫々たる武勲を立てたが、この間戦友3名が尊い犠牲となった。
昭和16年12月大東亜戦争起こるや、支那方面艦隊上海方面部隊の一艦として開戦劈頭8日未明、黄浦江上において英国砲艦「ペテレル」を撃沈、以後18年6月までの約1年半は、中支沿岸の海上封鎖、対潜哨戒掃討、船団護衛等に従事した。
同年7月以降終戦までの約2年間は、専ら南支中支次いで北支方面の船団護衛に奮闘した。
この間、護衛回数はおよそ百回、護衛した船舶は優に2百隻を越え、作戦の多くは任を全うした。
しかしながら、護衛作戦中及び香港における対空戦闘において、19名の戦友が勇戦敢闘、惜しくも散華した。
また無念にも、輸送船数隻を敵の雷撃及び爆撃で失った。
今なお痛恨の極みである。
我ら生き残った戦友は、常々卿ら護国の英霊を追慕し、感謝報恩の念切なるものがあったが、このたび相計り、卿らの御霊を慰め功績を称え、これを後世に伝え残すため、謹んでここにこの碑を建てる。
御霊よ、願わくば永遠に安らかに。
 平成8年10月
 駆逐艦蓮戦友会会員一同

第二十二駆逐隊慰霊碑
 皐月・文月・水無月・長月

昭和63年10月建立
飯野忠男皐月艦長、磯部慶二水無月艦長以下300有余名の英霊を祀る。
睦月型12隻は全て佐世保を本籍としていたが全艦戦没。 第二十二駆逐隊はフィリピン・マレー・ジャワ作戦に従事。ソロモン・ガ島撤退作戦にも参加。

「長月」睦月型駆逐艦8番艦
昭和18年7月4日、コロンバンガラ島緊急輸送を行った第三水雷戦隊(含む第二二駆逐隊)は米艦隊と遭遇(クラ湾海戦・クラ湾夜戦)。
長月は戦闘により座礁、僚艦皐月が復旧を試みるも失敗。
7月6日爆撃により放棄。

「文月」睦月型駆逐艦7番艦
昭和19年1月30日のラバウル空襲で損傷した文月は修理の為にトラックに回航。 修理中の2月17日にトラック島空襲により爆撃され浸水。
翌昭和19年2月18日に沈没。

「水無月」睦月型駆逐艦6番艦
水無月はジャワ攻略戦以降22駆の3艦とは別に船団護衛に従事。
昭和18年以降はソロモン諸島輸送作戦に参加。
昭和19年6月6日、ダバオ南東セルベス海で米潜水艦雷撃で沈没。磯部慶二艦長以下乗員全員戦死。

「皐月」睦月型駆逐艦5番艦
22駆が昭和19年8月20日で解隊され第三〇駆逐隊に編入。
昭和19年9月21日、マニラ湾にて米空母艦載機の攻撃を受け沈没。戦死者52名。なお皐月生存者はマニラ地上戦に巻き込まれずに帰国できている。

第22駆逐隊慰霊顕彰碑文
第22駆逐隊(皐月 文月 水無月 長月)は大正の末より昭和の始めにかけて建造された睦月型12隻中の4艦で 上海及び支那の両事変に参加
大東亜戦争開戦時は比島部隊として アパリ リンガエン湾の上陸作戦に参加し 続いてマレー半島 ジャワ島方面に作戦行動した
昭和17年4月以降は第一海上護衛隊に編入され 18年1月まで南西方面から西南太平洋に及ぶ広範な海域の船団護衛に従事したが ガダルカナル争奪を巡る死闘に参加すべく 第22駆逐隊は第8艦隊に編入され 18年2月の3次に及ぶ「ガ」島撤収作戦に参加 1万数千名に及ぶ将兵を救出した
その後各艦ソロモン海域を中心にニューギニア方面など広大な海域の護衛 並に 補給作戦に東奔西走して席暖まる暇なく 敵の優勢な航空兵力や電波兵器に多大の苦労と危険を強いられるにいたった
「長月」は18年7月6日コロンバンガラ島へ兵力強行輸送の途次 クラ湾夜戦で座礁 翌朝敵機の爆撃で破砕された
「文月」はラバウルで敵機と交戦損傷してトラックに回航修理中 19年2月17日の大空襲で直撃弾至近弾を受け浸水翌18日沈没
「水無月」は19年6月「あ」号作戦時 中部太平洋艦隊の第30駆逐隊に編入され 西南太平洋方面で護衛作戦中 19年6月6日セレベス海に於いて敵潜水艦の攻撃を受け沈没全員戦死
「皐月」は19年1月カビエン輸送作戦時 敵機と交戦損傷の為内地に回航修理後 連合艦隊直属となり 南西太平洋海域の船団護衛に従事中 19年9月21日マニラ湾に於いて敵機動部隊の空襲を受け沈没
かくて第22駆逐隊はここにすべてその勇姿を南海に没した
この間 飯野忠男皐月艦長 磯部慶二水無月艦長以下3百有余の戦友が護国の鬼と化した
この碑は青春を国に捧げ若くして戦いに殉じたこれ等勇敢なる戦友の御霊を慰めんがため遺族並びに生き残りの戦友相はかり併せて我が国永遠の平和を祈願して奉納したものである
 昭和63年10月
 元長月艦長 二ノ方 兼文
 第22駆逐隊遺族生存者一同

第二十四駆逐隊慰霊碑
 江風・海風・山風・涼風

平成元年建立
江風・海風・山風・涼風 四艦長以下800有余柱の英霊を祀る。 第二十四駆逐隊は大東亜戦争初戦においては、フィリピン攻略・蘭印作戦、ミッドウェー海戦などに参加。

「山風」白露型駆逐艦8番艦(海風型駆逐艦/改白露型2番艦)
ミッドウェー作戦では主力部隊随伴タンカーを護衛。
昭和17年6月23日、タンカー護衛の為に分離行中に房総半島沖で敵潜の雷撃により沈没。白露型最初の喪失艦。 浜中脩一艦長以下280余名が戦死。

「江風」白露型駆逐艦9番艦。海風型駆逐艦/改白露型3番艦)
昭和18年8月6日、第三水雷戦隊旗艦川内以下駆逐艦4隻(萩風・嵐・江風・時雨)がラバウル出撃。コロンバンガラ島強行輸送中にベラ湾において敵艦隊と交戦し江風は轟沈。柳瀬善雄艦長以下169名戦死。

「涼風」白露型駆逐艦10番艦(海風型4番艦)
トラックを最前線としていた24駆の涼風はブラウン諸島に向かう輸送船護衛の為に出撃。
昭和19年1月25日にポナペ島北東で米潜水艦の雷撃を受け沈没。山下正男艦長以下231名が戦死。

「海風」白露型7番艦(海風型/改白露型1番艦)
昭和19年1月、涼風とともにトラックを拠点として活動。米潜水艦に襲撃された伊良湖救難を涼風とともに行う。その数日後に涼風沈没。
海風は昭和19年2月1日にトラック泊地南水道で米潜の襲撃を受け沈没。

第24駆逐隊戦没者慰霊顕彰碑文
第24駆逐隊(江風 海風 山風 涼風)は白露型駆逐艦として昭和12年建造され 水雷戦隊の新鋭駆逐隊として支那事変に活躍
大東亜戦争においては当初比島部隊の一隊として レガスピー タラカン バリックパパン ジャワ島攻略作戦に従事
赫々たる戦果をあげ 昭和17年6月に行われたミッドウェイ作戦には主力部隊として参加した
同年6月23日山風が輸送船団護衛の為分離行動中 房総半島沖において敵潜水艦と交戦中その雷撃により沈没
当隊にとって最初の犠牲となった
同年8月ガダルカナル島に敵来襲するや 南東方面部隊の増援部隊としてガダルカナル島争奪をめぐる死闘に従事
各艦20回におよぶ強行輸送 第二次 第三次ソロモン海戦 南太平洋海戦 ルンガ沖夜戦に活躍したが 優勢な敵兵力とレーダーを始めとする電波兵器には抗し難く我が軍はガダルカナル撤収の止むなきに至り 昭和18年2月他の駆逐艦20隻とともに3回に及ぶ撤収輸送により 1万数千人の将兵を救出した
続いて同年8月コロンバンガラ島増強輸送作戦中 クラ湾において敵艦隊と遭遇
雷撃により敵巡洋艦を撃沈したが 江風は同月6日敵艦隊と交戦中 ベララベラ島沖において沈没した
物量を誇る敵の攻勢が益々増強された19年 涼風は1月25日輸送船護衛中 ポナペ島沖において 海風はトラック島南方海面での作戦行動中の2月1日 いずれも敵潜水艦の雷撃により沈没
就役以来常に第一線において勇戦奮闘した第24駆逐隊はその一生を閉じたのである
この間浜中脩一山風艦長 柳瀬善雄江風艦長 山下正男涼風艦長外8百有余名の戦友が護国の鬼と化した
この碑は青春を国に捧げ 若くして戦いに殉じた勇敢な戦友の御霊を慰め併せて我が国の永遠の平和を祈願するため遺族並びに生き残りの戦友相い計り建立したものである
 平成元年 秋
  建立発起人代表 伊藤治義
  第24駆逐隊 遺族生存者一同

第二十七駆逐隊慰霊碑
 有明・夕暮・白露・時雨

平成4年9月27日建立
加茂喜代之夕暮艦長、川橋秋史有明艦長、松田九郎白露艦長を始め 400数余柱の英霊を祀る。

「有明」初春型駆逐艦5番艦
昭和18年7月27日、有明と三日月でラバウルからニューブリテン島ツルブへの輸送作戦中にB-25爆撃機の爆撃により「有明」は沈没、「三日月」は座礁放棄。

「夕暮」初春型駆逐艦6番艦
昭和18年7月20日、コロンバンガラ島近海において夜間空襲(ニュージョージア島の戦い)によって、「夕暮」と「清波」が撃沈。

「白露」白露型駆逐艦1番艦
昭和19年6月15日、ダバオを出港した輸送船団(タンカー3隻)を第27駆(白露・時雨)および浜風・響・秋霜で護衛し小澤機動部隊本体と合流する途中で、米潜水艦雷撃回避中に白露はタンカー「清洋丸」と衝突。白露は爆雷誘爆により沈没。

「時雨」白露型駆逐艦2番艦
「呉の雪風、佐世保の時雨」と称された歴戦の幸運艦。
昭和20年1月24日、輸送船団(ヒ87船団)護衛中にマレー半島コタバル近海で米潜水艦の雷撃によって沈没。

慰霊之詞
我が有明 夕暮 白露 時雨の4艦は昭和10年より翌年にかけ竣工
第9駆逐隊を編成したが同13年の改編以後第27駆逐隊となった。
支那事変に続き大東亜戦争に従事
開戦初頭は艦艇及び船団の護衛並に対潜哨戒の任に就いたが 有明 夕暮は一時期別行動してインド洋方面作戦に参加した
戦域の拡大に伴い南太平洋海域へ進撃し昭和17年5月珊瑚海々海戦 同年6月ミッドウェー海戦に従事
同年8月ガダルカナル島攻防戦開始されるや「ガ」島への緊急増援の為にラバウル ショートランド基地より敵の攻撃反撃しつつ各艦十数回の緊急輸送を行い 第3次ソロモン海戦その他の海戦にて敢闘した
「ガ」島攻防戦後もソロモン海域及び東部ニューギニア方面への緊急輸送や内地とカロリン諸島並に比島方面等への艦艇船団の護衛にと 時には敵の攻撃により被害をだしながらも果敢なる行動で任務を遂行したが夕暮は同18年7月20日コロンバンガラ輸送作戦中チョイセル島沖に於て有明も同月27日ツルブ輸送作戦中いづれも敵機群と交戦被爆沈没した
白露と時雨はブーゲンビル島沖海戦同19年に入ってビアク島増援作戦に参加敢闘した
同年6月マリアナ諸島周辺への敵進攻の兆に迎撃作戦行動中の白露は同月15日夜敵潜水艦の雷跡回避時護衛中のタンカーと触衝沈没した
時雨はマリアナ沖海戦 比島沖海戦及び輸送作戦にと最後まで勇戦敢闘したが 同20年1月24日マレー半島東岸沖でタンカー護衛中敵潜水艦と交戦雷撃を受け沈没した
斯して就役以来水雷戦隊の精鋭として活躍した我が第27駆逐隊は戦争の終結を待たず 戦火の裡で全艦滅失し此の間 加茂喜代之夕暮 川橋秋史有明 松田九郎白露の各艦長を始め4百数十余名の尊い殉難者を出したのである
大東亜共栄圏樹立の国是を信じ愛国の至情に燃えつつ散華された多くの戦士の鎮魂と勲を後世に伝えるべくこの碑を建立する

英霊よ 安らかに

 平成4年9月27日
  第27駆逐隊乗員遺族並に戦友有志一同

佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑

昭和60年10月20日建立
内閣総理大臣 中曽根康弘 謹書

大東亜戦争期間中、佐世保を本籍とした潜水艦は52隻。そのうち32隻を喪失し、戦公死した乗組員は総計で2591名。

佐鎮潜水艦勇士に捧ぐ
さきの大東亜戦争、昭和16年12月8日開戦より、20年8月15日終戦まで、3年8ヶ月の間大命一下、帝国海軍は、広大な諸海域において、寧日なく激烈な戦斗行動に従事した
戦前、戦中を通じ、佐世保鎮守府潜水艦は、見敵必勝の旨を体して勇戦奮斗したが、沈没したもの32隻、戦公死者2591名の多きに達した、痛惜の極みである今、終戦40周年の好機に際会し佐世保潜水艦乗員の残存者有志一同相図り、関係遺族及び他の多数有志者の協賛を賜わり、旧海軍墓地聖域に合同慰霊碑を建立することを得た
茲に、謹しんで、英霊を慰め、旧帝国海軍潜水艦の栄光を讃えて、無限の哀悼の微衷を捧げ、併せて日本国将来の安泰と繁栄を祈念する
 昭和60年10月20日
 佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑
 建立委員会会長 高津信彦

喪失潜水艦名
伊10潜 伊13潜 伊60潜 伊61潜 伊63潜 伊67潜 伊164潜 伊165潜 伊166潜 伊177潜 伊178潜 伊179潜 伊180潜 伊181潜 伊182潜 伊183潜 伊184潜 伊185潜 伊368潜 伊370潜 伊371潜 呂33潜 呂34潜 呂61潜 呂65潜 呂66潜 呂106潜 呂107潜 呂108潜 呂109潜 呂110潜 呂111潜 伊372潜

潜望鏡

嗚呼 伊號第十潜水艦

昭和57年4月18日建立
中島清次艦長以下113名の霊を祀る

伊9型潜水艦・巡潜甲型の2番艦
昭和16年10月31日竣工(川重神戸)
昭和19年7月4日、サイパン島附近で撃沈される。伊10号潜水艦の撃沈隻数(14隻)、トン数(81,553トン)ともに第一位の戦果を誇る。

碑文
南十字星輝く南海に青春をかけて祖国のため戦い散華した伊号第十潜水艦将兵のみ霊にこの慰霊碑を捧げその勲を永久に讃える
 昭和57年4月18日 建之

伊号第10潜水艦戦歴
昭和16年神戸川崎重工において竣工
同年11月横須賀出撃以来南太平洋・東太平洋・印度洋・中部太平洋等各海域に転戦
9回の作戦行動に従事し20万海里余を走破、抜群の戦果をおさめたが昭和19年7月サイパン島東方において壮烈な最後を遂げた。

主要戦果
敵船撃沈破17隻余 敵要地飛行偵察及び潜航偵察十余回 訪独潜水艦伊号第8潜水艦に対する支援補給 印度洋作戦において映画「轟沈」の主役艦として活躍
 昭和62年9月21日

伊号第百八十五潜水艦之碑

昭和57年4月18日建立
栢原司令、荒井艦長以下95名の霊を祀る

伊百七十六型潜水艦・海大七型10番艦
昭和18年5月23日横須賀工廠で竣工
昭和19年6月22日、あ号作戦に連動する散開線展開中に、米駆逐艦の攻撃を受け沈没。
第二二潜水隊司令 栢原 保親 少将 、艦長 荒井淳大尉 以下95名戦死。 栢原保親 少将は伊10潜水艦艦長時代に商船9隻 撃沈する戦果を揚げていた。

特務艦 佐多 戦没者慰霊碑

昭和63年3月31日建立

大正10年2月竣工の給油艦。竣工から昭和12年まで海外重油輸送に従事。昭和13年より潜水艦救難艦として活躍。「伊63」「伊61」の引き揚げに従事。
大東亜戦争時は輸送任務に従事。
昭和19年3月31日、パラオ大空襲により沈没。

軍艦 若鷹 戦没者慰霊碑

平成2年5月1日建立
戦死者17名を祀る

急設防潜網敷設艦「若鷹」は昭和16年1月30日竣工。
初鷹型敷設艦3番艦。

大戦中は輸送船団の護衛に従事。西部ニューギニアを防衛。スラバヤにて終戦。引き揚げ輸送艦となり、昭和21年7月に英国に賠償艦として引き渡された。

第百三十一号輸送艦
第一黒潮 戦没者慰霊碑

昭和59年7月建立
戦没者30名の霊を祀る

二等輸送船(SB艇)は69隻が建造された。そのうち20隻が佐世保を本籍とした。そのうち16隻が戦没し、1隻が大破放棄された。
第131号輸送艦は昭和19年10月末よりオルモック輸送作戦(多号作戦)に従事。マニラに向けて帰港中にB-24爆撃機の爆撃を受け航行不能となり曳航され帰港。修理のうえ昭和20年2月10日をもって「第一黒潮」と改名して交通船に区分。
昭和20年7月27日、マラッカ海峡において米潜水艦の雷撃を受け沈没。


<戦前>

軍艦 松島 殉難者之碑

松島は日清戦争時の連合艦隊旗艦であった。
日清戦争後に橋立・厳島・松島の三景艦揃って遠洋練習航海に参加。
明治41年4月30日、台湾馬公要港停泊中に火薬庫が爆発し瞬時に沈没。殉難者は艦長・副長以下221名。少尉候補生は57名中33名が殉職。

軍艦 初瀬 戦死下士卒之碑

明治37年5月15日、日露戦争において旅順口封鎖作戦行動中、戦艦八島とともに老鉄山付近海面で機雷に触れて爆沈。
戦死下士官兵458名を祀る。

第二特務艦隊 戦没者之碑

第一次世界大戦において、日本海軍が地中海に派遣した艦隊の一つ。地中海で連合国軍とともに船団護衛作戦に従事した。
第二特務艦隊は巡洋艦「明石」を旗艦とし駆逐艦8隻で編成され大正6年4月から地中海に派遣。途中で旗艦は「出雲」にかわり、駆逐艦15隻まで増やされた。
第二特務艦隊が地中海で船団護衛をした回数は348回、護衛した艦船数は軍艦21隻、運送船767隻、護衛した連合国人員は75万人に達し、対潜戦闘回数は36回に及んだ。日本海軍において対潜戦闘はこの第二特務艦隊が初めての経験であり、尊い犠牲者も出た。
駆逐艦「榊」は大正6年6月11日の護衛作戦行動中、ドイツ潜水艦の攻撃を受け、沈没は免がれたものの大破し艦長上原中佐以下59名が戦死。
碑は戦死者(病死者も含む)73名を祀る。
なお、同艦隊の慰霊碑はマルタ島にも建立されている。

特務艦 志自岐 殉難者碑

わが国最初の重油輸送艦(給油艦)
大正8年(1919)8月15日、ボルネオ島からの帰途台風に遭い、種子島南方・源三郎礁付近で座礁沈没した。遭難者111名を祀る。

伊號第六十三潜水艦殉難者之碑

伊63潜水艦は昭和3年12月竣工。
昭和14年2月2日未明に豊後水道で浮上漂泊中に僚艦伊60と衝突し沈没。殉職者は先任将校中島大尉以下81名。

第七十号潜水艦殉難海軍々人碑

海軍殉職者43名を祀る。

第七十号潜水艦
大正十二年八月二十一日、竣工引き渡し直前の公試運転の際に淡路島鍛屋沖で事故沈没。軍人四十三名、海軍職工3名、川崎造船所職員42名の計88名が艦と運命をともにしている。


護衛艦せんだい転籍記念植樹

第二十九駆逐隊
駆逐艦夕凪会植樹

長崎県出身
海軍甲種飛行予科練習生戦没者
鎮魂の櫻

平成17年12月8日
長崎縣甲飛會

父子桜

九州甲飛16期 長崎大会記念

昭和55年3月植樹


感謝と哀悼を・・・

この記事では、全ては網羅できておりませんが、その雰囲気と往時のよすがだけでも感じていただければ幸いです。

そのほかは公式サイトをご参照でお願い致します。「慰霊碑リスト」に詳しく掲載されております。
「一般社団法人佐世保海軍墓地保存会」様

終戦以来、聖地の荒廃が著しく「海友会」が主体となってボランテア作業で環境整備等が維持されていました。昭和60年4月6日 旧海軍等七団体(海友会、水交会、海交会、主計会、ガンルーム会、甲飛会、海上自衛隊佐世保OB会)で「佐世保東山海軍墓地保存協力会」が結成され、墓碑や慰霊碑を恒久的に護持し、国家に殉じた英霊の顕彰並びに海...

また本記事は
「社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会」様が作成した
「佐世保東山海軍墓地 墓碑誌」を参照に作成させていただきました。


平成29年3月 広島県呉市。長迫公園の呉海軍墓地。 護国の為に戦いし艦と人に。 感謝と哀悼を。 明治23年...
令和元年(2019)5月11日 第64回馬門山横須賀海軍墓地墓前祭が、令和元年5月11日、午前9時30分から約1時間にわたり、まるで...