サイトアイコン 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝

油壺周辺の戦跡散策・その1

令和元年8月31日~9月1日

油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。

今回は以下の3部構成。

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東京大学三崎臨海実験所
旧本館
旧水族・標本館 

2019年度に取り壊されることが決定

旧本館(日本海洋生物百周年記念館)は昭和11年(1936年)
旧水族・標本館は昭和7年(1932)

設計は2つの建物ともに内田祥三。
「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く設計。代表作は東京大学大講堂(安田講堂)をはじめとし東大構内に多数が残されている。

昭和20年2月、大日本帝国海軍が本実験所を接収。
特殊潜航艇基地の本部として活用された。

横須賀鎮守府所属
第一特攻戦隊第十一突撃隊
  特殊潜航艇「海龍」
   第1海龍隊・第2海龍隊・第3海龍隊(36隻)
  水上特攻艇「震洋」
   第27震洋隊・第51震洋隊・第56震洋隊(100隻)
  特殊潜航艇「回天」
   第14回天隊(6隻) ただし未展開


関連記事

東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所
= 日本海洋生物学百周年記念館 棟下式 =
 海洋生物学に大きく貢献してきた日本海洋生物学百周年記念館(通称:記念館)が2019年度に取り壊されることが決定しました。3月30日(土)には、記念館に馴染みの深い100名近くの方が参列し棟下式が開催されました。

http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/20190330muneoroshiki.html

東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所
= 記念館の利用中止について =
 当実験所の日本海洋生物学百周年記念館(以下、記念館)は、東京大学施設部の調査により、耐震性に問題がある危険建物と判定されました。これに伴い、記念館の外来利用を全面的に中止いたします。

http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/jp/news/160629-1.html

東大三崎臨海実験所
安全優先で解体決定
安全確保や構造上補修が困難であることなどから、大学は解体の方針を固め、新築する総合研究棟へ機能移転するとした。
旧水族・標本棟(425平方メートル)は1932年、旧本館(1021平方メートル)は1936年に建設され、いずれも築80年超。同大施設企画課によると、海に隣接する2棟は、塩害と経年劣化により柱や梁、壁面などに亀裂が入り、随所でコンクリートが爆裂。自重や地震の揺れに耐えられないほど構造躯体が劣化しているという。また、建物内部の鉄骨も腐食が進行。やせ細っているものや端部が欠損している箇所も多く確認され、「鉄筋コンクリート造の構造上、新材に交換ができず補修が困難」と施設写真を交えて説明。「本来の使用目的を維持させた状態で構造の安全性・耐久性の確保が難しいため、取り壊しを決定した」と述べた。

https://www.townnews.co.jp/0502/2018/08/03/443367.html

場所

Google マップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。
昭和21年(1946)02月15日-米軍撮影写真を一部加工
USA-M46-A-7-2-235
Google航空写真
三崎臨海実験所 周辺

東京大学三崎臨海実験所
旧本館(海側より)

昭和11年(1936年)

最大干潮時に海岸側よりアクセスしております。満潮時は海岸からのアクセスは困難を極めます。
潮の満ち引きによっては、危険な状態になりますので自己責任でお願い致します。

曲線美あふれる海側の建物

東大が使用している桟橋は、当時の航空写真のころから位置関係が変わっていない。周辺に残る地下壕も再利用。

旧本館手前の海岸には煉瓦片が散乱していた。

謎の人工物

東京大学三崎臨海実験所
旧本館(陸側より)

昭和11年(1936年)

東京大学三崎臨海実験所
旧水族・標本館

昭和7年(1932)

砂浜側から

ガラス模様もオシャレ

衛兵の詰所?

門柱

年代は不詳


新井城址

東京大学三崎臨海実験所の地は、相模三浦一族の最後の地でもあった。
北条早雲最大のライバルであった三浦道寸。

以下は土地の歴史として付記。

新井城址
 三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
 相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれて、三方が海に面した断崖であり、陸地は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。
 引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
 現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
 室町期の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことができます。
 三浦市

油壺湾
 油壺の名のいわれは、永正十三年(1516年)、新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが、空しくついに全滅し、一族の将・三浦道寸義同(どうすん・よしあつ)をはじめその子・荒次郎義意(よしおき)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので、後世「油壺」といわれるようになりました。
 北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光も定かならず。丑寅の方と未申の方より雷(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ、風猛火を吹き上げ、光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ、天地をひびかし戦う有様、おそろしきと言うばかりなり云々」
 三浦市

油壺マリンパークの北側に、新井城碑がある。

新井城碑

三浦義意の墓

三浦道寸の子

その先には三浦一族最期の当主、三浦道寸の墓

三浦道寸の墓

引橋

油壺は他にも見どころがありますが、続きは「その2」で。

本編はいったん〆

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