令和元年8月31日~9月1日
油壺に泊まる機会がありましたので、チャンスとばかりに周辺を散策。
「その1」では、海軍が本部として接収した東大実験所を掲載しました。それ以外にも海軍にまつわる戦跡が点在しておりますので、ちょっとみていきましょう。

場所

USA-M46-A-7-2-235

油壷バス停から東に赴いたところに「油壷験潮場入口」(国土交通省国土地理院)がありますので、ここから海面に降りていきます。

途中、基準水準点があります。
油壺の基準水準点は昭和5年(1930)設置。
標高は16.6905m


エメラルドグリーンな海面が見えてきました。

油壷験潮場
明治27年(1894)竣工


油壷験潮場
この建物の中には、海面の上がり下がりを自動的に精密に記録する験潮儀が設置されています。この記録は高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。 国土地理院

油壷験潮場(旧建屋) 明治27年(1894)竣工
(公社)土木学会において、「我が国の初期の測量技術を今に伝え、日本の標高の基準である「日本水準原点」の管理に重要な役割を果たしてきた貴重な施設」との評価を受け、平成30年度の土木学会推奨土木遺産に認定されました。
平成30年11月 国土地理院





「日本水準原点」はこちら
油壷験潮場の左側に、桟橋が残っています。
震洋桟橋
水上特攻艇「震洋」の接岸用の桟橋跡。係留用の杭(ボラード)も残っている。





満潮時に撮影(令和元年8月31日)



水位は刻々と変わります。海側を巡る際は潮の満ち引きにご注意を。
こちらは干潮時に撮影(令和元年9月1日)
水位がだいぶ違います。




水上特攻艇「震洋」
※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。
震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という。


震洋桟橋から東に歩みをすすめる。
人工物が残る。


近づいてみる。










干潮時もしくは冬季であれば緑も少なく、もう少し先すすめるようだけど。今回は東側はここまで。このさきにはもう一つの震洋桟橋もある。
また今度の干潮のときにでも訪れましょう。(このときの干潮時は東大実験所の方をメインとしましたので)

験潮場から西に。看板のすぐ後ろに洞穴がありました。
奥行きはさほどには深くなく中はY字に分岐。


海岸に沿って歩いてみましょう。
係留用の杭が大量に残る。


震洋格納庫(格納壕)
震洋の格納庫といわれている洞穴。奥が一段高くなっていた。



さらに東に歩みをすすめる。

験潮場で位置関係を把握。







最大干潮を狙ってきたので、容易に歩けます。
潮が満ちていたら、無理ですね。

謎の人工物。


神奈川県のマーク


海龍格納壕 ?



謎の人工物


さらに東に脚をすすめる。
今回は海岸線沿いをあるく。内陸に進めば別の壕があるというが、夏場は草木の繁りが邪魔をする。




神奈川県のマーク多い

東大の実験所が見えてきました。

東大の実験所に関しては「その1」で。
ウニ

荒井浜海岸






このまま歩みをすすめていけば、「荒井浜海水浴場」に到着。人の賑わいが安心感。途中で潮が上がったら、逃げ場がなくなるので、時間を気にしながら歩きました。
この日は、午前10時に験潮場をスタートして最大干潮の11時に東大実験所周辺に到着。 荒井浜海水浴場 に到着したのは11時45分。
火照った体をかき氷で冷やす。

胴網海岸
油壺の北側にある胴網海岸、小網代湾。こちらにも戦跡があるので脚を運んでみた。
「その1」でも触れた三浦道寸の墓から下った先に広がる海岸。右手に洞穴がみえる。近づいてみよう。
胴網海岸の地下壕
二つの入口がある。地下壕を前提とした格好ではなかったので、入り口のみを観察。次回訪れるときは足元をきっちりした靴で来よう・・・
詳細不明。







狙撃用洞窟陣地
遊歩道の脇に開口。
油壺マリンパークの資材置き場と可していた。



胴網海岸には油壺マリンパークの海水ポンプなどが設置。


こちらも穴。

戦跡を観ながら海と花を愛でる。



「諸磯湾」そのほかは「その3」で
いったん〆