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「インド独立運動の英雄」チャンドラ・ボース胸像(杉並区)

平成30年1月撮影


インド独立運動の英雄
チャンドラ・ボース

ボース事故死より30年後の昭和50年8月18日に遺骨を預かる頂光山蓮光寺(杉並区)境内に建立。
先日、友人よりチャンドラ・ボース像の話を聞きまして脚を運んでみました。

杉並区・蓮光寺
地図→ https://goo.gl/maps/Bh2e4LYonzm …


 昭和20年9月18日、蓮光寺第29世住職望月教栄師の仏教者としての英断により印度独立の英雄スバス・チャンドラ・ボース氏の御遺骨をこのお寺に安置し供養を続けて以来45年、我々スバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは現住職望月康史氏の御厚意により茲に胸像を建て之を後世に伝えるものである
平成2年8月18日

チャンドラ・ボース胸像

昭和50年8月18日
頂光山蓮光寺
第29世 日輝
第30世 日史
建立

歴史を感じる…

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー

ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将
第十五軍司令官・牟田口廉也中将
ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷少将
印度独立協力機関長・岩畔豪雄少将
特務機関光機関長・磯田三郎中将
参謀本部第二部長・有末精三中将
駐ドイツ特命全権大使・大島浩中将

・・・

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
そこに連なる名前はチャンドラ・ボース氏とともに、日本とインドが歩んだ歴史。
そしてインパールへと連なる歴史。

_φ(・_・.
初代会長には渋沢敬三元蔵相
初代副会長には岩畔元少将
最高顧問には河辺元司令官


ネタジ・スバス・チャンドラボースの碑

當寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸運とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ・プラサット大統領

佛陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります
1957年10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相

御仏の光が真心と平和に向かって人々のために永久に私達を導かれんことを
1969年6月26日 インディラ・ガンジー首相

インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュチャンドラボーズの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います
2001年12月9日 パジパイ首相


インド独立運動の英雄
スバス・チャンドラ・ボース

インド独立運動の非暴力主義のマハトマ・ガンディーに対し急進派として活躍。英独間で戦争が始まるとイギリスと敵対するドイツに亡命。

昭和16年12月
大東亜戦争初戦でのマレー作戦での日本勝利と英大敗は、ボースを奮い立たせ日本行きを熱望する。

昭和17年6月
シンガポールにて日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボース(通称・中村屋のボーズ・新宿中村屋の相馬家の婿でもあった)を指導者とするインド独立連盟が設立。
しかしビハーリー・ボースの体調が芳しくない事から後継者として独立運動家として著名なチャンドラ・ボースの招聘が決定。

昭和18年2月8日
チャンドラ・ボースがドイツから日本に移動する手段として、既に陸路も空路も危険が伴うために日独の潜水艦がインド洋で合流するという海路での移動が選ばれる。
そうして、チャンドラ・ボースが乗り込んだドイツ海軍のUボートU180がフランス大西洋岸のブレストを出航。

昭和18年4月26日
インド洋マダガスカル島東南沖でUボートと日本海軍巡潜乙型伊号第二九潜水艦(伊29)が海面で合流。翌日にチャンドラ・ボースは日本潜水艦伊29に移乗。

画像はWikipediaより
伊29艦長・伊豆寿一中佐と乗組員、チャンドラ・ボース氏と秘書ハッサン氏
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:19430428_japanese_submarine_crew_i-29.png#mw-jump-to-license …

昭和18年5月6日
伊29は海軍特別根拠地隊指揮下サバン島サバン港入港。ボースは同地で日本行きの飛行機便を待ち5月16日に東京到着。
東京に到着後、ビハーリー・ボース後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任。のち10月21日にシンガポールで自由インド仮政府首班に就任。

余談
伊29初代艦長は前述の伊豆寿一中佐
そして2代目艦長が有名な木梨鷹一中佐

伊29は木梨艦長の下で日独往復成功寸前まで行った潜水艦。昭和18年11月に呉出航し翌3月に独領仏ロリアン港入港。4月に帰路につきシンガポール7月入港。
呉に向かう途中に米潜水艦により轟沈。艦長以下百余名戦死…

昭和18年11月
大東亜会議開催
左から
ビルマ国 バー・モウ
満州国 張景恵
中華民国(南京)国民政府 汪兆銘
日本国 東條英機
タイ王国 ワンワイタヤーコーン親王
フィリピン共和国 ホセ・ラウレル
自由インド仮政府 チャンドラ・ボース
 ※なお、インドはオブザーバー枠

https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Greater_East_Asia_Conference.JPG#mw-jump-to-license …

昭和19年
ボースが指揮するインド国民軍はビルマ・ラングーンに拠点を置き、同地にて河辺正三ビルマ方面軍司令官と面談。
のちに、河辺司令官及び牟田口廉也第十五軍司令官は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦を決行することとなる。

一説にはボースのインド独立に賭ける意志に河辺司令官が惚れ込み、その壮図を見殺しに出来ないという情がインパール作戦の背景にあったともされている。
結果として、インド国民軍は日本軍と共同してインパール作戦及びビルマ戦線に参加するも日本軍ともどもに大損害を受ける。

昭和20年8月15日
日本の敗戦によりインド国民軍は連合国(イギリス)に降伏。
ボースの悲願であった日本と協力して英国からインド独立を勝ち取るという夢は破れ、チャンドラボースは新たなインド独立運動の協力先として(一説には)ソ連に亡命し交渉を行うつもりであったともされている。

昭和20年8月18日午後
台湾にいたチャンドラ・ボースは台湾松山飛行場から中国大連へ向かう予定であった陸軍九七式重爆撃機に便乗する。
しかし同機は台湾松山飛行場からの離陸に失敗し墜落。搭乗していたボースは重傷を負い台湾陸軍病院に搬送されるも癒えること無く永眠。

最後に立ち会ったハブビル・ラーマン大佐に残したチャンドラ・ボースの言葉

「私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」

昭和20年8月20日
台北市営火葬場でボースの遺体は荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が行われた。
そうして9月5日にボースの遺骨が日本に移送される。

ボースの遺骨は陸軍からインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに引き渡される。目立たぬように表向きは同じくインド独立に尽力していたビハーリー・ボース(中村屋のボース)の葬儀ということにしてビハーリー・ボース側近サハイ夫人宅がある荻窪周辺でチャンドラ・ボースの葬儀を行える寺院寺を探すが…

だが、敗戦直後の政情不安定のさなかでなおかつ米英を始めとするGHQの監視下で、各寺院は確実にイギリスにマークされるであろうチャンドラ・ボースの葬儀を行うことを拒絶。
そんななかで頂光山蓮光寺住職がボースの葬儀を行なうことを快諾する。

チャンドラ・ボースの葬儀を執り行った蓮光寺住職望月教栄氏は、
「霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。」
vとのちに回想している。

ボースの葬儀以後、蓮光寺によって遺骨は引き続き保存。
ボースとともにあったインド独立運動家の関係者は次々と「国家反逆罪」容疑でインド本国に送還されイギリスの裁判にかけられる(この裁判などからインド国民の英国反発と暴動がはじまり独立へと連なる)も、ボースの遺骨は日本に取り残され何度かインドへの遺骨返還運動が起きるも関係者にボースの死を信じたくない人々などもおり返還は難航。インド国内では度々ボース事故死の調査委員会などがひらかれていた。
ようやく2017年にインド政府はボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と正式回答に至り、このあたりは日本とインドでの遺骨の取り扱いや考えの違い、インド人の物事に取りかかる時間軸の考え方など、意識のすれ違いなどもあったのかもしれず。 2004年には顕彰と遺骨返還運動などをしていた関係者高齢化のため「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が解散

独立の英雄チャンドラボースの名はインドにおいても讃えられ、カルカッタ(コルカタ)国際空港は「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース空港」と呼称。 インド国会議事堂ではガンディー(非暴力独立運動)、ジャワハルラール・ネルー(インド初代大統領)らの肖像画に並んでボースの肖像も掲げられている。

遺骨返還運動に関しては紆余曲折のさなかにあるようではあるが…

蓮光寺本堂ではネタジ(指導者)として愛された「スバス・チャンドラ・ボース」の遺骨が安置されており、
毎年の命日8月18日には、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの法要が蓮光寺にて引き続きとり行われている。


余談

もう一人のボース
ラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボーズ)

ビハーリー・ボースは自由インド仮政府の指導者の一人。
日本のインドカレーの父とも。インド独立連盟名誉総裁。晩年は体調を崩し、チャンドラ・ボースを後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍指揮権を移譲。ビハーリー・ボースは昭和20年1月21日に日本で病死している。

インドカレー
日本に伝わっていたカレーは英国式(軍隊式=いわゆる海軍カレー)のものでインドカレーとは全く別物であった。 「日本のインドカレーの父」とも称されるビハーリー・ボースは新宿中村屋の相馬家の婿となり昭和2年(1927)に新宿中村屋「純印度式カリー」を開発。

https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html

昭和2年(1927) 新宿中村屋「純印度式カリー」


ラース・ビハーリー・ボース墓

中村屋(相馬家)のボースの墓。
(1区1種6側12番)

ボースは1923(大正12)年に日本に帰化し「防須」となるが、その名付け親は後に第29代総理大臣を務める犬養毅であった。

ビハーリーボーズ(防須家)と、長男の防須正秀、長女(防須(相馬)俊子とラス・ビハリ・ボースの子)の樋口家(防須哲/防須哲子・樋口哲/樋口哲子)の墓。

昭和20年1月21日死去
 顕國院殿俊誉高峰防須大居士(ビハーリー・ボーズ)
昭和20年6月17日に沖縄で戦死
 陸軍中尉・防須正秀(長男) 

※墓所写真は2025年9月撮影


新宿中村屋

日本初
純印度式カリー
発祥の地
since1927

ビハーリーボーズが伝えた純インドカレー


A.M.ナイル

更にビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後はパール判事の通訳なども務め、そして1949年に東京都中央区銀座に「日本初のインド料理専門店」として「ナイルレストラン」を開業。現在は二代目三代目が営業を続けている。

http://www.ginza-nair.co.jp/history.html 


東銀座
印度料理専門店 ナイルレストラン

たまたま、前を通りかかったことがありました。
時間がある時にカレーを食べに来たいものです…

ビハーリー・ボースの腹心として日本でインド独立運動を展開していたA.M.ナイルが戦後に「日本初のインド料理専門店」として開業させたお店。


蓮光寺(れんこうじ)

東京都杉並区にある日蓮宗寺院。
山号は頂光山。
本尊は十界諸尊。
文禄3年(1594)両国矢の倉(現・中央区東日本橋)に開山。 正保元年(1644)浅草新寺町に移転。 大正4年(1915)浅草の区画整理のため現在地に移転。


マハトマ・ガンジー

奇しくも同じ杉並区にインド独立運動のもうひとりの功労者ガンジーの像がある。
杉並区中央図書館の裏庭に。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

7つの大罪
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

杉並区中央図書館は改修工事中の為、このときは近くでの観覧はできず、でしたが。

再訪しました。


参考サイト

Netaji unfogettable Hero of India
http://www.yorozubp.com/netajiunfogettable_indian/ …
英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chandra_bose.html …
チーム・ネタジ
http://www.teamnetaji.org/index.html 
Wikipedia関連項目各種
ほか

「風船爆弾打ち上げの大津基地」と「震洋の平潟訓練基地」(北茨城)

平成29年8月撮影

茨城県北茨城市に点在する「震洋基地跡」と「風船爆弾放球台跡」。
あわせて平潟港と大津港の鎮守様も。

平成29年8月13日。
常磐線にて大津港駅へ。 茨城県最北端の地・北茨城市で、ちょっとした戦争関連の史跡とあわせて平潟港・大津港の鎮守神社2社を散策して参りました。

風船爆弾放球台

大津港

午前9時20分。大津港駅到着。1時間に1本クラスだと接続も悩ましいですね。 当地は観光地的には「岡倉天心」と「六角堂」などが有名。

大津港駅

大津港駅は平成25年リニューアルし「六角堂」を模すデザインに。(六角堂は東日本大震災の津波直撃で土台のみをのこして消失。その後平成24年に再建) 駅は平成27年3月ダイヤ改正で特急通過駅に。翌年には駅前にあった大津港駅前観光案内所(&レンタサイクル)も撤退。

つまりレンタサイクルはない。バスもない。

歩くしか無いわけです。
(財力があればタクシーという選択肢もありますが…)

駅前の観光案内図を見ればちゃんと「風船爆弾打上跡地」と記載ありますね。 目的地が記載してあって安心。

ざっくり30分くらい歩けばいいのかな。

大津港駅前

のっけから駅前にあるレンガ造り建物に吸い寄せられてしまい。
なんですか、この美しい造形は。
大正元年(1912)に造られた大津港駅で貨物業務を請け負っていた倉庫らしく。
※2016年に大津港駅前から撤退した観光案内所はここにありました。

平潟港へ歩いていると道標を見つけました。
「記念御成婚」とあります。
昭和天皇(大正当時は摂政)の御成婚ですね。
大正13年8月30日建立。 現在の陸前浜街道から関本駅(大津港駅)・平潟町・大津町への道しるべ。

ずいぶん遠くに来たような気がします。
「仙台」とか「いわき」とか書いてあります。
どうしてこんなところを歩いているんだろ、と我に返ってはダメです。
無心で歩いていたら平潟の集落を通り抜けてしまい。
よき港町だったのに写真に納めるのを忘れてしまいました。

平潟港

茨城観光百選「平潟港」 昭和60年に「つくば科学万博」関連事業で制定。 鮟鱇像(あんこう) 東北地方太平洋沖地震で被災した北茨城市。 このモニュメントは北茨城市の魚であるアンコウをシンボルとし被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め建立。

湾内を一望する。
むかって北西側に小高い丘、南東側にもちょこっと小高い丘。
南東の島のような丘が震洋基地跡という。(のちほど)
小さいけれども良い港。

北側の高台に穴が覗いていたり、神社が鎮座していたり。
やはり気になりますね。まずは神社に行ってみましょう。

|-`).。oO(真似する人がいるかどうか知りませんが参考情報。

ちなみに大津港駅から平潟港までは徒歩25分でした。
この日は港に着いたら雨が降ってきまして・・・

平潟八幡神社

平潟港を見下ろす平潟町の鎮守様
平潟港は仙台江戸間で唯一の自然港として仙台藩によって整備され河村瑞賢により築港(行政は棚倉藩)
八幡神社は寛和元年(985)に鎌倉より分霊し鎮座
現在地には延宝9年(1681)に遷座
嘉永6年(1853)棚倉藩により再建という

社頭の狛犬は昭和2年4月。ブロンズ製の狛犬。なかなか格好良い。

後述しますがこの平潟港には戦中に海軍特攻艇「震洋」訓練基地として平潟基地が展開されていた。
往時の震洋隊員たちも、きっと平潟港鎮守たる八幡様に武運長久を祈ってお参りし狛犬達が出迎えた事でしょう…

この神社、何やら凄い。
港から約50メートル高い台の崖の上に鎮座。
社殿後方の崖に幾つか穴が掘られており・・・

御社殿後方に「虎像」が奉納されておりました。
恵比寿様やら稲荷様なども鎮座しておりました。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
奥社のような佇まい 。

境内から更に一段と高い崖の上にお社が鎮座。
予備知識無しでの参拝でしたが、予想以上の空間に驚きました。
山道が更に奥に続いているようでしたので、その気になればもっと探索できそうでしたがこれ以上は自粛。

神社境内から平潟湾を見下ろす。

対岸の小島のようにポッコリとした丘が、海軍特殊攻撃艇「震洋」が秘匿された平潟基地跡という。
灰色の蓋はされているが、確かに幾つかの穴が遠望でも確認できる。

忠魂碑
元帥子爵川村景明書
大正10年10月建立

川村景明は元帥陸軍大将。日露戦争時は鴨緑江軍司令官として明治38年に奉天会戦に参戦。
平潟町の犠牲者を慰霊。
川村が帝国在郷軍人会会長在任中に書に応じたものと思われる。

ご神木スギ
推定樹齢約300年

このあたり平潟八幡神社の鎮座している丘の先は「鵜ノ子岬」と呼ばれているそうで。

この岬の北側は「福島県」。まさに関東と東北の境目。
穴が開いていました。(近寄れず)

平潟港はアンコウ鍋の発祥の地とされていて時間があればゆっくりしたかったのですが(ムリでした…

震洋・海軍平潟訓練基地跡

平潟港には海軍特殊攻撃艇「震洋」の訓練基地が展開されていた。
昭和20年6月25日に小名浜基地に編成された141震洋隊が翌月下旬頃に平潟訓練基地に移動。搭乗員50名を含む173名であったという。
当部隊は出撃はせずに終戦を迎え9月20日に解隊。

※靖國神社遊就館大ホールには復元された震洋が奉納されている。

震洋は船首内に250キロ炸薬を搭載し敵艦への体当たり攻撃を目的とした特攻艇 各型合せて6200隻が量産され4000隻が配備。震洋隊戦没者は2500余名という
原寸模型は震洋一型
1/10模型は震洋五型

幸いにして平潟港で訓練を重ねていた震洋隊は出撃せずに終戦を迎えた。

が、終戦の翌日に1隊員が猛スピードで震洋を乗り回し沈没したという逸話が残っている。(※「フィールドワーク茨城県の戦争遺跡」による)

静かに往時を偲びしとき…

東日本大震災記録碑

2011年3月11日14時46分
北茨城市でも震度6弱を記録し15時31分に到達した津波は最大6.7mを記録。 死者5名、行方不明1名の尊き命を奪い、全壊半壊家屋は2400戸を越したという。

この場所は幾多の歴史が重なりし場所であった…合掌


風船爆弾放球台跡( 北茨城大津)

平潟港から南に歩むこと25分ほど。五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇に不思議な空間(円形の何か)があるのが地図上でもわかります。
これが「いわゆる風船爆弾」を放球した台座の跡。

https://goo.gl/maps/66XpvazGJsmQ3qiR8

「風船爆弾放流大津基地」跡

夏場なので草が心配でしたが放球台座跡は整地されており見学は容易でした。 (助かりました)
直径約16m円形のコンクリート台座が残っておりました。

放球台座の円周縁に設けられている2箇所の四角い台座は気球を飛ばすための水素を充填する水素ボンベを設置した跡とされている。

「風船爆弾」は戦後の俗称。
往時は「気球爆弾」と呼称されており秘匿名称は「ふ号兵器」

第二次世界大戦で使用された兵器としての到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器でもある。

昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行うもので、茨城県大津(最大規模→18基の放球台があった)・千葉県一宮・福島県勿来の基地から19年11月から20年春までの間に約9300発が放球されたという。

9300発のうち米本土に到達したのは約300~1000程度(資料にブレあり)。 被害としては1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

風船爆弾を開発した登戸研究所

大津の北にある勿来の放球基地跡

一宮の放球基地跡


風船爆弾犠牲者鎮魂碑

「風船爆弾放球台」の向かい側にひっそりと鎮魂碑が建立されている。

昭和19年11月3日「明治節」に大津基地で最初の風船爆弾放球を行う際に誤爆事故が発生。3人が犠牲となり、のちに鎮魂碑が建立された。 この誤爆事故により放球は11月7日に延期。

風船爆弾放流地跡「わすれじ 平和の碑」

新しい誓い
海のかなた 大空のかなたへ 消えて行った 青い気球よ
あれは幻か 今はもう 呪いと殺意の 武器はいらない
青い気球よさようなら さようなら戦争
鈴木俊平作・書

場所→https://goo.gl/maps/KUdRHetRF1x …

風船爆弾放流地跡

この辺一帯は、昭和19年11月から昭和20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です。…大本営直属の部隊本部はこの地にあり、作戦の中心でした。…永遠の歴史の片隅で人目を忍び、いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です。昭和59年11月25日建之

五浦海岸ジオサイト
海を渡ってアメリカへ…戦争の記憶を将来へ伝える地

青い青い海を見ながら、
歴史の一幕に感じつつ、
往時を偲ぶ…

放球台跡から山道に入った所に「水素ガス製造の為にケイ素鉄を粉砕した工場跡」遺構があるというが
うん、夏場に探索はムリです…
一宮基地・勿来基地では水素供給工場が被災し途中で作戦遂行不可になる中で大津基地のみは工場は無事で最後まで作戦が遂行されたという

山道を踏破はしました、なんとか。

白丸が風船爆弾放球台跡。
赤丸が風船爆弾放流地跡石碑。
青丸が水素生成ケイ素鉄粉砕工場跡推定(夏はムリw

のどかでした。
水田の緑が眩しい。黄金色に輝くときが楽しみです。
今日の安寧に感謝する。

さて、ここで駅に向かうか寄り道をするかの二択を迷う。
散策を開始して約8キロ2時間半経過。
電車は1時間に1本。寄り道すれば次は13時18分。

うん、寄り道してみるか

ここからは寄り道。戦跡とは離れます。
大津港に鎮座している「佐波波地祇神社」を目指します。
常陸国延喜式内論社
この前述の場所からは歩いて30分位かかりそうです… https://goo.gl/maps/ZJeZJBz93h12 …

道途中に「おおっ??」と反応してしまいました。
「聖徳太子碑」 大津平潟桶師組合・大正4年建立
「即位紀念」とありますが、 どうして「聖徳太子」と刻んだのか。
それも「桶師組合」が。
謎です。
場所→https://goo.gl/maps/xezpWnmm2Bo …

佐波波地祇神社

大津港駅からは徒歩約40分の道のり。現実的に歩いて行く距離ではないのですが、戦跡巡りで歩き続けていた私には誤差になっていたようで。無駄にテンション上げて歩いておりました。
場所→https://goo.gl/maps/yoKw6u77aTP2 …

さすがにもう石段はつらいですね。
やっとの思いで登ると、海が見えました。

大津の港。
地図で見るとわかるとおり阿字ヶ浦から小名浜にかけての海岸線でちょこっと突き出た五浦の北の平潟港と南の大津港は良港であったことがわかる。 高台に鎮座した大津港の鎮守様。

延喜式内社の古社。常陸國二十八座多珂郡一座小「佐波波地祇社」
古くは佐波波神また六所明神と尊称。
元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して大宮大明神と尊称。
鎮座の丘は「唐帰山」(からかいさん)と称され航海の目標となっている。

御本殿は享保12年(1727)造営とされている。
海上守護の神として崇敬されており、御社殿の脇には「錨」が多く奉納されていることからも崇敬の篤さが伝わってくる。

航海故事としては東征時の日本武尊や水戸光圀公の逸話も残っている。

「唐帰山の御神水」
鎮座地の台地は宮平と呼称され唐帰山は海抜55m。
この井戸は享保年間以前に掘られており爾来300年以上に渡り地下30mの水脈より枯れることなく汲み上げている。
わざわざ歩いて登ってきただけある良き佇まいの古社でした。

帰路。
あとはもう駅への道を真っ直ぐに。
なにげない橋だけど「昭和9年2月竣工」
場所→https://goo.gl/maps/A5R6pyNK3tz …
歴史重ねし建造物が、今も何食わぬ顔してこうして縁の下を支えていると思うと感慨深いものがあります。

この日の行程。
午前9時20分に大津港駅に到着。
平潟港には午前9時50分着。
平潟港の散策を約1時間行ない10時45分に南下開始して風船爆弾放球台跡には11時10分到着。大津港を経由して駅に戻ってきたのは13時10分。
約13キロ約4時間所要の散策でした。