平成28年5月撮影
陸軍第一師団輜重兵第一大隊の境界石という。
大正9年に慶應病院に用地が売却され輜重兵営部隊は郊外に転地している。
「陸軍省所轄地」境界石、二行での記載は珍しい・・・かな。
平成28年5月撮影
陸軍第一師団輜重兵第一大隊の境界石という。
大正9年に慶應病院に用地が売却され輜重兵営部隊は郊外に転地している。
「陸軍省所轄地」境界石、二行での記載は珍しい・・・かな。
平成29年5月
代々木公園はかつての「帝国陸軍代々木練兵場」であった。
その練兵場の隣に鎮座しているのが「代々木八幡宮」
往時を物語るものが境内に残っているというので見聞に訪れてみました。
御祭神は応神天皇
創建は建暦2年(1212)と伝承。鶴岡八幡宮を勧請。旧社格は村社。
参道の両脇にある、この一対の石灯籠。
この石灯籠は「訣別の碑」(石灯籠の竿石部分)と呼称されている。
明治42年、陸軍練兵場(代々木公園)が設けられた際に移転を余儀なくされた住民が、この地との別れを惜しんで奉納したものという。
拝殿左側
「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」
拝殿右側
「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」
代々木八幡の丘と、代々木公園=代々木練兵場の丘。
八幡さんからすれば「あっちの丘の住民たち」が強制移住をさせられ、そうして地域鎮守の代々木八幡宮に先祖代々の土地との別れを記し奉納したという。
雨濡れる参道で、石灯籠から「庶民の戦前」を垣間見る。
明治34年建立。
なかなかコアな名前が列記されていました。
扁額 千家尊福(東京府知事・出雲大社宮司)
撰文 平田盛胤(神田明神祠官・平田篤胤の子である延胤の養子)
執筆 福羽美静(靖國信仰の元となった京都招魂社建立に関わる)
日露戦争当時、代々幡村と呼称されていた当地からの出征者及び戦死者の名を刻む石碑。幡代小学校に建立されていた。
大東亜戦争後、取り壊しを免れる為に地域住民の尽力で代々木八幡境内に遷座。
代々木公園は「大日本帝国陸軍代々木練兵場」であった。
いまでは往時を偲ぶものも少なくなってきているが、公園の内外に歴史を感じるものが点在している。
ちょっと巡ってみましょう。
江戸時代。界隈には大名や旗本らの下屋敷などが点在しており、明治維新後には民有地となり一面は茶畑・桑畑などが展開されていた。
陸軍省はこの地を買収し住民を移住させ、明治42年(1909)7月に「陸軍代々木練兵場」と「衛戍監獄(陸軍刑務所)」を設置。
陸軍刑務所の話を含む投稿はこちら
代々木公園原宿門から見本園方面に向かいます。
なにやら北側の突き当りに建物が見えてきました。
「陸軍代々木練兵場」の地は、終戦後に「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」となる。 昭和39年、東京オリンピック開催に伴い同地が日本国に全面返還されオリンピック選手村に転換。 その選手村の跡に「代々木公園」が開設される。
代々木練兵場跡地に展開された「ワシントンハイツ」は東京オリンピックに際して選手村に転用されるために移転。
そのワシントンハイツの代替移転先が陸軍調布飛行場跡地に展開された「関東村」にあたる。
案内地図中にあった「見本園」はこちら。
東京オリンピック記念樹木見本園。
当時のオリンピック参加国が持ち寄った22カ国24種類の樹木の種子が育ったのが現在の姿である、と。
代々木練兵場で観兵式に際して、
明治天皇が傍らに立たれたという黒松。
聖蹟を偲ぶに相応しき見事な枝ぶりを誇る。
明治・大正・昭和と観兵式の折にたびたび
天皇陛下が当地に行幸された聖蹟のひとつ。
「閲兵式の松」の歩道を挟んだ反対側に石碑がある。
大正3年(1914)4月11日
昭憲皇太后(明治天皇皇后)崩御
代々木練兵場内に葬場殿が設置。
大正6年に陸軍より東京府に用地が引き渡され翌7年に碑が建立された。
昭憲皇太后の大喪儀は「代々木練兵場」(現在の代々木公園)
明治天皇の大喪儀は「青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)
明治天皇葬場殿跡は明治神宮外苑にある。
代々木公園南側イベント広場の喧騒とは裏腹に静けさ極まりない公園内を歩んで西側の端の方に。
この代々木練兵場の地が「日本の航空史の事始め」で重要なポイントなのです。
「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)
明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。
これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)
実は公式記録の5日前。
明治43年12月19日「初飛行を目的とした記録会」に先立つ、12月14日の滑走試験中の日野熊蔵陸軍大尉が飛行に成功し(滑走から誤って離陸?)、これが非公式な日本史上の初飛行ともされている。
(が、これは飛行ではなく跳躍ともされていたり。)
明治43年12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が初飛行に成功。
徳川好敏氏は御三卿・清水徳川家の出身。
「日本初飛行」の栄誉を手にし「日本航空の父」と讃えられる。
明治43年12月19日。
徳川好敏に次いで飛行に成功した日野熊蔵はその後は上層部と折り合わずに左遷され陸軍を去り、民間で発明家となる。
日本の空を初めて飛んだ二人を顕彰する。
徳川好敏陸軍大尉と日野熊蔵陸軍大尉
昭和39年(1964)建立
「日本航空発始之地記念碑」
(日本初飛行の地)
碑文
紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社
朝日新聞社が昭和十五年に建立。
「日本航空發始之地」銘は、陸軍大将井上幾太郎書
隣には「日本初飛行離陸之地」碑がございました。
付記
陸軍を左遷された日野熊蔵氏のその後が江戸川橋の片隅に記録されていた。
新宿区指定史跡
明治42年(1909)〜43年にかけて、陸軍大尉日野熊蔵により初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)の跡。
(略)
明治43年3月18日に日野大尉自ら搭乗し日本初の国産飛行機実地飛行試験に成功した。
いまは新宿区教育委員会が建立した看板が残っているのみ。
名残はないに等しい空間である。
看板を前にして、この地で大空に夢を馳せて日本初の飛行機を作り上げていた往時を思い起こしながら、ちょっとだけ偲んでみた…
代々木公園に戻り、こちらは戦後間もない頃のお話
代々木練兵場に米占領軍は進駐。直後にこれを接収将校宿舎ワシントンハイツを建設。
敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが当地で割腹自殺をとげた場所…。
代々木公園(かつての陸軍代々木練兵場)の北側に小田急線参宮橋駅があります。こちらは陸軍用地の北側の境界線。
参宮橋駅のすぐ隣に標石が残っており「陸軍省所轄地」と刻まれておりました。
代々木公園内に残る代々木練兵場の名残は
「閲兵式の松」
「昭憲皇太后大喪儀葬場殿阯」
「日本航空発始之地」の3つを残すのみ。
そして戦後の名残は「ワシントンハイツ跡」「十四烈士の碑」なども。周辺の「二・二六事件慰霊碑」や「陸軍標石」と合わせて往時を偲びし散策もありですね。
〆
平成30年8月
小石川後楽園散策 (飯田橋駅~水道橋駅~後楽園駅周辺)
東京ドームと小石川後楽園。
戦前、この場所には陸軍兵器工場(東京砲兵工廠)があった。
今でも残るその名残を見に行ってみました。 (平成30年8月25日)
往時の地図と航空写真を
「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
(東京西部及び首都1/25000 昭和4年二修及び昭和5年測図)
「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
(B29-C1-16/昭和11年6月11日陸軍撮影)
水道橋駅から東京ドーム方面に向けて歩く。東京ドームホテルと東京ドームプリズムホールの間の東西通路におもむろに「煉瓦の塊」が展示してある。
明治4年(1871年)に建設された旧日本帝国陸軍東京砲兵工廟跡の基礎用レンガ。
昭和12年(1937年)、旧後楽園球場建設の際は、基礎のあまりの強固さにグランド部分は取り除くのを見合わせていたが、平成12年(2000年)竣工の東京ドームホテル建設を進めるにあたり、地下5mの深さより出土、採取。
現在地は旧後楽園球場のセンター位置に当たる。
東京砲兵工廠は小石川水戸藩邸の地に1871年(明4)に操業し関東大震災の影響もあり1935年(昭10)に小倉工廠に移転。東京砲兵工廠傘下には板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場が所属。工廠跡地は後楽園球場などが展開。
地図は昭和22年及び昭和16年。球場がみえますね。
1936年(昭和11年)12月、後楽園スタヂアムが設立。
昭和12年、後楽園球場完成。大和軍(昭和12年から19年までの7年間活動したプロ野球球団、後楽園イーグルス)
東京砲兵工廠は東京大震災で被災し移転。その跡地は球場と遊園地へと。 そして、のちほど巡る小石川後楽園はそんな中でも変わらずに。
東京砲兵工廠から後楽園球場、そして現在の東京ドームの片隅にも戦争の歴史を刻む碑があります。散華されたプロ野球選手たちの鎮魂
第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ
昭和56年4月
寛永6年(1629)に設けられた水戸徳川家(徳川頼房)屋敷。庭園は二代目水戸光圀によって完成した回遊式筑山泉水庭園。
明治2年(1869)水戸家が新政府に土地を奉還し東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となる。大正12年、国の史跡および名勝に指定。
都立小石川後楽園
水戸徳川家の回遊式庭園の中に、解説する案内は特にないけども、ぽつりぽつりと異なるものが残っており。そんな東京砲兵工廠時代の遺物を入園料300円払って見に行ってみましょう。
因みに石垣は江戸城外堀石垣を再利用したものという。備中成羽藩山崎家刻印。
都立小石川後楽園
現在は閉鎖されている東門の近く。奥まった内庭池の辺りに記念碑が鎮座。
昭和十年三月建立 昭和10年に東京工廠の機能が小倉工廠へと移転した際に、記念として建立された碑。 碑文 此ノ地ハ陸軍造兵廠東京工廠ノ旧蹟ナリ 其ノ創立ノ起源ハ 云々…
「陸軍造兵廠東京工廠跡 記念碑」
昭和十年三月建立
(都立小石川後楽園)
記念碑は、陸軍造兵廠東京工廠(東京砲兵工廠)の敷地を型どっている。
昭和10年に建立された記念碑としては、意匠的にも斬新なデザイン。
園内の九八屋の隣に、格別な説明もなく、 陸軍造兵廠東京工廠で使用されいた小銃用弾丸製造機の部品とされるものが置かれている。
陸軍造兵廠東京工廠で使用されていた小銃用弾丸製造機の部品?
園内の「九八屋」の隣。建屋と比べると結構大きいのがわかる。
小石川後楽園的には主である九八屋(酒亭)の由来は「酒を飲むには昼は九分、夜は八分にすべし」との教訓によるものだとか。
小石川後楽園から移動して後楽園駅に。
駅の北側には「礫川公園」(れきせんこうえん)
このあたりは春日局馴染みの土地ですが、戦前は軍用地。
戦後に、都営住宅・中央大学・戦没者慰霊堂・公園用地などに分割され、昭和39年に礫川公園が造園。
順を追って礫川公園と東京都戦没者霊苑に参ります…
礫川公園の奥に東京都戦没者霊苑がある。
この霊苑は、さきの大戦において、尊い犠牲となられた東京都の戦没者をおなぐさめするとともに、平和を願う都民の強い決意を表わすため、建てられたものです。
「東京都戦没者霊苑」
東京都戦没者霊苑は昭和六年の満州事変から日中戦争を経て、昭和二十年(一九四五年)八月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約十六万人の霊をまつる。
敷地は、昭和十五年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
昭和三十五年、ここに東京都戦没者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また、年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。
そこで戦没者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い昭和六十三年(一九八八年)三月に完成した。
設計は、建築家相田武文、碑文は、芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑名の揮毫は東京都知事鈴木俊一による。
私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争とは何であったかを深く考えたい。
戦没者の御霊にお願い申し上げる。
お声を風に託して、戦争の実態を私たちに語り聞かせていただきたい。 そして私たちが強い意志と英知をもって、平和を守るという至上の命題にとり組めるよう、お導きいただきたい。
霊苑が戦没者の御霊と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
角田房子
※ 角田房子氏は近現代史をテーマとした題材を多く発表されたノンフィクション作家
東京都戦没者霊苑
鎮魂
碑文
あの苦しい戦いのあと、四十有余年、私たちは身近かに一発の銃声を聞かず、過して来ました。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
だが、忘れることができましょうか。かつて東京都の同朋たちの十六萬にも及ぶ人々が、陸に海に空に散華されたことを。 あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の「生」もないことを。
そして後から生れて来る者たちの「いのち」のさきわいのために、私たちは何時までもあなた方の前に祈り続けることでしょう。 この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩いの苑でもありましょう。
この慰霊、招魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
山本健吉
靖国神社とも千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも東京都慰霊堂とも違う慰霊の空間。
真摯に真心を込めて、鎮魂の祈りを捧げてきました。
東京都戦没者霊苑には遺品展示室なども併設されております。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/reien.html
東京都戦没者霊苑はもともと陸軍砲兵工廠・諸工伝習所敷地の地でした。
正面、向かって左側の突き当りに記念碑があります。
碑文
ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。
明治五年七月十五日 政府は佛国砲兵大尉ジョルジュ・ルボン氏を招聘し ここに諸工伝習所を創立してから第二次世界大戦終結まで その名は陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校とかかわったが 七十三年間たゆることなく陸軍技術の教育が続けられた。 本年は諸工伝習所創立百周年にあたるのでその教育を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。
昭和四十七年七月十五日
諸工伝習所跡記念碑建設委員会
礫川公園
脇に目をやると・・・煉瓦壁が。
問題はそこにどうやって赴くのか。 自力ではよくわからなかったので、検索してみたら、あぁっ、そこのあぜ道を歩くのね。 ちょっと行ってみましょう。
この東京砲兵工廠(陸軍造兵廠東京工廠)トンネル射撃場は明治16年~18年頃に完成と推定。主に軍用銃などの試射用の場所として使用されたらしく。 現在は人知れずひっそりと深き森の中に。訪れる人は好き者だけのようで。
以上、小石川後楽園周辺の戦跡散策でした〆
(平成29年12月及び平成30年4月ほか撮影)
東京近郊にある東郷平八郎ゆかりの寺社巡り
・東郷寺(府中・東郷別邸跡)
・二七山不動院(麹町・東郷崇敬の寺院)
東郷元帥記念公園(麹町・東郷本邸跡)
・東郷神社(東郷を祀る神社)
東京以外を付記
・溝口神社(東郷元帥揮毫の社名額/扁額)
・記念艦三笠の艦内神社(東郷神社勧請)
・軍艦「三笠」
・各地に残る東郷邸宅など
表装の和歌
おろかなる
心に尽くす誠をば
みそなはしてよ
天つちの神
(意味)
愚かな私ではございますが
誠の心で尽くしますので
なにとぞ天地の神々よ
私を見守っていて下さい
1913(大正3)年、
東郷元帥が東宮学問所総裁に任命された時に感激して詠まれた和歌。
東宮=のちの昭和天皇、当時の皇太子
東宮学問所 = 皇太子の御教育機関
東郷神社
御祭神 東郷平八郎
二七山不動院
東郷崇敬の不動院 市ヶ谷の東郷本邸跡の近く
「南無大聖天不動明王」は東郷奉納書写印
聖将山 東郷寺
府中の東郷別邸跡に鎮座の寺院
東郷元帥農園別墅跡
(府中市清水が丘3-40-10)
元帥海軍大将東郷平八郎を開基とし身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。
山号は「聖将山 東郷寺」
東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。
揮毫は小笠原長生(海軍中将)
小笠原長生(おがさわら ながなり)は、東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。
「しだれ桜」は日蓮宗総本山である身延山久遠寺から苗を移植したものという。
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。
三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
この山門を有名にしたのが黒澤明監督「映画・羅生門」。
この「東郷寺山門」をモデルにして劇中の羅生門が建設されたという。
二階部分以外の構造的な作りは、ほぼ同じという。
段丘(ハケ)を利用して造成されており、手前に急勾配の階段を備える。
質素ではあるが力強く巨大な山門。
題字は小笠原長生。
加藤寛治海軍大将を中心に山門を建立していたけど、加藤閣下は建立途中で亡くなってしまったよ。(昭和14年2月9日に死去) 加藤閣下の意思を継いで東郷寺の山門を(昭和15年に)作ったよ、の大意。
碑は昭和18年4月10日建立
「東郷寺」 参拝。
寺院そのものには東郷平八郎的な何か・・・はなく。
静寂で厳かな空間。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗寺院。 東郷は日蓮宗の崇敬者でもあり、大正11年の日蓮聖人への「大師号宣下奏請」運動の請願書崇敬者代表の初筆に元帥の名が残っている。
大正12年に元帥が隠棲の地として府中の当地を購入。当時は晴天時に富士山が見え、その向こうに日蓮宗総本山身延山が位置する立地。 大正3年に東宮御学問所総裁に就任、大正9年に学問所閉鎖の後は、この地を農園別墅とされ、市ヶ谷麹町の本宅から馬に乗って通われたという。
昭和9年5月30日に東郷は88歳で薨去。6月5日に国葬でもって多磨霊園埋葬。 昭和11年に東郷寺建設会が設立。会長・加藤寛治海軍大将、副会長に小笠原長生海軍中将。東郷家より府中農園別墅地の寄進をうけ昭和14年に東郷寺建立。開基は東郷、副開基は小笠原、開山は日蓮宗管長大僧正酒井日慎(池上本門寺)
昭和14年に海軍将校寄進により客殿建立、昭和15年に山門建立。 しかし大戦勃発により昭和17年10月5日に落成式を行うも東郷寺建設計画は一時凍結されそのまま終戦を迎える。 終戦後の消滅危機の中で東郷寺は守り抜かれ、昭和29年より戦没者遺族に対して供養のための墓所無料分譲を開始。
現在の本堂は仮本堂を移設増設したにとどまっている状態とのことで。将来的には本堂を建設する計画があるという。
山門前のしだれ桜は、彼我の差別のない戦没者供養の為に建立された当山の為に総本山身延山久遠寺より苗を移植したもの。桜の季節に戦士たちの慰霊鎮魂の花が咲く季節が楽しみでもあり…
こちらの建物が別荘跡を元にしているかは不詳ですが良き佇まい。
桜の季節に改めて足を運んできました(平成30年3月25日)
朝7時過ぎに参拝。 見事なしだれ桜が清々しく。
彼我の差別のない英霊供養を願い建立された東郷寺。 総本山身延山久遠寺より苗を植樹されたしだれ桜。 世界平和を渇望しながら遠い異国の地に散った若き兵士たちの御魂が美しい花となって咲き誇る・・・
東郷寺山門
設計者は伊東忠太、建設は昭和15年。三間三戸の八脚門、部材は総けやき。
山門側から
東郷寺境内
境内地を散策(地図)
ポイントを地図に記載してみました。
境内はかなり広いので迷子にならないようにご参考まで。
なお当たり前のことですが 清浄な寺域ですので失礼の無きように…
境内の西エリア手前。 東郷寺開基の東郷平八郎元帥海軍大将を祀る。
本墓は多磨霊園内。こちらは供養墓(供養塔)。
境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…
昭和18年10月建立
当時の時局を色濃くあらわした戦跡。
正面から真っすぐ西墓苑に向けて伸びた参道の脇に唐突に聳え立つ塔がある。
日獨伊親善協會會長でもあった小笠原長生の揮毫
奉仰東郷元帥神霊照覧 「◯◯◯◯◯◯◯◯」
はい、戦後に塗り潰しされております。
ここには海軍ゆかりの人物として意外な方が祀られている
海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。最後となる第19代軍令部総長。 戦後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴。GHQ裁判(豊田裁判)でも無罪判決。昭和32年9月22日死去。享年72歳。
「豊田副武墓」墓区には娘婿である貞閑勝見の墓も有る。
右隣に「豊田家の墓」
左隣に「貞閑家の墓」
貞閑勝見は海軍中佐。豊田副武の娘婿。砲術参謀。海軍大臣秘書官。 昭和20年3月5日、東シナ海東沙島附近で戦没。享年32歳。
更にここには意外な人物が祀られている
元陸軍大佐、関東軍参謀として張作霖爆殺事件の首謀者とされる。除隊後は満州鉄道理事や満州炭坑理事長、国策会社山西産業社長に就任。戦後、中国共産党に戦犯として捕まり昭和30年8月25日に収容所にて病死。享年72歳。遺骨はその後帰国。
東郷寺
満州開拓青少年義勇隊東京中隊
「殉難英魂碑」
東京都知事 安井誠一郎書
昭和33年5月18日建立
東京出身の若人237名が満州の曠野に五族協和の楽土建設のため渡満し…
大地を愛した 心は一つ
桃山の友情 いつまでも
昭和58年5月15日建立
妙法
東郷寺・東郷元帥の浄願、戦没者の供養を
幾多の卒塔婆が
戦犯処刑者之諸精霊
戦死病没公務殉職之諸英霊
殉難戦災死者原爆死者之諸精霊
殉難軍馬軍犬軍鳩之諸精霊 ・・・
合掌
東郷寺は静謐な日蓮寺院ですので真摯な御心にて御参拝をお願い致します。 「参拝者」以外は境内立ち入り禁止となっております・・・
妙法
東郷元帥 農園別墅跡
聖将山 東郷寺
※持参したのが他宗派である東郷神社御朱印帳でしたので「妙法」での授与でした。授与は書き置きでしたが帳面の確認がありました。日蓮宗御首題帳であれば「御首題」での授与も可能だそうです。
さて、場所は変わって市ヶ谷・九段エリア。 ここには東郷平八郎の本邸跡「東郷公園」がありますが、そちらはのちほどとして先に東郷平八郎崇敬の寺院に脚を運んでみたいと思います。(この九段の寺院は実は私は未知でフォロワーさんに教えていただきました。ありがとうございました。)
二七山不動院
創建は江戸時代。旗本桜井遠江之守の屋敷の不動尊に通りかかった僧がお告げにより二七日間断食の荒行を行ったことから「二七不動尊」と呼称。この不動尊のある通りには二と七の日に縁日が催され大変賑わったという。 平成17年に火災でお堂焼失。そして12年の歳月を要し再興
東郷元帥は明治15年に九段の地に移り住みそして88歳で逝去するまでを当地で過ごしている。 明治27年日清戦争時に東郷平八郎は浪速艦長として出征。その際に母堂が武運長久を祈り二七不動尊にお百度参りをしている。
明治37年日露戦争時には東郷元帥の妻テツが二七不動のご縁日である5月27日を満願の日と定め毎朝日参してお百度を踏み勝利を祈願。「満願の日の大勝利」となった。元帥は帰宅後にその事実を知り、自宅にあった楓の木を二七不動境内に手植えられ御縁日には夫婦ともども参拝されるようになったという
大正12年9月1日、関東大震災に際し二七不動尊も全焼。御本尊不動明王は無事に救出。不思議と焼け残った東郷邸を「神が二七不動尊のご避難先」とされたと東郷元帥は申され、二七不動尊の御本尊は東郷邸に再建までの80余日間も奉祀奉安されたという。
大正12年11月、関東大震災被災により東郷邸に避難されていた不動明王は復興した御本堂に無事に奉安。お帰りになられた。 東郷元帥は自ら筆を取り二七不動尊のために 「南無大聖不動明王」と書かれて奉納された。 その東郷元帥書の写しが現在「二七不動院の御朱印」に用いられている。
二七山不動院(九段)
平成17年にお堂を火災で焼失した当院は再建まで12年を要し、二七通り近くに再興。(この九段とは別に墨田区にも再興した二七不動があるようですが、私は寺院方面の事情は疎いので詳細不明) 九段に再興した二七不動院はマンションの1階に真新しい雰囲気で鎮座。
インターフォンで「御朱印を頂戴したい旨」をお話し恐縮しながら本堂に上がらせていただき参拝。神社専な私ですから寺院で参拝&御朱印は緊張しました。 しばし女性住職さんとお話を。「東郷さんゆかりの寺社を東郷神社の御朱印帳で廻っておりまして。3寺社だけですけど…」
写真は切支丹灯篭。千代田区番町九段地区で出土したそうで。 キリシタン禁令が発令されていた江戸幕府のお膝元であったこの界隈で隠れキリシタンの灯籠が発見されたというのは珍しく発掘後に当山に奉納されたもの。
平成30年1月撮影
「二七通り」と「東郷通り」が交わるところに「東郷平八郎邸跡」がある。手前の坂は「東郷坂」 元帥は当地に明治14~15年(1881~82)から昭和9年(1934)に88歳で逝去されるまでの約53年を過ごしている。 戦災によって邸宅は焼失してしまったが邸宅跡は記念公園となっている。
かつて東郷邸の玄関に対に据えつけられていたという石造りのライオンの内の一つが公園の中央に静かに佇んでいる。この「東郷元帥記念公園」内で残された往時の名残。
東郷元帥記念公園
公園の沿革
当公園は当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。 当時東郷平八郎元帥邸が隣接しており、東郷平八郎元帥の没後東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した。
東郷平八郎元帥
元帥は弘化4年薩摩に生まれ、日露戦争時には連合艦隊司令長官として活躍し、その後元帥の称号を授かる。
この地には明治14年より居住して、永く区民から親しまれ地域の文化向上にも寄与し、人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の生涯を閉じる。
公園内には力石も残っている
公園上段部分。このあたりが東郷邸の関連するものなのかどうかは定かではない。
もしかしたら昭和13年の公園整備の際の造成かもしれないし、それよりも跡のものかもしれないし。 雰囲気的には年代を感じさせる造形物。
東郷元帥記念公園は獅子石が全て・・・ではありますが。
平成31年4月現在、東郷元帥記念公園は一部のみ開放。公園内の鉛含有(基準値超え)が問題となっており。
平成30年1月、久しぶりの参拝。
東郷蔵
蔵の手前は工事中。 昭和20年5月の戦災にて前述の市ヶ谷麹町の東郷邸は土蔵を残して全焼。 昭和23年に麹町より土蔵を東郷神社に移築。 損傷が激しくなったため東郷元帥50年祭に当り昭和59年に不燃建造物として従来の蔵を模し少し大きくした状態で新築したものという。
東郷神社
参拝
この日は結婚式が行われておりましたので赤絨毯
平成28年5月28日は海軍記念日の翌日。日本海海戦勝利の日が東郷神社例祭の日。そして今回(平成29年12月3日)の御朱印。
帳面の和歌は、東郷元帥が大正3年4月1日に東宮御学問所の総裁を拝命された際に詠歌されたもの。
おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神
1905年(明治38年)5月27日
日本海海戦
東郷平八郎の旗艦三笠をはじめとする連合艦隊が対馬沖にてバルチック艦隊と海戦
翌5月28日
ロシア艦隊降伏により日本海海戦は終了し日本の勝利が確定。
5月28日は日本海海戦にて日本の勝利が確定した日。
東郷神社例大祭の日。
例大祭は本日11時から斎行。
おおおっ!!千福!
さすが海軍御用達!
海軍の神様「東郷神社」に、
海軍御用達な呉の日本酒「千福」と
東郷神社御神酒「神聖」とが
奉納されておりました。
千福一杯いかがです♪
Z旗と千福のコラボはちょっとうれしい
東郷神社では御神酒を。
京都「山本本家」(代表銘柄「神聖」)製。
(焼酎「東郷」は横須賀調達品)
鳥取米子の稲田本店
純米酒「トップ水雷」
東郷元帥によって命名。水雷の字は元帥直筆。
水雷一発 轟然ト響ク 一酌ノサケ陶然トシテ 酔ウ
お酒つながりで掲載。
伝統の技と風格 トップ水雷なればこそ
いずれも横須賀にて
以下は徒然に
御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他
埼玉県飯能市鎮座。
東郷平八郎像とともに摂社として東郷神社がある。
東郷公園
東郷平八郎元帥の銅像が建ってからは秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品が点在されている。
川崎市高津区溝口鎮座。かつての赤城大明神。 矢倉沢往還(大山道)溝口宿の溝口村総鎮守。旧社格は村社。明治期に伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称。 天照皇大御神を祀る
溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書
社宝の扁額(社名額)は東郷平八郎謹書
神職さんに東郷さんの由緒を伺ってみると、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で社殿全壊。昭和8年(1933)に社名額を東郷さんに頼み揮毫して戴き翌9年に再建とのことでした。
ちょうど1月限定で東郷元帥謹書の御朱印符も頒布!
東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっておりますので、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる一年前ということになります。ぎりぎりのタイミング。
三笠神社。(艦内神社)
とは言っても日露戦争当時には現在イメージされているような艦内神社の姿ではなかったと思います。 明文化された艦内神社の概念は昭和に入ってから。
現にこちらは「東郷神社」ですし…
日露戦争当時の艦内神社として考える場合は昭和海軍のような「進水時に艦にゆかりのある神社から奉幣」ではなく、その時の祈願から発展したと考えるのが自然体。
筥崎宮 敵国降伏 御守護
今回は外側を眺める程度で。
「東郷平八郎銅像」(三笠公園)
日本海海戦後言志
日の本乃
海にととろく
かちときは
御陵威かしこむ
聲とこそしれ
東郷平八郎(花押) 昭和42年5月27日建立。清水多嘉示 作
「皇國興廃在此一戦」元海軍大将 長谷川清書
(大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之)
三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである。
三笠艦は日本海々戦-1905年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた
(碑文引用ここまで)
「行進曲軍艦碑」
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである。 世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」
(平成8年4月に建立。平成15年3月横須賀水交会によって修復)
横須賀市諏訪公園の片隅に。詳細は不明。 横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」「戦艦三笠の物ではないか?」と言われているようです。 甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。
入船山記念館(入船山公園)
旧・東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長(海軍大佐)時代に呉に在任していた際(1890~1891)の居宅離れ座敷。
もとは宮原もにあったものを当地に移築保存されている。
登録有形文化財指定。
舞鶴鎮守府にも東郷邸があるといいますが未訪問。
舞鶴鎮守府初代長官・東郷平八郎
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。その初代司令長官に任命されたのが当時海軍中将だった東郷平八郎。
https://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/kengaku/tougoutei01.html
佐世保は邸宅は残っていないけど、
海軍墓地に東郷さんの銅像があります。
佐世保海軍墓地
墓園入口から拡がる慰霊祭式場の広場、その奥には「礼拝殿」、そして広場に面して「東郷平八郎像」。
東郷平八郎は明治32年に佐世保鎮守府司令長官。明治38年に連合艦隊司令長官として日露戦争バルチック艦隊に勝利。(凱旋時に旗艦三笠は佐世保港内の爆発事故で一度沈没…)
ひとまずは以上で〆
そのほか随時で登録していきます
平成30年撮影
現在、杉並区によって「荻外荘公園」として再整備中。
豊島区に移築されている建物( 荻外荘の一部 )も、杉並区に戻して再整備をする計画だというので、経過を見守りつつ。
杉並区にある「荻外荘公園」 この地に残る「国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)」に旧宅が残っているので見学してみました。平成30年2月撮影。
通常は南側の公園部から邸宅跡を外観のみ見学可能。
(午前9時から午後5時まで)
将来的には近衞文麿居住当時への復元が予定されているという。
中央の部屋が近衛文麿が自決した書斎部。
昭和20年、近衛文麿にGHQから逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日12月16日未明に荻外荘で青酸カリを服毒して自殺。享年54歳。
公園内(敷地南部)には井戸がありました。
川本式手押しポンプ井戸
敷地南側。
井戸で遊んでいたらレンズの下部に水滴がついたままだったようで。
公園部から北側に回り込んで、近衛邸正門へ。
現在、入口は堅く閉ざされている。 再整備が終わったら、こちらから荻外荘の見学もできるようになれば・・・ですね。
昨日(平成30年9月29日)、荻窪にある荻外荘(近衛文麿旧宅)の一般公開に参加することができまして。
(公開情報を教えてくれましたフォロワーさんの情報に感謝です!)
見学の様子を以下に展開。
普段は門が閉じられ立ち入りができない近衛邸。
近衛通隆氏(近衛文麿氏の次男)が平成24年に亡くなるまで居住されていた屋敷。 「近衛」と高らかに標識も掲げられており。
近衛通隆氏死後の平成26年に杉並区が荻外荘を含む敷地を購入し再整備計画中。
国指定史跡指定。
荻外荘の変遷は3つの時代に別れる。
入澤家時代(昭和2年~昭和12年)
近衛文麿家時代(昭和12年~35年)
近衛通隆家時代(昭和35年~平成)
現在の近衛家の玄関は文麿時代のものではなく通隆時代のもの。
(文麿時代の玄関は現在は文京区に移築されている)
昭和35年に屋敷が分割しており玄関等も付け替えされている。
将来的には分割部分を戻して復元予定という。
敷地の東側部分の空き地。
この部分に近衛文麿時代の「客間棟」と「玄関棟」があった。
(昭和35年に文京区染井に移築)
ゆえに荻外荘に残っている建屋は「居住棟」と「別棟」を改修したもの。
杉並区の計画では移築された建屋もこの地に戻して、改めて復元をするとのことで。
東側。
戦後の改修部分。
和室の手前にバルコニー。
奥は食堂、そして暖炉の煙突。
耐震補強工事実施前ゆえに見学には制限があり。
この日は15人で1組の整理券制で先着順受付。
全14回。30分見学。見学時はヘルメット着用。
戦後は長らく近衛通隆氏が居住していた空間でありそんなに古さはない。
「文麿時代の何か」を期待してはいけない。
ガイドの人も「お宝的なものはないです」と言ってました。
写真は食堂部分。
窓の外にはかつては「屋敷(客間棟)」があったが移築後の改修で外窓となっている。
復元模型の中心部で会談している人たち。
昭和15年「荻窪会議」と日独伊三国同盟問題
近衛文麿(首相)
松岡洋右(外相)
吉田善吾(海相)
東条英機(陸相)
この部分は「客間棟」(染井に移築現存)。
移築された東側が荻窪に戻ってきて復元されてからが史跡「荻外荘」の本番ですね。
昭和20年12月6日
近衛文麿に対する逮捕命令発令。
巣鴨拘置所出頭日は12月16日。
その16日午前2時まで文麿は次男の通隆と和室にて話し合いを行っていた。
そして午前6時過ぎに文麿が和室で息絶えていたのが発見された。
享年54歳。青酸カリによる自殺。
法名は荻外院殿象山道賢。
写真は近衛文麿が自殺をした和室。
本棚にあったものなどは陽明文庫に送られたようです。
陽明文庫は近衛家伝来の史料を保管している京都の施設。
昭和13年に近衛文麿が設立。
荻外荘(近衛文麿旧宅)の蔵
居住棟と別棟の間にあるのが「蔵」
近衛家の至宝が納められていた名家の蔵。
堂々たる蔵扉。
入澤氏から邸宅を譲られた近衛文麿が建設。
別棟とともに昭和13年と推測。
蔵外観。
近衛文麿時代から、おおむね往時の姿を留めているという。
2階建ての蔵は、平屋の荻外荘のなかでは高さが頭一つ飛び出ている。
荻外荘(近衛文麿旧宅)別棟
昭和13年増築。
もともとは近衛文隆(文麿長男)が母親のために作ったものという。
アメリカ留学後に文隆も別棟に一時居住をしている。
(近衛文麿の長男近衛文隆はのちシベリアに連行され獄死している)
受付のとなりで販売がありましたので、 おもわず書籍を購入してしまいました。
(こういう書籍は見逃せないんですよね・・・)
敷地内にあった何か。
そんなに古くはなさそう・・・
荻外荘
案内人の一言が印象深く
「復元するとしてもどの時代にあわせるのか。伊東忠太が手がけた木造建設にも価値がある。(伊東忠太の現存する数少ない木造建造物、昭和2年) そして歴史舞台としては荻窪会談、近衛文麿邸としての価値がある。史跡登録もされた。」
あぁ、これは複雑な気持ちになります…
染井霊園の正面近くに近代史跡として意外なものが残っている。
「荻外荘」
もともと荻窪にあった近衛文麿別邸が何故か染井の地にある。
これも近いうちに荻窪に戻る(再移築)らしいので、ここで見れるのも残り僅かかもしれず…
もともと荻外荘は大正天皇侍医頭であった入澤達吉邸(昭和2年・伊東忠太設計)であったが昭和12年に近衛文麿別邸となる。
昭和20年近衛文麿が荻外荘にて服毒自殺。
戦後は吉田茂が荻外荘に居住したこともあった。
※敷地外より撮影
昭和35年に北半分にあたる玄関・応接間・客間が「天理教東京教務支庁」東京寮として移築。
荻窪に残った南半分は杉並区が取得し「荻外荘公園」として再整備。
杉並区では天理教と交渉し元の荻窪に再移築の上で復元を予定しているという。
場所は変わって新宿区へ。
東京都新宿区下落合
かつては「目白近衛町」と呼称された高級住宅地。
いまでもあちこちに「近衛」の名が残っている。
前述の荻外荘は「近衛別邸」。
かつてこの目白近衛町に「近衛本邸」があった。
東京電力やNTTの電柱にも「近衛」の名が。
かつて近衛邸があった地区に近衛篤麿公(近衛文麿の父)を記念する碑が残っている。大正13年(1924)に建立。
明治37年の篤麿死後、大正11年頃から近衛邸宅の一部が「近衛町」として分譲され近衛家の足跡を記録するために建立。
入口は極めて細く、その細い空間の中ほどに「記念碑」が残っている。
新宿区地域文化財第五号
「近衛篤麿公記念碑」
この地には大正末まで近衛公爵家の屋敷があり、分譲後も近衛町と呼ばれた。
大正13年建立。
近衛篤麿公記念碑
公の諱は篤麿、霞山と号した大職冠藤原鎌足の後裔で、五摂家筆頭近衛家の第二十八代当主。文久三(1863)年六月二六日京都に生まる。
明治一七(1884)年、華族に列し公爵。翌年ドイツに留学、明治二三(1890)年帰国し、貴族院議員。明治二八(1895)年学習院院長、翌年貴族院議長に就任。時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。
日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一(1898)年東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、
東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽瘁した。
ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし不幸にして難病に罹り、日露開戦直前の明治三七(1904)年一月一日逝去・行年僅か四二歳。
当地は、公が明治三五(1902)年に晩年の居を定めたところでもあり、終焉の地となった。現在この辺は下落合と呼ばれるが別称近衛町ともいう。この記念碑は、公没後、二〇余年の大正一三(1924)年七月に建立された。
平成八(1996)年一月
財団法人 霞山会
会長 近衛通隆
かつての霞山公の碑は良く整備されたこの地(広さ百坪)に築かれた塚の上に東側を正面に向けて建てられていた。
平成8年1月に現在のように再建された。
(昔日の霞山公紀念碑)昭和初期の大雪の日
霞山公記念碑・・・のうしろの煉瓦壁
たぶん近衛云々とは関係ないとおもうけど良い雰囲気。
旧近衛家のケヤキ
新宿区地域文化財第10号
樹齢100年を超えるケヤキの大木で、近衛家屋敷の車廻しにあったと伝えられる。地域の要望により残された。
現在は道路の真ん中に残された欅の大木。これも近衛家の名残。
近衛家が分譲されたのちに当地に建てられた学習院の寄宿舎。
近衛篤麿は第7代学習院院長でもあり。
昭和3年建築、設計は宮内省。
現在は「日立目白クラブ」として活用されている。
(関係者以外立ち入り不可)
学習院大学建立
昭和寮跡
昭和寮は、昭和3年(1928)に学習院高等科(旧制)学生の寄宿舎として現在の新宿区下落合2丁目13番28号の敷地に建設された。
西洋式建築の堅牢な建物であったが、昭和27年(1952)に廃寮。同年、此の地に大学学生のための新たな寮を設け、それ以前の寮の名称を引き継ぎ「昭和寮」とした。以後、当初から数えると70年近い歴史を刻み多くの学生に利用、親しまれてきた昭和寮は、平成9年(1997)3月その幕を閉じた。
平成13年6月 建立
杉並と目白と近衛にゆかりのある地を巡ってみました。
以下は補足。
五摂家の一つである近衛家の墓所は京都の大徳寺。近衛文麿はそこに眠る。
近衛文麿(近衛篤麿の長男)の弟である近衛秀麿(近衛篤麿の次男)、そして近衛秀麿養子となった近衛通隆(近衛文麿の次男)の墓は東京池袋にほど近い練馬区桜台の広徳寺にある。
公爵 子爵 近衛家墓所
1898年(明治31年)11月18日-1973年(昭和48年)6月2日
作曲家・指揮者
元子爵 正三位勲三等
元貴族院議員
後陽成天皇男系十二世子孫
父は、近衛篤麿
異母兄は、近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)
実弟は、近衛直麿(雅楽)、水谷川忠麿(春日大社宮司)
第2次世界大戦中は主にヨーロッパで音楽活動に従事。
1945年4月に、ドイツの敗戦によりアメリカ軍に抑留。
1945年12月に帰国を果たすが、その同じ12月には兄の近衛文麿が自殺をしている。
1921年-1923年(大正12年)9月1日
後陽成天皇男系十三世子孫
近衛秀麿の長男。
関東大震災で死去。
1922年(大正11年)5月11日-2012年(平成24年)2月11日
後陽成天皇男系十三世子孫
歴史学者
東京大学史料編纂所教授、霞山会会長、陽明文庫理事長を歴任。
近衛文麿の次男。(近衛文麿の長男である近衛文隆の次弟)
1935年に近衛秀麿の養子となる。近衛忠煇の叔父。
1931年(昭和6年)2月4日-2003年(平成15年)3月31日
後陽成天皇男系十三世子孫
作曲家・指揮者
近衛秀麿の次男。非嫡出子。1935年に近衛秀麿から認知。
近衛秀健氏の子息は音楽一家として現在も活躍中。
近衛牡丹の家紋
余談ではあるが、東京の近衛家墓所のある広徳寺にはいくつかの大名家の墓所があつまっている。
広徳寺には、以下の歴史的な著名人の墓がある。
柳生家 柳生宗矩・柳生十兵衛三厳・柳生宗冬
小堀家 小堀遠州正一
立花家 立花宗茂
最後は余談でした。
近衛家に関するなんやかんや、でした。
〆
元記事は平成29年2月投稿、平成31年4月ほか追記あり
深くは掘り下げずに、思いついたことをちらりほらりと書いてみようかと思います。陸軍さんの動きは、さほどに詳しくないので。 その歴史的な評価や青年将校の起こした行動の是非は別として。
2月26日が来るたびに、その歴史的な節目に何かを感じざるを得ない気になってしまいます。
実際には「あー、二・二六事件ね。」ぐらいで終わってしまいますが。 歴史的なフレーズとして、この「二・二六事件」という具体的な日にちはいやがおうでも印象深いものです。
そんな2月に渋谷にある慰霊碑に足を運んできました。
実は訪れたことがなかったので。
渋谷の雑踏を抜け、NHKの真向かい。隣は渋谷税務署と東京法務局渋谷出張所。 東京陸軍刑務所跡地。そこに「二・二六事件慰霊碑」がある。
東京陸軍刑務所跡にたつ慰霊碑。
観音像は昭和40年2月26日建立 。
昭和11年7月12日、首謀者に対する刑は執行された。
彼らの行動の是非は問えない。時代のうねりの中で、彼らもまた翻弄され、そこに正解は求めることはナンセンスだから。
合掌。
二・二六事件慰霊碑
碑文
昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵第1第3聯隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸・陸軍省・警視廳等を占據した。 齋藤内大臣・高橋大蔵大臣・渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣・牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
昭和四十年二月二十六日
佛心會代表 河野司 誌
碑銘にある佛心會代表の河野司氏は、河野壽陸軍大尉の実兄。
河野壽陸軍大尉は二・二六事件に参加。
河野隊を率いて湯河原で牧野伸顕侍従長(伯爵)を襲撃。その際に負傷し、後に自決。
真偽は不明だが、この慰霊碑の脇にある赤レンガ壁は東京陸軍刑務所の名残を残しているもの(残存壁)、とされている。
梅の花が咲く慰霊碑の前で、往時の事柄を偲びつつ静かに手をあわせる。
令和三年(2021)2月26日、撮影。
若者が闊歩する街「渋谷」。
そんな渋谷の繁華街の只中に陸軍標石はありました。
(往時より数メートル移動して保存されております。)
渋谷区清掃事務所宇田川分室のフェンスの中。駐輪場との間に。
渋谷に二・二六事件と関連する陸軍施設(東京陸軍刑務所)があった名残の一つ。 標石には「陸軍用地」と刻まれておりました。
往時を偲ぶ歴史遺産。
渋谷の陸軍用地。
もちろん、ここには何も説明も案内はないけれども、明確な意志で保存されている感はします。フェンスの内側にあるというにはそれだけで安心感があります。
別記事にて。
平成31年4月参拝
東京都港区元麻布鎮座。鍋島家の菩提寺。
境内には「二・二六事件の青年将校の墓 」がある。
二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。これは死刑になった19名に、自決した野中四郎・河野寿の2名、相沢事件で死刑となった相沢三郎が含まれている。 現在の墓碑は、昭和27年(1952)建立。
昭和11年2月29日
野中四郎
昭和11年3月6日
河野壽
昭和11年6月3日
相澤三郎
昭和11年7月12日
香田清貞
安藤輝三
栗原安秀
竹嶌継夫
対馬勝雄
中橋基明
丹生誠忠
坂井直
田中勝
中島莞爾
安田優
高橋太郎
林八郎
渋川善助
水上源一
昭和12年8月19日
村中孝次
磯部浅一
北輝次郎
西田税
二・二六事件の青年将校の一人、磯部浅一の墓。
別記事にて
その引き金となったのが相沢事件(永田事件)と呼ばれる陸軍派閥抗争。
昭和10年8月12日。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、皇道派の首領であった真崎甚三郎教育総監を更迭した統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件。
永田鉄山軍務局長を殺害した相沢三郎陸軍中佐は、二・二六事件首謀者の処刑(昭和11年7月12日)に先立つ昭和11年7月3日、東京陸軍刑務所内で銃殺刑に処された。(二・二六慰霊碑碑文にも永田事件の相沢中佐の記載がありました)
陸軍の派閥抗争。皇道派と統制派。こんなのを説明しようとしたらそれだけで論文が書けそうなので止めておきます。
統制派の永田が皇道派の相沢に殺され、暴発した皇道派青年将校による二・二六事件の勃発により皇道派は衰退。で、永田のあとには統制派の東条と武藤などが皇道派を駆逐し陸軍を牛耳る、と。
永田鉄山の墓は青山霊園にある。
昭和11年2月27日。戒厳令発令に伴い戒厳司令部が設置されたのが軍人会館であった。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に就任。
庭園が残る。高橋邸の母屋は現在は「江戸東京たてもの園」に移築。
昭和11年2月26日。赤坂の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ暗殺される。享年82(満81歳没) 墓は多磨霊園に。
別記事にて。
海軍大将、第31代内閣総理大臣。 事件で襲撃されるも難を逃れ一命を取り留めたが、身代わりに首相秘書官で松尾伝蔵(義弟)が殺害。 その後は重臣として戦争終結に奔走。昭和27年10月17日84歳没。 現在は多磨霊園に眠る。
従一位大勲位子爵。海軍大将。第30代内閣総理大臣。岡田内閣時の内大臣。 二・二六事件にて射殺される。 満77歳没。 現在は、多磨霊園に眠る。
岡田内閣時の陸軍教育総監。 二・二六事件にて射殺される。満61歳没。
二・二六事件の舞台でもある杉並区上荻窪にあった渡辺錠太郎邸は2008年に取り壊しされている・・・。
現在は、多磨霊園に眠る。
政治家。岡田啓介は岳父。妻が岡田啓介の次女。 岡田内閣内閣総理大臣秘書官。 二・二六事件に際しては岡田啓介救出に奔走。 鈴木貫太郎内閣書記官長として終戦工作の一翼を担う。 現在は多磨霊園に眠る。
関連を見つけましたら随時追記していきます。
平成30年2月参拝(嶋田家之墓・盛雲寺)
豊島区西巣鴨 鎮座地
場所→https://goo.gl/maps/SdPVgypzZC22 …
嶋田繁太郎
1883年9月24日-1976年6月7日(92歳没) 海軍大将。
開戦時の第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑を受ける。
墓石には「昭和十七年十二月三十日 嶋田繁太郎建之」と記載がある。
昭和17年12月というと日本海軍はソロモン諸島ガダルカナルを巡る戦いで苦境に立たされていた時期。
嶋田は海軍大臣の要職にあったが、そのときに代々墓の墓石を建立は思うところがあったのだろうか…