「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

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明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

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青山練兵場

以下を参照。

東京都下を東西に結ぶ中央線。その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。このトンネルの建設には陸軍も関与しており...

御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

NHKでは、戦争体験者の証言を中心に後世に戦争の実相を伝えていくために「戦争証言アーカイブス」を公開しています。

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月

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