以前から気になっていた場所。
東京大空襲を知る上で、欠かせない場所です。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機のB29による下町地区を中心とする無差別爆撃は、人口過密地帯を火炎地獄にしました。罹災者は100万人をこえ、推定10万人もの貴い命が失われました。3月10日を含め、東京は100回以上もの火の雨にさらされ、市街地の6割を焼失したのです。
民間の「東京空襲を記録する会」は、空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきました。当研究所は、この資料を保存し都民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ、平和の研究と学習に役立つ場にと願い、2000年3月から募金および新資料収集をよびかけました。この壁面裏にお名前が刻まれておりますが4000名をこえる方がたのご協力により、どのような公的資金もなしに、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかったこの地に、当センターを完成することができました。ぜひ、お立ち寄りください。
財団法人 政治経済研究所
世界の子どもの平和像
平和を築く
平和のために敷地とともに寄贈された稲荷社
防火用水
母子像
戦火の下で
平和地蔵
資料センターの館内へ。
いくつかをピックアップ。
被弾し、傷ついたピアノ
1945年5月24日 目黒(現・目黒区)
1945年5月24日の空襲で、屋根を突き抜けた焼夷弾がピアノの左肩をかすめた。不発だったので、傷ついたが、焼けずに残ったピアノ。
ピアノをかすめたM69焼夷弾
ピアノがあった家で使われていた防空かぶと
噫横川国民学校(複製)
1978年 作/井上有一
E46集束焼夷弾(模型)
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。中にM69油脂焼夷弾を38本納めており、空中で尾翼部分にある信管が作動してバラバラになって落ちてくる。
M69油脂焼夷弾 AN-M69
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。尾の部分にストリーマーと呼ばれる4本のリボンがついており、空中姿勢を安定させる。
着火すると、ふたのようなストリーマーの部分は吹き飛んで外れ、筒の内部から粘着性の燃焼剤が飛び出して発火する。
M18(E28)集束焼夷弾の弾頭バラスト
集束焼夷弾が前から落ちていくようにする重り。日本本土への初期の空襲では、弾頭信管で作動するM18(のちに改称されE28)集束焼夷弾が使われた。中にはM69焼夷弾が38発納められている。中央部に弾頭信管を取り付けるためのくぼみがある。
M50エレクトロン焼夷弾 AN-M50-A2
中心部分に燃焼剤のテルミット(アルミニウムと酸化鉄の混合物)があり、その外側を包むマグネシウムを燃焼させるため、テルミット・マグネシウム焼夷弾とも呼ばれる。
1945年3月10日の空襲では使われなかったが、中小都市空襲では用いられることも多かった。
日本軍の高射砲弾の破片
高射砲は空中で破片になって飛び散ることで、敵の飛行機を落とす武器。空襲の際にも撃たれるため、逃げる人々は焼夷弾だけでなく、味方の高射砲弾の破片からも身を守るために、防空頭巾や鉄かぶとをかぶる必要があった。
1945年3月10日 土曜日 0:08
館内では、都内での空襲関連の慰霊碑や細かい空襲情報の資料も豊富。
駅からはちょっとアクセスしにくい場所ですが、また足を運びたいと思っております。
東京大空襲・戦災資料センター
公式サイト
場所
書籍
書籍を購入しました。
東京大空襲関連の慰霊碑などの慰霊巡礼、フィールドワークに役立たせようと思います。