「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

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令和元年5月撮影・門前仲町

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富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

「富岡八幡宮友の会」は昭和天皇と終戦にまつわる神社の逸話に深く思いを起こし、感謝を込め、これからの東京の発展と、日本の平和と繁栄を願い、世界に貢献することを誓う有志が集まり、設立を企画したものです

富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

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明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


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