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福岡大空襲名残の戦跡を巡る(福岡博多の戦跡散策4)

福岡博多の戦跡散策、その4になります。
雨が降る中、飛行機の時間も迫っていたので、空港に戻る地下鉄沿線でさくっと散策できそうなところを何箇所かピックアップして巡ってみました。

その3は、こちら

陸軍墓地から空港に向かう帰りに、さくっと寄ってみた感じです。


福岡大空襲

福岡大空襲は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)6月19日から翌日の6月20日までアメリカ軍により行われた空襲。
福岡県福岡市の市街地を標的にした。
これにより1,000人以上が行方不明・死亡となった。

マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊237機は、途中14機が引き返し2機が父島と宮崎に投弾、221機が九州を北上して福岡上空に到達。福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊は、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。
博多や天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。


戦災地蔵尊(黒田稲荷神社)

福岡大空襲後に福岡市内にはいくつかの戦災地蔵尊が設置された。
そのうちの一つに手を合わせてきた。

黒田稲荷神社
黒田稲荷神社は、寛政11年(1799年)頃、黒田藩が福岡城内に祀ってあった社を、現在地(旧下対馬小路)より数間北の場所へ勧請したものと伝えられています。
当時の名称は「正一位金一稲荷大明神」呼称は「金一稲荷」「金一様」であったと推察されるが、城内から勧請した理由に、より藩を尊び、何時からか、黒田稲荷と呼ばれるようになった。
福岡大空襲により全焼し、戦災復興の都市計画案により現在地に移動。
2月の初午祭、7月の夏越祭、12月の鞴祭を執り行っております。

戦災地蔵尊
初代地蔵尊は、昭和25年(1950)5月に旧下対馬小路の町民方々の浄財により建立
砂岩材質の為、ひび割れの侵食、崩落の為、平成18年再建
福岡大空襲により三百八人の死者をだした旧奈良屋校区には、本尊と共に須崎町(旧下州崎町)の恵比須神社境内に、古門戸町(旧中対馬小路)の沖濱稲荷神社境内に、戦災地蔵尊が祀られています。
旧十五銀行での犠牲者を祀った「じゅうご地蔵尊」は栄昌寺の移転で西区今宿の寺境内に移動
須崎問屋街(旧上州崎町)入口東側の「州崎地蔵尊」は東区馬出の宗玖寺に移動

福岡大空襲
昭和20年(1945年)6月19日午後11時11分より、翌20日午前零時53分までにわたり、南太平洋の米軍マリアナ基地から飛来した230機あまりのB29爆撃機が、福博の街を、1358トンもの焼夷弾による無差別爆撃をした。
福岡市の調査では、焼失面積は市域の29パーセント、東西は御笠川から涌井川までの5キロ、南北は博多港の海岸線から櫛田神社、大濠公園までの1.8キロに囲まれた区域はほぼ全焼、被災戸数は、全戸の18パーセントの、12,692戸、被災者数は市民の22パーセントの60,599人、死者は、郡都合わせて868人、行方不明者107人、負傷者1,048人なお負傷者のうちその後、死亡した人も多く死者数は未定。

中央が戦災地蔵尊

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/X6zM9PDy2wQ7VMXKA


戦災記念碑(冷泉公園)

冷泉公園にある「戦災記念碑」。
昭和40年の建立。
福岡大空襲に際しては、特に奈良屋、冷泉、大浜、大名、 簀子の5校区の被害が激しく多くの死傷者をだしている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/fukuoka_fukuoka_010/index.html

ん。戦災記念碑に近寄れない。。。

なにやら、イベント(雨天中止だけど)で、公園が占有されているようで。

戦災記念碑は、それはそれとして、公園としての機能が最優先。
まあ、そんな日もあります。。。
このあたりは運の善し悪し。

場所

https://maps.app.goo.gl/6XGuj5xdbCUUSWsZ8


疎開道路

博多呉服町界隈の町並みは、城下町ということもあり、碁盤の目のように細い道が縦横に区画整備されていますが、そんななかで少しだけ、他の道路よりも幅の広い道路がある。
その名も「疎開道路」
福岡市が米軍空襲を予感し、6町にわたり約600メートルの長さにわたり、延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅させた道路。
この道路に面して、日本で最初の本格的な禅寺とされる「聖福寺」(扶桑最初禅窟)が鎮座しており、結果として、福岡大空襲に際しては「聖福寺」は類焼を免れている。
※「聖福寺」を今頃調べてみたら、広田弘毅墓や緒方竹虎墓などがあった、やっぱりここは再訪しないと、、、。

場所

https://maps.app.goo.gl/EckhvgyyxMwWfxf19


福岡博多の美食

スキマ時間で、名物を堪能。

仕事の移動中に、「だるま」

これは、次の日の昼。
おすすめというので。

泊まったホデルの朝飯は、もちろん明太子ご飯。

初日の夜の会食。

二日目の夜の会食

帰り間際に、博多駅でもう一回「だるま」

※撮影:2024年10月

博多、楽しいですね、また来ます!


福岡陸軍墓地(福岡博多の戦跡散策3)

福岡の戦跡散策その3です。
「福岡縣護國神社」には、慰霊碑のたぐいはなかったけど、代わりにこの福岡陸軍墓地に集約されている感じです。

その1はこちら。

その2はこちら。

福岡陸軍墓地の由来
 明治19年 陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に設置された。陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。
 そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州・上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立、他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。

「谷公園」が正式な公園の名称。
ゆえに、「谷陸軍墓地」とも呼称される。

国有地であれろ、管理は福岡市の管轄。
福岡陸軍墓地慰霊祭の主催は、福岡県郷友連盟が執り行っている。


福岡陸軍墓地巡拝

厳かなる聖域へ。

一段目の石段を登り、ちょっとした空間の先に、二段目の石段がある。

3段目に慰霊碑が林立する空間が控えている。


福岡県西方沖地震の被害復旧に関して

大東亜戦争戦病歿者之墓に刻まれた「福岡県西方沖地震」に際しての福岡陸軍墓地の被害と復旧に関して。別枠で記載をしておきたい。

福岡県西方沖地震の被害復旧経緯
平成17年3月20日(日)午前10時53分 マグニチュード7の地震が発生し、当墓碑にも「ズレ」等相当の修復があった。此の修復については諸官公庁の対応は無かった。
(1)平成19年3月 止むなく民間有志団体にて修復改良委員会を組織し、広く募金をし約千百万円の浄財を得て、第1次として石碑のズレ直しを行った。
(2)さらに協議の結果、改組された新委員会では、英霊の御声を聞いて各墓碑内部を開き、その惨状に驚き以後誠心誠意修復改良に努め平成20年12月6日墓碑の修復落成式を行った。
(3)平成20年10月 NPO陸軍墓地修復改良保存委員会を設立し、第3次修復改良事業を行っているが、国による墓地管理の1日も早い実現を望んでいる。

福岡県西方沖地震の被害復旧内容
第1次
石碑7基の内「ズレ」ている5基について、重機が使えないので人力作業により修復す。平成19年10月21日の秋季慰霊祭に間に合った。
第2次
委員会の体制を切り替えて墓碑の扉錠を破壊して内部調査、その惨状に驚く。水抜きの上吸込枡の設置等の排水改良、倒壊棚は撤去し新しく楠材を使用して組み替え。1万4千有余のお骨の奉安替え。正面階段2か所に手摺取設。車椅子通路の新設等を実施す。
第3次
委員会をNPOに変更して登記。各碑前の繁りすぎた樹木を撤去し榊を植栽しての改良。案内板・由来板等の制作。公的な交渉を進行中
 (平成22年1月末現在)


忠霊鎮護之地

最初に目についたのが、「忠霊鎮護之地」の碑
聖域の入口。

歩兵第24聯隊の戦没者の階級氏名が刻まれている。


手水盤

献奉
福岡市曹洞宗 星華婦人會
昭和11年7月建設


灯篭

奉献
愛国婦人会福岡県支部
皇紀2596年

皇紀2596年は、1936年(昭和11年)建立。
手水盤と同じですね。


日清戦役戦病歿者之墓

日清戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍少将 森部静夫 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

森部静夫は、福岡県出身。最終階級は陸軍少将。士官生徒10期。
息子の森部静武はバイオリニストで有名。


日露戦役戦病歿者之墓

日露戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之 
陸軍大臣 林銑十郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

林銑十郎は石川県出身。最終階級は陸軍大将。士候8 陸大17。
揮毫の昭和10年の陸軍大臣が、林銑十郎であった。
昭和12年に内閣総理大臣に就任するも4ヶ月の短命政権におわった。昭和18年に薨去。


青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓

青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍中将 西川虎次郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

西川虎次郎は、福岡県出身。最終階級は陸軍中将。士官生徒11 陸大11期。
第13師団長や第1師団長などを歴任。


満洲及上海事変戦病歿者之墓

満洲及上海事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍少将 中牟田辰六 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

中牟田辰六は、佐賀県出身士族。最終階級は陸軍少将。士候14期。
歩兵第24連隊長(通称:福岡聯隊)や歩兵第27旅団長などを歴任した。


支那事変戦病歿者之墓

支那事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍中将 長瀬武平 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

長瀬武平は、富山県出身。最終階級は、陸軍中将。士候18 陸大30期。
佐世保要塞司令官や、留守第12師団長(北部九州)などを歴任した。
昭和15年に予備役となるが、昭和20年には対馬要塞司令官に就任している。


殉職将兵合葬之墓

殉職将兵合葬之墓
紀元2595年建之 
歩兵第24聯隊長 上村利道 謹書

紀元2595年は、1935年(昭和10年)

上村利道は熊本県出身。最終階級は陸軍中将。士候22 陸大34期。
昭和8年に、福岡聯隊と呼称される歩兵第24聯隊長に就任。
終戦時の昭和20年には、第36軍司令官に就任、本土決戦に備えた精鋭の決勝兵団の軍司令官であった。


大東亜戦争戦病歿者之墓

大東亜戦争戦病歿者之墓
勲一等旭日大褒章 剱木亨弘 謹書

剱木亨弘(けんのき としひろ)は福岡県出身の政治家。
佐藤栄作内閣の文部大臣、政界引退後は、福岡県立美術館長や共立女子大学学長などを歴任した。

碑文
 昭和20年8月15日「万世のために太平を開かん」との詔により 万魁の涙をのみ終戦を迎えた その後36年営々として祖国再建に努力いまや世界の大国となった 惟うに今次の大戦は自存自衛のため日本国の存亡をかけ 虐げられた民族の解放と万邦共栄を願っての聖なる戦いであった 遂には敗戦の悲境に沈淪せしも次々よ亜細亜の民は独立と自由の栄光をかち得たことは 世界史上嘗てなき歴史の荘厳なる事実である
 この間 わが郷土部隊は各地の激戦に参加し言語に絶する凄惨苛烈なる闘いを展開 軍の華とうたわれた かくして本県出身の英霊 8万8千676柱に及ぶ しかるに碑の未だ無きを嘆く 同じ戦場に生死をともにし万死に生を得た戦友並びに遺族とともに先覚有志のこころざしを承け 多くの人々の赤心浄財を募り 本日「大東亜戦争戦歿者之碑」建立となる
 改めて英霊の崇高なる精神と偉大なる業績に対し限りなき敬慕と感謝のおもいをとこしえに伝えまつる
 み霊よ とわに安らかなれ
  昭和57年5月30日
   福岡県大東亜戦争戦歿者戦歿者慰霊顕彰会 建立


ガ島戦士之碑

ガ島戦士之碑
福岡市長 新藤一馬 謹書

昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間 英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに 食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山をよく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊 此の地に静まる
 昭和四十九年三月吉日建立
  ガ島会


ビルマ・タイ 垃猛雲南地区戦没者之碑

ビルマ・タイ
垃猛雲南地区戦没者之碑
中国雲南の激流怒江の上に聳ゆる垃猛並びに雲南地区に眠る三千四百余の戦没者の御霊安かれと祈る
 昭和五十九年九月建立
  垃猛雲南地区戦没者之碑 建立賛同者一同


明治維新志士之墓

明治維新志士之墓

明治維新志士之墓由来記
 畏くも、明治天皇の有難き 聖旨を奉体として筑前藩士黒田長知が明治元年十一月筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を同馬出村字東松原に馬出招魂社を創設し明治維新以来国事に殉した藩出身志士の忠霊を慰められた再来祭祀を厳修して来たのであるが昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡県護国神社が創立されたので同日この両招魂社の御神霊を同神社に合祀せられた
然るに両招魂社の施設は該地にそのまま存置されたので福岡県護国神社に於いては毎年ここに墓前祭を執行し祭祀はこれを継続して来たのであるが戦後都市の急激な発展に伴い千代松原の浄地も激変しこの招魂社跡の諸施設も或いは倒され或いは破壊されてその聖域はこれを旧の如く保持し得ざるに至りこれが移転は多年の懸案であった此の秋に際り福岡県に於ては東公園整備を計画両招魂社跡の移転について要望があったので検討の結果御神霊は神社に合祀済みであり遺跡は由来の地である東公園地内に保持しその御遺骨はこの陸軍墓地にお鎮まり願いこの墓碑を建設永遠に祭祀を厳修する事になった今ここに移した祭神名を列記すれば次の通りである
 謹んで建碑の由来を録し後世に遺す次第である
   昭和四十四年八月十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一


満洲及上海事変戦病死者合同碑

満洲及上海事変戦病死者合同碑
第十二師団長 杉山元 書

杉山元は福岡県出身。最終階級は元帥陸軍大将。士候12 陸大22期。
昭和7年2月29日に第12師団長に就任している。第12師団の編成地は小倉。
なお、昭和8年に3月18日に杉山は陸軍航空本部長に転籍している。
杉山元は、こののち昭和11年に教育総監に就任し陸軍大将を拝命。昭和12年に陸軍大臣、昭和15年に参謀総長、元帥。そして昭和19年に再び、教育総監、そして陸軍大臣となり、昭和20年に第一総軍司令官で終戦を迎えた。
そして昭和20年9月12日に自決。


明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊忠死之碑

明治廿七八年之役=日清戦争
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)の戦死者の慰霊碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊下士忠死之碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊兵卒忠死之碑


個人墓

個人墓もいくつか。

なお、個人墓の中に、青島でのドイツ兵捕虜の墓もあるというが、見落とし。
このあたり、事前の調査を怠ったがゆえの凡ミスです。
ドイツ兵捕虜墓のさらに奥には、協会標柱もあるというが、あわせて見落とし。
福岡、再訪必須だが再訪・・・できるのか?

非常に綺麗に整備されている聖域。
行政に対する不満が、福岡県西方沖地震に際しての復興の記録で爆発していたが、保存会の皆々様のご尽力に感謝。ありがとうございます。

それぞれの慰霊碑に合掌巡拝

ありがとうございました

雨が降る中での参拝であったが、福岡滞在中に、どうしても訪れたかった聖地。
福岡縣護國神社と、福岡陸軍墓地を巡拝できたので、福岡県の最初の一歩としては、まずまずかと。これ以上は、贅沢な感じです。時間的な制約などもありましたので、また今度、ゆっくりと来ましょう。

場所

https://maps.app.goo.gl/aWVGktFJAp7jdmKT6

※撮影:2024年11月


関連

陸軍墓地巡拝

はじめに

西部軍司令部防空作戦室残壁(福岡博多の戦跡散策2)

福岡城阯の東端に、西部軍司令部があった。
そこにコンクリート壁が残っているというので足を運んでみた。

その1はこちら。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No2-30
1948年4月7日、米軍撮影の航空写真を加工。

北西が、大濠公園や舞鶴公園、福岡城址など。

福岡城址、拡大。

部軍司令部防空作戦室は中央。南側に、コンクリート壁が設けられた


西部軍司令部防空作戦室残壁

西部軍司令部があった福岡城三の丸跡。
戦後、米軍の接収を経て、福岡高等裁判所や地方裁判所の庁舎が置かれ、2023年10月に舞鶴公園の駐車場として整備された。

西部軍司令部防空作戦室残壁
1940年12月、防空を担う西部軍司令部が小倉市から福岡市に移転された。
1942年頃、地下1階、地上2階のコンクリート造の防空作戦室が完成しました。この作戦室には「情報表示版」「情報表示燈」が設置され、これらの通信機と通信隊員・参謀・司令官を爆撃から保護するため、壁の二重構造などの特殊な設計が施されていました。
このコンクリート壁はその壁の一部です。

なかなかに圧巻なコンクリート壁。

場所

https://maps.app.goo.gl/cU3qrBtsZhTyLKAj6

撮影:2024年11月

その3はこちら


関連

そういえば、広島城にも防空作戦室(中国軍管区司令部)がありました。

福岡縣護國神社(福岡博多の戦跡散策1)

2024年10月末に、福岡県に出張がありまして。
例のごとく、スキマ時間に福岡市内を散策してみました。
実は、いまの仕事7年くらいしているけど、九州出張は初めて。意外と九州とは縁がなかったのだ。

まずは、福岡縣護国神社へ。


福岡縣護國神社

明治維新から大東亜戦争に至るまでの国難において、尊い生命を捧げて私たちをお守りくださった福岡出身の方々約十三万柱の御英霊をお祀りしている。
祭神の柱数は護国神社では沖縄県護国神社(17万8689柱)に次いで、二番目に多い。

明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和14年(1939年)、招魂社の制度改正により「福岡護國神社」に改称した。
これとは別に、県内には他に4つの護国神社があった。
 山川護國神社 
  三井郡山川村(現・久留米市)
  明治元年、久留米藩知藩事有馬頼咸により創建
 柳河護國神社 
  山門郡三橋村(現・柳川市)
  明治元年、柳川藩主立花鑑寛により創建
 八景山護國神社 
  京都郡祓郷村(現・みやこ町)八景山
  明治元年、小倉藩主小笠原忠忱により創建
 田川護國神社 
  田川郡伊田町(現・田川市)。
  明治2年、華族高千穂教育により創建
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座し、上記の4つの護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後は「正中宮」と称していた。
日本の主権回復後の昭和32年(1957年)5月17日、元の「福岡縣護國神社」に復した。


福岡縣護國神社参拝

大鳥居
檜の原木で建てられたものとしては日本最大級の鳥居

福岡聯隊会の奉納狛犬

福岡聯隊会

  • 歩兵第24聯隊
  • 歩兵第124聯隊
  • 歩兵第226聯隊
  • 歩兵第113聯隊
  • 歩兵第187聯隊
  • 歩兵第292聯隊
  • 歩兵第359聯隊
  • 歩兵第453聯隊
  • 歩兵第517聯隊
  • 歩兵第72聯隊第2大隊
  • 独立歩兵第12聯隊
  • 第312独立歩兵大隊
  • 第314独立歩兵大隊
  • その他福岡聯隊にて編成された各隊

清々しい神域。

拝する。

ありがとうございます。

広々とした境内であるが、なにかが足りない。
慰霊碑や顕彰碑がない護国神社であった。


御朱印(福岡縣護国神社)

御朱印を頂きました


招魂斎庭(福岡縣護国神社)

明治3年の鳥居。護国神社前身の招魂社時代のものと思われる。
妙見招魂社のもか、馬出招魂社のものかは不明。


あゝ特攻勇士之像(福岡縣護国神社)

私たちは決して忘れはすまい

日本が昭和十六年から二十年にかけて、日本の独立と存続とを守り、且つ欧米列強から植民地化されたアジア諸国を開放するために大東亜戦争で米・英・支・蘭と戦い、緒戦の赫々たる戦果にも拘らず、戦い利非ずして戦況不利となる。沖縄県にまで敵の上陸を許す事態となり、この敵の圧倒的戦力を阻止すべく、遂に一機一艇をもって敵艦に体当たりする苦渋かつ壮絶な攻撃戦法を取らざるを得なかったことを。

持てる力をすべて尽くして散華された二十歳前後の英霊の崇高な勇姿を末永く後世に伝えるべく、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の協力を得て、ここに設けた。
戦後の教育と謀略とにより平和・個人主義に偏りがちな現代の人よ、福岡県出身の三○一名の英霊の名を台座に収めしこの像を見て触れて、自分の命に代えても護るものが存在するということを考えて欲しい。
 平成二十四年十二月八日(大東亜戦争開戦記念日)
  特攻勇士之像建立福岡県委員会


平和の像(福岡縣護国神社)

球技禁止って貼られているのが、なにやら悲しい。

平和の像
 第2次世界大戦に斃れし戦士230万 痛恨なり 本県の御霊実に8万8千余に及ぶ 永遠につきざる縁者の 断腸の思い
 されど戦火おさまり巡り来る30余春秋 いま 遺族 県民あい集いて 涙を押さえ世界の平和を祈る ここに万感を込め この神域に”平和の像”を建立す
 優しかりし父よ 愛しき夫よ 子らよ 兄弟よ
 願わくば 空高く 海清く 緑深きわがふるさとに安らぎ給え
  昭和51年6月吉日  福岡県遺族連合会 会長 野見山清造

 この像は五基のブロンズ像から構成されています。また台座後面のレリーフは、戦死された方々のみたまを象徴しています。
 男性像は遺された父であり兄であり弟であり、女性像は母であり姉妹であり、児童像は遺児です。
 亡くなられた方々、遺された人々、みんなの努力によって今の時代が築かれたことを表しています。
 この群像は、置かれる場所の雰囲気を考慮し、静的な中に深く平和への願いを込めたものです。
  制作:廣瀬不可止、小田部泰久、柴田善二、小串英次郎、木戸隆一 


大正天皇御野立所跡・大正5年大演習観兵式玉座御跡
(福岡縣護国神社)

もともと福岡縣護国神社の地は、演習場であった。
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)が建立。


末社・堀出稲荷神社(福岡縣護国神社)

由緒
大正年間福岡歩兵聯隊兵士の夢枕に立たれ「吾は祐徳稲荷の弟なり 永き年月埋められたままである 今こそ吾を掘り出し吾を祀れ」と御神託が下り その処から稲荷神の御神体が掘り出されました
その史実に基づいて掘出稲荷と命名されました
此の地に御遷座となったのは 昭和27年9月3日であります

福岡縣護國神社

https://fukuoka-gokoku.jp

福岡に居たときは気が付かず、こうして記事をまとめている最中に知ったのだが、
 境内には「台湾歩兵第一聯隊ゆかりの奉納狛犬」
 舞鶴公園の北側には「福岡聯隊の碑」「営門の桃の木」
 NHK福岡放送局の向かいには「広田弘毅像」
 東公園には「官祭 妙見馬出招魂社遺跡保存地」
次回の課題ですね、見逃し悔しい、、、


福岡城址

通りすがらに。

※撮影:2024年10月

その2はこちら


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