「福岡県」カテゴリーアーカイブ

亀山上皇立像と招魂社跡地のある「東公園」(福岡博多の戦跡散策6)

福岡博多の戦跡と史跡を。
個人的に興味をもった気になるところをピックアップして散策。


官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

福岡縣護国神社の元となった招魂社。

福岡縣護国神社は、明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
当地は、その跡地である。

昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座している。

官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

招魂社の由来
畏くも 明治天皇の大御心によって明治維新以来国事に殉じた志士の英霊を合祀して永く祭祀を行うよう明治元年五月十日太政官布告を以て仰せ出だされた
ここに於いて当時の筑前藩主黒田長知は 聖骨を奉体し明治元年十一月今の東公園当時の筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を筑前国那珂郡馬出村字東松原に馬出招魂社をそれぞれ創設し官費を以て永く祭祀を行うこととなった
然るにこの中官祭妙見招魂社を明治三十九年六月二十七日官祭馬出招魂社の隣接地に移転し更にこの官祭妙見招魂社を昭和十三年一月二十一日官祭馬出招魂社に合併と同時に官祭福岡招魂社と改称次いで昭和十四年勅令に基づきこの招魂社名を昭和十四年四月一日福岡護國神社と改称し更に昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡縣護國神社が創立されたので同日この福岡護國神社の護神霊を福岡縣護國神社に合併したのである。
然るに東公園に於ける旧招魂社跡は記念碑墓石その他一切の施設がそのまま存置されていたので福岡県護国神社に於ては毎年墓前祭を執行祭祀を継続してきたのであるが戦後急激な都市の発展は護国の英霊鎮座にふさわしかった所謂千代の松原たる白砂青松の淨地も激変し招魂社跡の墓石や人名標石玉垣等も或は倒され或は破壊され清浄を保持し得ざるに至ったのでこれが移転は久しい懸案であった
然るに今般福岡県に於ては東公園の整備を計画両招魂社跡の移転方について要請があったよって検討を重ね約二五〇米北方にあった両招魂社社地に建設されていた由緒を記した石心松標・旌忠祠・玉砕光存の碑石三基を此の地に移しこの由来碑を立てて馬出の地名と共に永遠に伝え妙見招魂社の御祭神加藤司書徳成以下四十一柱と馬出招魂社の御祭神青木彌平増秀以下百十六柱の御遺骨等はこれを福岡市谷二丁目の旧陸軍墓地に改葬することにした
茲に由来を記し謹んで後世に遺す次第である
  昭和四十四年四月三十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一

場所:

https://maps.app.goo.gl/SMc2ZfyoRcD6YYeR9


銅造亀山上皇立像

像本体4.8メートル。
福岡県指定有形文化財。
高村光雲の弟子であった博多出身の山崎朝雲によって木彫原型が制作。
銅像は、谷口鉄工場が制作。

福岡警察署長の湯地丈雄が長崎事件(1886年)を期に主唱した元寇記念碑建設運動に端を発し、日露戦争中の1904年(明治37年)12月25日に除幕式が挙行された。木型は、筥崎宮に安置されている。

亀山上皇は、南朝(大覚寺統)の祖。
正元元年(2369)に第90代天皇に即位され、文永11年(1274)で譲位、上皇となられた。
元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時の治天の君。(天皇は子の後宇多天皇)。

亀山上皇は、元寇来襲に際し、「我が身をもって国難に代わらん」と敵国降伏祈願を行うと共に、全国の神社・仏閣にも祈願を命じられた。

亀山上皇立像の設置に功績のあった石工として、廣田弘毅の父親である廣田徳平も関わっている。

敵國降伏

文永の役後の筥崎宮社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆。
筥崎宮伏敵門「敵國降伏」扁額にも掲げられている。

明治39年十一月建之

亀山上皇銅像
13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元寇に縁あるこの地に建立されました。高さ約6メートルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は営崎宮の奉安殿に安置されています。

国旗掲揚台
皇紀二千六百有一年記念

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=260

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/211

場所:

https://maps.app.goo.gl/oayb67aE4vbkcd5n8


日蓮聖人銅像

公園内には、日蓮さんの立像もありました。
鳥羽上皇は、台座を除くと6メートル、日蓮は、なんと10メートル。。。

日蓮聖人銅像
日蓮聖人は、文応元年(1260年)『立正安国論』を記し、当時の鎌倉幕府執権北条時頼にいち早く元(モンゴル)軍の襲来を警告しました。明治37年(1904年)に完成したこの銅像は、高さ10.55メートル、重さ74.25トン。8角形の台座には「立正安国」の文字と、日蓮聖人の一代記を描いたレリーフがはめ込まれています。この像の木製原型は、当時東京美術学校の教授で彫刻家竹内久ー、レリーフの原画は洋画家矢田一嘯により作製されました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xZ8jSk6QaySDKWtr7


元帥伯爵東郷平八郎之像

さらには、東郷さんの胸像も。

胸像の由来
 東郷平八郎元帥は、法華経の篤信者であった。明治38年5月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年8月19日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ勝利御礼に参拝された。
 また、大正9年4月8日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。
 この銅像は、昭和10年に元帥の偉功を讃え日本海海戦会の有吉憲彰・中野昇外有志が、建立したものである。
 当初、前面の銘板には「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付してあった。
 これは大正3年4月、元帥が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。
 その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南洲会有志が改修し奉納するものである。
 この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。
 平成8年9月吉日

場所:

https://maps.app.goo.gl/SEWUZj8Ycr9M9xQe8


東公園

もともとは、千代の松原の一部であった。
1873年(明治6年)の太政官布告に基づいて1876年に公園地とした。
福岡県内最初の県営公園。
公園化する以前は、1868年(明治元年)には旧福岡藩主黒田長知によって招魂社が妙見・馬出の地に創建。
当初は東松原公園の名称であったが、1900年(明治33年)に東公園と改めるとともに県の管理となった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3ogNTTFmhB3U1Ckc6


箱崎公園碑

昔は千代松原であった歴史を記録する碑。

箱崎公園碑
縣治を距る東半里弱、松林海に傍ふ有り。箱崎と曰ひ、又千代の松原と曰ふ。宗祇指南抄に曰く、南北壹里、東西十町餘りと。明人之を稱して十里松と曰ふ。大江匡房太宰權帥たり、嘗て文を作り景勝を記す。其の天下の稱する所と爲るや久し。豊臣關白の島津氏を征するとき、箱崎八幡の祠を以て牙營と爲し、千利休を召して茗を林間に煮たり。利休松の稱焉よりして起る。黒田氏の封を此國に受くるに及び、厳に斬伐を禁ず。蒼翠蓊鬱、其の舊を改めず、千代の松の名誣ひざるなり。
余乏きを縣令に承け、是地を以て公園と爲す。博多の人、下澤、深澤、内海の諸氏、首として貲を捐し、役を督す。衆庶歡むで起ち、或は理して庭園と爲し、或は鑿りて池沼と爲す。花卉を雜植し、亭樹を列置す。青松白沙、點綴相映じ、匡房の所謂海岬斗出、一帶の青松、他に雜樹無く、位置天然にして殆むど造花の巧を弄する者の如く、指顧して來たすべきなり。園既に成り、余に文を請ひ之を記す。
嗚呼、豊臣氏の西征するや、貔貅百萬、海陸皆兵なり。而も翠を探りて茗を綴り、優遊暇豫す。眞に一世の雄なり。黒田氏の封を襲ぐ三百年、恩澤洪洽、今に至りて治め易きを稱す。余無似罪を此の地に待つこと八年、政績一の記すべきもの莫し、獨り心に愧ぢざらむや。但し車を下りしより以來、縣民貼然として安く治まるは實に土風の淳撲に由るも余が拙誠も亦或は焉を相孚ふに足るもの有らんか。乃ち所感を書して之を與へ、後人をして是地の景勝古今に稱せられて、其の公園と爲ることの遇然に非ざるを知らしむと云う。
 渡邊清撰


十日恵比須神社

東公園の西側に。神社本別表神社。

十日恵比寿神社
社伝では、天正19年(1591年)正月、武内五右衛門が香椎宮·笤崎宮参詣の帰途、千代松原の波打ち際で恵比須神像を拾い上げたのが神社の起こりとされます。恵比須神は七福神の一神で、漁民、商家の守護神とされ、人々の信仰を集めています。正月の縁起をかつぐ十日恵比須祭りは、8日を初えびす、9日を宵えびす、10日を正大祭、11日を残りえびすと呼び、多数の参詣者はもとより、参道を埋める露店や博多芸妓の「徒歩参り」で大変な賑わいを見せます

場所:

https://maps.app.goo.gl/TazgxN1pDnNfsJ5P8


福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

1909年(明治42年)に日本生命保険株式会社九州支店として建てられた。
設計は、東京駅舎などの設計で知られる辰野片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)。
明治末期の本格的な煉瓦造建築物として価値が高く、国の重要文化財に指定されている。

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/51

場所

https://maps.app.goo.gl/wJo9cdnZoAMoJTyG9


博多港発祥の地

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

博多港発祥の地

THIS IS THE PLACE HAKATA
PORT WAS FIRST ESTABLISHED

日本三大津の一つ「那ノ津」と呼ばれ古来より大陸文化受け入れの要衝の地であった博多港は明治32年7月13日開港の指定をうけ博多船溜を中心に近代港湾としての道を進み国際貿易港として現在に至っている。博多船溜にはかって魚市場も併設されていた。博多港のより一層の発展を念じこの地に記念の碑を建立する。
 昭和60年7月20日
  福岡市長 進藤一馬

博多港引揚記念碑(那の津往還)まで足を伸ばせばよかった。訪問時はそこまで知らなかったということもあり。
5大引揚港のひとつ。
また今度、かな。

場所:

https://maps.app.goo.gl/81XQNg6qRusrYZSh9


関連

歩兵第24聯隊「福岡聯隊の跡」(福岡博多の戦跡散策5)

福岡の聯隊「歩兵第24聯隊」の跡地散策。

「福岡博多の戦跡散策4」はこちらから。


歩兵第二十四聯隊

歩兵第二十四聯隊、通称「福岡聯隊」。
明治17年(1884年)、小倉にて歩兵第14聯隊第1大隊ほかから抽出された第1大隊が編成されたことに始まる。
明治21年(1888年)、第6師団が創設され、福岡城内が正式な聯隊衛戍地となる。
明治27年(1894年)、日清戦争に従軍。第2軍隷下。
明治29年(1896年)、第6師団から第12師団に所属変更。
明治36年(1903年)、陸軍管区改正により、歩兵第23旅団に編入。
明治37年(1904年)、日露戦争に従軍。第1軍隷下。
大正7年(1918年)、シベリア出兵に従軍。第1梯団に編入。
大正15年(1926年)、福岡聯隊差別事件が発生し、水平社(被差別部落)との差別解消にむけた交渉が始まる。
昭和7年(1932年)、第1次上海事変に第1大隊を派遣
昭和11年(1936年)、満洲駐屯。
昭和19年(1944年)2月、第3大隊、独立第49旅団に編入。
 ヤップ島に派遣され、終戦まで駐屯。
昭和19年(1944年)12月、連隊主力、台湾高雄州鳳山群林子に移駐。
 そのまま終戦を迎える。

福岡聯隊の跡

1963年に建てられた福岡連隊の記念碑。

題字 中牟田辰六 書

中牟田辰六は、第17代連隊長。在任は、1931年8月1日 -1933年7月31日

福岡聯隊より要員を出した主な編成師団名
第十二師団 第五十六師団 第百十二師団
第十八師団 第六十二師団 第百五十四師団
第二十三師団 第七十師団 第百五十六師団
第三十一師団 第八十六師団 第二百十二師団
第三十七師団 第百九師団 第三百十二師団

かって郷土の人々に福岡聨隊として親しまれた歩兵第二十四聯隊は明治一九年八月十七日 明治天皇から軍旗の親授をうけてこの地福岡城跡に創設された部隊である。
 尓来明治二十七八年日清戦役後三十七八年日露戦役その他の事変に出動し輝かしい武勲をたて 平時あっては衛戌地の信頼を厚くし国運の伸張と社会の安寧とに多大の貢献をなした 大正の第一次世界大戦においてはシベリヤに出征し、昭和の第二次世界大戦においては部隊の主力は満州に駐屯中であったが 昭和十二年八月第十八師団歩兵第百二十四聨隊 同十四年四月第三十七師団歩兵第二百二十六聨隊 同十五年七月第五十六師団歩兵第百十三聨隊 同十九年五月第百九師団歩兵第三百十二大隊 同三百十四大隊等の諸部隊がつぎつぎに編成され 郷土部隊は遠く中南支 マレー ボルネオ ガダルカナル ビルマ 雲南等の各地に転戦敢闘した 第百九師団の硫黄島部隊 第三十二軍の沖縄部隊は ついに名を後世に残して玉砕した また国土防衛のための部隊が編成され南九州等に赴いて護國の任に當った しかるに昭和二十年八月十五日終戦の詔勅下るにおよび 勇強を天下に誇った福岡聨隊も一切の軍備撤廃にともない 創設以来六十余年の歴史に終止符がうたれた
 そして兵営の跡には平和台競技場その他の体育施設があいついで完備し 兵営の殆ど滅失して往事を偲ぶよすがとなるものはすでにして數株の樹木のみという有様となった まことに感慨無量なるものがある
 ここに有志相諮り 福岡聨隊の歴史を回顧し国事に殉じた戦友の英霊を慰めるために 記念碑一基を建立し事跡の一端を刻んでこれを後世に伝えることにしたところ 幸にも郷土各位の賛同をえて目的を達成することができた 一同の感激これにまさるものはない 記して大方の厚意に深甚の謝意を表す
 昭和三十八年五月三日  福岡聨隊跡記念碑建設会

陸軍境界標柱が4つ。

営門の桃の木

舞鶴公園
福岡城跡に位置し、大濠公園に隣接している。

福岡城址のある同場所には、1871年に福岡県庁が設置。
福岡県庁が、1876年に福岡市中央区天神に移転したのち、陸軍第12師団歩兵第24連隊駐屯地が置かれるが、第二次世界大戦後、福岡城址、連隊跡地をまとめる形で当公園が設置された。
舞鶴公園には、「平和台総合運動場」が併設され、そのほかにも続々と公共施設等が建築された。

福岡城址

※撮影:2025年7月


福岡県関連

はじめに

関連

黙して刑場の露と消えた宰相「広田弘毅」所縁の地を巡る(福岡)

戦前、唯一の福岡県出身の首相。
そして戦後、唯一の文官として「いわゆるA級戦犯」有罪判決を受け死刑となった政治家、広田弘毅。

福岡市内で、広田弘毅にゆかりある地を巡ってみました。


廣田弘毅(広田弘毅)

広田 弘毅(廣田 弘毅)
1878年〈明治11年〉2月14日 – 1948年〈昭和23年〉12月23日)
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。
外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任。
「石屋の倅から総理大臣へ」
石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。

国立国会図書館・近代日本人の肖像>

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/183

廣田弘毅(初名は、廣田丈太郎)の父・廣田徳平は箱崎の農家であったが、石材店の廣田家に師弟で修行し養子として石材店を継いだ。
明治22年(1889年)10月18日、国家主義組織「玄洋社」の出身である来島恒喜の大隈重信への爆弾襲撃(大隈重信遭難事件)で、襲撃後に自決した、来島恒喜の墓碑を寄贈したのが、石材職人として廣田徳平であった。
廣田家と玄洋社のつながりを物語るエピソード。

廣田弘毅は、福岡県立尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。玄洋社の所有する柔道場で柔道に励み、新しい柔道場落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員になったという。
修猷館卒業直前、『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅〈「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力〉ならざるべからず)から採った「弘毅」に改名している。

1898年(明治31年)修猷館卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に学んだ。学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供している。また頭山満の紹介で副島種臣(政治家)、山座円次郎(玄洋社社員・外交官)、内田良平(黒龍会)や杉山茂丸の知遇を得た。
1904年(明治37年)日露戦争に際しては、捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。
1905年(明治38年)の外交官及領事官試験は落第、韓国統監府に籍を置いて次期試験に備えた。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女の静子と結婚。
1906年(明治39年)の外交官及領事官試験は、合格者11人のうち首席で合格し、外務省に入省した。吉田茂と外務省で同期。

外交官として、廣田弘毅は、第二次山本内閣・幣原内閣での欧米局長を務め日露戦争語の国交回復として日ソ基本条約締結に尽力する。
1926年(大正15年)にオランダ公使を拝命し、ハーグ対独賠償会議の日本代表を務める。
1930年(昭和5年)、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命、満洲事変に対応する。
1933年(昭和8年)斎藤内閣の外務大臣に就任。前任者の内田康哉の推薦によるものであった。次の岡田内閣でも外相留任。「協和外交」として万邦協和を目指した。

1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職。
1936年(昭和11年)3月5日、廣田弘毅内閣が発足。
二・二六事件直後の対応に追われ、特に陸軍に対して、当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・寺内寿一ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。
その見返りとして、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させざるを得なかった。

1937年(昭和12年)近衛内閣の外務大臣に就任。
直後に、盧溝橋事件が勃発。不拡大方針は実らず戦線は拡大。近衛内閣による「国民政府を対手とせず」声明に至る。

1938年(昭和12年)五月、廣田弘毅は外務大臣を辞任した。後任は陸軍出身の宇垣一成であった。その後、太平洋戦争中は、元首相として重臣会議に参加。

1945年(昭和20年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、廣田弘毅を逮捕。A級戦争犯罪人容疑者として巣鴨プリズンに収監した。
GHQは、廣田弘毅に対し、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活させた点を重視し、日中戦争をはじめたことによる「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」を起訴。
外交官出身で平和主義者であったにもかかわらず、軍部の台頭を抑えられなかった責任を問われた廣田弘毅。
「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という意志でもって、極東軍事裁判に臨んでいた広田弘毅は、他の被告が自己の正当性を主張する中でも、「自分一人が責任を取ればよい」という覚悟からか、家族に対しても裁判の内容を語らず、廣田は公判で沈黙を貫き通し、無罪の主張を一切行わなかった。
裁判において軍部や近衛文麿に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができたとされているなかで、重臣会議や御前会議に参加していた廣田が弁明をすることで、 天皇に類が及ぶことを心配したから、であったともいう。

1948年(昭和23年)11月4日、死刑判決。
A級戦犯として起訴された28名のうち、文官で死刑となったのは廣田弘毅、ただ一人であった。
11人の裁判官のうち、3人(インド・オランダ・フランス)が無罪、2人(オーストラリア・ソ連)が禁錮刑を主張するも6人が死刑を主張。近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯であった廣田弘毅の死刑判決には衝撃がはしり、減刑運動もあり郷里の福岡で7万人、東京で3万になど、全国で数十万という署名が集まった。
なお、廣田弘毅の妻・静子は東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺は玄洋社幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。

1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行された。70歳没。


廣田弘毅像(広田弘毅像)

広田弘毅銅像は、舞鶴公園の南側、NHK福岡放送局・国体道路に面した北側に立像している。

廣田弘毅
 進藤一馬書

廣田弘毅先生銅像碑銘
 廣田弘毅先生は1878年2月14日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神3丁目)に生れる。幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。東亜の平和維持に心を砕き、特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、1933年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。
 1936年、2・26事件突發直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。
 然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通謀、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。而して当たらず。全国民、この悲報を意外とす。先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。時に1948年12月23日午前零時34分なり。郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんと之を建つ。
 後学 進藤一馬 撰并書
1982年5月15日
 廣田弘毅先生銅像建設期成会
  会長 進藤一馬 

進藤一馬は、福岡市出身の政治家。
玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息。
中野正剛の秘書を経て、最後の玄洋社社長(1944‐1946)に就任。
A級戦犯として起訴されるが起訴されずに釈放。
衆議院議員、福岡市長などを歴任した。

浩々丹心輝萬古

広田弘毅の辞世の句。

浩々丹心輝萬古
 浩々たる丹心万古に輝く
 大きな真心は永遠に輝く

広田弘毅の菩提寺「崇福寺」で揮毫されたご遺墨を写したもの。

廣田弘毅の句としては、下記も有名。

風車、風の吹くまで昼寝かな

「今は風が吹かずとも(不遇の時でも)、風車が回るように好機が巡ってくるまで、焦らずじっくりと(昼寝するように)時を待つ」の意。
外交官としてオランダに赴任していた頃、3年間を過ごす中で詠まれたという。
忍耐と好機を待つ心境は、広田弘毅の潔い生き方と、不遇を乗り越える精神力を示している。

東京裁判で文官としてただ一人死刑判決を受け処刑された、元内閣総理大臣・広田弘毅。
処刑直前、面会に訪れた教誨師の花山信勝氏に対し、多くを語らず「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と述べたと言う。

士不可以不弘毅」(『論語』巻四 泰伯第八)
 士はもって、弘毅ならざるべからず
  「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力

道を挟んで福岡縣護国神社が鎮座している。

場所

https://maps.app.goo.gl/bTDpSXV2Nahm6wNR7


水鏡天満宮

旧社格は村社。菅原道真が川の水面に写る自分の姿のやつれ具合を見て嘆いたことにちなみ創建された古社。
江戸時代初期に福岡城の鬼門にあたる現在地に遷座された。
福岡の「天神」の地名の由来ともなった神社。
廣田弘毅が揮毫した社号標と扁額が残る。

天満宮

水鏡天満宮の南側の鳥居の「天満宮」の石額の書は、広田弘毅が11歳の時に揮毫したもの。

水鏡神社

日清戦争戦勝祝いに建立された社号標「水鏡神社」は、廣田弘毅が17歳のときに揮毫したもの。

場所

https://maps.app.goo.gl/94WGb8CqtnVfxb3g6


廣田弘毅先生生誕之地

1878年(明治11年)2月14日
福岡県早良郡福岡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の広田徳平(通称:広徳)とタケの長男として生まれる。初名は丈太郎(じょうたろう)。

 「丈太郎」から「弘毅」に改名したのは旧制修猷館中学卒業直前。
「論語」巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採ったという。

廣田弘毅先生生誕之地

出光石油の創業者・出光佐三による揮毫
出光佐三は、福岡県宗像市の出身。

場所

https://maps.app.goo.gl/ey9vPAA5KMBmJDRU9


興禅護国・聖福寺(廣田弘毅菩提寺)

聖福寺(しょうふくじ)
福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院。
栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺、「扶桑最初禅窟」
境内は国の史跡に指定
福岡空襲の戦災からは逃れ江戸時代に再建された伽藍などが残る。
山号は安国山(通称は安山)。

第三十二代首相 廣田弘毅の菩提所

平岡浩太郎(玄洋社初代社長)の菩提所でもある。
廣田弘毅の東京帝国大学法科大学政治学科の学費は玄洋社(初代社長)の平岡浩太郎が提供していた。

興禅護国
 弘毅書

広田弘毅が聖福寺に贈るために書いたもの。

興禅護国
 この碑は、広田弘毅(1870~1948)が聖福寺に贈るために
書いたものです。(裏面には興禅護国論の序文の一部が刻まれています。)
弘毅は福岡市出身の外交官・政治家で第32代の内閣総理大臣を
務めた。
 『弘毅』の名は修猷館中学時代に聖福寺第2世東瀛老師に相談
して「論語」 巻四、泰伯第八にある「士不可以不弘毅」から採って幼名『丈太郎』から変えた。又『弘毅書』という自署は巣鴨プリズンにいた時に用いたと伝えられている。
 妻の死去に際して、聖福寺第1世戒應老師に妻と自分の戒名
を授かった。
 「興禅護国」は聖福寺開山栄西禅師の著した『興禅護国論』からとったもので、二度目の中国渡海から戻った禅師は京都で布教を始めたが、在来仏教側から批判を受けた。これに対して禅師は禅宗が天台宗の教えに反するものでないことを主張し、禅を興すことが国を護る要因となるとの考えから護国の教えを説いた『仁王護国般若波羅密経』から書名を付けた。
ちょうど聖福寺造営中(1195~1204)の事であった。

日本茶発祥の木

禅寺らしい静謐な佇まい。

廣田家の墓所(廣田弘毅・静子夫妻の墓、両親の廣田徳平・タケ夫妻の墓)も、聖福寺墓地内にある。(一般非公開)
下記を参照。

場所

https://maps.app.goo.gl/CA9BrGQUagaqX6CQA

以上、福岡市での、廣田弘毅を巡る散策でした。


※撮影:2025年7月


関連

大アジア主義の第一人者「頭山満」と福岡の政治結社「玄洋社」関連の史跡散策(福岡・東京)

福岡に赴いていたときに、福岡の地図を眺めていたら、歴史的に香ばしい感じで「玄洋社」とか「頭山満」とか、興味をひいたポイントがいくつかあったので、そんな関連史跡をふらりと巡ってみました。
そして記事を書いているうちに、東京に玄洋社関係者の墓がいくつかあったので、それもあわせて掲載してみました。


頭山満

頭山 満(とうやま みつる)
安政2年4月12日(1855年5月27日)- 昭和19年(1944年)10月5日
玄洋社の中心人物、右翼・国家主義者、アジア主義者。
昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者であった。

頭山満が組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。
また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となり孫文とともに中国同盟会も設立し、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。
一方で、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。
鳥尾小弥太、犬養毅、広田弘毅、中野正剛など政界にも広い人脈を持ち、実業家(新聞社代表)や民族的活動を支援する篤志家としての側面も持っていた。
中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

遠山満は、歴史の節々に影響力を発揮しており、孫文亡命、ラス・ビハリ・ボーズと新宿中村屋の仲介、井上日召の血盟団事件、五・一五事件・犬養毅暗殺事件、などに関わっていた。

晩年は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。
葬儀委員長は元総理の広田弘毅、副委員長は緒方竹虎がつとめた。

頭山満の墓は、以下の3箇所にある。
・頭山家の菩提寺である圓應寺(未訪問)
・玄洋社墓地のある崇福寺
・東京の青山霊園

https://www.ennouji.or.jp/concept/history-omen/h8.html


玄洋社

1881年(明治14年)に旧福岡藩士が中心になって、結成された政治団体。
日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれている。
自由民権運動の拡充を目指し結成され、植民地支配に対抗して、アジア民族の欧米隷属からの脱却を目指し、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。
同時に、対外的にはアジア民族の欧米隷属からの独立を支援し、アジア諸国との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。

明治10年(1877年)の西南戦争の後、高知の板垣退助のもとで学んだ頭山満は、明治12年(1879年)帰郷し、自由民権運動の結社として向陽義塾(後に向陽社)を設立した。これが、玄洋社の前身である。社長は箱田六輔、幹事は頭山満、進藤喜平太。

明治14年(1881年)、向陽社を玄洋社と改称する。
旧福岡藩士らが中心となり、 藩立修猷館出身の平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父・玄洋社2代目社長)、月成功太郎(廣田弘毅夫人となる静子の父)、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画、のち杉山茂丸も加わった。
明治22年(1889年)、大隈重信爆殺未遂事件の首謀者であった来島恒喜も玄洋社社員。
日露戦争で勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社社員であった。
昭和期に活躍する、廣田弘毅や中野正剛、緒方竹虎なども玄洋社に関係があった。
また、玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた「進藤一馬」は戦後に福岡市長を務めている。

玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権 利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設、次いで祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進した。
中でも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他になかった。

https://genyosha.jp

本編では、下記の玄洋社の主要人物に言及。
・頭山満
・高場乱
・来島恒喜
・中野正剛
・緒方竹虎
・内田良平

※広田弘毅は、別記事にて。


玄洋社跡碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して「玄洋ビル」があったが解体済み。同ビル跡地はNTTドコモ舞鶴ビルとなり一角に記念碑が建立されている。
玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」も玄洋ビル内にあった。1978年(昭和53年)11月に開館し、2008年(平成20年)5月末をもって閉館したが、資料は福岡市博物館に寄託された。

玄洋社跡

玄洋社跡記念碑
明治、大正、 昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守りアジアの解放を目指して活躍した玄洋社は 自由民権運動の中で、明治十二年(一八七九)談生した。
以来昭和二十一年(一九四六)解散まて、六十七年にわたりこの地を本拠地として活動を続けた。
 平成九年十月
  社団法人玄洋社記念館建之


玄洋社墓地(崇福寺)

臨済宗大徳寺派の寺院、三道場のひとつ。福岡藩主黒田家の菩提寺。かつての伽藍は広大な寺域を誇っていたが、福岡大空襲で灰燼に帰した。(現在の寺域は戦前の五分の一の規模に縮小)

玄洋社墓地には、頭山満、来島恒喜、高場乱の墓、そして154基ある玄洋社員の墓などがある。

西都法窟
勅賜萬年崇福禅寺

頭山満先生之墓所

玄洋社墓地

玄洋社基地整備趣旨
「玄洋社の生みの親」高場乱の生誕百九十年を迎えるにあたり その偉業に思いを触せ高場乱の子孫である株式会社アキラホールティンクス代表取締役安部泰宏は私財を投じて、玄洋社基地を整備し、遺徳を未来永幼に伝え残すものとする。
 令和四年八月二十日

安部泰宏氏は、玄洋社の創始者・高場乱の姉の子孫にあたるという。
高場乱保存会「人参畑塾の会」顧問、高場乱の銅像建立にも尽力。

獨 朗 天 眞

先亡霊塔

昭和十一年十月改葬の折、立ち並んでいた玄洋社員の墓標を整理し、全物故者を弔うために五輪塔が建てられた。
裏面には論語の一節「殺身成仁」(自分を犠牲にして仁を成す)(頭山満書)
※写真撮り忘れ

場所:

https://maps.app.goo.gl/VwtnVS626nUnXYWs8


頭山満先覚之墓(玄洋社墓地)

玄洋社の先覚者として、祀られている頭山満。

頭山満先覚之墓

昭和十九年十月五日於富士山麓御殿場帰幽享寿九十歳乞分骨同年十一月六日葬於崇福寺玄洋社墳域
 後学 宮川五郎三郎敬書

宮川五郎三郎は、奈良原至の弟。
奈良原至は、玄洋社の草創期からの社員で 玄洋社随一の豪傑と呼ばれた人物。
宮川五郎三郎は玄洋社の組織の根幹を支えた人物。


高場乱(玄洋社墓地)

高場 乱(たかば おさむ)
天保2年10月8日(1831年11月11日)- 明治24年(1891年)3月31日)
江戸時代末期の女性儒学者で、眼科医、教育者。
頭山満ら多くの国士を育てた。「人参畑の先生」。

代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を務めていた高場家・高場正山の末子として生まれる。
高場乱は男子扱いで育てられており、天保12年(1841年)、10歳で男性として元服した。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に儒学者・亀井昭陽(亀門学)の亀井塾に入った。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。

明治6年(1873年)、福岡藩住吉村の薬用人参畑の跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。
興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが、頭山満であり、のちに玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎などが、いずれも興志塾で学んだ。
頭山満らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなど、弟子となる玄洋社の面々を見守ってきた。
弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受け嘆きの歌を詠んでいる。
来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。

高場先生之墓

勝海舟の揮毫

碑面題識勝海舟先生之書也

2023年には高場乱の生誕190周年を記念し、高場乱の銅像が建立された。
「高場乱騎牛象」牛に横乗りする高場乱

高場乱先生之像

高場乱先生は、天保二年(一八三一)博多の瓦町に誕生。家は代々、眼科医である。乱先生の父である正山先生は高場流眼科の九世を継承したが、元々は福岡藩医の一統でもある。
正山先生には二女があり、長女は小田家に嫁いだことから、次女の乱先生を高場流眼料の後継者に据えた。しかし、時は封建時代。正山先生は乱先生を男子として福岡藩庁に届け出、刀を持つことも許された。正山先生は乱先生を男子として教育。乱先生も正山先生の意に応え、医学を学び、漢籍の学問にも励まれた。後年、正山先生の代診を務めるほど乱先生は評判の眼料医になられた。
乱先生は、福岡藩の薬草園である人参畑近くに学塾を構え、眼科診療の傍ら、有為の青年教育にも尽力された。この塾が人参畑塾こと興志塾である。乱先生は塾生からの謝礼どころか、貧しい人からは治療代を受け取らない無欲の人。博多の衆は乱先生を「人参畑の婆さん」と、尊敬と親しみを込めて呼んだ。
乱先生の学墊には、入門を願う青年が多数押しかけた。しかも、塾生の行動に対し、一身に責任を負うという気概を示され、ごの事実は今もって語り草てある。塾は歴史に名を刻む著名な志士を多数輩出。門弟たちの活躍の場は遠くアジアにまで及び、乱先生の教育方針が、どれほど壮大なものてあったかが窺いしれる。しかし、明治二十四年(一八九一)三月三十一日、乱先生は病没された。
医師として自身の余命を知り、静かに息を引き取られたという。弟子たちは旧藩主黒田家の墓地を分けてもらい、乱先生の墓を建てた。葬儀の会葬者は五百人余り。葬列は整然とじて、見送りの人垣が続いたという。
墓碑銘には、乱先生の人柄を著す言葉が簡潔に刻まれている。
金銭や名誉を求めず、清貪に負けず、よく他人を援け、自身の事は後回しだった。名を成した後も、師について易経を学んだ。時代が変わっても、その教育方針に変わりはなく、門下生たちは皆、豪傑揃いで盛ん。皆、義を胸に抱いたものばかりで、美しい綾を織りなすがごとく。だが、志は大きいが行いが伴っていない。この春、俄かに高場先生は具合が悪くなり、亡くなられた。その天命は果てしないだけに、敬愛する人を喪い茫然とするばかり。形もなく、変化もなく、どどまることを知らない万物の母。その識見が高い人はかくれてしまった。平原は薄暗くなり、その魂は愛する故鄉に帰るがごとく天に還っていった。
  高場乱先生略伝慧碑後面の「勝海舟書」より


来島恒喜之墓(玄洋社墓地)

来島 恒喜(くるしま つねき)
1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 – 1889年〈明治22年〉10月18日
玄洋社元社員。
条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画。
計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行。

1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。
爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発。来島はその場で短刀で喉を突き自害。享年29。
大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝と踝に重症を負い、右脚を切断することとなった。

来島も学んだ興志塾(通称・人参畑塾)の塾長高場乱は、かつて塾生だった来島が爆弾テロ事件を起こしたことを聞くと、国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判した。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる、

来島の葬儀の際、弔辞を読むこととなった頭山満は「天下の諤諤(がくがく)は君が一撃に若(し)かず」と、国民輿論を無視し条約改正に突き進む政府の政策を打ち破った来島を激賞した。

来島の墓碑を寄贈した石工の広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

来島恒喜之墓

明治廿二年十月十八日於東京霞関自刃行年三十一


玄洋社墓地内の碑群

満洲義軍志士之碑
明道館柔道之碑

154基ある玄洋社員の墓

時間がなかったので、福岡藩主黒田家の墓所には訪れず。
そのあたりは、また次回かな。


頭山満墓(東京・青山霊園)

頭山満の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

頭山 満 墓
室 峰尾

1855年、福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれた「筒井満」。
1873年の春、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改め「頭山満」となる。
頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってから。

昭和19年10月5日
享年89歳

※青山霊園撮影:2021年5月


来島恒喜之墓(東京・谷中霊園)

来島恒喜の墓は、東京の谷中霊園にもある。参考掲載。

来島恒喜之墓
 頭山満書

来島恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建立されたが、その後に、玄洋社の頭山満によって長け替えられた。当初の墓石も、傍らに残されている。

来島恒喜の碑。
昭和13年に頭山満揮毫で墓碑が建立されたことを記す。

当初の墓石、一部が摩耗している。
来島恒喜之墓 勝安芳書

明治廿三年十一月建

東京の来島恒喜の墓は、谷中霊園の乙10号17側

※谷中霊園撮影:2026年1月


頭山満手植えの楠

西新緑地に、頭山満が手植えしたクスノキがある。

楠木の由来
このクスノキは、政治結社「玄洋社」の創設者の一人、頭山満翁(1855~1944年)が植えたものです。
そばに建つ石碑には、慶応元(1865)年、頭山満翁が11歳の時に「楠木正成のような人になりたい」との願いを込めて生家の庭に苗木を植えたとあります。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZsAJ6iL2P3ecxZhb7


中野正剛

中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
国会議員であった中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

中野の雄弁と早稲田の聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、憲兵隊の制止どころではなかった。
当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、東條首相を痛烈に批判。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。宇垣一成擁立を進めるが重臣会議での連携不足で失敗、次いで東久邇宮稔彦王擁立を進めるが、東條側の対策の打つ手が先行してしまう。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会(東方会の改称)の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
東條英機は大いに溜飲を下げたが、国会議員であった中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。
釈放されたものの、憲兵2名の見張りがつき、追い詰められた中野は10月27日に割腹自殺した。
享年57歳。

戦前の帝国議会議員で最初の自殺者であった。


中野正剛先生像

中野正剛像
昭和30年3月27日に鳥飼八幡宮境内に建立された。


中野正剛先生碑
 緒方竹虎書

緒方竹虎と、中野正剛は修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞記者を通じ、変わらぬ親友であった。大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。

中野正剛先生略伝
明治十九年二月十二日福岡市西湊町(現荒戸一丁目)ニ生レ中学修猷館、早稲田大學ニ学ブ。
東京朝日新聞記者、東方時論主幹トシテ健筆ヲ揮イ郷土紙九州日報ヲ経営ス。
福岡県一区ヨリ衆議院議員ニ当選スルコト八回在職二十年四月。
其間大蔵参與官逓信政務次官トナル。
後、東方会ヲ組織シ全国ノ青年同志ヲ糾合国事ニ奔走ス。
性剛直果断、愛国ノ至誠ハ熱血ノ雄弁不抜ノ筆陣トナリ毅然トシテ所信ニ邁進、太平洋戦争酣ナルヤ戦局日ニ非ナルヲ憂イ東條内閣ノ退陣ヲ図リ其収拾ニ盡瘁。
東條首相ノ熾烈ナル弾圧ニ屈セズ抗議スルモ志成ラズ。
昭和十八年十月二十七日渋谷ノ自邸ニテ自刃。
 歳 満五十七
  門人 進藤一馬 謹書

豪傑之志
雖無文王
猶興

 耕堂正剛

孟子「豪傑之士雖無文王猶興」
「才知や徳のある豪傑は、文王の教えがなくても、自発的に立ち上って善を行うことができる」の意
中野正剛が提唱した猶興は アジア主義(南進論)の思想的拠点、「猶興居(ゆうこうきょ)」に関連し、中野正剛の「アジア主義」と「東方会」の活動の根幹をなす概念。
「猶興(東洋の興隆)」は中野正剛の理想を表している。

中野正剛先生旧家跡

鳥飼八幡宮の参道脇に。

鳥飼八幡宮

筑前藩主黒田家の氏神、 福岡市の鎮守。
旧社格は県社。2022年に建て替えられたモダンな神社建築。
神功皇后が胎内の応神天皇の将来をお祝いした地・鳥飼村に社を建てたのが創始という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/SBRmrqjoGFe2g9Yf9


中野正剛生家跡

電信柱に、生家跡の表記があった。石碑があるものばかり思って探していたら、これはなかなか見つける難易度が高い。

中野正剛生家跡
明治19年(1886)年2月12日、旧筑前藩士中野泰次郎とトラの長男として、当地の伯父中野和四郎宅で出生。幼名甚太郎。
中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。(昭和18年(1943年)10月27日未明、知らせで駆けつけた頭山満が、「古武士のような見事な最期」と言った。)中野正剛については、ほとんど詳細な研究がない。(松岡正剛「千夜千冊」より)

場所:

https://maps.app.goo.gl/A4zabw5yiDoQ16FK7


中野正剛墓(多磨霊園)

中野正剛の墓は、東京の多磨霊園にもある。参考掲載。
12区1種1側2番

中野家之墓

昭和十年六月 中野正剛 建之

扁額は、頭山満。
碑の撰は徳富蘇峰、書は緒方竹虎

才該衆美 氣吐長虹 矯々不群 國士之風

友人 蘇峰徳富正敬撰
同学 緒方竹虎書

※多磨霊園撮影:2026年1月


緒方竹虎墓(青山霊園)

中野正剛の友であった緒方竹虎。
玄洋社の頭山満は緒方竹虎の結婚の仲人を務めた。
そして、緒方竹虎は頭山満の葬儀副委員長を務めている。葬儀委員長は、廣田弘毅であった。

緒方竹虎は、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。

緒方竹虎の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

緒方家之墓

※青山霊園撮影:2021年5月


内田良平墓(多磨霊園)

黒龍会主幹。柔道家。
頭山満の玄洋社の三傑といわれた平岡浩太郎が伯父(父・内田良五郎の実弟)。
明治34年(1901年)黒龍会を結成。玄洋社の一部がアジア主義を掲げて大陸で活動するために、玄洋社初代の平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として設立。頭山満が顧問であった。
昭和6年(1931年)に大日本生産党を結成し、その総裁となる。
昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれた。
昭和9年(1934年)大本教系昭和神聖会副統管。
昭和12年(1937年)7月26日死去。没年64歳。墓所は多磨霊園14区1号9番地。

内田良平之墓

頭山満書

昭和12年7月26日逝去 享年64歳
 昭和13年7月26日建之

※多磨霊園撮影:2026年1月

※福岡の写真撮影:2025年7月


福岡大空襲名残の戦跡を巡る(福岡博多の戦跡散策4)

福岡博多の戦跡散策、その4になります。
雨が降る中、飛行機の時間も迫っていたので、空港に戻る地下鉄沿線でさくっと散策できそうなところを何箇所かピックアップして巡ってみました。

その3は、こちら

陸軍墓地から空港に向かう帰りに、さくっと寄ってみた感じです。


福岡大空襲

福岡大空襲は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)6月19日から翌日の6月20日までアメリカ軍により行われた空襲。
福岡県福岡市の市街地を標的にした。
これにより1,000人以上が行方不明・死亡となった。

マリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊237機は、途中14機が引き返し2機が父島と宮崎に投弾、221機が九州を北上して福岡上空に到達。福岡市南部の脊振山方面から進入してきた爆撃隊は、日本時間6月19日23時11分から焼夷弾投下が開始された。
博多や天神を中心に爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。


戦災地蔵尊(黒田稲荷神社)

福岡大空襲後に福岡市内にはいくつかの戦災地蔵尊が設置された。
そのうちの一つに手を合わせてきた。

黒田稲荷神社
黒田稲荷神社は、寛政11年(1799年)頃、黒田藩が福岡城内に祀ってあった社を、現在地(旧下対馬小路)より数間北の場所へ勧請したものと伝えられています。
当時の名称は「正一位金一稲荷大明神」呼称は「金一稲荷」「金一様」であったと推察されるが、城内から勧請した理由に、より藩を尊び、何時からか、黒田稲荷と呼ばれるようになった。
福岡大空襲により全焼し、戦災復興の都市計画案により現在地に移動。
2月の初午祭、7月の夏越祭、12月の鞴祭を執り行っております。

戦災地蔵尊
初代地蔵尊は、昭和25年(1950)5月に旧下対馬小路の町民方々の浄財により建立
砂岩材質の為、ひび割れの侵食、崩落の為、平成18年再建
福岡大空襲により三百八人の死者をだした旧奈良屋校区には、本尊と共に須崎町(旧下州崎町)の恵比須神社境内に、古門戸町(旧中対馬小路)の沖濱稲荷神社境内に、戦災地蔵尊が祀られています。
旧十五銀行での犠牲者を祀った「じゅうご地蔵尊」は栄昌寺の移転で西区今宿の寺境内に移動
須崎問屋街(旧上州崎町)入口東側の「州崎地蔵尊」は東区馬出の宗玖寺に移動

福岡大空襲
昭和20年(1945年)6月19日午後11時11分より、翌20日午前零時53分までにわたり、南太平洋の米軍マリアナ基地から飛来した230機あまりのB29爆撃機が、福博の街を、1358トンもの焼夷弾による無差別爆撃をした。
福岡市の調査では、焼失面積は市域の29パーセント、東西は御笠川から涌井川までの5キロ、南北は博多港の海岸線から櫛田神社、大濠公園までの1.8キロに囲まれた区域はほぼ全焼、被災戸数は、全戸の18パーセントの、12,692戸、被災者数は市民の22パーセントの60,599人、死者は、郡都合わせて868人、行方不明者107人、負傷者1,048人なお負傷者のうちその後、死亡した人も多く死者数は未定。

中央が戦災地蔵尊

合掌

場所

https://maps.app.goo.gl/X6zM9PDy2wQ7VMXKA


戦災記念碑(冷泉公園)

冷泉公園にある「戦災記念碑」。
昭和40年の建立。
福岡大空襲に際しては、特に奈良屋、冷泉、大浜、大名、 簀子の5校区の被害が激しく多くの死傷者をだしている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/fukuoka_fukuoka_010/index.html

ん。戦災記念碑に近寄れない。。。

なにやら、イベント(雨天中止だけど)で、公園が占有されているようで。

戦災記念碑は、それはそれとして、公園としての機能が最優先。
まあ、そんな日もあります。。。
このあたりは運の善し悪し。

場所

https://maps.app.goo.gl/6XGuj5xdbCUUSWsZ8


疎開道路

博多呉服町界隈の町並みは、城下町ということもあり、碁盤の目のように細い道が縦横に区画整備されていますが、そんななかで少しだけ、他の道路よりも幅の広い道路がある。
その名も「疎開道路」
福岡市が米軍空襲を予感し、6町にわたり約600メートルの長さにわたり、延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅させた道路。
この道路に面して、日本で最初の本格的な禅寺とされる「聖福寺」(扶桑最初禅窟)が鎮座しており、結果として、福岡大空襲に際しては「聖福寺」は類焼を免れている。
※「聖福寺」を今頃調べてみたら、広田弘毅墓や緒方竹虎墓などがあった、やっぱりここは再訪しないと、、、。

場所

https://maps.app.goo.gl/EckhvgyyxMwWfxf19


福岡博多の美食

スキマ時間で、名物を堪能。

仕事の移動中に、「だるま」

これは、次の日の昼。
おすすめというので。

泊まったホデルの朝飯は、もちろん明太子ご飯。

初日の夜の会食。

二日目の夜の会食

帰り間際に、博多駅でもう一回「だるま」

※撮影:2024年10月

博多、楽しいですね、また来ます!


福岡陸軍墓地(福岡博多の戦跡散策3)

福岡の戦跡散策その3です。
「福岡縣護國神社」には、慰霊碑のたぐいはなかったけど、代わりにこの福岡陸軍墓地に集約されている感じです。

その1はこちら。

その2はこちら。

福岡陸軍墓地の由来
 明治19年 陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に設置された。陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。
 そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州・上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立、他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。

「谷公園」が正式な公園の名称。
ゆえに、「谷陸軍墓地」とも呼称される。

国有地であれろ、管理は福岡市の管轄。
福岡陸軍墓地慰霊祭の主催は、福岡県郷友連盟が執り行っている。


福岡陸軍墓地巡拝

厳かなる聖域へ。

一段目の石段を登り、ちょっとした空間の先に、二段目の石段がある。

3段目に慰霊碑が林立する空間が控えている。


福岡県西方沖地震の被害復旧に関して

大東亜戦争戦病歿者之墓に刻まれた「福岡県西方沖地震」に際しての福岡陸軍墓地の被害と復旧に関して。別枠で記載をしておきたい。

福岡県西方沖地震の被害復旧経緯
平成17年3月20日(日)午前10時53分 マグニチュード7の地震が発生し、当墓碑にも「ズレ」等相当の修復があった。此の修復については諸官公庁の対応は無かった。
(1)平成19年3月 止むなく民間有志団体にて修復改良委員会を組織し、広く募金をし約千百万円の浄財を得て、第1次として石碑のズレ直しを行った。
(2)さらに協議の結果、改組された新委員会では、英霊の御声を聞いて各墓碑内部を開き、その惨状に驚き以後誠心誠意修復改良に努め平成20年12月6日墓碑の修復落成式を行った。
(3)平成20年10月 NPO陸軍墓地修復改良保存委員会を設立し、第3次修復改良事業を行っているが、国による墓地管理の1日も早い実現を望んでいる。

福岡県西方沖地震の被害復旧内容
第1次
石碑7基の内「ズレ」ている5基について、重機が使えないので人力作業により修復す。平成19年10月21日の秋季慰霊祭に間に合った。
第2次
委員会の体制を切り替えて墓碑の扉錠を破壊して内部調査、その惨状に驚く。水抜きの上吸込枡の設置等の排水改良、倒壊棚は撤去し新しく楠材を使用して組み替え。1万4千有余のお骨の奉安替え。正面階段2か所に手摺取設。車椅子通路の新設等を実施す。
第3次
委員会をNPOに変更して登記。各碑前の繁りすぎた樹木を撤去し榊を植栽しての改良。案内板・由来板等の制作。公的な交渉を進行中
 (平成22年1月末現在)


忠霊鎮護之地

最初に目についたのが、「忠霊鎮護之地」の碑
聖域の入口。

歩兵第24聯隊の戦没者の階級氏名が刻まれている。


手水盤

献奉
福岡市曹洞宗 星華婦人會
昭和11年7月建設


灯篭

奉献
愛国婦人会福岡県支部
皇紀2596年

皇紀2596年は、1936年(昭和11年)建立。
手水盤と同じですね。


日清戦役戦病歿者之墓

日清戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍少将 森部静夫 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

森部静夫は、福岡県出身。最終階級は陸軍少将。士官生徒10期。
息子の森部静武はバイオリニストで有名。


日露戦役戦病歿者之墓

日露戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之 
陸軍大臣 林銑十郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

林銑十郎は石川県出身。最終階級は陸軍大将。士候8 陸大17。
揮毫の昭和10年の陸軍大臣が、林銑十郎であった。
昭和12年に内閣総理大臣に就任するも4ヶ月の短命政権におわった。昭和18年に薨去。


青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓

青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍中将 西川虎次郎 謹書

皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。

西川虎次郎は、福岡県出身。最終階級は陸軍中将。士官生徒11 陸大11期。
第13師団長や第1師団長などを歴任。


満洲及上海事変戦病歿者之墓

満洲及上海事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍少将 中牟田辰六 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

中牟田辰六は、佐賀県出身士族。最終階級は陸軍少将。士候14期。
歩兵第24連隊長(通称:福岡聯隊)や歩兵第27旅団長などを歴任した。


支那事変戦病歿者之墓

支那事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之 
陸軍中将 長瀬武平 謹書

皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。

長瀬武平は、富山県出身。最終階級は、陸軍中将。士候18 陸大30期。
佐世保要塞司令官や、留守第12師団長(北部九州)などを歴任した。
昭和15年に予備役となるが、昭和20年には対馬要塞司令官に就任している。


殉職将兵合葬之墓

殉職将兵合葬之墓
紀元2595年建之 
歩兵第24聯隊長 上村利道 謹書

紀元2595年は、1935年(昭和10年)

上村利道は熊本県出身。最終階級は陸軍中将。士候22 陸大34期。
昭和8年に、福岡聯隊と呼称される歩兵第24聯隊長に就任。
終戦時の昭和20年には、第36軍司令官に就任、本土決戦に備えた精鋭の決勝兵団の軍司令官であった。


大東亜戦争戦病歿者之墓

大東亜戦争戦病歿者之墓
勲一等旭日大褒章 剱木亨弘 謹書

剱木亨弘(けんのき としひろ)は福岡県出身の政治家。
佐藤栄作内閣の文部大臣、政界引退後は、福岡県立美術館長や共立女子大学学長などを歴任した。

碑文
 昭和20年8月15日「万世のために太平を開かん」との詔により 万魁の涙をのみ終戦を迎えた その後36年営々として祖国再建に努力いまや世界の大国となった 惟うに今次の大戦は自存自衛のため日本国の存亡をかけ 虐げられた民族の解放と万邦共栄を願っての聖なる戦いであった 遂には敗戦の悲境に沈淪せしも次々よ亜細亜の民は独立と自由の栄光をかち得たことは 世界史上嘗てなき歴史の荘厳なる事実である
 この間 わが郷土部隊は各地の激戦に参加し言語に絶する凄惨苛烈なる闘いを展開 軍の華とうたわれた かくして本県出身の英霊 8万8千676柱に及ぶ しかるに碑の未だ無きを嘆く 同じ戦場に生死をともにし万死に生を得た戦友並びに遺族とともに先覚有志のこころざしを承け 多くの人々の赤心浄財を募り 本日「大東亜戦争戦歿者之碑」建立となる
 改めて英霊の崇高なる精神と偉大なる業績に対し限りなき敬慕と感謝のおもいをとこしえに伝えまつる
 み霊よ とわに安らかなれ
  昭和57年5月30日
   福岡県大東亜戦争戦歿者戦歿者慰霊顕彰会 建立


ガ島戦士之碑

ガ島戦士之碑
福岡市長 新藤一馬 謹書

昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間 英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに 食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山をよく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊 此の地に静まる
 昭和四十九年三月吉日建立
  ガ島会


ビルマ・タイ 垃猛雲南地区戦没者之碑

ビルマ・タイ
垃猛雲南地区戦没者之碑
中国雲南の激流怒江の上に聳ゆる垃猛並びに雲南地区に眠る三千四百余の戦没者の御霊安かれと祈る
 昭和五十九年九月建立
  垃猛雲南地区戦没者之碑 建立賛同者一同


明治維新志士之墓

明治維新志士之墓

明治維新志士之墓由来記
 畏くも、明治天皇の有難き 聖旨を奉体として筑前藩士黒田長知が明治元年十一月筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を同馬出村字東松原に馬出招魂社を創設し明治維新以来国事に殉した藩出身志士の忠霊を慰められた再来祭祀を厳修して来たのであるが昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡県護国神社が創立されたので同日この両招魂社の御神霊を同神社に合祀せられた
然るに両招魂社の施設は該地にそのまま存置されたので福岡県護国神社に於いては毎年ここに墓前祭を執行し祭祀はこれを継続して来たのであるが戦後都市の急激な発展に伴い千代松原の浄地も激変しこの招魂社跡の諸施設も或いは倒され或いは破壊されてその聖域はこれを旧の如く保持し得ざるに至りこれが移転は多年の懸案であった此の秋に際り福岡県に於ては東公園整備を計画両招魂社跡の移転について要望があったので検討の結果御神霊は神社に合祀済みであり遺跡は由来の地である東公園地内に保持しその御遺骨はこの陸軍墓地にお鎮まり願いこの墓碑を建設永遠に祭祀を厳修する事になった今ここに移した祭神名を列記すれば次の通りである
 謹んで建碑の由来を録し後世に遺す次第である
   昭和四十四年八月十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一


満洲及上海事変戦病死者合同碑

満洲及上海事変戦病死者合同碑
第十二師団長 杉山元 書

杉山元は福岡県出身。最終階級は元帥陸軍大将。士候12 陸大22期。
昭和7年2月29日に第12師団長に就任している。第12師団の編成地は小倉。
なお、昭和8年に3月18日に杉山は陸軍航空本部長に転籍している。
杉山元は、こののち昭和11年に教育総監に就任し陸軍大将を拝命。昭和12年に陸軍大臣、昭和15年に参謀総長、元帥。そして昭和19年に再び、教育総監、そして陸軍大臣となり、昭和20年に第一総軍司令官で終戦を迎えた。
そして昭和20年9月12日に自決。


明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊忠死之碑

明治廿七八年之役=日清戦争
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)の戦死者の慰霊碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊下士忠死之碑

明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊兵卒忠死之碑


個人墓

個人墓もいくつか。

なお、個人墓の中に、青島でのドイツ兵捕虜の墓もあるというが、見落とし。
このあたり、事前の調査を怠ったがゆえの凡ミスです。
ドイツ兵捕虜墓のさらに奥には、協会標柱もあるというが、あわせて見落とし。
福岡、再訪必須だが再訪・・・できるのか?

非常に綺麗に整備されている聖域。
行政に対する不満が、福岡県西方沖地震に際しての復興の記録で爆発していたが、保存会の皆々様のご尽力に感謝。ありがとうございます。

それぞれの慰霊碑に合掌巡拝

ありがとうございました

雨が降る中での参拝であったが、福岡滞在中に、どうしても訪れたかった聖地。
福岡縣護國神社と、福岡陸軍墓地を巡拝できたので、福岡県の最初の一歩としては、まずまずかと。これ以上は、贅沢な感じです。時間的な制約などもありましたので、また今度、ゆっくりと来ましょう。

場所

https://maps.app.goo.gl/aWVGktFJAp7jdmKT6

※撮影:2024年11月


関連

陸軍墓地巡拝

はじめに

西部軍司令部防空作戦室残壁(福岡博多の戦跡散策2)

福岡城阯の東端に、西部軍司令部があった。
そこにコンクリート壁が残っているというので足を運んでみた。

その1はこちら。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No2-30
1948年4月7日、米軍撮影の航空写真を加工。

北西が、大濠公園や舞鶴公園、福岡城址など。

福岡城址、拡大。

部軍司令部防空作戦室は中央。南側に、コンクリート壁が設けられた


西部軍司令部防空作戦室残壁

西部軍司令部があった福岡城三の丸跡。
戦後、米軍の接収を経て、福岡高等裁判所や地方裁判所の庁舎が置かれ、2023年10月に舞鶴公園の駐車場として整備された。

西部軍司令部防空作戦室残壁
1940年12月、防空を担う西部軍司令部が小倉市から福岡市に移転された。
1942年頃、地下1階、地上2階のコンクリート造の防空作戦室が完成しました。この作戦室には「情報表示版」「情報表示燈」が設置され、これらの通信機と通信隊員・参謀・司令官を爆撃から保護するため、壁の二重構造などの特殊な設計が施されていました。
このコンクリート壁はその壁の一部です。

なかなかに圧巻なコンクリート壁。

場所

https://maps.app.goo.gl/cU3qrBtsZhTyLKAj6

撮影:2024年11月

その3はこちら


関連

そういえば、広島城にも防空作戦室(中国軍管区司令部)がありました。

福岡縣護國神社(福岡博多の戦跡散策1)

2024年10月末に、福岡県に出張がありまして。
例のごとく、スキマ時間に福岡市内を散策してみました。
実は、いまの仕事7年くらいしているけど、九州出張は初めて。意外と九州とは縁がなかったのだ。

まずは、福岡縣護国神社へ。


福岡縣護國神社

明治維新から大東亜戦争に至るまでの国難において、尊い生命を捧げて私たちをお守りくださった福岡出身の方々約十三万柱の御英霊をお祀りしている。
祭神の柱数は護国神社では沖縄県護国神社(17万8689柱)に次いで、二番目に多い。

明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和14年(1939年)、招魂社の制度改正により「福岡護國神社」に改称した。
これとは別に、県内には他に4つの護国神社があった。
 山川護國神社 
  三井郡山川村(現・久留米市)
  明治元年、久留米藩知藩事有馬頼咸により創建
 柳河護國神社 
  山門郡三橋村(現・柳川市)
  明治元年、柳川藩主立花鑑寛により創建
 八景山護國神社 
  京都郡祓郷村(現・みやこ町)八景山
  明治元年、小倉藩主小笠原忠忱により創建
 田川護國神社 
  田川郡伊田町(現・田川市)。
  明治2年、華族高千穂教育により創建
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座し、上記の4つの護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後は「正中宮」と称していた。
日本の主権回復後の昭和32年(1957年)5月17日、元の「福岡縣護國神社」に復した。


福岡縣護國神社参拝

大鳥居
檜の原木で建てられたものとしては日本最大級の鳥居

福岡聯隊会の奉納狛犬

福岡聯隊会

  • 歩兵第24聯隊
  • 歩兵第124聯隊
  • 歩兵第226聯隊
  • 歩兵第113聯隊
  • 歩兵第187聯隊
  • 歩兵第292聯隊
  • 歩兵第359聯隊
  • 歩兵第453聯隊
  • 歩兵第517聯隊
  • 歩兵第72聯隊第2大隊
  • 独立歩兵第12聯隊
  • 第312独立歩兵大隊
  • 第314独立歩兵大隊
  • その他福岡聯隊にて編成された各隊

清々しい神域。

拝する。

ありがとうございます。

広々とした境内であるが、なにかが足りない。
慰霊碑や顕彰碑がない護国神社であった。


御朱印(福岡縣護国神社)

御朱印を頂きました


招魂斎庭(福岡縣護国神社)

明治3年の鳥居。護国神社前身の招魂社時代のものと思われる。
妙見招魂社のもか、馬出招魂社のものかは不明。


あゝ特攻勇士之像(福岡縣護国神社)

私たちは決して忘れはすまい

日本が昭和十六年から二十年にかけて、日本の独立と存続とを守り、且つ欧米列強から植民地化されたアジア諸国を開放するために大東亜戦争で米・英・支・蘭と戦い、緒戦の赫々たる戦果にも拘らず、戦い利非ずして戦況不利となる。沖縄県にまで敵の上陸を許す事態となり、この敵の圧倒的戦力を阻止すべく、遂に一機一艇をもって敵艦に体当たりする苦渋かつ壮絶な攻撃戦法を取らざるを得なかったことを。

持てる力をすべて尽くして散華された二十歳前後の英霊の崇高な勇姿を末永く後世に伝えるべく、特攻隊戦没者慰霊顕彰会の協力を得て、ここに設けた。
戦後の教育と謀略とにより平和・個人主義に偏りがちな現代の人よ、福岡県出身の三○一名の英霊の名を台座に収めしこの像を見て触れて、自分の命に代えても護るものが存在するということを考えて欲しい。
 平成二十四年十二月八日(大東亜戦争開戦記念日)
  特攻勇士之像建立福岡県委員会


平和の像(福岡縣護国神社)

球技禁止って貼られているのが、なにやら悲しい。

平和の像
 第2次世界大戦に斃れし戦士230万 痛恨なり 本県の御霊実に8万8千余に及ぶ 永遠につきざる縁者の 断腸の思い
 されど戦火おさまり巡り来る30余春秋 いま 遺族 県民あい集いて 涙を押さえ世界の平和を祈る ここに万感を込め この神域に”平和の像”を建立す
 優しかりし父よ 愛しき夫よ 子らよ 兄弟よ
 願わくば 空高く 海清く 緑深きわがふるさとに安らぎ給え
  昭和51年6月吉日  福岡県遺族連合会 会長 野見山清造

 この像は五基のブロンズ像から構成されています。また台座後面のレリーフは、戦死された方々のみたまを象徴しています。
 男性像は遺された父であり兄であり弟であり、女性像は母であり姉妹であり、児童像は遺児です。
 亡くなられた方々、遺された人々、みんなの努力によって今の時代が築かれたことを表しています。
 この群像は、置かれる場所の雰囲気を考慮し、静的な中に深く平和への願いを込めたものです。
  制作:廣瀬不可止、小田部泰久、柴田善二、小串英次郎、木戸隆一 


大正天皇御野立所跡・大正5年大演習観兵式玉座御跡
(福岡縣護国神社)

もともと福岡縣護国神社の地は、演習場であった。
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)が建立。


末社・堀出稲荷神社(福岡縣護国神社)

由緒
大正年間福岡歩兵聯隊兵士の夢枕に立たれ「吾は祐徳稲荷の弟なり 永き年月埋められたままである 今こそ吾を掘り出し吾を祀れ」と御神託が下り その処から稲荷神の御神体が掘り出されました
その史実に基づいて掘出稲荷と命名されました
此の地に御遷座となったのは 昭和27年9月3日であります

福岡縣護國神社

https://fukuoka-gokoku.jp

福岡に居たときは気が付かず、こうして記事をまとめている最中に知ったのだが、
 境内には「台湾歩兵第一聯隊ゆかりの奉納狛犬」
 舞鶴公園の北側には「福岡聯隊の碑」「営門の桃の木」
 NHK福岡放送局の向かいには「広田弘毅像」
 東公園には「官祭 妙見馬出招魂社遺跡保存地」
次回の課題ですね、見逃し悔しい、、、


福岡城址

通りすがらに。

※撮影:2024年10月

その2はこちら


関連