広島護國神社と戦跡散策

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平成29年(2017年)

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廣島護國神社

3月3日夕刻。この日は広島中心部に宿を取っていた。
宿に向かう途中、広島護國神社に立ち寄り。
実は3回目の参拝。とはいっても10年ぶり。
その10年前は、一部で有名な例の「万灯みたままつり」の参拝でした。それはそれで懐かしい思い出…

広電に揺られて紙屋町経由で社頭に到着したのは15時30分のこと。
現在の鎮座地は「広島城跡」内。
戦後の遷座。

広島護国神社

明治元年12月、戊辰戦争において陣没された七十八柱を「水草霊社」に奉祀されたのが創建。

以来、大東亜戦争に至るまでに戦没された御英霊約九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の御神霊をお祀りしている。

昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、創建の二葉の地より西練兵場(旧市民球場の辺り)西端に新社殿を造営し遷座。
昭和14年に広島護国神社と改称。
昭和20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し御社殿すべてを焼失。

写真は旧鎮座地の旧市民球場かいわい。

これは完全に余談。
映画「この世界の片隅に」にて
昭和16年12月に護國神社参道で、すずさんとすみちゃんが貝を売っていた参道は現在の護國神社の地ではなく、被爆前の旧鎮座地(=現在の原爆ドームの向かいの旧市民球場界隈)。

画像は「この世界の片隅に」ロケ地マップ及び絵コンテ集より

被爆後、同地に小祠にて再建。
昭和31年秋に現在の広島城跡に新社殿が造営され遷座。
平成5年4月、本殿拝殿などが竣功し、平成21年6月に社務所などが再整備され、現在に至る。

深く拝する。

感謝と哀悼を。

御由緒

9万2000余柱を奉斎。
そのうち1万柱は、地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊などの公務原爆関係の御祭神。

社号標は陸軍中将田部正壮。幕末から日清日露戦争の頃の軍人。広島出身。退役後は広島市長も務めている。

双鯉の像
昇鯉の像

狛鯉…ここは確かに広島ですね。

完全に逆光シルエットになってしまいましたが、護國神社らしい力強い狛犬もちゃんとおります。

英霊にささぐ

英霊にささぐ

父慕い
母の育み
幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日 広島市遺族会青年部

神馬像

御朱印を戴きました。
桜柄の靖國神社御朱印帳に各地の護國神社の御朱印を戴く事に。

広島護國神社にはオリジナル御朱印帳が三種類ございました。
凄く悩みましたが戴くのは自粛。 錦鯉の御朱印帳! 巫女さんの御朱印帳!

やはり、広島護國神社といえば「万灯みたままつりの巫女おどり」が有名です。
護國のみたま祭。 御霊を慰める為の華やかなみこ踊りの祭礼。

かなり昔の平成16年(2004)に「万灯みたままつりの巫女おどり」を見学しておりまして。100人位の巫女さんが踊るのですが。
以下はそのときの写真。

まあ、そのはなしは良いかな。戻ります。

護國神社周辺の散策に向かいましょう。


中国軍管区司令部 防空作戦室跡

広島護國神社の向かって左側に。
中国軍管区司令部防空作戦室跡が残っている。
が、工事……

中国軍管区司令部 防空作戦室跡(爆心から約700メートル)
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。

中国軍管区司令部防空作戦室跡。
入れなかったので覗いてみた。

中国軍管区司令部 地下通信室跡

中国軍管区司令部原爆慰霊碑

慰霊碑にて頭を垂れる。
(慰霊碑の撮影をするのを忘れておりました。そういう時もあります……

慰霊碑や中国軍管区司令部のあった場所のすぐ裏は堀があり、そして広島城二の丸跡が。

広島大本営跡

広島護國神社から天守閣のある方へ。
ここに広島大本営の基礎石が残っている。

日清戦争当時、広島城内にあった第五師団司令部建物が 明治天皇の行在所となり大本営が明治27年(1894)9月15日から翌年4月27日まで設けられた。 建物は原爆により倒壊。

基礎石のみが残る空間。

標柱は残るも上部を埋め固められている。

昭憲皇太后御座所跡

こちらは昭憲皇太后の御座所跡。
大本営跡の向かって左側に独立した基礎。

近代化の歩みのなかで、日清戦争当時、 明治天皇と皇后が前線近くの広島まで遷座され指揮を執られたといことだけでも、国を挙げての大決戦であったことを窺い知ることが出来る。

広島城

昭和20年の原爆によってすべてを建築物の焼失。
昭和33年に鉄筋コンクリートにて五層天守が再建。
今回は時間都合により天守閣は外から眺めるのみで…。

広島城趾をあとにして、外堀に沿って歩みを進める。

池田勇人像

逆光のなか、誰の像かなと近づいてみたら、池田勇人でした。
広島出身でしたか。
このポージングはインパクト大です。

歩兵第十一連隊跡

広島城の外堀に。
ひっそりと往時を偲ぶ空間がありました。

歩兵第十一連隊入口正門の門柱跡。
原爆被災するも残存。

門柱の由来
この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。
昭和五十九年九月吉日 歩十一会

歩兵第十一聨隊略歴
一、明治八年五月広島の地に創設。同年九月九日聨隊旗受領
二、明治九年十月萩の乱に出動
三、明治十年西南の役に出動
四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦。同二十八年七月復員
五、明治三十三年北清事変に出動
六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同三十八年十二月復員
七、大正八年七月シベリアに出兵。
八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦
九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。
十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々克く健闘した。  
ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。  
昭和五十五年七月建立
平成六年八月改刻 歩十一会


どうしても広島護國神社となると「万灯みたま祭」の印象が脳裏を離れないもので。
当時、戴いた団扇を。

護国の祈り

 春は微笑む 広島ざくら
  秋は冴えざえ 城の月
 平和を祈り 偲ぶは誰ぞ
  涙うるむ 大鳥居

 人のこころに 大本営の
  遠い明治を 語る風
 戦雲晴れて 社にねむる
  わが父わが子 わが友よ

 明治大正 昭和の御代の
  歴史映した 大田川
 九万余柱 勲は朽ちず
  いまは御国の 守り神
 
 世界平和を 求めて散りし
  人のいのちの 尊さよ
 護國の庭の 玉砂利踏んで
  御霊に平和 ただ祈る

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