福岡の戦跡散策その3です。
「福岡縣護國神社」には、慰霊碑のたぐいはなかったけど、代わりにこの福岡陸軍墓地に集約されている感じです。
その1はこちら。
その2はこちら。
福岡陸軍墓地の由来
明治19年 陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に設置された。陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。
そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州・上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立、他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。
「谷公園」が正式な公園の名称。
ゆえに、「谷陸軍墓地」とも呼称される。
国有地であれろ、管理は福岡市の管轄。
福岡陸軍墓地慰霊祭の主催は、福岡県郷友連盟が執り行っている。
目次
福岡陸軍墓地巡拝
厳かなる聖域へ。
一段目の石段を登り、ちょっとした空間の先に、二段目の石段がある。
3段目に慰霊碑が林立する空間が控えている。
福岡県西方沖地震の被害復旧に関して
大東亜戦争戦病歿者之墓に刻まれた「福岡県西方沖地震」に際しての福岡陸軍墓地の被害と復旧に関して。別枠で記載をしておきたい。
福岡県西方沖地震の被害復旧経緯
平成17年3月20日(日)午前10時53分 マグニチュード7の地震が発生し、当墓碑にも「ズレ」等相当の修復があった。此の修復については諸官公庁の対応は無かった。
(1)平成19年3月 止むなく民間有志団体にて修復改良委員会を組織し、広く募金をし約千百万円の浄財を得て、第1次として石碑のズレ直しを行った。
(2)さらに協議の結果、改組された新委員会では、英霊の御声を聞いて各墓碑内部を開き、その惨状に驚き以後誠心誠意修復改良に努め平成20年12月6日墓碑の修復落成式を行った。
(3)平成20年10月 NPO陸軍墓地修復改良保存委員会を設立し、第3次修復改良事業を行っているが、国による墓地管理の1日も早い実現を望んでいる。
福岡県西方沖地震の被害復旧内容
第1次
石碑7基の内「ズレ」ている5基について、重機が使えないので人力作業により修復す。平成19年10月21日の秋季慰霊祭に間に合った。
第2次
委員会の体制を切り替えて墓碑の扉錠を破壊して内部調査、その惨状に驚く。水抜きの上吸込枡の設置等の排水改良、倒壊棚は撤去し新しく楠材を使用して組み替え。1万4千有余のお骨の奉安替え。正面階段2か所に手摺取設。車椅子通路の新設等を実施す。
第3次
委員会をNPOに変更して登記。各碑前の繁りすぎた樹木を撤去し榊を植栽しての改良。案内板・由来板等の制作。公的な交渉を進行中
(平成22年1月末現在)
忠霊鎮護之地
最初に目についたのが、「忠霊鎮護之地」の碑
聖域の入口。
歩兵第24聯隊の戦没者の階級氏名が刻まれている。
手水盤
献奉
福岡市曹洞宗 星華婦人會
昭和11年7月建設
灯篭
奉献
愛国婦人会福岡県支部
皇紀2596年
皇紀2596年は、1936年(昭和11年)建立。
手水盤と同じですね。
日清戦役戦病歿者之墓
日清戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍少将 森部静夫 謹書
皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。
森部静夫は、福岡県出身。最終階級は陸軍少将。士官生徒10期。
息子の森部静武はバイオリニストで有名。
日露戦役戦病歿者之墓
日露戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍大臣 林銑十郎 謹書
皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。
林銑十郎は石川県出身。最終階級は陸軍大将。士候8 陸大17。
揮毫の昭和10年の陸軍大臣が、林銑十郎であった。
昭和12年に内閣総理大臣に就任するも4ヶ月の短命政権におわった。昭和18年に薨去。
青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓
青島及西比利亜戦役戦病歿者之墓
皇紀2595年建之
陸軍中将 西川虎次郎 謹書
皇紀2595年は、1935年(昭和10年)。
西川虎次郎は、福岡県出身。最終階級は陸軍中将。士官生徒11 陸大11期。
第13師団長や第1師団長などを歴任。
満洲及上海事変戦病歿者之墓
満洲及上海事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之
陸軍少将 中牟田辰六 謹書
皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。
中牟田辰六は、佐賀県出身士族。最終階級は陸軍少将。士候14期。
歩兵第24連隊長(通称:福岡聯隊)や歩兵第27旅団長などを歴任した。
支那事変戦病歿者之墓
支那事変戦病歿者之墓
皇紀2600年建之
陸軍中将 長瀬武平 謹書
皇紀2600年は、1940年(昭和15年)。
長瀬武平は、富山県出身。最終階級は、陸軍中将。士候18 陸大30期。
佐世保要塞司令官や、留守第12師団長(北部九州)などを歴任した。
昭和15年に予備役となるが、昭和20年には対馬要塞司令官に就任している。
殉職将兵合葬之墓
殉職将兵合葬之墓
紀元2595年建之
歩兵第24聯隊長 上村利道 謹書
紀元2595年は、1935年(昭和10年)
上村利道は熊本県出身。最終階級は陸軍中将。士候22 陸大34期。
昭和8年に、福岡聯隊と呼称される歩兵第24聯隊長に就任。
終戦時の昭和20年には、第36軍司令官に就任、本土決戦に備えた精鋭の決勝兵団の軍司令官であった。
大東亜戦争戦病歿者之墓
大東亜戦争戦病歿者之墓
勲一等旭日大褒章 剱木亨弘 謹書
剱木亨弘(けんのき としひろ)は福岡県出身の政治家。
佐藤栄作内閣の文部大臣、政界引退後は、福岡県立美術館長や共立女子大学学長などを歴任した。
碑文
昭和20年8月15日「万世のために太平を開かん」との詔により 万魁の涙をのみ終戦を迎えた その後36年営々として祖国再建に努力いまや世界の大国となった 惟うに今次の大戦は自存自衛のため日本国の存亡をかけ 虐げられた民族の解放と万邦共栄を願っての聖なる戦いであった 遂には敗戦の悲境に沈淪せしも次々よ亜細亜の民は独立と自由の栄光をかち得たことは 世界史上嘗てなき歴史の荘厳なる事実である
この間 わが郷土部隊は各地の激戦に参加し言語に絶する凄惨苛烈なる闘いを展開 軍の華とうたわれた かくして本県出身の英霊 8万8千676柱に及ぶ しかるに碑の未だ無きを嘆く 同じ戦場に生死をともにし万死に生を得た戦友並びに遺族とともに先覚有志のこころざしを承け 多くの人々の赤心浄財を募り 本日「大東亜戦争戦歿者之碑」建立となる
改めて英霊の崇高なる精神と偉大なる業績に対し限りなき敬慕と感謝のおもいをとこしえに伝えまつる
み霊よ とわに安らかなれ
昭和57年5月30日
福岡県大東亜戦争戦歿者戦歿者慰霊顕彰会 建立
ガ島戦士之碑
ガ島戦士之碑
福岡市長 新藤一馬 謹書
昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間 英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに 食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山をよく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊 此の地に静まる
昭和四十九年三月吉日建立
ガ島会
ビルマ・タイ 垃猛雲南地区戦没者之碑
ビルマ・タイ
垃猛雲南地区戦没者之碑
中国雲南の激流怒江の上に聳ゆる垃猛並びに雲南地区に眠る三千四百余の戦没者の御霊安かれと祈る
昭和五十九年九月建立
垃猛雲南地区戦没者之碑 建立賛同者一同
明治維新志士之墓
明治維新志士之墓
明治維新志士之墓由来記
畏くも、明治天皇の有難き 聖旨を奉体として筑前藩士黒田長知が明治元年十一月筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を同馬出村字東松原に馬出招魂社を創設し明治維新以来国事に殉した藩出身志士の忠霊を慰められた再来祭祀を厳修して来たのであるが昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡県護国神社が創立されたので同日この両招魂社の御神霊を同神社に合祀せられた
然るに両招魂社の施設は該地にそのまま存置されたので福岡県護国神社に於いては毎年ここに墓前祭を執行し祭祀はこれを継続して来たのであるが戦後都市の急激な発展に伴い千代松原の浄地も激変しこの招魂社跡の諸施設も或いは倒され或いは破壊されてその聖域はこれを旧の如く保持し得ざるに至りこれが移転は多年の懸案であった此の秋に際り福岡県に於ては東公園整備を計画両招魂社跡の移転について要望があったので検討の結果御神霊は神社に合祀済みであり遺跡は由来の地である東公園地内に保持しその御遺骨はこの陸軍墓地にお鎮まり願いこの墓碑を建設永遠に祭祀を厳修する事になった今ここに移した祭神名を列記すれば次の通りである
謹んで建碑の由来を録し後世に遺す次第である
昭和四十四年八月十日
福岡県護国神社 宮司 平川隆一
満洲及上海事変戦病死者合同碑
満洲及上海事変戦病死者合同碑
第十二師団長 杉山元 書
杉山元は福岡県出身。最終階級は元帥陸軍大将。士候12 陸大22期。
昭和7年2月29日に第12師団長に就任している。第12師団の編成地は小倉。
なお、昭和8年に3月18日に杉山は陸軍航空本部長に転籍している。
杉山元は、こののち昭和11年に教育総監に就任し陸軍大将を拝命。昭和12年に陸軍大臣、昭和15年に参謀総長、元帥。そして昭和19年に再び、教育総監、そして陸軍大臣となり、昭和20年に第一総軍司令官で終戦を迎えた。
そして昭和20年9月12日に自決。
明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊忠死之碑
明治廿七八年之役=日清戦争
歩兵第24聯隊(福岡聯隊)の戦死者の慰霊碑
明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊下士忠死之碑
明治廿七八年之役歩兵第廿四聯隊兵卒忠死之碑
個人墓
個人墓もいくつか。
なお、個人墓の中に、青島でのドイツ兵捕虜の墓もあるというが、見落とし。
このあたり、事前の調査を怠ったがゆえの凡ミスです。
ドイツ兵捕虜墓のさらに奥には、協会標柱もあるというが、あわせて見落とし。
福岡、再訪必須だが再訪・・・できるのか?
非常に綺麗に整備されている聖域。
行政に対する不満が、福岡県西方沖地震に際しての復興の記録で爆発していたが、保存会の皆々様のご尽力に感謝。ありがとうございます。
それぞれの慰霊碑に合掌巡拝
ありがとうございました
雨が降る中での参拝であったが、福岡滞在中に、どうしても訪れたかった聖地。
福岡縣護國神社と、福岡陸軍墓地を巡拝できたので、福岡県の最初の一歩としては、まずまずかと。これ以上は、贅沢な感じです。時間的な制約などもありましたので、また今度、ゆっくりと来ましょう。
場所
※撮影:2024年11月
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陸軍墓地巡拝