「埼玉県」カテゴリーアーカイブ

中島飛行機吉松地下工場と吉見百穴

令和2年2月訪問

むかし、一度か二度か、足を運んだことがあった吉見百穴。だいぶ昔のことだったので、中島飛行機のことは意識していませんでした。

最近、近代史跡・戦跡などを巡るようになって、そういえば地下工場があったなぁ、と思い出したので、足を運んでみました。


吉見百穴

古墳時代後期(6世紀~7世紀)の横穴墓群。大正12年に国史跡に指定。現在確認されている219基の横穴数は、国内最大規模。

入場料は300円。
支払いをして入場をしようとすると、張り紙が目につきまして。

※入場前に、ご確認ください。
 軍需工場跡は、崩落の危険があるため点検・調査を行っています。
 そのため、当分の間、
洞窟内の立ち入りを禁止しています。

おおお、これは残念。

どうやら、平成30年6月以降、立ち入りができなくなっているようです。

吉見百穴。
横穴がいっぱい。

でも、今回は、別の横穴がメイン。入れないけど。

吉見町

https://yoshimi-kanko.net/kanko/hyakuana/


中島飛行機吉松地下工場

中島飛行機大宮製作所 吉松地下軍需工場

昭和18年(1943)に中島飛行機大宮製作所が新設。中島飛行機武蔵製作所(多摩製作所=海軍機)が製造していた海軍向けエンジン部品生産増産のために開設。

昭和19年に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、大宮製作所の生産能力確保のために疎開先の地下工場として吉見に地下工場が建設。

通商の「吉松地下工場」とは、「吉見と松山」を意味しているという。

地下軍需工場跡
 昭和19年~20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られました。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡です。地下軍需工場は空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたもので、縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴です。
 第二次世界大戦の末期、東京都武蔵野市にあった中島飛行機工場は、地下に移転する計画がありましたが間に合わず、空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われています。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになりました。
 軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいました。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していました。ダイナマイトを使用しての工事は進められましたが、工事に適した凝灰質砂岩は百穴と岩粉山付近にしか分布していません。松山城下には固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航し、また、その方法は工事を進めながら同意に設計も行うという作業のため、掘削しては測量し、高低や方向を修正していたと言われています。
 7月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めた様ですが本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。この工事に携わったのは全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事でした。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けていいます。

軍需工場模式図

地下工場の見学は出来ないけど、入り口から覗き込むことは出来ます。


中島飛行機吉松地下工場
開口部

全て素掘りの地下工場。

横穴の大小。
吉見の百穴、横穴墓と、軍需工場の入り口と。


中島飛行機関連の戦跡


吉見百穴とヒカリゴケと

もう一つの見どころが、ヒカリゴケ。



岩窟ホテル

明治から大正にかけて掘られた「岩窟ホテル・高壮館」という人工洞窟。観光名所ではあったが、現在は閉鎖している。
「岩窟掘っている」が訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになったという。

吉見百穴の地下一帯に軍需工場が建設される際には、岩窟ホテルもその一部として使用され、また軍需工場側に続く通路が新たに掘られている。


松山城跡
(武州松山城・武蔵松山城)

岩窟ホテルのある山の上には松山城跡がある。
平成20年(2008年)、比企城館跡群として国史跡に指定。

戦国期には武蔵国の要衝として関東諸勢力による争奪戦が展開。扇谷上杉氏、上田氏、難波田氏、太田氏など。
後北条氏時代は上田氏の居城。

武蔵松山城の本曲輪には、かつて神社があったようで、基礎だけが残っていた。


吉見町は、吉見百穴と武蔵松山城、そして軍需工場。

神社的には武蔵国延喜式内社「伊波比神社」「横見神社」「高負彦根神社」などが見どころ。

私のかつての記録によると平成14年に吉見エリアを散策していたようです。
かれこれ18年ぶりの再訪、ということになりますね。

サイト: 神のやしろを想う>比企をめぐる

http://jinja-kikou.net/hiki1.html

東松山駅からバスで往復でした。

浅野カーリット埼玉工場跡と四式陶製手榴弾

令和2年2月撮影

川越の戦争遺跡はちょっと風変わり。
「びん沼川」の川岸に異様な不思議な空間が広がっていた。

河川敷に広がる「陶器の欠片」
戦時中に、この土地で製造された「陶器の手榴弾」の名残という。


位置関係

1947年11月8日、米軍撮影。
びん沼川にそって工場が展開している。
(国土地理院 USA-R524-No1-8)

現在の様子。
google航空写真より。

浅野カーリット埼玉工場の跡地は、川越東高校第2グラウンドなどに姿を変えている。


びん沼川河川敷に残る四式陶製手榴弾の残骸

東武東上線・上福岡駅からレンタサイクル(シェアサイクル)を活用して、治水橋方面に。

最初、場所がわからなくて、川越東高校まで歩みを進めてしまい、あれっ?、河川敷にどこから降りるんだろ、と。
産廃業者と第2グランドの突き当りから、でした。

冬季のびん沼川は水量が少ないが、稲作の季節になると水量が増す。
そのため、訪問は冬季がベスト。

ちなみにストリートビューでは、河原が冠水状態。

https://goo.gl/maps/7jaitbonJNyvBx4i8

河川敷の一角が白い。近づいてみましょう。

これは、、、一面に広がる陶器の欠片。
歴史的な背景を知らないと謎な光景。

第二次世界大戦末期、金属資源が欠乏していた日本では、金属に代用品として、なんと陶器で「手榴弾」の製造がおこなわれていたのだ。

全国各地の陶器・瀬戸物の名産地では、手榴弾として使用されるベースの陶器が作成され、この地にあった「浅野カーリット埼玉工場」に集められた。
そして、「浅野カーリット」で爆薬(カーリット)が詰められて「陶製手榴弾」が製造された。

戦後、手榴弾に使われる予定だった大量の「手榴弾型の陶器」が、工場敷地の隣の河川敷に廃棄され、そのまま現在の姿となっている。


浅野カーリット

創業者は浅野総一郎(1848-1930)。一代で浅野財閥を作り上げた実業家。日本のセメント産業を軌道に乗せ浅野セメントを育成した「日本のセメント王」と称される。
また鶴見を埋め立て鶴見臨海鉄道を設立(浅野駅はその名残)、京浜工業地帯の基礎を築いた「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼称される。

1916年に浅野総一郎がスウェーデンのカーリット社から日本における「カーリット爆薬」の製造販売権を取得。
1934年(昭和9年)に浅野カーリット株式会社が創立。埼玉工場は1939年ごろから操業という。

そして近隣には、1937年(昭和12年)に現在のふじみ野市(上福岡)には「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」があった。この地域は「浅野カーリット埼玉工場」と「陸軍造兵廠川越製造所」と軍需エリアでもあったのだ。

写真は「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」所蔵の陶製手榴弾。

上福岡には東京第一陸軍造兵廠川越製造所(火工廠)があり、浅野カーリットと密接な関係にあったと推測できる。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M636-A-No1-64
1947年11月08日-米軍撮影・一部加工

「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の北東には「浅野カーリット埼玉工場」があった。浅野カーリット埼玉工場では「陶器型手榴弾」を製造していた。

浅野カーリットは戦後に「日本カーリット株式会社」に。

埼玉工場の跡地は、川越東高校に。公立高校のような名称だけれども、実は私立高校。1984年開校。

「信」の文字がある陶器は「信楽焼」。
全国各地の名産陶器がこの地に集まっている。

陶器型手榴弾は、本来の鉄器で作られる手榴弾と比べ、威力は弱かったという。

陶器の点在する河川敷への侵入は自己責任で。

びん沼川のすぐ隣は、荒川。

交通の便は悪い。

かつては、割れていない陶製手榴弾も多くあったようだが、形の良いものから持ちさらわれており、現在は割れた破片が残るばかり。根気よく掘っていけばまだ完全な形をしたものも残っているかもしれないが。

75年の時を、この河川敷で風雨にさらされながら、歴史を刻んでいる陶器の欠片に、往時を思い起こしつつ感傷に浸るとき。

高島秋帆と高島平(火技中興洋兵開祖)


高島秋帆 (たかしま しゅうはん)

江戸時代末期の砲術家
高島流砲術の創始者(流祖)
火技之中興洋兵之開祖

寛政10年(1798)の生れ。先祖は近江国高島郡の武士。
高島四郎太夫、諱は茂敦、字は舜臣、通称は糾之丞、秋帆と号す。贈正四位。

文化11年(1814)に父の跡を継ぎ長崎会所調役頭取に就任。日本砲術と西洋砲術の格差に愕然とし出島のオランダ人を通じて洋式砲術を学ぶ。
天保5年(1834)に私費を投じて銃器を揃え高島流砲術を完成。
天保6年(1835)には自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を完成。
天保12年(1841)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の高島平)にて、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この結果、高島秋帆は砲術専門家として幕府に徴用され、老中阿部正弘から「火技中興洋兵開祖」と称賛された。
しかし天保13年(1842)に、長崎会所の杜撰な運営の責任者として長崎奉行に逮捕投獄される。
嘉永6年(1853)、ペリー来航(ペルリとも呼称)による社会情勢の変化により赦免され出獄。
その後は幕府の砲術訓練指導に尽力。
慶応2年(1866)に69歳で死去。


高島平

当地はかつては徳丸ヶ原と呼称されてた。
江戸時代は、荒川の後背湿地であり幕府の鷹狩場に指定された荒地。

天保12年(1841)
砲術家 高島秋帆 が「徳丸ヶ原」にて日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。

昭和40年代に当地域の再開発がはじまり、昭和44年に板橋区によって「高島秋帆」に因む町名「高島平」が採用された。


高島秋帆先生紀功碑

東京都板橋区「松月院」境内。
大正11年(1922)落成。
陸軍省より下付された高島秋帆ゆかりの「安政4年(1857)鋳造の銅製二十四斤加農砲砲身」を中心に、東京砲兵工廠にて鋳造された「火焔砲弾4発」などの付属品を配置した記念碑。 砲術訓練を行った際の本陣跡に設けられた。

高島秋帆先生紀功碑

 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。

 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。

 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。

 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。

 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。

平成26年度区登録文化財

火技中興洋兵開祖
 正二位勲一等 文学博士
 男爵 細川潤次郎 書

贈正四位高島四郎太夫先生 諱は茂敦 字は子厚 秋帆と号す。長崎の人なり。夙に内外の形勢を洞察して本邦兵制の革新せさるへからす。火技戦法の採用せさるへからさるを悟り私財を損てて新様の鉄砲を購ひ門人に教ふるに洋式の操練を以てせり。(略)

天皇皇后両陛下御下賜金貳百圓
(略)

紀功碑用砲身 陸軍省下付
紀功碑架台及付属品 東京砲兵工廠
(略)
着手 大正十一年六月十四日
落成 大正十一年十二月六日
(略)


萬吉山 宝持寺 松月院

高島秋帆先生紀功碑のある「松月院」

東京都板橋区赤塚鎮座。曹洞宗の寺院、山号は萬吉山。
房総の千葉自胤が康正2年(1456)に千葉市川から当地の赤塚城に移り(武蔵千葉氏)、1492年に当地の宝持寺を菩提寺として定め、松月院と改称したことにはじまるという。
幕末に高島秋帆が砲術訓練を行った際に、境内に本陣を設けている。
明治期には一時期、旧赤塚村役場が境内に設置されていた。

紀元二千六百年記念
昭和十六年五月竣成

新東京八名勝
赤塚 松月院

新東京八名勝は1932年に東京市が拡大されたことを記念し報知新聞社が企画したもの。松月院は第五位。

  • 池上本門寺(大森区)
  • 西新井大師(足立区)
  • 北品川天王社(品川神社)(品川区)
  • 日暮里諏訪神社(荒川区)
  • 赤塚松月院(板橋区)
  • 目黒祐天寺(目黒区)
  • 洗足池(大森区)
  • 亀戸天神(城東区)

伝千葉一族の墓
 松月院は、康正2年(1456)に下総国での戦いに敗れ、市川城から武蔵国の赤塚城・石浜城へと移った千葉一族の菩提寺です。また、この墓も同一族を弔ったものと伝えられています。
 当墓については、文化9年(1812)に斉藤幸孝が記した『赤塚紀行』に挿絵入りで記されるなど、当時から広く知られていました。
 向かって中央右側にあるものが千葉介自秀の墓とされ、松月院殿南州玄参大禅定門の法名と、永正3年(1506)6月23日の忌日が刻まれています。この墓碑については、すでに江戸時代の段階で後世に造立されたものと指摘されています。また、松月院ではこれを開基檀越である千葉自胤の墓碑としており、文化文政期(19世紀前半)に成稿した地誌、『新編武蔵風土記』でも墓銘にある自秀は自胤を誤記したものとしています。
 左側には比丘尼了雲の宝篋印塔があります。『赤塚紀行』では、これを自秀室の墓としていますが、時代的にはそれ以前の、元徳元年(1329)の年号が刻まれています。これは、区内最古の墓碑であり、境内の発掘調査成果と合わせて、武蔵千葉氏が当地に移る以前の段階で、当所に寺院が存在していたことを証明する貴重な資料となっています。
 平成22年3月
 板橋区教育委員会

下総を追い落とされた武蔵千葉氏一族の墓。
千葉自胤(よりたね)は武蔵千葉氏2代目当主。千葉一族の勢力争いに破れ下総に帰還することなく、子孫は武蔵国人に転落。

高島平駅からバス、もしくは成増駅からバスで。赤塚8丁目バス停下車。


徳丸ヶ原碑(徳丸原遺跡碑)

高島平駅すぐ近くの「板橋区立 徳丸ヶ原公園」
もともと新高島平駅ちかくの弁天塚に1922年に建立されていた「徳丸ヶ原碑」が1968年に現在地に移転。
1841年に高島秋帆による西洋式砲術調練が行われた徳丸ヶ原を記念する石碑。

徳丸原遺跡
此より北荒川に至る南北一千米突東西約二千米突の地域は古の所謂徳丸原なり天保十二年五月高嶋四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始めて洋式の歩砲兵隊操練等を行ひし處とす
 大正十一年六月
   高島秋帆先生紀功碑建設首唱者

扁額は徳富蘇峰の筆。

徳丸ヶ原 
 東京都旧跡(大正9年) 
 区登録記念物(昭和60年度)

 高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原とよばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣や肥料のための草刈場が広がっていました。
 当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保12年(1841年)には、5月7日~9日の3日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋洋式砲術調練が行われました。
 秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭には黒塗円錐形のトンキョ帽と言う兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。
 明治時代になると、徳丸ヶ原は民間に払い下げられ開墾が行われ、最終的には約4百ヘクタールの徳丸田んぼ、赤塚田んぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
 昭和40年代となると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。 高島平の地名は、当地で砲術訓練を行なった高島秋帆にちなんで付けられたものです。
 平成25年3月
  板橋区教育委員会


東京都文京区向丘(白山駅近く)に鎮座する大円寺に高島秋帆の墓がある。
(出生の長崎市にも高島家墓地あり)

高島秋帆墓

国指定史跡
高島秋帆墓
 (江戸時代の砲術家 1798-1866)
 文京区教育委員会 

戦災で被災した墓石は傷つき、かろうじて「高」の字のみを残していた。

史跡 高島秋帆墓

大円寺は「ほうろく地蔵」で有名。


場所は変わって川口市。

18ポンドカノン砲(復元)

鋳物の町・川口。
川口の鋳物師・増田安次郎が高島秋帆と協力して作ったという大砲=18ポンドカノン砲を増田安二郎から連なる増幸産業株式会社が復元している。

18ポンド カノン砲
 この大砲は幕末の嘉永5年 (1852年)に津軽藩により依頼を受けた増田安次郎が、後に砲術奉行を務めた高島秋帆とが協力して作り上げた18ポンドカノン砲の復元品です。当時は製作不可能とされていた大型砲で、1857年までの5年間に213門の大砲と41323発の砲弾が製造され、全国各地に配備されました。
 幕末の日本近海にはロシア、イギリス、フランス、アメリカ等の異国船(黒船)が来航し、鎖国していた日本に対し強く開国を迫りました。脅威を感じた幕府は文政8年(1825年)に「異国船打ち払い令」を発布。その後江戸の台場をはじめ各地に砲台を作り警戒するようになりましたが、当時はまだ大砲もろくにない状態で打払いできる力はありませんでした。その頃、攘夷思想盛んな水戸、薩摩、長州、土佐の各藩では、海防のための大砲作りを必死に行なっていましたが、高性能な大砲を作るには至らず、そのため当時大砲作りで名のあった川口の鋳物師 増田安次郎が作ったものが多く用いられました。その性能は群を抜いており「増田安次郎」の銘は高性能砲の証、ブランドだったのです。後に高島秋帆より「増田氏は国家の干城なり」という褒状を授与されました。
全長:3.5m、重量:3トン、口径:15センチ、射程距離:2500m
材質:青銅砲、弾丸:炸裂弾

武州足立郡川口
鋳物師増田安二郎

嘉永壬子五年仲春

高島秋帆が増田安二郎に送った褒状が、川口市立文化財センターのサイトに掲載されている。
「国家干城可也」の一文がある。

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_031.html

また、増幸産業株式会社様のサイトにも「大砲の歴史」がまとめられている。

http://www.masuko.com/company/taihou.html

川口の戦跡などはこちらにて


さらに場所はかわって深谷市。渋沢栄一で盛り上がっている街へ。

高島秋帆は、岡部藩(現在の深谷市)に11年間、幽囚されていた。
そして深谷市の北部には、渋沢栄一の出身地である血洗島があった。

高島秋帆幽囚の地

天保13年(1842年)、長崎会所の責任者としての不備を問われ長崎奉行によって逮捕投獄。讒言であったという。
囚われた高島秋帆は武蔵国岡部藩にて幽閉される。
幽閉中であっても、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていた、という。
嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により11年にわたる幽閉がとかれ赦免出獄している。

高島秋帆幽囚の地
 高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどした。天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介した。
 その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。
 現在地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。
 平成3年3月
  埼玉県
  深谷市

http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu02/1487555460716.html

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/takashimasyuuhan.pdf

岡部藩について
 岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計 5,250 石を基に発展しました。
 信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永 13 年(1636)に三河国内 4,000 石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に 10,000 石を加増されて信盛は大名となりました。
 その後、所領高 20,250 石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。
 慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。

http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/76/okabehann_leaflet.pdf

秋帆先生幽囚之地

陸軍中将渡邊金造、昭和14年2月建立。

国道17号の岡部北交差点に、案内標石がある。

高島秋帆が捕らえられていた岡部藩陣屋と、渋沢栄一の出身地・血洗島の位置関係。4キロほどしか離れていないのだ。


以上、高島秋帆に関わるあれこれ、でした。

旅順港閉塞作戦・小池幸三郎を偲ぶ(日露戦争の戦跡散策・埼玉川口)

令和元年8月散策

2019年の8月某日、この日は埼玉県川口市に足を運ぶ機会があった。
せっかくなので、川口市内に残る戦跡を散策してみる。

川口市総鎮守「川口神社」
境内に「川口護國神社」が鎮まっており、その傍らに水兵姿の凛々しく躍動感あふれる胸像が鎮座してた。

小池幸三郎像(日露戦争)
軍帽のペンネント(兵用軍帽前章)は、乗艦「大日本軍艦高千穂」

小池幸三郎

小池幸三郎は明治13年(1880)7月15日、現在の川口市に産まれる。
明治33年(1900)、徴兵年齢に達した20歳の小池幸三郎は横須賀海兵団に入団。
明治35年(1902)に軍艦「高千穂」の乗組員となる。
明治37年(1904)2月10日、日露戦争が勃発する。
同年3月27日、連合艦隊は第二回旅順港閉塞作戦を実施。小池幸三郎は閉塞隊に志願し、広瀬武夫指揮する福井丸に乗組し敢然と作戦に従事。
閉塞船福井丸沈没後、カッターボートにて帰還途中に、小池幸三郎は被弾し戦死を遂げる。享年二十五歳。

小池幸三郎の葬儀は川口市内の善光寺で斎行。(墓所も善光寺)

日露戦争戦勝30周年を記念して昭和11年(1936)に川口市公会堂(現在の川口市立中央公民館)前に小池幸三郎像が設置。

平成7年5月27日に川口市海交会によって、川口神社境内「川口護國神社」に小池幸三郎銅像を移転。

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ

海軍一等機関兵小池幸三郎を偲ぶ
君は小池武平氏の次子。
明治13年7月15日、川口町268番地に生る。
明治33年12月横須賀海兵団に入り、同35年6月軍艦高千穂の乗組員となる。
日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い、決死旅順港口第二次閉塞隊に志願し、広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して、猛砲火の下に港口水道に突入したが、黄金山の西海岸半鏈に達した時、ついに敵駆逐艦の魚雷をうけた。
よって自ら爆沈して任務を完遂し、広瀬中佐・杉野兵曹長と共に帰らず、英魂とこしえに靖国の霊となる。
実に明治37年5月23日夜である。

忠勇義烈

旅順港閉塞作戦

第二回目の旅順閉塞作戦において広瀬武夫指揮下で使用された「福井丸」。
福井丸は旅順港閉塞作戦に際して、閉塞船として自沈用の爆薬やセメントなどを積み込み出港。
旅順港にて爆薬に点火し、乗組員はボートで退避。
その際に杉野孫七上等兵曹が福井丸にて行方不明となり、広瀬武夫少佐が船内を三度捜索したが見つからず。
 ※ このときのエピソードが唱歌「広瀬中佐」の題材となる。

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
  荒波洗ふ デッキの上に、
  闇を貫く 中佐の叫び。
  「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2,船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
  呼べど答へず、さがせど見へず、
  船は次第に 波間に沈み、
  敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
  飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
  旅順港外 恨みぞ深き、
  軍神廣瀬と その名残れど

文部省唱歌「広瀬中佐」

広瀬少佐は退却時に艇上にて砲弾の直撃を受けて戦死。
この際に菅波政次二等信号兵と小池幸三郎二等機関兵も戦死している。

第二回旅順口閉塞作戦での戦死者は4名。
 広瀬武夫 少佐(没後、中佐)
 杉野孫七 上等兵曹「朝日」乗組(没後、兵曹長)
 小池幸三郎 二等機関兵 「朝日」乗組(没後、一等機関兵)
 菅波政次 二等信号兵曹 「高千穂」乗組(没後、一等信号兵曹)
いずれ福井丸に乗り込んでいた。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」でも、小池幸三郎 二等機関兵の戦死シーンが描かれている。

旅順港閉塞作戦を記念した小池像。

つい最近まで、川口市にこのような素晴らしい像があるとは知りませんでしたし、大河ドラマ「坂の上の雲」で観ていた小池幸三郎の戦死シーンのことも失念してしまっていたことが申し訳なく。
小池の地元である川口市では、いまも胸像がこうして損なうこともなく後世に伝承され慰霊顕彰されおりました。
この素晴らしい躍動感あふれる胸像、変わらずに伝承されていくことを祈念。

ちかくの善光寺には「小池幸三郎のお墓」があるというのであわせて脚を運んでみました。


善光寺(埼玉県川口市)にある小池幸三郎之墓

海軍一等機関兵勲八等功七級
小池幸三郎之墓

川口市舟戸町にある真言宗智山派寺院善光寺

海軍一等機関兵勲八等功七級小池幸三郎之墓
香炉台 桜に錨

小池幸三郎の勇姿に

合掌

感謝と哀悼を


小池幸三郎像のある川口神社の境内には川口護國神社が鎮座している。

川口護國神社

平和の神 
川口護國神社

【御祭神】
国家公共につくした人の神霊
【御祭日】
四月第二土曜日
【御由緒】
川口護國神社は、昭和二十三年四月、時の川口市長の指導により市役所神殿の譲渡を受け、西南戦争から大東亜戦争に至る各戦役にて戦没せられた川口市出身全英霊を奉斎するお社として、川口神社境内に設立を見たものである。
爾来毎年四月あるいは五月に、川口市遺族会が主体となり例大祭を斎行してきた。平成十五年からは市民有志が主催し、遺族のほか市内各界代表者の参列を得て川口市民平和祈願祭を奉行してゐる。

御製
國がため あまた逝きしを 悼みつつ 
 平らけき世を 願ひあゆまむ

わが郷土から出征して尊い一命を国に捧げ、平和と繁栄の礎となられた英霊に感謝し、また平和への努力を誓うため、全市民こぞって参拝すべき神社である。

川口神社

埼玉県川口市金山町鎮座。川口市総鎮守。明治社格は県社。

国威宣揚台
大東亜戦争戦勝祈願の大鳥居

日露戦争ゆかりの橋が近くに保存されているというので脚を運んでみた。

凱旋橋(川口市指定文化財)

明治39年(1906)1月に日露戦争出征兵士の凱旋を祝し架設された。

凱旋橋
明治39年1月架設
片側の欄干のみが残されている。

川口市指定記念物 史跡
凱旋橋跡付凱旋橋之碑
平成21年6月24日指定

 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレードの通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁用水に架設された石像アーチ型の凱旋橋の遺構です。橋は同年1月に、たもとに建立された凱旋橋之碑とともに竣工し、2月18日には開通式が行われました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。
 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。
 この凱旋橋跡は、江戸時代にあっては日光御成街道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。
川口市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/nb9T8cnksdZ4LhAMA

川口市立文化財センター

http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_131.html

川口神社の境内には、「凱旋橋之碑」が移設保存されている。

凱旋橋之碑 (川口市指定文化財)

川口神社境内。凱旋橋の由来が記載されている。

近衛師団長陸軍中将 浅田信興 題額
浅田信興(1851‐1927)は武蔵国川越藩出身。
日露戦争時は近衛歩兵第一旅団長として出征し、戦中の明治37年(1904)9月に陸軍中将に進級し近衛師団長に新補。最終階級は陸軍大将、男爵。

日露戦争に際して川口町からの応召従軍者は74名。
凱旋橋之碑には、海軍一等機関兵 小池幸三郎 をはじめ、生きて凱旋が叶わなかった川口出身の戦死者三士のことを讃えている。

川口には何度も脚を運んだことがあり、川口神社も過去に参拝をしたことがあったが、かつての私はさほどに戦史に興味を抱いていなかったということもあり、小池幸三郎像を気にすることもなく、凱旋橋の存在も知らなかった。

いま、改めて興味をもって訪れてみれば、その極めて貴重な存在に感じ入ることでき、戦後の破壊等を免れて、こうして今日まで残ったことの意義深さを知ることができた。これは後世に伝承し続けなければならない史跡。
良き見聞ができたことに感謝。
今回は時間がなかったので訪れませんでしたが、川口には海軍史的に興味深いエピソードもった艦長のお墓もあるので、また来ることになりそうです。


高島秋帆と馴染みのあった川口の鋳物師・増田安二郎の復元18インチカノン砲は、こちらにて掲載。

満蒙護國神社

平成30年6月参拝

埼玉県・出雲大社朝霞教会 境内社

満蒙護國神社
平成元年四月十五日建立

照清大権現縁起
霊夢に依り昭和十四年五月ソ満国境ノモンハン事変に参戦護国の英霊となられた戦友七千六百拾六名の御霊を靖国神社より分祀 
この地の守護神としてここに祭る

ノモンハンの桜

満蒙護国神社
由緒
昭和14年5月、ソ満(旧・ソ連と満州)国境に勃発して”ノモンハン事変”にて英霊となられた戦友7,616名の御霊をお祀りしています。(先代教会長・渡邉清はこの戦争を経験しました。)

出雲大社朝霞教会

埼玉県朝霞市鎮座。
宗教法人 出雲大社朝霞教会は昭和58年3月に宗祠(出雲大社)よりご分霊をお祀りし、埼玉県内唯一の出雲大社として創建されました。
地域の皆様には、“朝霞の出雲大社”“埼玉の出雲さん”などの愛称で親しまれています。 由緒はサイトより

2019年現在、新社殿造営中。仮社殿となっております。
以下の写真は過去の模様です。

御朱印をいただきました。
あわせて幸福の飴もいただきました。
ありがとうございます。

埼玉縣護國神社

平成29年3月26日参拝

平成29年3月26日。雨降る夕方に。
武蔵一宮氷川神社から足を伸ばして参拝してきました。
護國神社巡礼。

旧内務省内務大臣指定護國神社。
鳥羽・伏見の戦い以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊51,000余柱を祀る。

昭和9年、埼玉縣招魂社として設立。14年に埼玉縣護國神社に改称。 戦後の昭和23年に埼霊神社(さいたま神社)と改称。
昭和27年に旧社号に復した。

大宮公園内に鳥居が立っており、道路を挟んだ先に御社殿が鎮座している。

桜の咲き始めの護國神社。
感慨も深く。

護國神社は戊辰戦争から大東亜戦争まで国のために
犠牲となられた埼玉県関係の英霊をお祀りしています

英霊に感謝しましょう
 埼玉県英霊にこたえる会

手水舎

深く拝す

護国の桜。
ひときわの感謝とともに。

咲き誇る日が楽しみな瞬間。

御朱印を頂戴致しました。 (靖國神社の御朱印帳に)

奉納「艦砲弾」

 天皇陛下のもと、国家安寧を願い見事玉と砕けたご英霊等鎮魂の一助になればと思い謹んで捧げ奉ります。
 この砲弾は古い型の砲弾であります。東郷元帥が聯合艦隊を率いZ旗の下、日本海海戦において、かのロシアバルチック艦隊を殲滅し、世界にその名を知らしめました。その後、凱旋廻港のみぎり、各地の御一宮にその出撃致した戦艦を始め各艦の砲弾を御奉納されたとの説があります。譲り受けた老爺(故人)に伝え聞いたところ、この砲弾はその時期に武蔵一宮氷川神社にご奉納され境内のいずれかにあったと思われますが、戦後の混乱期に何処かに流出しておりました。艦砲の砲撃手は俗に自らを鉄砲屋と呼び一弾一弾を我が子のように慈しみ、(見事命中してくれよ)と祈りを籠めて懸命に磨き上げたと聞いております。この砲弾もそうであったに違いないと思います。
 この砲弾を使用した艦名は判明致しておりません。ご存知の御方がおられましたら、是非御教示、ご指導頂けますれば幸甚に存じます。
   平成25年6月吉日 大宮住 加藤芳夫

出征兵士之像

平成27年建立

建立の趣旨
 昭和16年12月に開戦し、20年8月に終戦を迎えてから今年は70年目を迎えます。国を護り、家族を守るため多くの若い人が故郷を後にして兵士として出陣し、異国の地で戦陣に斃れ病魔に冒され、尊い命を国に捧げられました。遺族として残された者も、今では戦没者の父母は殆ど亡くなり、妻も大半の者が他界し、終戦時、幼児や少年であった私達も高齢化を迎えた此の頃、想い出すのは、若い人が当時赤紙と俗称された召集令状により、親兄弟、親族、近所の人に見送られ軍隊に入隊する姿です。
送れられる者、送る者が
「行ってまいります。後を頼みます。」
「皆さんが留守の間は、私達がしっかりと銃後と家族を守ります。」
という短い言葉で別れを告げ、お互いに見つめ合うだけの事でした。多くの若い人が再び故郷へ帰れませんでした。
 戦後70年、私達遺族は兵士として出征した家族を思い出す縁としてこの像を建立しました。残念ながら、歳月の経過とともに先の大戦の風化が一段と進んでいます。この像をご覧になられた方は、現在の平和な時代のかげには、このような辛い別れをして戦没された人々が居たということを思っていただけれな幸いです。

 平成27年11月30日
  一般社団法人 埼玉県遺族連合会

大東亜戦争戦没地域図

埼玉県出身者の地域別戦没者数(昭和55年現在)
支那事変以降 総数 48453人

埼玉県特攻勇士之像 

埼玉県特攻勇士顕彰碑
 あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。 生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若者の精神の糧となることを願うものであります。
 ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之像を建立し謹んで奉納いたします。
 平成25年10月吉日
 埼玉県特攻勇士之像建設委員会

埼玉県傷痍軍人の塔

昭和53年建立
第58代 厚生大臣 渡辺美智雄書

 我等は戦火に傷つき或いは戦野に病を得て生死の境を彷徨した者達である。その思い出は耐え難いものがあり、戦争の残酷さは筆舌に尽くし難い。
 戦後、閲すること三〇年、昭和五十年七月議を起こし、戦禍の洗礼を受けた立場から、二度と犠牲者を出す間敷き事を語り合った。而して、平和を希求する会員の微意を表明せんと名を印し、此の埼玉県傷痍軍人の塔を建立する決議をした。
 良く議し想を練り、会員一人一人の善意を結集して、今完成に至った。唯、同慶の一語につきる。
 尚、惟みるに吾が埼玉県傷痍軍人の夫妻が財団法人日本傷痍軍人会 同妻の会の旗下にあってそれぞれの綱領具現に、その責を果し、両会の中核県たる名聲を保持する努力をはじめ、或いは郷にあって、傷痍にめげず率先垂範、豊かなる人間愛と限りない創造性を以って変轉極りない新時代に処し、地域社会に光明を齋しつつ、今日に至った証としても 意義あるものと思考する。
 又この庭が、隣人を愛する思想を高揚し廣く、世界は一家の大理想実現に裨益する聖場と成ることも願いつつ、時の流れに禍いされることなく、吾等の誠魂が不滅であることを信じ、塔建立の詞とする。
 昭和五十三年十月十九日 
    埼玉県傷痍軍人の塔建設委員会
     吉川敏雄 謹書

献花 特攻花

知覧より移植されたものという。

社務所の一角には「遺品展示館」があったが、既に夕方ということもあり、時間が遅めでしたので今回は見学を遠慮しました。

埼玉ならまた来れますし慌てなくても時間がゆっくりあるときに改めて。

戦艦武蔵の碑

平成28年3月撮影

武蔵一宮・氷川神社(大宮氷川神社)

旧帝国海軍最後の戦艦が大和型戦艦二番艦「武蔵」

武蔵に勧請された艦内神社は武蔵一宮氷川神社。沈没より71年後の平成27年(2015)10月24日。昨年、遺族悲願の顕彰碑が境内に建立。

戦艦武蔵

 戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
 パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
 昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
 昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。
 ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。

平成27年10月24日建立
 戦艦武蔵顕彰会
協賛団体
 軍艦武蔵会
 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)

設立趣旨
 連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮後において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。
 当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
 平成27年10月24日
  戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘
  権宮司 東角井真臣 揮毫

吉村昭さんの名著「戦艦武蔵」を片手に。
筑波空記念館の武蔵コーナーを思い出しつつ。

宇垣纏は「戦藻録」にて、
武蔵沈没の報を受け、以下のように記している。
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり」

シブヤン海にて、71年ぶりに姿を伝えた戦艦武蔵に敬意を表し、犠牲となられた戦艦武蔵・乗組員・関係者に感謝と哀悼の誠を捧げる。