東京都杉並区高井戸にある社会福祉法人「浴風会」。
歴史的建造物にして、陸軍に接収された歴史を有するというので、足を運んでみた。
目次
浴風会
社会福祉法人。高齢者医療の浴風会病院や老人ホームなどを運営。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で自活できなくなった高齢者の援護を行うために、御下賜金や義損金を財源として内務大臣の許可を得て財団法人として大正14年に設立。
陸軍中央通信調査部と浴風会
浴風会は、空襲対象となる地図では白塗り(白抜きは爆撃禁止)となっており、米軍爆撃対象から外れていた。それは、医療施設ということが米軍にも認識されていたからだろうか。
結果として、浴風会は爆撃されなかった。
昭和17年(1942)9月1日に浴風園東館上下を「陸軍参謀本部・陸軍中央通信調査部」に貸与したことから、陸軍の接収がはじまる。
昭和19年(1944)3月25日に西館上を同じく貸与し、5月11日には西館下と礼拝堂を貸与。
昭和20年5月25日に、浴風会本館の第二第三病室、つづいて6月29日に第一第四病室を貸与。
こうして、浴風会の大半を、「陸軍中央通信調査部」が接収することになった。
「陸軍中央通信調査部」とは体外的な組織名で、実際に浴風会を接収していた部隊は「陸軍中央特殊情報部(特種情報部)」(略称:特情部)であった。
特情部は暗号解読や通信傍受などの極秘任務の最高機密情報を取り扱っていたことから、部隊名を隠していたという。
陸軍の北多摩陸軍通信所が、昭和18年に陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称し、戦局が悪化すると、この特情部は、「浴風園」に疎開したというものであった。
特情部は、昭和20年8月6日に広島に原爆を投下したB‐29がテニアン島を発進した通信や海外放送でポツダム宣言受諾する通信なども傍受していた。
終戦時に、特情部は、浴風会本館3階で、現存する全機密文書の焼却を実施している。
参考:
https://www.yokufu-hp.jp/about/history.html
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/record/474/files/shakaifukushi_146_23-65.pdf
北多摩陸軍通信所
皇后陛下行啓記念碑
正門近くに記念碑がある。
皇后陛下行啓記念碑
昭和12年5月24日 行啓
昭和13年5月
浴風会建之
建立時は、銀色で行啓の御道筋が描かれていたようだ。
昭和12年5月24日
皇后陛下浴風園行啓園内御道筋畧図
御道筋趾銀色線
乙女地蔵
横浜分園(昭和18年廃止の分園)にゆかりのある地蔵。
「乙女地蔵」の由来
この石碑は、浴風会横浜分園(昭和3年から昭和18年まで設置)勤務の主任看護婦若田ナカさんが23歳の若さで病死されたのを惜しみ、有志の手で昭和17年に建立されたものです。
若田ナカさんは、昭和11年から当分園に勤務され、同僚からは姉のように慕われ、利用者からは天使のように愛され、青春をかけて献身看護にあたられた方です。
永らく分園の跡地(現神奈川県立栄養短大)にありましたものを、このたび移設いたしました。
この碑の表面には「聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ」とあります。
平成15年9月吉祥日
社会福祉法人 浴風会
聖ナル使命ニ殉セシ乙女ノタメニコノ碑ヲ建ツ
昭和17年9月吉祥日
笠地蔵
こちらはユーモラス。由来は不詳。
浴風会・本館
大正15年(1926年)8月1日竣工。内田祥三の設計による。内田祥三は東京大学安田講堂を始めとした「安田ゴシック」建物が有名。
「東京都選定歴史的建造物」指定。
昭和20年5月に、陸軍に接収されている。
浴風会本館
東京都選定歴史的建造物
所在地 杉並区高井戸西1-12-1
設計者 内田祥三・土岐達人
建築年 大正13年(1926)
浴風会本館は関東大震災後、高齢・障害のある被災者のために建てられたものである。建設当時は、この本館を中心としてほかの建物をほぼ対称に敷地全体に配置した構成となっていた。
鉄筋コンクリート造り、地下1階:地上2階一部3階建て、壁はスクラッチタイルで大きな窓がある。中央の塔が全体を象徴し、塔で垂直線を強調したデザインを用い、翼部は庇等によって水平線を表している。このデザインは、東京大学安田講堂(設計:内田祥三)と共通するもので、この時代の特徴でもある。
東京都生活文化局
平成13年3月
内田ゴシック感のある本館。
完全なシンメトリーではなく、中央の塔がずらしてある。
浴風会・礼拝堂
昭和2年(1927)竣工の礼拝堂。
昭和19年には、陸軍に接収されている。
浴風会・庭園
中庭の庭園。シンメトリーなモニメントもある。
小さな池には、本館を模したミニチュアモニメントもある。
※撮影:2023年12月
※場所: