小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。
そんな、小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみた。
東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。
小笠原長生
小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。
江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。
明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。
明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。
大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。
大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。
昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。
墓所は、東京世田谷の幸龍寺、府中の東郷寺、唐津近松寺や伊豆宗徳寺にある。
小笠原長生の墓(小笠原家墓所)
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所
小笠原家之墓
ちなみに、 小笠原長生の父長行は最初谷中墓地に埋葬されましたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。
鐵櫻院殿無畏長生日来大居士
小笠原長生公
正二位勲一等功四級
昭和33年9月20日
三階菱の家紋
昭和32年12月建之
小笠原長生
幸龍寺
なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。
場所:
※撮影:2023年12月
小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)
境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。
小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺に。
東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立されている。
東郷寺の様子は下記にて。