「長野県」カテゴリーアーカイブ

軍隊保存食にもなった信州ソウルフード「みそぱん」

信州松本駅の売店で、出会いました。


みそぱん(味噌パン)

どうも世間には、何種類か、みそぱん(味噌パン)と呼ばれるものがあるらしい。
「みそぱん」として、下記に分類される。

  • 菓子パンタイプ
     味噌を練り込んだ焼き菓子タイプ:北海道・宮城・山形・長野
  • 蒸しパンタイプ
     蒸しパンに味噌を練り込んだタイプ:福島
  • 惣菜パンタイプ
     コッペパンなどに味噌を塗ったタイプ:群馬
     トーストに味噌を塗ったタイプ:愛知

惣菜パンとして、群馬県沼田市の「フリアンパン洋菓子」の「沼田名物・みそぱん」は、昭和47年(1972年)の販売。

https://friand.co.jp/misopan


蒸しパンとして、福島県福島市の「駒田屋本舗」の「元祖みそぱん」は、1980年代の発売。

https://www.komadaya.jp/misopan

でも、今回、話題にしたいのは、蒸しとか惣菜ではなく「菓子パンタイプ」の「みそぱん」になります。


信州のソウルフード「みそぱん」(日新堂・安曇野市)

軍隊の保存食としても食されていた「みそぱん」。

日新堂「みそぱん物語」より

みそぱん物語
 味噌は ご存知のとおり穀物を発酵させて作った発酵食品で、日本の定番調味料です。その歴史は古く縄文時代からある日本独自の調味料ともいわれ、奈良時代には味噌の原型と思われる「未醤(みしょう)」が文献にも残っています。

 かつては各家庭で作られて「手前みそ」という表現が生まれました。戦国時代には兵糧として重宝され、兵士の貴重な栄養源になり、朴葉味噌などに名残を残しています。江戸時代の軍隊用の保存食になるヒントになったと考えられます。味噌は各地の風土・気候を反映して、材料や熟成方法など全国に多様な味噌が定着しています。

 みそぱんは 「パン」という名前がついていますが、お饅頭やお煎餅、かりんとうなどの味付けにもなる味噌を使った焼き菓子に分類されます。
 江戸時代の末に軍隊用の保存食として全国で作られ、他地域では作られなくなったものが、松本地方では今でも残っています。

 信州では 祭事や式典などでよく配られていました。昭和40年代頃までは小学校の元日の登校日や学校のお祝いの際に熨斗紙に包まれたみそぱんが配られていたそうです。現在でも幼稚園や保育園、小学校の入学式、運動会などで配られているところがあります。

 一般的な作り方は、味噌と薄力粉と水、重曹、砂糖をよく混ぜて固めの生地をつくって焼き上げます。当社では、より食べやすくアレンジしており、ソフトでサクっとした食感で口の中でとろけ、やさしい甘さとほんのりとしたしょっぱさがクセになります。信州産味噌を練りこんでおり、素朴な風味が懐かしさを感じさせます。牛乳やコーヒーによく合い、お子様のおやつにも喜ばれています。

https://www.misopan.co.jp/misopan

信州のソウルフード「みそぱん」
 「みそぱん」は、信州地方で古くから親しまれてきた定番の郷土菓子です。これは「パン」という名称がついているものの信州みそを練り込んだ焼き菓子に分類されます。江戸末期に軍隊用の保存食として作られていたものが今に続いており、現在でも地域の祭事・式典をはじめ、幼稚園や保育園、小学校への入学式、運動会で配るところが多くあります。
 ソフトでサクッとした食感、やさしい甘さとほんのりとしたしょっぱさがクセになる、信州のソウルフード「みそぱん」。子どもから大人まで、永く愛され続ける素朴な味を、心ゆくまでお楽しみください。

素朴な味わい。ほのかな味噌の味わいに、最近、口にしていなかった優しさを感じる、美味。


陸軍松本飛行場の跡地散策(三菱名古屋製作所大江工場の疎開工場跡)

松本で時間があったので、飛行場の跡を見に行ってみた。
松本空港(信州まつもと空港)ではなく、松本飛行場跡です。


松本陸軍飛行場跡・三菱重工業名古屋製作所大江工場の疎開工場跡

松本市にあった大日本帝國陸軍の飛行場。
現在の「松本空港(信州まつもと空港)の北側に位置する。
昭和18年以降に建設開始、昭和20年春に飛行場の運用が開始された。

また、愛知の三菱重工業名古屋航空機製作所(大江工場)が松本市に疎開することとなり、1945年2月1日に三菱重工業第一製作所が開設。
松本飛行場の試作工場において、当時三菱が開発中だった海軍の戦闘機烈風の六号機、七号機が鈴鹿工場から当飛行場に移されて開発、試験を行うこととなったが程なく終戦を迎えている。

同じく、三菱が開発中であった陸軍のキ83の一号機が各務原飛行場から疎開して当飛行場で試験が続けられたが終戦を迎え、進駐してきたアメリカ軍に当飛行場で接収された。
試作双発戦闘機「キ83」の初号機は、そのまま松本飛行場において、米軍のハイオクガソリンを用いて試験飛行を行い、時速762kmを記録し、日本の軍用機史上において”最高速度記録を誇る戦闘機”となった。

旧 陸 軍 飛 行 場
 太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示された。その月のうちに笹賀国民学校に関係する地主が召集され、耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収に調印させられた。10月には測量が始り、19年2月下旬から整地工事が開始された。
 工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人であったと、終戦直後の新聞は伝えている。兵舎や格納庫を建てるために動員された大工や鳶職は、広く南信一円にまで及んだ。
 陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員達がこの飛行場から飛び立っている。また、「赤トンボ」とよばれる練習機による訓練も行われていた。
 飛行場の施設は、現在の菅野小・中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納庫等が集中し、その西
に現在の幅の広い道路と重なる滑走路、さらにその西に広がる広大な草地の方形区画部分、さらにその
南の松林の中に向かう誘導路と多くの掩体壕があった。
 本土爆撃がはげしくなると格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用された。
 終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路
となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっている。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができる。
   2012年8月
    松本市


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1022-5
昭和23年(1948年)2月18日、米軍撮影の航空写真。

飛行場部分を一部拡大

現地の地図は、東が上になっている。

格納庫をはじめとする地上施設部分を拡大。

現在の様子。

現地の地図は、東が上になっているので、ちょっと位置関係を迷う。

松本市立菅野小学校は、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。


松本飛行場の滑走路跡

松本市道6086号線から西側に滑走路があった。
現在、往時を偲ぶ記念碑がたっている。
市立菅野小学校の近く。


松本飛行場の格納庫基礎跡

松本飛行場の格納庫の基礎が残っている。


松本飛行場コンクリート基礎跡(菅野小学校校庭)

松本市立菅野小学校は旧飛行場の滑走路の東に位置し、旧飛行場施設のコンクリート製基礎が校庭の基礎として流用されている。

ちなみに、アクセスにはコミュニティーバスを使用しました。(バスというより乗り合いタクシーな感じ)
時間の調整が、ちょっと大変でした、、、

場所

https://maps.app.goo.gl/vFziWqAX9zDV2qAy8

https://maps.app.goo.gl/7HKUrKdXwX59gsvw5

※撮影:2024年6月


関連

東洋のマタハリ・男装の麗人、満洲国建国に協力した清朝王女「川島芳子」墓と記念室(松本)

信州松本に訪れた際に、川島芳子が松本に縁があったと知り、足を運んでみました。雪が降っていたけれども。。。


川島芳子

川島 芳子(かわしま よしこ)
1906年5月24日 – 1948年3月25日
清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。
本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)
字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、他に芳麿、良輔とも。

父の粛親王は、中国清朝末期の皇族で、清朝で近代化改革を促進したが、辛亥革命時に北京を脱出し、日本陸軍参謀本部の保護を受けて旅順に逃避。そのときに8歳であった愛新覺羅顯㺭(第14王女)は、父の粛親王の顧問だった川島浪速の養女となった。

川島浪速は、信州松本藩士の家に生まれ、中国語を学び1900年の義和団の乱の際は、陸軍通訳官として従軍。
日本軍撤退後は、清国に雇用され中国初の近代的警察官養成学校であった北京警務学堂の総監督に就任し、義兄弟の関係を結ぶほどに粛親王と深い親交があった。

愛新覺羅顯㺭は、川島浪速の幼女となり、川島芳子という日本名で日本で教育を受けることとなった。
1915年に来日した川島芳子は、当初東京赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通学。
卒業後は跡見女学校に進学。
やがて川島浪速の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住。松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学していたエピソードが残っている。

17歳でピストル自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになり、マスコミも取り上げ、「男装の麗人」と呼ばれるようになった。
昭和2年(1927)に、19歳で蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップと結婚するが3年で離婚。カンジュルジャブは満州国軍の軍人で最終階級は陸軍中将。
離婚後は、上海にわたり、上海駐在武官の田中隆吉少佐と親交を深る。
昭和6年(1931)の満洲事変では、天津から満洲へ愛新覚羅溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出すことに協力し、婉容を天津から旅順へ護送する任務を担った。
また、第一次上海事変にも関わったとされている。

昭和8年(1933)、関東軍の熱河省進出のため熱河自警団(熱河民国連合定国軍、安国軍または定国軍とも)が組織され、川島芳子(金璧輝)は総司令に就任し熱河作戦に従事したことをきっかけに、川島芳子は「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれることになった。関東軍も「清王朝の王女が率いる義勇軍」として最大限に有効活用した。
ただ昭和9年(1934)以降は、関東軍と満洲国を巡って軋轢が生まれており、軍部批判も行っており、監視対象となっており、芳子は料亭「東興楼」を経営し女将となり、第一線で話題にあがることも少なくなっていた。

昭和16年(1941)から昭和20年(1945)の太平洋戦争中は、川島芳子は満洲国を出ずに、特に目立った活動はなかった。

昭和20年の日本敗戦後、10月に北平で中国国民党軍に逮捕された川島芳子は、漢奸(中国語で「国賊」「売国奴」の意)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下され、1948年3月25日に北平第一監獄の刑場で川島芳子は銃殺刑に処された。41歳であった。
奇しくも、第一次世界大戦でフランス軍によってマタ・ハリが処刑されたのも41歳で、没年が同じ歳であった。

川島芳子の遺骨は、後に信州の養父・川島浪速のもとへ届けられた。1949年に浪速が83歳で死去すると、芳子の遺骨はともに松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある川島家の墓に葬られた。

川島芳子 辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん


川島芳子の墓(正麟寺)

養父であった川島浪速と一緒に葬られている。

國士 川島浪速墓
    同婦人 福子
    同女 芳子

男装の麗人
 川島芳子さん
 川島芳子さんは、1906(1907) 年、清国 粛親王の第13王女として生まれ、大正3年 9歳のとき、旧松本藩士で当時の満蒙に活躍し国士といわれた故川島浪速翁の養女となり、同翁とともに浅間温泉に居を移し、松本高等女学校(現 蟻ケ崎高校)に入学、馬に乗って通学するなど、お転婆娘といわれ 市民の話題の的となった。
 その後 戦前の中国大陸を舞台に男装の麗人といわれ、満洲国建立のため大活躍をし有名を馳せたが昭和23年2月、42歳の若さでその波乱の生涯をとじました。

男装の麗人
川島芳子さんの墓案内図

最初、適当に墓所を巡っていて迷子になりまして。
正麟寺の奥、松本市営葬祭センターの脇に看板がありまして、見れば、迷うこと無く。

川島家の墓。

合掌

肅忠親王善耆(川島芳子の実父)の書碑が、川島家の墓所に建立されている。

正麟寺

曹洞宗蓬莱山正麟寺
(小笠原長時公菩提寺)
 室町時代中期に草創され、古くは少林寺と号した。天正11年(1583)に長時公の菩提寺となり、長時公の法名正麟に因んで、正麟寺に改められる。
 明治の廃仏毀釈で一時無住となるが、復興し、永平寺直末となる。墓地には「男装の麗人」といわれ、満州国建国に尽力した川島芳子の墓がある。
 平成22年7月
 白板地区史跡研究会

場所:

https://maps.app.goo.gl/jpz4SFLd7f8qmkVB9


長野県松本蟻ヶ崎高等学校
(旧・松本高等女学校)

川島芳子が通った松本高等女学校。現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校。


川島芳子記念室(松本市歴史の里)

松本市歴史の里には、川島芳子記念室がある。

松本市で少女時代を過ごした川島芳子のゆかりの品を展示する川。川島芳子記念室は川島芳子没後50年にあたる1998年に開設。

満洲国陸軍上将の軍服を着用した川島芳子

コレクション展示
川島芳子記念室
中国清朝の皇女として生まれ、のちに松本出身の大陸浪人川島浪速の養女となり、「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」として知られた川島芳子の関係資料を展示。

川島芳子記念室
Memorial Room of Yoshiko Kawashima
 川島芳子は明治40(1907)年、清朝の皇族である粛親王(しゅくしんのう)の、第14王女として北京に生まれ、本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。同44年、芳子が4歳のとき辛亥革命がおこり 清朝は崩壊、父親と親交のあった、松本出身の大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり、日本で育ちました。
 芳子は川島の転居に伴い松本高等女学校に入学しますが、学校まで馬で通ったエピソードは有名です。
 20歳で蒙古族の将軍の息子と結婚するも、まもなく離婚。のち清朝の復活を願い、日本軍に協力して、さまざまな謀略工作に関わったといわれ、「東洋のマタハリ」、「男装の麗人」などと、世間の注目を浴びますが、その活動の実際は明らかになっていません。
 戦後 中国国民党政府に逮捕、「漢奸(国賊)」として昭和23(1948)年銃殺刑に処せられました。
 没後50周年にあたる平成10(1988)年、芳子を偲ぶ有志により、松本市歴史の里の前身である「日本司法博物館」(当時)内に、記念室が設けられました。

川島芳子資料室

川島芳子の書

日本人たる前に亜細亜人であらねば成ぬ

肅忠親王善耆(芳子の実父)の書(川島家の墓にある石碑の拓本か?)
川島芳子の書
川島浪速の書

愛馬(太郎)とともに。大正10年。
川島芳子は15歳。
松本高等女学校時代は、愛馬に跨って通学をしていた。

男装の川島芳子

川島浪速と川島芳子

王道
 若宮八幡神社寶前
  昭和丁丑夏日
   愛新覚羅氏第十一世
    肅親王 川島芳子

昭和12年の銘

大正十五年のサンデー毎日
川島芳子(川島芳麿)の記事。

東洋のジャンヌ・ダルク
逆転の美女川島芳子

男装の麗人川島芳子さん
満洲建国の為め東奔西走男子も及ばぬ活躍を続け建国史を採った女丈夫川島芳子さんは養子に擬せられて居る金辟王を伴い末朝した
写真甲子園ホテルに於ける川島芳子さんと金辟王

電送ニュース昭和9年12月19日

男装の麗人

川島芳子の直筆原稿(写し)

父上様 御前に

戒名

芳雲院龍種東珍大姉霊位
 浪速定

芳子の字は東珍であった。
実父の粛親王が養子に出すときに、東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いをこめて「東珍」とつけた。

辞世の詩
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず 
法あれども正しきを得ず 
冤あれども誰にか訴えん
 川島芳子

川島芳子周辺地図。
実は、さきに川島芳子記念室を訪れて、そこで墓所を知って、足を伸ばした次第。

展示・休憩棟の川島芳子記念室がある。


旧松本区裁判所庁舎

「松本市歴史の里」内に。

重要文化財
旧松本区裁判所庁舎
明治41年(1908)、松本城二の丸御殿跡に建立。
明治後期の区裁判所庁舎の典型的な特徴を残す。

https://matsu-haku.com/rekishinosato/shisetsu


大庭駅

川島芳子記念室のある「松本市歴史の里」の最寄り駅は、アルピコ交通上高地線(通称・松本電鉄)大庭駅。

1921年(大正10年)10月2日、筑摩鉄道(後の松本電気鉄道、現在のアルピコ交通)により島々線として松本駅 – 新村駅間6.2 kmが開業。川島芳子が松本にいたときとほぼ同じ頃に開通。


松本城

雪の松本城。せっかく松本にいたので。

帰路の「特急あずさ」

※撮影:2024年3月


満洲関連

靖國招魂碑(高遠城址公園)と伊那散策

長野県伊那市に行く機会があった。
伊那市の戦跡として著名なのは、別記事に掲載した「陸軍伊那飛行場跡」となるが、それ以外の近代史に関連した史跡などを散策してみた。


伊那市街地の看板建築群

上伊那地区の中心となる伊那の駅。
1912年(明治45年)開業。昭和27(1952)年3月改築。

伊那節と勘太郎の街。
どっちもよく知らないけど、信州を代表する民謡のひとつと、伊那の勘太郎は映画の侠客。

自動改札では無いです。

跨線橋は昭和51年(1976)

伊那北駅。1912年(明治45年)開業。
現在の駅舎は1991年(平成3年)。

伊那の町並み。
伊那市駅と伊那北駅は歩いて15分くらいの距離感。駅間距離は0.9キロ。商店街が連続している。

看板建築が残る。
伊那では大正8年に大火があり、そののちに看板建築が多数建設されたという。
これだけの看板建築が集中している空間は貴重。


伊那ローメン

ローメン誕生の地

戦後10年目の昭和30年8月に、伊那名物のローメンは誕生した。

ローメン誕生の地

まだ戦後の混乱と食料難が尾を引いていた昭和三十年 服部幸雄氏の協力を得て伊藤和弌氏の発案によってこの地にローメンが誕生した 冷蔵庫もない時代 日持ちをよくするため考え出された蒸し麺と 当時は食べる習慣のなかった羊肉を用いたローメンは 味と栄養を求める多くの 人々の支持を受けた やがて「飽食の時代」と言われるようになっても 大陸を思わせるその独特の味の人気は衰えるどころかさらに広がり 伊那市 伊那商工会議所の支援を受け またローメンを支える多くの人たちの努力によって伊那市を代表する味覚へと成長した 誕生から五十年を経て 今なお多くの人々に愛される「伊那の味」として愛好者が全国に広がりつつあるローメンのさらなる発展を祈りつつ ここに誕生の記憶を刻む
 平成十五年十一月二十五日
 伊那市長 小坂樫男 謹書
 寄贈 ローメンを愛する有志の会

ローメン発祥の店「萬里」

萬里 メニュー

伊那の名物ローメンのおいしい食べ方

ローメンのお話し

ローメンの誕生
 東京・横浜で修行をして故郷の伊那市に帰り、天竜川と並行して走る国道153号沿いに小さな店を出した青年(先代社長・伊藤和弌)は、毎日考えていることがありました。それは、まだ冷蔵庫が普及していない時代でしたので、仕入れた麺を翌日まで保存することができなかった事でした。
 試行錯誤していたそんなある日、麺を蒸してみることにしました。これが不思議に独特の風味と歯ごたえのある麺に仕上がり、日持ちもすることが解りました。当時伊那地方では羊毛産業が盛んで羊肉が安く仕入れることが出来たので、地場産のキャベツと共に蒸し煮する事にしました。シンプルな料理ですが、これがお客様に好評で、名前を「炒」チャー、「肉」ロー、「麺」メンと名付けました。後に「チャー」が取れて「ラーメン」と語呂が良い「ローメン」と呼ばれることになり現在に至っております。
「ローメン誕生」それは、昭和30年8月の暑い日でありました。

ローメン。
羊肉とキャベツなどの野菜をを炒め, 蒸した中華太麺を加えたもの。普通のラーメンとも焼きそばとも異なる「ソース味ベースのスープ焼きそば」のような食べ物。

一番人気の記載があった「豚頭」もいただく。


高遠城址公園

高遠駅。JRバスの駅。
かつて高遠電気軌道という鉄道を建設する計画があったが、未成線におわり、バス路線となっている。

土日の本数はかなり少ない。
伊那と高遠の往復は計画性が必要。

高遠城址の方向。

高遠城址公園

桜の季節以外は、静かな城址公園。

高遠城の戦い。織田信忠軍と仁科盛信軍(信玄の五男)。
武田氏の最後を飾る奮戦。

高遠閣

高遠町民の集会場及び観光客の休憩施設として建設された施設。木造2階建、鉄板葺、入母屋造の大規模な建造物。
昭和11年(1936年)

天下第一の桜
昭和9年

新城神社・藤原神社
仁科五郎盛信と藤原鎌足を祀る。

太鼓櫓

高遠城本丸跡

高遠公園碑

中村元恒・元起記念碑

南曲輪


靖國招魂碑(高遠城址)

明治30年(1897)建立。小松宮彰仁親王の揮毫。

靖國招魂碑
発起者 本郡各寺院

合掌

日清戦争1年後の明治30(1897)年1月18日に、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑。

終戦後、昭和23(1948)年4月ケリー将校が、高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令として、「高遠城址公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」するように命令され、消失の危機を迎える。
慰霊碑を維持してきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会は、独断で裏側に大きな穴を掘って碑を埋める対応を実施。
6年後の昭和28(1953)年、日米講和条約が締結され、土中から招魂碑を掘り起こし、再建した。

忠骨蔵
 この招魂碑脇の忠骨蔵には日露戦争のとき上伊那郡から出征し戦死された256柱の貴い遺骨及び遺品が収められています。
 謹んで諸霊のご冥福をお祈りいたします。
 平成7年4月
 上伊那靖国招魂碑奉賛会 

28センチ榴弾砲を活用した忠骨蔵


撮影:2023年9月

陸軍伊那飛行場の跡地散策(熊谷陸軍飛行学校伊那分教所跡)

長野県伊那市。
のどかな信州の山間にも、戦前は陸軍の飛行場が設けられていた。
往時を物語るものが残されているので足を運んでみた。


旧陸軍 伊那飛行場について

第二格納庫跡に、伊那市によって詳細な案内板がセットされているので、以下に紹介をする。

旧陸軍 伊那飛行場について
旧陸軍伊那飛行場と格納庫

 ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。
 昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。
 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。
 昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

旧伊那飛行場復元図


位置関係

案内板より

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R198-10
1947年09月22日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。
案内板と同じ航空写真ですね。

拡大。

赤いピンが案内板のある第二格納庫跡。


陸軍伊那飛行場跡地の散策。

第二格納庫の基礎が残っている。

建屋がある場所が格納庫の内部にあたる。

鉄筋がむき出し。

奥が滑走路の方向

格納庫の後ろ側。

滑走路あと。

滑走路跡にある「上の原公民館」に開拓碑がある。

開拓碑

昭和21年12月入植ㇱ此ノ地ヲ拓ク

前述の航空写真は昭和22年なので、開拓の1年後でもあり。

上の原公民館

この通りの奥に、本部があった。
何気ない道だけど、この直線が当時のメインストリート。

弾薬庫跡。一つだけ残っている。

弾薬庫跡を物置小屋に活用。個人宅なので、敷地外から。
場所は明記しませんが、前述の陸軍伊那飛行場の地図から、弾薬庫の場所を落とし込めば、だいたいの位置関係はわかるかと。

本部エリア周辺。

兵舎とかもこのあたりに。

本部はこのあたりかな。

真っ直ぐの道。
本部も兵舎も工場も格納庫も、この通りに接続していた。

このあたりに、陸軍伊那飛行場の営門があった、はず。

戦跡としては、第二格納庫の基礎と弾薬一棟を残すだけではあるが、伊那市によって整備されており、価値のあるものでした。

※撮影:2023年9月


関連

小野光賢と小野光景父子にまつわる史跡散策(信州小野と横浜)

平成28年4月ほか

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、私が便乗した、という機会があった。


小野光賢光景記念館

〒399-0601
長野県上伊那郡辰野町小野985
TEL 0266-46-2001(要事前連絡)

小野光賢と小野光景親子の記念館

信州小野の名士であった小野光賢(みつかた・小野兵助とも)は、創生期の横浜で活躍し、横浜発展の礎を築き横浜開港の創始者ともいわれている人物。
文政元年(1818年)信州小野生まれ。
安政6年(1859年)に横浜に出て貿易を営み、草創期に横浜発展に尽力し町名主や横浜副市長などを務めた人物。

光賢の子である小野光景(みつかげ)は横浜商法学校(現市立横浜商業高校)や横浜正金銀行などに絡む人物。

明治から大正にかけて、創生期の港町横浜の縁の下を支えた小野親子の記念館。

現在の小野家の当主は小野光賢の曾孫に当たる方。
小野家当主自ら小野光賢光景記念館の隅々を案内していただきました。話が非常に面白く時間を忘れるほどに。
以下、順番に記念館を見ていきます。


以下、館内写真は許可を得て撮影

光賢庵

小野光賢終焉の庵という。

光賢庵
横浜開港の創始者とうたわれた兵右エ門光賢(通称兵助)終焉の庵である。
安政6年(1859)横浜開港の時、苗字帯刀御免の大名主をつとめた兵助は、開港といふ激務のため健康をそこない「わが素志、成就のときなり」と時の県令陸奥宗光公に辞意を表明、許されて職を長子光景に譲り、明治5年十有余年ぶりに故郷信州に帰り、風月を共に悠々自適、静養につとめていたが、明治33年(1900)7月27日83歳の天寿を全うし、
ここ光賢庵に於いて波瀾の生涯をとじた。
 館長

蔵も残っている。

小野光賢光景記念館 館内

建物の創建年代は不詳。(聞いておけばよかったです)
信州小野に唐突に現れた洋館にビックリ。

小野光景翁像

横浜で活躍した小野光賢は幕末の三舟とも親交があり、記念館には勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟から小野光賢に贈られた書も展示してあった。

小野の集落を見下ろす高台に、小野光賢の像があった。
郷土の名士を誇る記念像。
例の如く戦中供出されて、今は台座のみ残っている。 (後述)
台座のレリーフは小野家の紋章。

レリーフは台座から落ちていたのを見つけた人が届けてくれた、と。
4面のうち、3面はまだ台座に残っていました。

台座から落下したレリーフ
小野光賢像の台座

戦前の外交官・来栖三郎は実は小野家の親戚にあたる。
小野光景の義弟が横浜財界を代表する来栖壮兵衛。その子が外交官の来栖三郎。

曜変天目茶碗(稲葉茶碗)
国宝茶碗にも小野家が絡んでいたり。
将軍家から春日局・稲葉家へと伝えられ、小野光景が大正7年に購入し昭和9年に岩崎小弥太へ。現在は静嘉堂文庫美術館所蔵。

旧家ゆえ色々と歴史的なものも多く。
川中島の合戦絵図。
この絵の面白いところは信玄が謙信に追われ騎馬で後ろを見せて逃げていたり。 ここは信玄の地元たる甲州ではなく信州諏訪ですから(意味深

光賢墓碑陰記

拓本・総持寺
日下部東作書

光景頌徳碑記
拓本

小野病院前庭
貴族院議員高橋作衛選

小野光景は横浜正金銀行頭取、横浜商工会議所会頭、貴族院議員などを歴任。郷里小野では病院設立、紡績工場運営などに携わっている。

明治21年9月29日 公論新報(明治の新聞)

私選東京市長最高点者 福沢諭吉 (右)
私選横浜市長最高点者 小野光景 (左)

あの福沢諭吉と並んで取り上げられてました。

小野光賢光景記念館 は要事前予約となりますが、ご興味ございましたら是非に。
当主の話が面白く展示も興味深いもの多く気がつけばあっという間に二時間を過ごしてしまいました。

小野光賢・光景記念館 紹介サイト

http://www.shiojiri.info/~ryouono/onomitsukage/HTML/index.html

場所

https://goo.gl/maps/t3yvPSQaXtXYbSrv7


小野宿


南塩終点の地

太平洋沿岸で取れる塩が伊那谷・伊那街道を北上してこの地(南小野)まで運ばれた。北隣の松本藩では越後の塩が糸魚川街道によって北小野まで運ばれた。
南北の小野が南北の塩の境目でもあった。


小野光景翁寿像
(小野公園)

小野駅の南東側、小野光賢光景記念館 の東側。
丘の上に小野光景の像が・・・あった。

小野公園

https://goo.gl/maps/jUpdtku6XDqXXdz58

小野光景翁寿像の台座。

小野光景翁寿像 の 台座

小野光景翁と寿像
 小野光景(みつかげ)は父光賢(みつかた)の長子として1845年(弘化2年)に生まれ、21歳の時、国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出奔。
 先に横浜に出て行政面で名を成した父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」を手はじめに要職を歴任する傍ら生糸貿易にかかわり、横浜商法学校(現・市立横浜商業高校)創設、横浜商法会議所(現・横浜商工会議所)会頭、横浜成金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)頭取を務めるなど、貿易商としても成功しました。横浜は光賢(1900年没)と父子が活躍した縁とゆかりの地です。
 以来、一世紀半の歳月が流れ、2009年に横浜市は開港150周年を迎えました。改めて小野光賢・光景父子の功績が脚光を浴び、横浜市と新たな交流も始まりました。
 特に光景翁は郷里である小野(旧・小野村)の地にも、小野駅敷地を寄贈、小野病院(現・小野国保診療所)、小野図書館の設立、高等小学校の敷地、校舎の建設など、郷里の発展のために多大な貢献をされました。
 これらの功績を記念して、郷里の人々はこの小野公園山頂に小野光景翁の寿像を小野家の方向に向けて1919年(大正8年)に建立いたしました。その後、銅像部は第二次世界大戦のために供出され、現在は台座だけになっていますが、それでもこの大きさには圧倒されるものがあります。
 平成22年9月吉日
 小野地区振興会

小野公園から見渡す小野の街なみ。
小野光賢と小野光景親子が育んだ街。


忠魂碑

右は乃木希典公、左は有馬良橘公


小野光賢翁・小野光景翁生誕記念碑


横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

横浜開港と郷土発展の恩人
小野光賢光景父子の実績

撰文 明海大学教授 岩下哲典
 小野光賢は、文政元年(1818)小野村名主小澤小左衛門の二男に生まれ、のち名主小野光珍の養子となった。安政6年(1859)42歳の時、幕府の開港事業を知り、これに応じて横浜に出た。横浜本町5丁目はじめ太田町等の名主を勤め、明治元年(1868)新政府設置の公選横浜町名主や副市長となった。また小野村周辺から横浜に出た郷土の人士をよく世話した。激務により退職し帰郷後、同33年7月7日、小野の光賢庵にて死去した。享年83。
 小野光景は、光賢の長男として弘化2年(1845)小野村に生まれた。慶応2年(1866)父光賢を頼って信州を出た。横浜では光賢を補佐して町政に携わり、神奈川県会議員となり、又貴族院議員に勅任され国家に貢献した。そのほか横浜商法学校(現Y高)設立者、横浜正金銀行頭取、横浜商法会議所会頭、横浜本町他十三か町貿易商組合総理、横浜鉄道会社創立発起人等を務めた。まさに横浜の財界発展やインフラ整備に果たした役割は大きかった。のみならず、小野高等小学校敷地・校舎建設費や小野駅敷地の寄付、小野病院の設立等々揚げて枚挙の遑あらざる偉業を成し遂げた。大正8年(1919)9月18日横浜別邸にて死去。享年74であった。
 小野光賢光景父子は、横浜開港とその発展のみならず常に郷土に思いを馳せ、その発展に多大なる貢献をした。ここに光賢翁生誕二百年を記念して一碑を建て、光賢・光景翁の実績を永く後世に伝えることを願ってやまない。
 平成24年9月9日 建立
 小野光賢・光景翁
 生誕記念碑建立委員会
 小野地区・北小野地区
 辰野町 


詠帰亭の碑

詠帰亭の碑
大正8年5月有志相はかり郷土出身の実業家小野光景翁の寿像が建立された際、翁のため此の地に別荘を新築。中国の故事に倣って詠帰亭と称した。然しながら翁は一度も入来することなく同年9月逝去。
以後詠帰亭は地域の人々の社交の場として利用されていた。
昭和3年11月、詠帰亭は昭和天皇即位の大礼記念事業として小野村青年会館と改称され、同時に図書館を併設、小野村がこれを管理することとなった。
その後、昭和28年に至って図書館は移設され、昭和36年辰野町へ合併するにあたり辰野町小野財産区の所有となり小野商工会工業部によって管理されてきた。
ところが、平成7年8月28日未明の火災によって全焼。建設以来70有余年にして詠帰亭の歴史は幕を閉ることとなった。
ここに詠帰亭の由来の一端を記し、末永く記憶にとどめるものである。
 平成8年10月吉日
 辰野町小野財産区


小野病院

小野光景氏が設立した小野病院は、今は両小野診療所となっている。


小野駅

小野駅の敷地も小野光景氏の寄付。
小野駅は明治39年(1906)、中央本線の岡谷-塩尻間開通と同時に開業。

小野の集落で、小野光賢光景父子を偲びし歴史散策。あまり知ることない郷土史の一幕に触れることができたのは貴重な経験。知的好奇心への良き刺激となりました。


場所と月日はかわって、平成28年(2016年)8月。
横浜の本牧に、脚を運んでみました。
小野の集落を訪ねたときと同じ友人と一緒に。

本牧臨海公園

本牧臨海公園が「小野光景別邸」跡地、という。
三渓園の隣。

https://goo.gl/maps/jtGGXc6NQb9Q4Jne7

公園には「横浜市 八聖殿 郷土資料館」があり、この場所もかつては「小野光景別邸」であった。

横浜市 八聖殿 郷土資料館内にも、小野光景の紹介がある。

https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen006.html

https://shimin-rinkai.jp/

本牧臨海公園と小野光景氏
 ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商として活躍した小野光景氏の約2万6千坪(約8.6ha)に及ぶ別荘地であった。
 海が見渡せる丘に洋館を始めとする幾つかの建物が点在していた。
 当時、別荘地の一部分は市民に広く公開され、「小野公園」と呼ばれていた。

横浜開港の功労者
小野光景別邸跡
 かって、この地は幕末の激動がようやく鎮まった安政六年(1859)横浜開港の創始者とうたわれた横浜町名主小野塀上門光賢の長子小野光景の広大な別荘地で当時この公園と呼ばれていました。豪華絢爛たる洋式別荘は外国使節団当承知ノ場とされ、開港にかかわる歴史的場羽陽な場所であった。
 明治五年(1872)、光景は父光賢の職を継ぎ、次いで明治十三年(1880)、わが横浜商工会議所の創設を始め、横浜学校の始、壮行・如春の二学舎の開設、横浜正金銀行開設、横浜商法学校設立、新港埠頭の建設、八王子横浜間鉄道の新設等々、揚げて枚挙にいとまなく主唱者として貢献し、更に、明治十六年(1883)には自ら貿易行小野商店を開業するなど、障害の前半を成二に、後半を実業に捧げて燃えつくし、と横浜の地鶴見の総持寺の一隅に、父光賢の墓とならんで葬られている。
 このように、この地は横浜発展の礎を築いた小野光景を偲ぶことのできる場所であり、ここに一碑を建て光景の事情を永く後世に伝えることを願ってやまないものである。
 平成15年11月13日 横浜商工会議所会頭 高梨昌芳

春惜しむ
 臨海公園
  波遠し
    忠秋
     記念碑寄贈者 光景生家 忠秋

小野光景氏の功績
 1845年に長野県上伊那郡辰野町小野に生まれ、1859年の開港直後、横浜に移住した。
 父光賢氏の職を引き継ぎ町政業務に携わるとともに、横浜商法会議所(現横浜商工会議所)や横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)及び横浜商法学校(現横浜商業高等学校)、新港埠頭、横浜鉄道(現JR横浜線)等を設立・建設した。
 また、生糸貿易商としても活躍し、明治期の横浜の発展に大いに貢献した人物である。

「小野公園」の記憶
 この油絵は、往時の「小野公園」を海に向かって描いたもので、光景氏の三男哲郎氏の妻、煕子氏の作品である。
 広い芝地に50mのプールがあり、海の水をポンプアップして使っていた。また、海岸に出るためのトンネルが掘られ、崖下は絶好の釣り場となっていた。この芝地はいつも手入れが行き届いていて、秋にはよく運動会が開かれていたという。

小野光景氏別邸洋館
 小野光景氏別邸は、2階建ての洋館で、シャンデリアのついた大広間もあり実に立派なものであったという。
 この豪華絢爛な洋館には、政府の要人や外国の使節を招待するなど、華やかな政治・外交の舞台となっていた。
 しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したといわれる。
 前列中央の、赤ちゃんを抱いているのが小野光景氏である。

明治4年(1871年)頃の本牧の海岸
 かつての本牧の海には良質な漁場が広がっていた。明治末頃からは海苔の要職が盛んになった。また、景色も良く海も美しいことから海水浴場としても使われていくようになる。

埋立で大きく変わる本牧の海岸
 昭和34年(1959年)から46年(1971年)にかけて、根岸湾埋立が行われた。
 左は根岸湾の埋立前の写真。八聖殿が見え、「小野公園」の山の一部がまだ残っている。
 下は昭和30年代末の写真。埋立が進み、本牧臨海公園の整備が行われている。

本牧臨海公園・本牧市民公園・三渓園
周辺からみた景色。


2015年3月撮影

横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)

横浜正金銀行は明治13年(1880)開設。
小野光景氏は 横浜正金銀行 設立にかかわり、そして第二代頭取(1882-83)を務めた。
現在の建物は明治37年(1904)完成。残念ながら小野光景が関わっていた時代ではなく。

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/syoukin/ysb_ayumi/nenpyo/d_toudori02.html


場所は変わって鶴見総持寺。

小野家墓所(総持寺)

鶴見の総持寺に小野家の墓、小野光賢墓と小野光景墓がある。浅野一族(浅野総一郎)と同じ並び。奥まった区画に小野家の墓があった。小野家墓所の区画番地は「中央ハ2」。具体的な場所の情報が皆無のため、この場所を見つけ出すのに結構時間を要してしまった。
(目印となる浅野総一郎墓「中央ハ6」、清浦奎吾墓「中央ニ1-27」とも近い。)

総持寺には、小野光賢夫妻と小野光景夫妻をはじめ、一族が眠っている。

※撮影は令和2年12月

小野光賢夫妻の墓。

小野光景夫妻の墓。

親子で並んでいる。

小野家の家紋。

通路の突き当りが浅野家の墓。小野家の墓は、浅野家の脇の通りに鎮座。


横浜開港の功労者である小野光賢と小野光景の親子。正直にいってほとんど知名度がなく、あまり知られていない人物。横浜の人ですら知らないのでは・・・といったレベル。
そんな横浜の功労者を知ることができた今回の散策はとても貴重なものとなりました。

惜しむらくは、信州小野の「祭林寺」のお墓に詣でていなかったこと。
またの機会は有るのだろうか。。。

本記事はいったん〆

諏訪護國神社

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。

諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。

諏訪護國神社

諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。

ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。

境内に存在感のある胸像があった。

永田鉄山中将像

永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。

永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。

相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。

永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)

永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
 昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
 昭和四十年四月十一日 
 永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会

鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
 平成16年11月吉日
 諏訪護国神社宮司 有賀寛典
 長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会

二・二六事件に関してはこちらも。


せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。

高島城

天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。

日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。


諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。

諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…

高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。

松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)

この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…

高島城南之丸跡
 高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
 忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
 忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
 その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
 諏訪市教育委員会

松平忠輝公

越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。

東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。

元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。

ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。

歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。

私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。

捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。

松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。

貞松院

ここに松平忠輝公の墓所がある。

また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。

迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト  

http://teishoin.jp/jihou.html

松平忠輝公墓
 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士

貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌

松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。

境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。

近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。

明治天皇巡幸記念碑(塩尻峠)

平成28年4月参拝

友人と諏訪地方を訪れる機会があった。
なぜか午前7時の朝靄の中・・・であったが、これは予定の隙間の寄り道でした。

塩嶺御野立公園
(えんれいおのだち公園)

塩嶺御野立公園 展望台
 岡谷市中心部より北方5Kmに位置するこの公園は、八ヶ岳中信高原国立公園内にあり、信濃の国信州でも美しい自然に恵まれた公園とされている。ここからは南方に脚下の諏訪湖を隔てて遠く富士の霊峰、南西側に南アルプス、南東側に八ヶ岳連峰、北西側には日本アルプスの山々を見渡すことができる。日本一の富士山(3776m)、第二峰の北岳(3192m)、第三峰の奥穂高(3190m)といった我が国の三高峰が望める唯一の場所でもある。また、四季折々のすぐれた自然に恵まれ「小鳥の森」に指定され、「小鳥の楽園」として毎年5・6月の毎日曜日には早朝小鳥バスも運行され人気を呼んでいる。春は桜に始まり、レンゲツツジ、唐松の芽ぶき、夏はニッコウキスゲの群生、秋は紅葉と、県内外を問わず多くの観光客が訪れている。尚、右手にある明治天皇巡幸記念碑の前では日本一短いと言われている「御野立記念祭」が塩尻市と当市の間で毎年催されている。
 岡谷市役所経済部商業観光課

明治天皇巡幸記念碑

聖駕駐蹕記
大勲位 威仁親王 篇額 ( 有栖川宮 威仁親王 )
明治39年(1906) 従三位 一等 股野琢 撰并書 (宮内官僚・漢学者)

明治13年(1880)6月24日、塩尻峠を御巡幸された 明治天皇がお立ち寄りになられたことを記念して建立された石碑。

明治天皇塩尻峠御野立所

明治13年(1880) 6月24日、 明治天皇御巡幸
昭和22年(1947)10月14日、 昭和天皇御巡幸

塩嶺御野立記念祭

明治13(1880)年6月24日に 明治天皇が、
昭和22(1947)年10月14日に 昭和天皇が、
それぞれ同地を訪れたことを記念し、毎年6月24日と10月14日に両市が祭りを開いている。 春6月は岡谷市、秋10月は塩尻市の担当。

明治天皇が訪れた時間にあわせて午前10時に、参列者一同が一礼をする祭礼。
 1,整列
 2,一同 「礼」
 3,解散
春秋共に20秒ほどで終わる、「日本一短い祭」として有名。

塩尻市観光協会>御野立記念祭

https://tokimeguri.jp/annual_event/1195.php

毎日新聞>日本一短い祭り 100年の節目も20秒で終了 長野

https://mainichi.jp/articles/20160625/k00/00e/040/191000c

中仙道(中山道)
塩尻峠ノ富士浅間社

松本領と諏訪領の郡境の宮として塩尻峠に鎮座する石祠。
この地は中仙道。

塩嶺御野立公園 展望台

朝もやってましたが、かろうじて諏訪湖がわかりました・・・。
天気が良いと富士山も見えるらしいです。

塩尻市観光協会>塩尻峠

https://tokimeguri.jp/spot/1072.php

長野縣護國神社と戦跡散策

平成29年9月

松本
・長野縣護國神社
・陸軍歩兵第五十聯隊(松本聯隊)
・陸軍歩兵第五十聯隊糧秣庫跡(赤レンガ)

平成29年9月3日。
護國神社巡りは長野と山梨に。
この日は無謀にも松本市と甲府市をハシゴし「長野縣護國神社」と「山梨縣護國神社」を参拝。
あわせて戦跡として「松本歩兵聯隊」と「甲府歩兵聯隊」名残の糧秣庫跡(赤レンガ)も散策してきました。
こちらは長野松本編。

松本には魅力的な神社も史跡も多い。
が(過去に何度か訪れているので)、今回は誘惑を断ち切り長野縣護國神社のみに立ち寄ることを決意。
0935に松本駅に到着し、松本城・信州大学方面に向かうバスに乗り込んで、長野縣護國神社の社頭に到着したのは10時過ぎだった。

長野縣護國神社

信濃国総守護。長野県出身の明治戊辰の役以来大東亜戦争に殉ぜられた御英霊を祀る。
昭和13年、陸軍歩兵第50連隊(松本聯隊)に隣接する現在地に長野県招魂社として鎮座。
昭和14年、長野縣護國神社と改称。(内務大臣指定護國神社) 終戦後の一時期は美須々之宮とも呼称。

大鳥居をくぐり参進する。
参道の脇にひときわに大きな碑が目に飛び込んでくる。
いつもは慰霊碑には御社殿参拝後に巡拝するのだが、この碑の存在感に私の脚は自然と吸い寄せられてしまった。

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

杉山茂謹書(元陸軍大佐・元陸将)

南十字星の下に散華せる
「嗚呼戦友」

大東亜戦争に日本を遠く遥か南溟の彼方ニューギニア島及其の周辺に祖国防衛のため挺身し、
 海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍
と散りし友の歩んだ途は惨烈悲壮筆舌に尽くし難し
 嗚呼 友の霊何処にぞ
戦終り時移りて此処に三十年 今ぞ群霊懐かしの故郷信州に帰りてこの地に鎮まり新しき日本の礎となる
吾等亡き友の昔日を偲び
 御霊よ 久遠に安かれ 
と信濃の国各地の不変の石にこの祈願を刻し、やがては同じ石下に吾等も魂魄を鎮め共に昔を語らんことを期して、此処にこれを建てる
長野県ニューギニア会
昭和49年7月28日

晴れ渡る夏空の下で、 拝する。

御英霊に感謝と哀悼の誠を捧げる。
そして
御英霊の御加護のもと、祖国の平和と繁栄を祈念する。

ありがとうございます。

社頭には「終戦の詔勅」が現代語訳とあわせて掲示されておりました。

御朱印を頂戴いたしました。 ありがとうございます。

護國神社のイメージに反して当て紙が可愛らしい。
なお、オリジナル御朱印帳は3種類あることを確認いたしました。 (「御神紋柄」青と桃の2色と「日の丸モチーフ表装」の3種類)


長野県ブーゲンビル会 献木

ブーゲンビル島。
1943年4月。山本五十六大将搭乗機が、この島の上空で撃墜され戦死する事件が起こる(海軍甲事件)。
同年11月には同島にアメリカ軍が上陸し、ブーゲンビル島の戦いとして終戦まで同島では戦闘が続いた。

平和の像

1995年(平成7)8月15日
松本深志ライオンズクラブ建立 平和の象徴「鳩」と子どもたちの像。

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。 長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。 国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。

平成27年10月10日
長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠

シベリア抑留慰霊碑

相澤英之書
1945年8月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言9項を無視したソ連の蛮行により、日本軍将兵ら60万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠牲者6万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。
人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。
2005年8月9日
シベリア抑留慰霊碑建立委員会

シベリア抑留慰霊碑

「異国の丘」
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春が来る

シベリア抑留の大地で「凍てつく岩石を掘る」シーンと「伐採作業」シーンが碑に描かれておりました・・・。

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍・佐藤中隊碑(佐藤剛吉中隊長)
昭和44年建立

拓友之碑

満蒙開拓青少年義勇軍第7次斉藤中隊碑(斉藤義男中隊長)
昭和51年建立

満蒙開拓青少年義勇軍。14~15才の少年達が満蒙の広野に開拓の意気高く大陸に渡るも昭和20年8月満蒙国境を打ち破ったソ連軍の捕虜となり過酷な重労働で多くは異国の土となった…

砲魂

佛印派遣討4237部隊第4中隊
昭和61年建立

旧歩兵第五十聯隊跡碑

昭和33年建立
松本歩兵第五十聯隊
通称「松本聯隊」

大戦当初は満州・華北方面に展開されていた。 昭和19年3月テニアン島守備部隊となり、同年8月2日にテニアン島にて玉砕…

松本聯隊の跡地には小さな社が鎮座していました。

北に長野縣護國神社。南に松本聯隊。
現在、松本聯隊の跡地は文教地区として「信州大学」や「長野県松本美須々ヶ丘高校」などが展開。
信州大学の校内に往時ゆかりの建物が残っているので行ってみましょう。

信州大学・松本キャンパス

キャンパスマップの32番に「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」って書いてありますね。分かりやすくて助かります。
ただこのキャンパスマップは「北が下」なのがちょっと不親切。

松本歩兵第五十聯隊糧秣庫跡
(信州大学松本キャンパス)

登録有形文化財。
明治40年に松本に第五十聯隊の衛戍地が決定し、翌年に聯隊が展開。
この糧秣庫の建設年代は明治41年(1907)ごろと推定。
外壁レンガはイギリス積み。
正面入口には…門柱がかなり短縮カット状態で保存。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

現在の信州大学松本キャンパスには、もともと松本歩兵第五十連隊の施設があった。
第五十連隊は日露戦争中の明治38年(1905)に編成され、明治40年(1907)に松本を衛戍地(えいじゅち)とすることが決まり、その翌年に現地に入った。
糧秣庫の建築年代は定かでないが、第五十連隊が衛戍地に入った明治41年(1908)頃であろう。
建物は梁間9.09m(約5間)、桁行36.32m(約20間)で、煉瓦造平屋建、切妻桟瓦葺屋根である。
外壁の煉瓦はイギリス積みになっている。
小屋組は、洋小屋組、キングポストトラス構造で、陸梁が1間おきに架けられ、建物の北側には廊下が通っている。
出入り口には2種類の大きさがあり、西面には大きな出入り口が1つ、北面には、西側から大きな出入り口、小さな出入り口、大きな出入り口の3つがある。
外壁には、北・南・東面に2種類の大きさのアーチ形の窓が連続して取り付けられており、北面には出窓がある。
現在の第五十連隊糧秣庫に残る痕跡から、当初の姿や改修の過程を見ると次のようになる。
・かつて、北面の外壁には大小4つの出入り口があった。
・当初の間取りは3ヵ所の煉瓦の内壁で4部屋に仕切られていた。
・それぞれの部屋の北西の外壁には、2つの窓と1つの出入り口が設けられていた。
・4部屋に仕切られていたとき、一番西側の部屋だけに床が張られていた。
・出窓は大きな窓を改修して取り付けられた。
第五十連隊糧秣庫は、用途の移り変わりによって内部の改修が行われてきたが、外部への改修は少なく、建設当初の姿をよく残している。この建物は戦争の記憶を現代に伝えるだけでなく、本学によって教育的にも利用され、時代を通してさまざまな人々の活動の場となってきた。

内装はいろいろ弄ったそうだけど外観は往時の姿を残しているという。
周辺は建物に囲まれているので空間はなかなか撮りにくい。

入口のところに転がってました。
保存?
「陸軍用地」境界石


松本市「 旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫 」

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/smph/miryoku/bunkazai/takara/kuni/touroku/50rentai.html

松本市戦争遺跡建立事業

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.html

松本市内に残る戦争遺跡など

https://www.city.matsumoto.nagano.jp/shisei/heiwa_suisin/heiwa_tutaeru/rinewal_sensou_iseki.files/itizu003.pdf

信州大学サイト
「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫」登録有形文化財登録証等伝達式

http://www.shinshu-u.ac.jp/topics/archive_data/2012/09/post-487.html