平成28年4月参拝
友人と諏訪地方を訪れる機会があった。
諏訪湖の高島城。その高島城のある高島公園の南端に鎮座。
目次
諏訪護國神社
諏訪招魂社として明治33年(1900)に創建したことにはじまる。
諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡より出征されて、戦死・戦病死された英霊、並びに国家公共の為に尽くした人々の神霊を祀る。
内務省指定外護國神社。
ちなみに参拝時に、あっちこっちに水が流れ出しているのは、なぜか庭園の水が溢れていたため。
境内に存在感のある胸像があった。
永田鉄山中将像
永田鉄山
明治17年(1884)11月14日-昭和10年(1935)8月12日
長野県諏訪郡上諏訪町本町(諏訪市)出身
永田家は代々、高島藩の藩医を努めてきた家であった。
高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現在の諏訪市立高島小学校)に入学。
父に死去に伴い東京牛込に転校し、明治31年に東京陸軍地方幼年学校に入校。
明治37年(1904)、陸軍士官学校を16期主席卒業。
昭和7年(1932)、陸軍少将に昇進。昭和9年、陸軍省軍務局長に就任。
永田軍務局長の押し進めた人事の刷新(派閥排除)は、皇道派の大御所である真崎甚三郎教育総監の逆麟に触れ、たまりかねた永田軍務局長は今井清人事局長とはかり、真崎教育総監を昭和10年7月に更迭。
相沢事件(永田事件・永田局長惨殺事件)
昭和10年(1935)8月12日、行動派の真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将を惨殺した事件。その後の二・二六事件につながる。
永田鉄山は死後に陸軍中将昇進。
永田鉄山中将胸像碑文
(カタカナを平仮名に置き換え句読点を補完しました)
永田鉄山中将は明治十七年一月十四日上諏訪町本町に生まる。
郡立高島病院長永田志解理氏の四男なり。
高島尋常高等小学校に学ぶ年少志を立てて東京陸軍地方幼年学校に入り進みて陸軍士官学校陸軍大学校を卒ふ。
天禀の優秀に加ふるに非凡の勉強を以てし各校の卒業毎に成績抜群にして恩賜賞を授与せらる。
夙に上司の属望を受け官命に由つて渡欧する事三度、入りては陸軍省参謀本部教育総監部の諸要職に就き、出でては歩兵第三連隊長第一旅団長たり、遂に陸軍軍政の中心軍務局長に補せらる。
中将頭脳明晰識見高邁裁決流るるが如く思慮周到造詣深遠難局に処して苟も挙借を謬らず、最も独創企画に秀で軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将の立案献策に係るもの少なからず、国軍の進展に寄与せる所絶大なり。
陸軍の至宝として永田の前に永田無く永田の後に永田無しと称せらる。
多年意を大陸国策の研究に注ぐ。
満州事変以来の非常時局に際し其蘊蓄を傾け枢機に参画して処信に邁進せる間妖言累を及ぼし、昭和十年八月十二日不慮の災禍に遭つて執務中局長室に斃る。
享年五十二歳なり。
中将の死は真に身命を君国に処せるもの正に戦場の死と択ぶ所無し。
因て同郷の有志協議地を此処にとし中将の胸像を建て、以て此の偉材の英姿を永遠に伝へんとす。
昭和十三年十一月十三日 永田鉄山中将記念会
この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるも、このたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである。
昭和四十年四月十一日
永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会
鎮魂慰霊碑
御祭神御英霊の尊い犠牲により今日の平和と繁栄があります。英霊奉賛の為に諏訪郡市軍人恩給者連盟は全国連盟五十周年記念事業として建立致します。
平成16年11月吉日
諏訪護国神社宮司 有賀寛典
長野県軍恩連盟 諏訪郡市協議会
二・二六事件に関してはこちらも。
せっかくなので諏訪護國神社のある「高島城」にも触れておきます。
高島城
天正18年(1590)に日根野高吉によって築城。
これまで鎮座していた八剣神社を遷座させて、文禄元年(1592)着工。
慶長3年(1598)完成。
典型的な水城で「諏訪の浮城」と称された。
日根野氏以降は旧領主諏訪氏が復領し幕末まで諏訪氏代々の城となる。
明治8年1875に天守以下建造物は破却。
現在の天守・櫓・門・塀は昭和45年(1970)の復元。
諏訪と言われて何を思い出すだろうか?
少なくとも、私ですら流石に一番最初に「永田鉄山」は思い出さない。
諏訪大社、諏訪湖、温泉。
諏訪ゆかりの人物でと言ったら、諏訪姫とか武田勝頼とかを思い出すのが無難なところであるが、諏訪と言われて私は一人の鬼っ子を思い出してしまった。
鬼っ子といわれた悲運の男。 家康公の六男…
高島城の南之丸跡。現在は諏訪市役所。
その駐車場の片隅に祠がある。
松平忠輝公館跡
(高島城南之丸)
この南之丸跡に「松平忠輝公神社」ともいうべき小祠が鎮座している。
忠輝公が人生の大半を過ごしたのが高島城南之丸…
高島城南之丸跡
高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
忠輝は、徳川家康の六男で越後高田六〇万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(一六一五)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八(いろは)姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(一六二六)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると八五人にもなり、大名の格式をもって生活した。五八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。天和三年(一六八三)、九三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周(よしちか)が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄一六年(一七〇三)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(一七〇六)に病没、市内の法華寺に葬られた。以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。
諏訪市教育委員会
松平忠輝公
越後高田75万石の大名であり徳川家康の六男。越後少将。
東北の雄たる伊達政宗の長女いろは姫を娶り家康公の息子であったにも関わらず、元和2年(1616)に高田藩は改易され忠輝公は配流。
元和2年(1616)25歳の時に改易され配流。伊勢朝熊で2年、飛騨高山で8年、そして寛永3年35歳のときに諏訪高島城南の丸に移り、その後58年を諏訪で過ごす。
天和3年(1683・五代綱吉の治世)に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終える。
諏訪高島藩にとってなんとも厄介なお荷物であったろう。なんせ、この流人は藩主諏訪氏よりも位階が高く(藩主・諏訪頼水公は従五位下因幡守に対して、忠輝公は従四位下左近衛権少将)、さらには東照大権現・家康公の六男。そんな人物が58年間をこの諏訪高島城で過ごしていた。
ちなみに、 南の丸には松平忠輝のあとには赤穂事件の吉良上野介の子である吉良義周も配流されてきている。
歴史の上では松平忠輝という人物は何ら重要ではない。
教科書的には徳川家康の御子として兄の松平信康、(結城)秀康、そして二代将軍秀忠、弟の紀州・尾張・水戸御三家の間に埋もれ名前すら記載されていない。
私は、そんな松平忠輝という人物がどことなく好き。それは伊達政宗との縁かもしれない。忠輝の妻は政宗の長女いろは姫。天下を搖さぶり続けた政宗に翻弄され、実力を発揚する機会もないまま将軍秀忠に恐れられ改易。
そんな忠輝であったが、信長・秀吉・家康と伝えられた天下取りの名笛「野風」を父から賜り、笛を吹きつつ長き半生を諏訪湖畔で風流にすごした。
実際の忠輝はどのような人物であったかは知らない。
痛快な時代小説『捨て童子・松平忠輝』(隆慶一郎著)のような鬼っ子のイメージが強いが、家康の嫡子として信長に恐れられ自害させられた長男信康や、秀吉に疎まれ結城家に養子と出された次男秀康のような英雄型の人物であったとされている。
捨て童子・松平忠輝 隆慶一郎著
隆の代表作「影武者徳川家康」でスパイスを効かせていた忠輝は、この「 捨て童子 」で主役となる。
松平忠輝の墓は高島城の北東にある「貞松院」にある。
「東に忠輝、西に光悦」といわれたほどの名墓碑であり、忠輝が生前自ら撰んだ墓石であるという。
貞松院
ここに松平忠輝公の墓所がある。
また、忠輝公の遺品もある。
信長・秀吉・家康と天下人に受け継がれた銘笛「乃可勢」(野風)などが有名。ただし非公開、以下の公式サイトで拝見できます。
迎冬山 貞松院 月仙寺 サイト
松平忠輝公墓
寂林院殿心誉輝窓月仙大居士
貞松院・松平忠輝公墓
木立の下に一際に大きな墓石がある。
隆慶一郎の著作で忠輝公に魅了され、その数奇な運命を知って以来、ずっとお参りしたいと思っていました。 ようやく、訪れる事が出来ました。
合掌
松平忠輝公の略歴
文禄元年(1592)、江戸城において出生。家康公六男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介に任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せらる。また同年将軍の名代として大阪城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、政宗公の娘五郎八姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇また壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向かう幕府に入れられず、また政宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大阪夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え厚遇した。この地に住むこと58年間、天和3年(1683)7月3日、93歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。
境内には諏訪藩医井出家の墓所もありました。家康の侍医であった片山宗哲が、諏訪に流されていたときの縁で井出氏が諏訪藩医に。二代目井手苔庵は松平忠輝公の最期も看取っていた。
近代史跡や戦跡からは脱線してしまいましたが、たまにはこういうこともあります。
〆