靖國招魂碑(高遠城址公園)と伊那散策

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長野県伊那市に行く機会があった。
伊那市の戦跡として著名なのは、別記事に掲載した「陸軍伊那飛行場跡」となるが、それ以外の近代史に関連した史跡などを散策してみた。

長野県伊那市。のどかな信州の山間にも、戦前は陸軍の飛行場が設けられていた。往時を物語るものが残されているので足を運んでみた。 ...

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伊那市街地の看板建築群

上伊那地区の中心となる伊那の駅。
1912年(明治45年)開業。昭和27(1952)年3月改築。

伊那節と勘太郎の街。
どっちもよく知らないけど、信州を代表する民謡のひとつと、伊那の勘太郎は映画の侠客。

自動改札では無いです。

跨線橋は昭和51年(1976)

伊那北駅。1912年(明治45年)開業。
現在の駅舎は1991年(平成3年)。

伊那の町並み。
伊那市駅と伊那北駅は歩いて15分くらいの距離感。駅間距離は0.9キロ。商店街が連続している。

看板建築が残る。
伊那では大正8年に大火があり、そののちに看板建築が多数建設されたという。
これだけの看板建築が集中している空間は貴重。


伊那ローメン

ローメン誕生の地

戦後10年目の昭和30年8月に、伊那名物のローメンは誕生した。

ローメン誕生の地

まだ戦後の混乱と食料難が尾を引いていた昭和三十年 服部幸雄氏の協力を得て伊藤和弌氏の発案によってこの地にローメンが誕生した 冷蔵庫もない時代 日持ちをよくするため考え出された蒸し麺と 当時は食べる習慣のなかった羊肉を用いたローメンは 味と栄養を求める多くの 人々の支持を受けた やがて「飽食の時代」と言われるようになっても 大陸を思わせるその独特の味の人気は衰えるどころかさらに広がり 伊那市 伊那商工会議所の支援を受け またローメンを支える多くの人たちの努力によって伊那市を代表する味覚へと成長した 誕生から五十年を経て 今なお多くの人々に愛される「伊那の味」として愛好者が全国に広がりつつあるローメンのさらなる発展を祈りつつ ここに誕生の記憶を刻む
 平成十五年十一月二十五日
 伊那市長 小坂樫男 謹書
 寄贈 ローメンを愛する有志の会

ローメン発祥の店「萬里」

萬里 メニュー

伊那の名物ローメンのおいしい食べ方

ローメンのお話し

ローメンの誕生
 東京・横浜で修行をして故郷の伊那市に帰り、天竜川と並行して走る国道153号沿いに小さな店を出した青年(先代社長・伊藤和弌)は、毎日考えていることがありました。それは、まだ冷蔵庫が普及していない時代でしたので、仕入れた麺を翌日まで保存することができなかった事でした。
 試行錯誤していたそんなある日、麺を蒸してみることにしました。これが不思議に独特の風味と歯ごたえのある麺に仕上がり、日持ちもすることが解りました。当時伊那地方では羊毛産業が盛んで羊肉が安く仕入れることが出来たので、地場産のキャベツと共に蒸し煮する事にしました。シンプルな料理ですが、これがお客様に好評で、名前を「炒」チャー、「肉」ロー、「麺」メンと名付けました。後に「チャー」が取れて「ラーメン」と語呂が良い「ローメン」と呼ばれることになり現在に至っております。
「ローメン誕生」それは、昭和30年8月の暑い日でありました。

ローメン。
羊肉とキャベツなどの野菜をを炒め, 蒸した中華太麺を加えたもの。普通のラーメンとも焼きそばとも異なる「ソース味ベースのスープ焼きそば」のような食べ物。

一番人気の記載があった「豚頭」もいただく。


高遠城址公園

高遠駅。JRバスの駅。
かつて高遠電気軌道という鉄道を建設する計画があったが、未成線におわり、バス路線となっている。

土日の本数はかなり少ない。
伊那と高遠の往復は計画性が必要。

高遠城址の方向。

高遠城址公園

桜の季節以外は、静かな城址公園。

高遠城の戦い。織田信忠軍と仁科盛信軍(信玄の五男)。
武田氏の最後を飾る奮戦。

高遠閣

高遠町民の集会場及び観光客の休憩施設として建設された施設。木造2階建、鉄板葺、入母屋造の大規模な建造物。
昭和11年(1936年)

天下第一の桜
昭和9年

新城神社・藤原神社
仁科五郎盛信と藤原鎌足を祀る。

太鼓櫓

高遠城本丸跡

高遠公園碑

中村元恒・元起記念碑

南曲輪


靖國招魂碑(高遠城址)

明治30年(1897)建立。小松宮彰仁親王の揮毫。

靖國招魂碑
発起者 本郡各寺院

合掌

日清戦争1年後の明治30(1897)年1月18日に、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑。

終戦後、昭和23(1948)年4月ケリー将校が、高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令として、「高遠城址公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」するように命令され、消失の危機を迎える。
慰霊碑を維持してきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会は、独断で裏側に大きな穴を掘って碑を埋める対応を実施。
6年後の昭和28(1953)年、日米講和条約が締結され、土中から招魂碑を掘り起こし、再建した。

忠骨蔵
 この招魂碑脇の忠骨蔵には日露戦争のとき上伊那郡から出征し戦死された256柱の貴い遺骨及び遺品が収められています。
 謹んで諸霊のご冥福をお祈りいたします。
 平成7年4月
 上伊那靖国招魂碑奉賛会 

28センチ榴弾砲を活用した忠骨蔵


撮影:2023年9月

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