「福島県」カテゴリーアーカイブ

福島縣護國神社

福島県福島市。信夫山のふもとに福島縣護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


福島縣護國神社

福島県下の英霊6万9千余柱を祀る。

福島縣護國神社
御祭神 御英霊
御神徳 平和・繁栄

由緒
 当神社は明治12年10月4日、県内三ヶ所(相馬・三春・若松)の招魂場の御霊を合祀し、信夫山の地に招魂社として創建されました。
 現在の社殿は昭和12年に造営され、戊辰の役から大東亜戦に至るまで、国家平安のための御英霊6万9千余柱をおまつりしてあります。
 明治の初めから指定官祭福島招魂社となり、戦時中官祭福島県護國神社となりました。この間皇室より数々の御参拝を賜り、幣帛料・幣饌料を捧げられた由緒深い神社であります。
 近年におきましては平成7年9月天皇陛下より幣帛料を、同年10月天皇・皇后両陛下より幣饌料が捧げられました。
 平成8年7月には神社本庁の別表神社に加列され現在に至って居ります。

福島縣護國神社サイト

https://gokoku559.info/

大鳥居

日の丸が美しい。

社頭

晴天の日の丸

ちょうど8月の訪問は、英霊感謝のみたままつり。

献燈は、福島県海軍甲種飛行予科練習生出身者の会による。

狛犬

奉納 皇紀二千六百年紀念

郡山地方専売局管内
煙草小売人組合連合会

社頭の鳥居

みたままつり

境内は、みたたまつりの黄色い提灯で彩られ。

拝殿

深く拝する。
御英霊に感謝と哀悼を。

さざれ石


悠久平和の碑

歩兵第29聯隊戦没者4,300余柱の慰霊顕彰

悠久平和の碑

碑文
 私達はかっての大東亜戦争において幾多の辛苦を乗り越えて、ジャワ島、ガダルカナル島、ニューブリテン島ラバウル、フィリッピン島、マレー半島更にはビルマ、中国雲南省、佛領印度支那に勇戦奮闘し、その間多くの戦友が身命を祖国の為に捧げられました。
 髀肉の嘆を託ちつつも、命永らえた私達が終生、断じて忘れ得ない英霊の偉大なる功績を偲び、戦場に散華された若き身命を惜しむとともに、その霊安かれと念ずるよすがとして、ここに悠久平和の碑を建立するものであります。
 あの戦争の凄惨と苦難を身を以て体験した私たちこそ、子々孫々に至るまで人類社会の太平を念願するものであります。
 願わくば殉国の四千三百五十八人の英霊よ、この平和への道を御照覧あられんことを。 
  平成二年四月二十三日 
   会津若松 歩兵第二十九聯隊会  
    略称 勇第一三〇三部隊
     会長 遠藤 正弥


福島県送出満蒙軍開拓青少年義勇軍 
慰霊の碑

福島県から進出した満蒙開拓青少年義勇軍の慰霊顕彰

時の国策に殉じた 少年達の霊 ここに眠る
国の礎たらんことを自覚し 身を挺して 散華したあなたたち満蒙開拓青少年義勇軍
 我等義勇軍ハ 天祖ノ宏謨ヲ奉ジ 心ヲ一ニシテ追伸シ
 身ヲ満州建国 聖業ニ捧ゲ 神明二誓ッテ 
 天皇陛下ノ大御心ニ副イ奉ランコトヲ期ス
この綱領を胸に 祖国の安泰と五族協和 王道楽土の建設を夢見て旅立った   同志の御魂よ
 いま 護国の神域に相寄り 安らかに鎮まらんことを
   昭和五十三年九月彼岸    
    福島県拓友連絡協議会会員一同


殉職救護員慰霊碑

福島県赤十字泉寺救護員戦没者32柱の慰霊顕彰

 この碑は、支那事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社福島支部所属戦時救護員として応召し、若い尊い命を捧げた殉難教護員三十二名のみたまを慰めるために建立しました。
 戦時救護のため、陸軍に配属され、黄塵まきあげる大陸や灼熱の南方地域に派遣され、あるいは怒涛さかまく海上輸送の任務について、戦傷者の救護に献身し、不幸にも病魔にたおれ爆撃に散華した清く凛々しい姿をしのび、思い新たなものがあります。
 私達は深い祈りの心をこめて、その徳をしたい永久に師表と仰ぐ資とするものであります。
  昭和四十二年十月三十日
   日本赤十字社看護婦同方会福島県支部


招魂碑(信夫山招魂社碑)

信夫山招魂社の由来を記載。
扁額は、有栖川宮熾仁親王による。


大燈籠

大日本国防婦人会福島地方本部解散紀念の献燈。
昭和17年2月16日。

昭和17年に、第日本国防婦人会(国婦)や愛国婦人会(愛婦)、大日本連合婦人会(連婦)などは、全て新設された大日本婦人会に統合されている。


御朱印

御朱印を頂戴しました。

靖國神社の「さくら陶板」


信夫山天満宮

護国神社に、きちんとした境内社があるのは珍しい。
昭和63年、大宰府天満宮より御分霊を拝戴した、東北の大宰府天満宮。


黒沼神社

護國神社は別法人の神社。
神社としての由緒は、黒沼神社のほうが古く、延喜式内社(平安時代の延喜式に記載のある古社)として、式内社・黒沼神社の論社の一つ。

※撮影:2023年8月


関連

中島飛行機信夫山地下工場跡(福島)

福島県の信夫山。標高275メートル。
福島市のシンボルとしてそそり立つ信夫山は、古くから山岳信仰の場でもあり、今も福島県護国神社や出羽三山の分社、黒沼神社や岩谷観音を始めとした多くの寺社がある。

戦前、この信夫山に中島飛行機の地下工場があったというので、足を運んでみた。


中島飛行機信夫山地下工場(中島飛行機フ工場

中島飛行機武蔵製作所のエンジン製造工場を分散疎開させることとなり、疎開工場として福島県福島市の信夫山も候補となった。信夫山には、江戸時代前から金鉱山として有名で、いくつかの坑道があったというのも、地下工場と親和性が高かった。

通称は「フ工場」。
昭和20年3月、信夫山の羽山西側に中島飛行機エンジン組立の地下工場が切削がされたが、完成前に終戦を迎えている。
現在、開口部はコンクリートで塞がれている。

中島飛行機・信夫山地下工場跡

暑い夏の日でしたが、隙間からは冷気を感じることが出来ました。

開口部前に平らな道がある。人為的に作られた道は、往時のトロッコ道かもしれない。

西端。

福島交通飯坂線を見下ろせた。

地下工場開口部の前の道。

場所はこのあたりから、山道に入ると開口部へのアクセスできる。

https://maps.app.goo.gl/MN2pm3wfSDyrjtew7

山裾をはしる福島交通飯坂線。

この山に地下工場があった。

ちょうど、山の西側を電車が走る。

福島県立美術館から「羽山」を望む。羽山の左側が地下工場のあった台地。
住所は「西平山」


曽根田駅

福島交通飯坂線の駅。
1942年(昭和17年)の開業当時の姿を伝えている駅舎。

福島駅から望む信夫山。

東北新幹線は信夫山の西側をトンネルで通過し、東北本線は、西側の山裾を避けるように北上している。

ちなみに福島は、古関裕而のまち。

古関裕而記念館もあるけど、時間の都合で行きませんでした。
 露営の歌
 暁に祈る
 若鷲の歌

※撮影:2023年8月


関連

小名浜港の礎となった駆逐艦汐風と澤風「軍艦防波堤(沈船防波堤)」(福島県いわき市)

福島県いわき市小名浜。福島県下では最大の港湾。
この港町の埠頭に、旧帝国海軍の駆逐艦が眠っているというので、足を運んでみました。

艦影が分かるように敷かれたタイル。これが駆逐艦「汐風」の艦尾を伝える名残。


沈船防波堤の歴史

沈船防波堤の歴史
 小名浜港は、延享4年(1747)に江戸幕府の代官所が置かれ、磐城各藩の納付米を江戸に積み出したことにより、港の基礎が築かれました。本格的な整備は大正7年の漁港修築工事が始まりで、昭和2年には第2種重要港湾に指定され、昭和4年から昭和13年まで第1期港湾修築工事として港の整備が行われました。しかしながら、国の財政事情により計画の一部を縮小せざるを得ませんでした。さらに、昭和16年から第2期港湾修築工事に着手しましたが、戦争の混乱と財政の悪化により工事を中断したため、防波堤や防砂堤施設は不完全で風や波による災害が頻発しました。
 戦後の混乱期を迎え、食糧や物資輸送ルート確保のための港の整備が要求され、小名浜港においても、漁獲物を揚げる漁港の整備と石炭エネルギー輸送のための、第3期港湾修築工事が昭和21年から昭和28年まで行われました。
 当時の港の整備は、不完全だった防波堤や防砂堤を完成させるのが急務でしたが、財源が乏しくコンクリートや骨材などの建設資材も不足していたため、艦船を海底に沈めるという手法(沈船)による整備が計画されました。昭和23年4月1~2日に、駆逐艦「澤風」が漁港市場前に、引き続き8月25日には、駆逐艦「汐風」が波浪及び漂砂対策として現在地に沈められたのです。昭和26年1月には、重要港湾の指定を受け、本格的な石炭輸送のための漁港整備が進められ、沈船(汐風)が岸壁の基礎として第2の役目を担うこととなり、昭和32年6月に待望の1号ふ頭が完了したのです。
 戦後日本の経済発展とともに、小名浜港は工業港として整備が進められ、取扱貨量も驚異的な伸びを見せました。しかし、近年になって船舶の大型化や港湾機能・流通機能の変化に加え、市民に親しまれるウォーターフロントとしての港の役割が求められるようになり、整備の転換が図られることとなりました。
 「沈船防波堤」となった駆逐艦「汐風」は、大正10年7月29日に舞鶴工廠で竣工して以来、戦後日本の再興そして高度成長を支える重要港湾の礎として、第2、第3の役割を果たしてくれました。
 ここに、これまでの小名浜港の発展に重要な役割を果たした、沈船防波堤の歴史を残すものとします。

昭和23年頃
「汐風」が漁港区の漂砂対策の防波堤として沈船されたころ

昭和32年頃
「汐風」が1号ふ頭の埋立岸壁として石炭輸送に活躍していた頃

現在
2号ふ頭の整備が開始された

「汐風」沈船状況図

駆逐艦「汐風」舷外側面図

参考

http://www.pa.thr.mlit.go.jp/onahama/020/010/010/popup_history07.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M10-21-2-188
1952年10月21日、米軍撮影の航空写真。

以下、国土地理院航空写真「地図・空中写真閲覧サービス」の空中写真を活用。

ファイル:USA-M10-21-2-188
1952年10月21日。汐風と澤風。
1948年に沈船堤防とされているので、4年後の空中写真。

ファイル:MTO617X-C4-1
1961年11月02日。汐風と澤風。沈船から9年。
澤風の艦影はしっかりとわかるが、汐風の小名浜港1号埠頭は拡張中。艦影がわかりにくくなっている。

ファイル:MTO663X-C10-13
1966年10月20日。汐風。沈船から14年。
昭和40年に漁港区改良のため澤風は撤去されている。

ファイル:KT707Y-C2-30
1970年10月21日。
ここからは、汐風の1号埠頭と漁港区の工事進捗を見ていくとことになる。

ファイル:CTO7532-C23C-11
1975年10月17日。

ファイル:TO824-C18-19
1982年05月23日。

汐風の空中写真

小名浜港1号埠頭の「汐風」に注目してみる。

ファイル:USA-M10-21-2-188
1952年10月21日撮影。
艦影はわかりにくいが、突き出た防波堤が「汐風」

ファイル:KT707Y-C2-30
1970年10月21日。
1号埠頭の埋め立てが進み、汐風右舷(写真の左側)が海となり、左舷が陸地となる。

ファイル:CTO7532-C23C-11
1975年10月17日。
汐風が埠頭に取り込まれ、左舷側岸壁に突起が見える。

ファイル:TO824-C18-19
1982年05月23日。
1号埠頭の岸壁となった汐風の右舷がなんとなくわかる。

ファイル:CTO20092-C18-32
2009年10月30日。
1号埠頭が拡張され、汐風の左舷も陸地に。
広場のタイルが色付けされたので、埠頭に取り込まれても、汐風の位置関係が分かる。

ファイル:CTO201115-C11-41
2011年11月01日。
東日本大震災で小名浜も被害を受けた。汐風の1号埠頭も、津波によって建屋等が損傷している。そして、1号埠頭では奇しくも汐風の埋まっている場所だけ、明白に色が違ってみえる。軍艦を使用したということもあり、周辺と、この部分だけが基礎の材質が違うからなのだろうか。

ファイル:CTO20196-C4-71
2019年05月05日。
ほぼ現在の姿。東日本大震災復興後の1号埠頭。
震災で一瞬、その姿を感じさせた汐風であったが、現在はその姿を感じさせずに静かに小名浜港の埠頭の礎となっている。

いわきマリンタワーから、現在の小名浜港の様子をみる。
黄枠の場所に、汐風と澤風が沈船された。


汐風

汐風は峯風型8番艦。
舞鶴海軍工廠で、1920年5月15日に起工。1920年10月22日に進水。1921年(大正10年)7月29日に竣工。
1937年(昭和12年)から始まった日支事変(支那事変・日華事変・日中戦争)では、華南の沿岸作戦に参戦。
1941年(昭和16年)大東亜戦争開戦時には、第一航空艦隊第四航空戦隊第3駆逐隊に所属。空母龍驤を護衛していた。その後は、輸送船の護衛などに従事。
1945年(昭和20年)に汐風は、特殊潜航艇回天搭載艦としての改造を受けるが、活躍する機会がなく、呉で終戦を迎える。
1945年(昭和20年)10月5日に除籍、同年12月1日に、特別輸送艦の指定を受けて復員輸送に従事。1948年(昭和23年)8月25日に、小名浜港第1号埠頭先端の防砂防波堤として沈船埋設された。

現在、駆逐艦汐風が埋設されている箇所では、艦尾部分の一部が艦影をなぞるように、タイルで舗装されている。

場所

https://goo.gl/maps/L4HBKZkeABzW4eqT6

駆逐艦汐風を偲びながら、いわきマリンタワーのある三崎公園に向う。


小名浜港漁港区

小名浜港第1号埠頭で沈船した「汐風」よりも先に、この小名浜漁港に「澤風」が沈船した。小名浜漁港は昭和40年に拡張され、「澤風」が撤去されているため、現在の漁港の堤防は「澤風」とは関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/skNDdrXfvPPnHpWc9


澤風(沢風)

澤風は峯風型駆逐艦の2番艦。
三菱造船(株)長崎造船所で建造。1920年(大正9年)3月にネームシップの「峯風」よりも早く竣工。
1932年(昭和7年)、上海事変において、長江水域での諸作戦に参加。
1935年(昭和10年)4月、館山海軍航空隊の練習艦となり、1938年(昭和13年)12月に予備艦となるも、引き続き館山海軍航空隊練習艦として各種飛行訓練に協力。
1939年(昭和14年)11月、横須賀鎮守府練習駆逐艦となる。1941年(昭和16年)9月、再び館山航空隊付属として各種飛行訓練に協力。
太平洋戦争では、対潜掃討や船団護衛に従事。
1944年(昭和19年)12月、海軍対潜学校練習艦となる。
1945年(昭和20年)対潜実験艦への改造を施され、第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦となり、横須賀で終戦を迎えた。

1948年(昭和23年)、戦後の食糧増産の一環として漁獲高をあげるために、小名浜港に防波堤を作ることが急務であった。しかし、防波堤を作るにも次第が不足していた戦後日本において、軍艦を沈めればそれだけで防波堤を作ることができることから、旧海軍の廃艦を用いた軍艦防波堤工事が各地で実施されることとなる。
澤風は浦賀船渠で解体改装され、マストや艦橋などの上部構造物などを撤去され、小名浜港に曳航。昭和23年4月2日に沈船作業が実施された。
この澤風による防波堤が日本で始めての軍艦を用いた沈船防波堤であった。
1965年(昭和40年)に、小名浜漁港の拡大のために沢風防波堤を撤去。解体後の澤風のスクラップは、いわき市を通じて、地元の海友会(旧海軍軍人および軍属で結成)が保存をすることとなり、タービンが昭和48年に永久保存となった。なお、タービン以外の澤風のスクラップのその後の行方は不詳。

澤風のタービンは、昭和48年11月3日に、三崎公園に記念碑として設置。海軍としてご縁のあった 高松宮宣仁親王が艦魂碑除幕式に参加されている。


澤風艦魂碑(澤風のタービン)(沢風のタービン)

いわきマリンタワーのある三崎公園の一画に、「澤風のタービン」が記念碑として保存されている。

艦魂

高松宮宣仁親王の筆。海軍士官でもあった高松宮宣仁親王が艦魂碑除幕式に臨席された。


艦魂碑説明板
東北地方最大の国際港であり、日本一の広域都市いわき市の海の玄関でもある小名浜港は、かつては今日のような護岸も防波堤もない、遠浅の砂浜に小さな漁船を引き揚げておく程度の漁村にすぎませんでした。
長い苦しい戦争を戦い抜いて生残った日本海軍の艦艇は武装を撤去し、過酷な悪条件下に海外の復員軍人のみならず、婦女子や病人など、十数万の国民の帰国に働いた後、本土沿岸の危険な機雷処理に働き、更にあるものは連合軍に引取られ、あるものは現在の海上保安庁に残されたりしましたが、横須賀港にあって15センチ9連発ロケット砲を装備し、対潜学校練習艦として沿岸警備に活躍していた駆逐艦「澤風」と、日本海方面にあって人間魚雷「回天」の搭載艦となっていた駆逐艦「汐風」の2隻は、日本再建の希いをこめて福島県小名浜築港の基礎とするため回航され、澤風は今の魚市場の防波堤として、また汐風は現在の1号埠頭の中央付近に着底さ せ、コンクリートで固定してそのまま使用する事になったものです。澤風・汐風は同型艦で、大正9年・10年の完成で、1.215トン、長さ97.5メートルの技本式(海軍技術本部式)バーソンス型タービン38,500馬力2基を備え、当時39~40ノットの高速を出し得た駆逐艦であり北洋警備などでも活躍して本県の北洋漁船員にはおなじみの軍艦であり、戦前いわき市出身の艦長小野四郎少佐が指揮をして小名浜港に入港したこともあるのですが、これらの艦も今は忘れられた存在となっていましたが、小名浜在住の旧海軍々人有志の海桜会が廃棄処分となった同艦のタービン機関を保存しその後ここに名前を連ねる福島県海友会を中心とする有志の人々の苦心と熱意によって記念碑として永久に保存されることになりました。
昭和48年11月3日  福島県海友会記念碑建設委員会

駆逐艦 澤風 植樹記念碑

高松宮殿下御手植松

残念ながら伐採されてしまったようだ。

澤風の  孤高を慕う 波がしら

海軍技術本部式パーソンズ型タービンは、38,500馬力。
澤風はタービンを2基備えていた。

マリンタワーを見上げる広場に記念碑はある。

タービンのフィンが圧巻。

場所

https://goo.gl/maps/Lppcj9VFGkMdJETc6


小名浜港の軍艦防波堤の噂

小名浜港には、澤風と汐風以外にも軍艦堤防があったという噂がある。


「桂」
1艦目は松型駆逐艦「桂」。
「第5503号艦」と呼称され、1944年11月30日起工、1945年1月8日命名、6月23日進水(藤永田)。
同日工程60%で工事中止された未成艦。
情報がないために真偽不明。下記の場所も??。

https://goo.gl/maps/7tgmLBq6JXGtG1qa9

「潮」
2艦目は、吹雪型駆逐艦「」。
一等駆逐艦吹雪型(特型)の20番艦(特II型の10番艦)。横須賀に中破状態で終戦を迎え、昭和20年9月15日除籍、昭和23年に解体されたとされ、防波堤云々は真偽不明。


いわきマリンタワー

昭和60年(1985年)8月1日開館。塔の高さは59.99m、岬の上に立地しているので展望室は海抜106mの高さという。
小名浜港を見渡すには、最高の場所。せっかくだから上まで行ってみる。

小名浜港。

未来に躍進する小名浜港

場所

https://goo.gl/maps/zqfzjpcsetAZzQf97


戦傷の碑

福島県傷痍軍人会小名浜部会、同妻の会による。
昭和57年建立。
マリンタワー近くの道路脇に建立されていた。傷痍軍人の慰霊碑

戦傷の碑
人類永遠の
 平和を願い
  ここにその
   名を残す
元自由民主党幹事長
元厚生大臣 斎藤邦吉謹書

斎藤邦吉は福島相馬中村出身。

場所

https://goo.gl/maps/5gtCBBjXALMFQgDD9


第一ケーソンヤード跡地

ケーソンを製作する作業基地だった場所。港湾工事の海底の基礎といういみでは、沈船した軍艦もケーソンも役目は等しい。。。

参考

http://www.pa.thr.mlit.go.jp/onahama/020/010/010/popup_history05.html

場所

https://goo.gl/maps/uAhhagb9XPGQYqh29


小野晋平胸像と頌徳碑

小名浜町長などを務めた小野賢司の子であった小野晋平。小名浜港の整備を尽力した人物。
昭和2(1927)年、小名浜港が国の「重要港湾」指定を受け、同4(1929)年5月、第1期計画の起工式が執り行われるも、浜口雄幸内閣の緊縮財政で予算は大幅削減されてしまった。
小野晋平は昭和2年5月16日、東京で陳情活動を実施。「白襷隊」を結成し責任者となる。小野晋平率いる白襷隊217人が予算の復活を訴え、結果として同年9月、ほぼ当初の予算通りに工事が着工された。小名浜港で多くの実績を残し、昭和18年(1943)、57歳で死去。

小野晋平翁

小野晋平翁頌徳碑

扁額は吉田茂。建立は昭和24年。

小野賢司翁頌徳碑

建立は昭和43年


アクアマリンパーク

「いわき・ら・ら・ミュウ」や、「みなと公園」「アクアマリンふくしま」などで構成される臨海エリア。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/41400a/facilities-amp.html

イオンモールいわき小名浜

「アクアマリンふくしま」と「小名浜マリンブリッジ」

福島海上保安部(第二管区)のPM-58なつい。2019年建造のかとり型巡視船(500トン型PM)。

小名浜魚市場

ちなみに、公共交通機関を用いて小名浜にアクセスするのは、しょうしょう大変。
福島臨海鉄道に乗れると良いが、これは貨物なので乗れない。(旅客化してくれれば良いのですが。。。)
そうなると、泉駅からバスでイオンモールいわき小名浜まで向うのが現実的な選択肢。小名浜港から三崎公園までは、頑張って歩きましょう。。。

※撮影:2022年8月


「勿来の風船爆弾打ち上げ基地」跡地散策(福島県いわき市)

東京と仙台の中間地点にある「勿来」。
古来、この地には「勿来の関」が設置され、白河の関と並んで、関東と東北の境目であった。
太平洋戦争中、ちょうど「勿来の関」を挟んで南北に、「風船爆弾」の放球基地が設置された。
北は勿来で、南は大津港。
南の「大津港の放球基地跡」は、以前に取り上げていました。

一宮の放球基地跡は以下で。

今回は、北側の「勿来の放球基地跡」を散策してみます。


風船爆弾(ふ号)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器。
日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図。
「風船爆弾」は、戦後の名称。当時の呼称は「気球爆弾」であり、防諜符号として「ふ号」「風船」などと呼称されていた。

千葉の気球聯隊が母体となり、ふ号差苦戦気球聯隊が編成され、連隊本部と第1大隊が茨城県大津、第2大隊が千葉一宮、第3大隊が福島勿来であった。
発射基地(放球基地)も、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸に設けられ、昭和19年11月から昭和20年3月までのあいだに、約9300発が放球されたという。
9300発のうち、アメリカ本土到達が300発前後。
1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

実戦に用いられた兵器として、約7,700 km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃。
また、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であった。

風船爆弾は、登戸研究所第一科で開発されたものであった。
明治大学生田キャンパス内の「明治大学平和教育登戸研究所資料館」には、風船爆弾の復元展示や気球紙の作り方の説明などもある。

こちらは、江戸東京博物館に展示の風船爆弾復元模型。
気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して復元。

風船爆弾(復元模型)
縮尺:気球部:約約1/5、ゴンドラ部分:約1/2
 風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裡に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県の一宮や茨城県の大津、福島県の勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
 この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して制作した。
※江戸東京博物館展示資料より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M205-A-7-143
昭和21年(1946年)7月24日、米軍撮影の航空写真。

拡大。

案内開設看板の地図を反転して比較。


「風船爆弾勿来基地」の跡地散策

JR勿来駅から風船爆弾の放球基地=勿来基地があった場所を眺める。
左側の山に「放球監視所」があり、放球基地は三方を山に囲まれた谷戸にあった。

常磐線。


風船爆弾勿来基地引込線の橋台跡

小さな小川をまたぐために、橋が設けられていた。引込線の橋台だけが、残っている。線路は複線だったのだろうか。2対の橋台がある。

駅側の内陸の橋台。

駅側の海寄りの橋台。

勿来基地側の内陸の橋台

勿来基地側の海寄りの橋台。

物理的には、この2対の引込線の橋台が、風船爆弾勿来基地を物語る唯一の戦跡かもしれない。

場所

https://goo.gl/maps/ejerQX7cFxNoKAwN7


勿来基地の引き込み線跡

山裾を引込線が曳かれていたと思われるが、特に何も残っていない。


風船爆弾勿来基地跡

風船爆弾基地図として、勿来基地跡図と、風船爆弾全体図の案内板が立っている。

隣にある石碑は、勿来基地とは関係ない歌碑であった。
山口茂吉の歌碑。斎藤茂吉の弟子。山口茂吉の妻である恭代子が少女時代にいわき植田で過ごしていた縁からの歌碑。

何度見渡しても、この看板以外に、風船爆弾を物語るものはありません。

風船爆弾勿来基地の衛兵所跡

さきに進んで見る。
右側に衛兵所があった。

風船爆弾勿来基地の本部跡

本部跡があったと思われる空間。なにもない。

ソーラーパネルがある。

風船爆弾勿来基地の兵舎跡

兵舎跡があったと思われる場所も何もない。

トンネルとかバイパスとか新しい道路が建築中。
これでますます風船爆弾勿来基地を物語る雰囲気は消失していくのかな。。。

風船爆弾勿来基地の放球台跡

放球台があったと思われる場所。

ソーラパネル、、、

風船爆弾勿来基地の引込線ホーム跡

道路の右手に線路があった、はず。

薮しかない、、、

道路を先に進めば、勿来の関。

風船爆弾勿来基地の火薬庫跡

道路の左側の高台に火薬庫があった、らしい。

うーん、なにもないですね。
この先の勿来関に行く時間的な余裕はないので、とぼとぼと勿来駅まで戻ります。。。


勿来駅

東北の駅百選

源義家さん

風船爆弾の跡地を散策するのであれば、勿来は引込線の橋台が物理的な見どころ。放球台は、南の大津基地に残っているので、勿来関の南側がおすすめ。


勿来基地は、ほぼなにもないということを確認した感じです。

※撮影:2022年8月