ちょこっと台湾台北散策

令和元年5月

隙間の時間に。ほんの少しだけ。時間がほとんどなかったので。

行政院(旧 台北市役所)

日本統治時代の昭和15年(1940)竣工。

監察院(旧 台北州庁舎)

大正4年(1915年)竣工。修復工事中でした。

立法院(旧 台北第二高等女学校 )

竣工年代は不詳。

濟南基督長老教会
(旧 日本基督教団台北幸町教会)

1916年(大正5年)竣工。台湾宗教100景

台北駅

現在の駅舎は4代目。1989年竣工。

台湾鉄路管理局
LDK50型蒸気機関車

もとは、日本統治時代の台湾総督府鉄道が1915年(大正4年)から762mm軌間の台東線で使用するために導入。

展示のLDK58号は1923年に日本車輌が製造。 花東線で運用された。

連結された車両は台東線LDR2201気動車。1957年製。

西門紅樓(旧 台北西門市場 八角楼)

西門町。日本統治時代の明治41年(1908)竣工。

まちなか、とか。

sdr

台北松山空港

機内(羽田→台北松山)

機内 (台北松山→羽田)

あまり散策は出来ませんでした。

また行きたいですね。観光で。

回天を偲ぶ

平成29年

大分県日出町の「回天大神基地跡」と「回天神社」に関して。

※現地(大分県日出町)の写真は、嫁写真を拝借です。
※私自身は回天神社及び回天大神基地跡は未訪。
 文責は私にあります。

回天

昭和19年11月8日。
「天を回らし戦局を逆転させる」の意を帯びた特攻兵器「回天」を搭載した潜水艦3隻が「玄作戦」決行の為に周防灘を出撃した。

ウルシー泊地に向け潜水艦2隻/回天8基、コッソル水道に向け潜水艦1隻/回天4基による特別攻撃隊「菊水隊」の初陣であった・・・

回天訓練基地として瀬戸内海を囲むように山口県の大津島・光・平生、そして大分県の大神に基地が展開された。

昭和19年(1944)11月8日
回天訓練基地であった山口「大津島基地」を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜、伊37潜、伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣であった。

昭和19年11月20日
回天最初の作戦ウルシー泊地攻撃が決行、伊47潜から4基、伊36潜から1基の計5基の回天がウルシー泊地環礁内に向け発進…

以来、終戦までの回天戦没者は87名、訓練殉職者15名、終戦時自決2名、整備関係者犠牲などもあわせると回天関係戦没者は145名という(母艦潜水艦戦没者は除く)

大神訓練基地

大分県日出町

昭和16-17年にかけて「大神海軍工廠」の建設予定地として用地買収が始まるも戦況の悪化により中止。
昭和19年9月1日、山口県周防市の徳山湾・大津島に「第一特別基地隊」として大津島回天基地が開設。次いで光回天基地、平生回天基地が開設。

大神漁港

大神海軍工廠予定地の一部が回天基地として転用され、昭和20年4月25日に大神回天基地が開設。
突撃隊司令・山田盛重大佐以下2000名。 基地内施設として回天神社・回天格納庫含め舎屋51棟、魚雷調整場、変電所、浄水場施設等が整備された。

昭和20年8月3日
大神訓練基地から最初の出撃。8名の隊員と整備兵が回天8基とともに第8特攻戦隊第21突撃隊として愛媛県宿毛湾に向けて出航するも8月15日を迎え終戦。

8月25日
大神突撃隊解隊。回天は海洋投棄となった。大神基地での犠牲者は終戦後に自決した松尾秀輔少尉のみであったという…

回天神社

大神基地本部庁舎前で基地隊員が崇敬していた神社。
戦後、基地近くの住吉神社境内に遷座。
昭和50年に社殿改築、平成13年に現在地に改築。

御祭神
天照大神・応神天皇・楠木正成
回天作戦戦没者1073柱
(うち回天搭乗員106柱、回天基地白龍隊120柱、潜水艦乗組員812柱、回天整備員35柱)

回天神社の御神器
「回天縦舵機」「発停装置」「燃焼器推進軸受」の回天部品3種類。
※写真はパンフレットより

回天神社
奉納「回天1型」3分の1模型

太平洋戦争の末期、堅く神州の不滅と皇国の必勝を信じ、一死国難に殉ぜんとする。
弱冠二十の若桜、相競ひ大神突撃隊に参加。水明の海辺に菊水の大旗打樹てて、特攻兵器「回天」の訓練に烈々と精根を傾倒せり。
ここに吾等関係者往時を偲び相計って回天模型を奉納する。 昭和五十六年四月二十五日 大神回天隊

回天神社
奉納 「海中より引き上げられた九三式酸素魚雷のエンジン・尾部舵・二重反転プロペラ」
平成7年に大分空港1600メートル沖合で漁労中に魚網にかけ引き上げたものという。

人間魚雷
大神回天基地跡記念碑

天を回らし 戦局の逆転を願って
平成二十三年十月 寄贈 日出ライオンズクラブ

「大神訓練基地跡」から「回天神社」が鎮まる高台を望む。 住吉神社の境内。この高台の下には回天格納壕跡や酸素圧縮ポンプ室跡などが残っている。

住吉神社

回天神社が境内に鎮座。南北朝期の貞和3年(1347)に大神郷地頭の大神筑前次郎朝直が泉州堺住吉神社より大神氏の氏神として深江城に勧請したことにはじまる。 大神氏は大友氏とともに戦国期に衰退。朝鮮文禄役で当主大神鎮勝は戦死し滅亡。のちに日出藩主木下氏が再興という。

大神訓練基地跡。
回天大神訓練基地記念公園に平成28年5月、平和への祈りを込めて「青年像及び母妹像」(日出町内在住の彫刻家・辻畑隆子氏の作という。
 永遠の風に 青年
 永遠の風に 母妹
像のうしろには「回天実物大模型」も・・・。

平成26年には「回天実物大模型」が回天大神訓練基地記念公園に設置されている。

回天実物大模型

復元「回天」の内部写真もありました。
上部ハッチには鍵がかかっておりましたが、写真を見る限り内部も復元されているようですね。

この国には 己の命をかけて
愛する人を 祖国を守ろうとした若者たちがいた

周辺には往時の史跡(戦跡)が残存しているものもあり。
そのほんの一部だけですが写真を幾枚か。

「回天格納庫」「水雷壕」

終戦直前にはこの壕に爆薬を搭載した回天格納されていた、という。
昭和20年8月3日、この壕から回天は宿毛湾に向け前進出撃したが、幸いにも終戦を迎える…

酸素圧縮ポンプ室

回天に搭載する圧縮酸素を製造するポンプ等を設置していた壕。
内部にはコンクリート製の製架台が残っている。 回天のベースとなったのが「九三式酸素魚雷」 空気の代わりに純粋酸素を使用していたので、その酸素を生成する設備も必要であった。

回天神社(住吉神社)の鎮まる高台の下には無数の壕が点在。
往時を偲びし空間。

魚雷調整プール跡

コンクリート製のプール。 回天をこのプールに沈めて水漏れなどを検査していた。回天一基をちょうど収納できるサイズ。

魚雷調整場基礎跡

魚雷調整プールのとなりに基礎跡がのこっている。

周辺にはほかにも遺構が点在しているけども、大分の現地写真は以上にて。

あとは機会あれば自分の目で見つめてきたい。
ここまで「大神基地の写真」はすべて嫁撮影。
私は未訪問(嫁の写真をベースにテキストのみ代行記載)ですのでいつの日か訪れたいものです。


パンフレット

平和を願う 戦争遺跡
人間魚雷「回天」
大神訓練基地

大分県日出町
なお大神と書いて「おおが」と読みます。「おおが基地」

回天と大神訓練基地の歴史や開設など

大神訓練基地の全容、基地遺構の残存状況など。

https://goo.gl/maps/YhjoMLJfqN7LQokE7


以下では私が見た回天に関係する写真を幾枚か掲載していきます。

訓練用回天

「予科練平和記念館」(茨城県稲敷郡阿見町)にて復元の「回天」
航空機搭乗員育成の予科練からも、回天搭乗員が多く着任しており、予科練出身者としては40名が戦没。訓練用の回天は上部が白く塗装されていたという。

回天一型改一

国内では唯一の実物が靖國神社遊就館に展示。 元はハワイの米陸軍博物館にあったものを昭和54年に靖國神社に永久貸与されたもの。

回天上部に装備されていた「水防眼鏡二型改六(潜望鏡)」。

「伊36号潜水艦」に搭載され出撃する「回天」1/50模型
巡潜乙型17番艦。
回天初出撃のウルシー攻撃を成功させた潜水艦。
数多くの回天作戦に従事し、戦後は米軍によって五島列島沖で海没処分。

回天(靖國神社遊就館)
人間魚雷回天は大東亜戦争の前途が暗雲につつまれた昭和十九年八月、わが海軍の一角に姿を現わした。 この回天は、うるわしき日本の民族を、国土を、身を捨てて護らんとねがい馳せ参じた若人たちと共に次々と南溟の海に征き再びは還らなかった。
この作戦で戦死した搭乗員は八十九名、整備員は三十七名、殉職自決者は十七名を数える。 今ここに回天一型を修復安置して国難に殉じた回天戦士の至純の御魂を偲ぶよすがとする。
昭和五十四年四月十日 回天会

呉・海軍墓地(長迫公園)

平成29年3月

広島県呉市。長迫公園の呉海軍墓地。

護国の為に戦いし艦と人に。
感謝と哀悼を。


明治23年開設の大日本帝国海軍墓地。
呉鎮守府が管理し毎年この地で慰霊祭が行われていたが昭和20年に祭祀は廃止。

昭和46年以降に再整備が行われ呉市管理の下で現在に至る。

合祀碑91基。
個人墓碑157基。
英国水兵墓碑1基。

この日(平成29年3月5日)は僅かな持ち時間の中での参拝。
呉海軍墓地の全てを網羅するのは難しい。
かといって鎮魂慰霊の心に優劣をつけたくはない。
なるべく端から端を。
ゆっくりと手を合わせ、ゆっくりと頭を垂れながら、静かに巡ってきました。
写真は展望台より。

墓地案内図を見ながら、中央から右上に向い右上から左に向い中央へという順で巡ることにしました。
とりこぼしあるかもしれません。
また個人墓は撮影せず、あくまで軍艦等の合祀碑の掲載とさせていただきます。

国のため戦いし海軍軍人たちに感謝と哀悼を…


軍艦日向慰霊碑

伊勢型戦艦の2番艦「日向」。
太平洋戦争中盤に(いわゆる)航空戦艦に改造される。
昭和20年7月24日の呉軍港空襲で米軍機の波状攻撃を受け呉軍港内で着底大破。

碑文「軍艦日向の略歴」
 軍艦日向は大正4年5月6日長崎の三菱造船所で起工、3年の日時を費して完成た日本最古の名鑑である。
 大正七年に「陸奥」「長門」ができるまでは、日本最大の巨艦であった。
 日本海軍が列強に誇った、「八八艦隊」の主力艦として、昭和十八年太平洋戦争「捷号作戦」に、旗艦として出動、この作戦中、サイパン沖で空母「瑞鶴」「翔鶴」などが撃沈された。
 昭和二十年三月呉港に帰投、情島の北岸に敵機をさけて待機出撃の機をねらっていた。敗色は日増しに濃くなった来た。二十年七月二十四日七時三十分
 米艦上「グラマン」戦闘機約110機が200キロの大型爆弾による 高度3000米の上空よりの空襲を受け 第二波は更に十一頃より 第三波は三時頃より波状攻撃により さしもの帝国海軍の象徴、「日向」の巨体も十五時三十八分頃より沈没し始め翌二十五日未明 艦体は遂に情島沖100米の海底に達した。 乗組員1000余名中 戦死者一九七名 重軽傷者六〇〇余名に及んだ。
 艦長草川淳中将は十機目の「グラマン」の投下した爆弾の破片にたおれ 前甲板の戦闘艦橋で壮烈な戦死を遂げた。

献辞
南太平洋の海を征服し比島沖海戦に出撃し颯そうと旗艦の重任を果して還る 
 ああ恨は深し昭和20年7月24日 米グラマン数百の奇襲にあい勇戦奮斗のすえ呉情島の北岸に沈む
されど日本を護り国に殉ぜし尽忠のまことは星移り月かわるとも、とわにこの国の歴史にとどめられん
 ねがわくば197勇士の霊よ 
  永遠に安かれ!

昭和44年7月24日
軍艦日向慰霊碑建設委員長 景山勝義

駆逐艦綾波戦歿者之碑

源田実謹書
「綾波」 特型駆逐艦(一等駆逐艦吹雪型)11番艦。
吹雪型改良艦であり特型II型駆逐艦(綾波型)1番艦とも。

第三次ソロモン海海戦で、敵艦隊に単艦で挑み敵駆逐艦2隻を撃破1隻を炎上、戦艦サウスダコタに命中弾を与えて沈没。

日本駆逐艦綾波の戦歴
 第19駆逐隊駆逐艦綾波は太平洋戦争開戦以来、マレー沖、アンダマン、ミッドウェー、印度洋等に転戦奮斗し、昭和17年8月ガダルカナル島奪回作戦に投入されるや極めて困難なる状況のもとに8回に亘り出撃、赫々たる戦果を挙げた。
 同年11月14日敵飛行場砲撃部隊の最前方を掃蕩、単艦分離してサボ島西岸を索敵南下中、午後9時敵新大型戦艦ワシントン・サウスダコタの前衛駆逐艦4隻を発見綾波はサボ島を利用して単艦よくこの6隻に向って全速驀進近接し、自らも損傷を受け炎上しつつも正確無比なる数百発の12.7糎砲の零巨離射撃と、満を持して放った6本の魚雷によって敵駆逐艦プレストンを轟沈、次いでウォークを撃沈、ベンナムを大破、沈没、グインを大破させ海戦史上稀に見る大勝利を収めた。しかし自艦も亦敵駆逐艦4隻の集中砲火と新大型戦艦2隻の巨弾を一身に浴びて、闇のソロモン海に燃え爛れる鉄魂となって漂流し翌15日午前0時10分サボ島の南5000米の地点で大爆発、眠れる戦友と共に南溟の永遠のピケットラインについた。
 ガダルカナル海戦は事実上この夜を以て終焉し駆逐艦綾波生存乗組員はその後の戦斗に於て多数散華され終戦を迎えた。
 現生存有志一同ここに綾波戦歿者の碑を建立し、亡き戦友のため哀悼の意を表すると共にその勲を記念する次第である。
昭和45年5月14日
当夜戦斗参加の一人  第19駆逐隊司令付  小 池 英 作 題


軍艦高砂戦死下士卒墓

1905年(明治38年)1月15日建立
吉野型防護巡洋艦2番艦「高砂」
日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日、旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)にロシア海軍の機雷により沈没。

第十一掃海隊慰霊碑

第十三号~第十八号掃海艇
平成8年建立
13号14号は1942年1月12日のボルネオ攻略作戦時にタラカン陸上砲台の砲撃により沈没し、それにより第十一掃海隊は解隊。
残った4隻も終戦まで残ること無く沈没している。

第十一駆逐隊慰霊碑

平成4年9月23日建立
吹雪型(特型駆逐艦)4艦で構成。駆逐艦吹雪・白雪・初雪・深雪

碑文
第十一駆逐隊吹雪白雪初雪深雪の四隻は彼の過酷な太平洋戦争に於て遥か南の海に吹雪型特型駆逐艦としてその優秀性機敏性行動力等から艦隊の花形として縦横無尽の大活躍をなし大きな戦果を挙げたるも、吹雪は昭和十七年十月十一日サヴオ島六十度十五カイリにて敵艦隊と交戦、被弾に依り沈没、艦長以下総員二二六名戦死され、白雪は昭和十八年三月三日クレチン岬附近にて敵機の攻撃をうけ沈没、戦死者三十二名。
初雪は昭和十八年七月十七日ブイン沖の爆撃にて沈没。
深雪は昭和九年六月二十九日済州島西方に於て雷と衝突し沈没されました。
今や我国は平和で豊かな国となりたるもこれを見る事なく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し感謝の誠を捧げ又御遺族の方々の御心の寄りどころと御遺族の方々の御心の寄りどころと安らぎを得られる場所となればと、ここに有志相計、鎮魂の慰霊碑を建立しその遺徳を顕彰し祖国日本の永遠の平和を願うものであります。
平成四年九月二十三日
第十一駆逐隊慰霊碑建立者一同

駆逐艦早蕨殉職者之碑

呉鎮守府司令長官海軍中将中村良三書
昭和8年10月16日建立

日露戦争後の大正期に建艦された若竹型駆逐艦「早蕨」(さわらび)。
早蕨は昭和7年12月5日、台湾海峡で荒天により転覆沈没している。
それゆえに碑銘も戦死ではなく殉職者銘。

時維昭和7年12月3日駆逐艦早蕨は僚艦3隻とともに南支那警備の重任を帯び呉軍港を発して遠く馬公に向う。
偶々東支那海は北風強吹して波浪山の如く、航行真に困難を極む。
越えて同月5日風愈々強く波浪益々高く艦の操縦極度の困難に陥り早蕨遂に覆没の厄に会す。
而して僚艦必死の努力に依り一部乗員を救助し得たるのみにて爾後幾十日に亘り荒天を冒しあらゆる捜索を試みたるもその効なく艦長門田中佐以下104名は艦と運命を共にせるものと断ずるのやむなきに至る。
鳴呼悲痛なんぞ堪ふべけんや。
此の報一夕に伝へらるるや挙国殉難将士の壮烈を悼み、捐金忽ちに聚りて数万に達す。
則ち之を頒ちて遺族を賑恤し、茲に碑を建て其の遺烈を長へに後世に伝ふと爾言。
昭和8年10月

第十五駆逐隊慰霊碑

夏潮・早潮・親潮・黒潮・陽炎
昭和61年9月22日建立

碑文
第十五駆逐隊は昭和十五年に編成され、第二水雷戦隊一番隊として開戦劈頭比島蘭印攻略に参加し、次いでミッドウェイ海戦に参加した。
この間に夏潮はマカッサル沖に於て被雷沈没した。
陽炎を加えた十五隊は、昭和十七年八月に始まった米軍のガ島反攻に対し、南太平洋海戦・第三次ソロモン海戦・ルンガ沖夜戦等を含むガ島増援作戦に縱橫の活躍をした。
この間早潮はラエ増強作戦中、敵機の爆撃を受けて沈没した。
わが軍は十八年二月遂にガ島を撤退した。
十五隊は内地で整備した後、再びソロモンに復帰し、今や第一線となったコロンバンガラ島へ輸送中、五月八日触雷し次いで敵機の爆撃を受けて全艦沈没し勇戦の幕を閉じた。
ここに十五駆逐隊の偉勲を後世に伝えるとともに御霊の安らからんことを祈念してこの碑を建立する。
昭和61年9月22日
第十五駆逐隊慰霊碑建立委員会

駆逐艦東雲慰霊碑

平成14年5月17日建立
吹雪型駆逐艦の6番艦「東雲」

東雲は第十二駆逐隊に所属し南方作戦に参加。ボルネオ島中部北岸ミリ泊地に進出行動中の昭和16年12月17日、蘭軍機の空襲を受けて沈没。笹川艦長以下乗員228名全員戦死。

駆逐艦深雪殉職者之碑

吹雪型駆逐艦4番艦「深雪」

昭和9年6月29日、第十一駆逐隊は第二水雷戦隊に所属して連合艦隊の済州島南方海域演習に参加。
演習中に「深雪」は吹雪型24番艦「電」と衝突。深雪は艦隊切断沈没。雷は前部大破。この衝突事故で5名が殉職。

上海満州事変戦歿者之碑

昭和8年10月23日建立。
昭和7年の上海事変(第一次上海事変)及び昭和6年の満洲事変の戦死慰霊碑。
海軍は上海共同租界地に「上海陸戦隊(上海海軍特別陸戦隊)」を展開しており陸軍部隊が到着するまでの間を海軍陸戦隊が上海で奮戦している。

大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

昭和42年5月27日建立
九段緒方久人書。
緒方氏は広島呉の柔道家。呉鎮守府の柔道教師として海軍軍人の心身鍛錬に寄与されていた人物。

大東亜戦争戦歿者之碑

呉地方復員局長森下信衛書
昭和22年1月25日建立

森下氏は天一号作戦(大和特攻)時の第二艦隊参謀長。大和艦長有賀幸作大佐、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将とは海兵同期。
遺族希望や引取遺族不明のもの及び氏名該当者不明の遺骨を合祀納骨。

潜水母艦長鯨戦歿者慰霊碑

武政孝雄謹書
昭和60年9月建立

迅鯨型潜水母艦の2番艦「長鯨」。
潜水母艦は潜水艦への補給能力を持つ艦。
昭和20年7月30日、舞鶴港にてに敵艦上機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破。 戦後に修理され復員輸送に従事。昭和22年解体。

呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

呉鎮守府第六特別陸戦隊(呉六特)は昭和18年1月バラレ島に進出。バラレ島はソロモン諸島西部州ショートランド諸島に属す。バラライ島とも。
米軍により基地機能無効化されるも上陸作戦はなく、そのまま残存部隊はバラレ島で終戦を迎えた。

駆逐艦桑戦没者之碑

昭和57年12月2日建立
松型駆逐艦(丁型)の5番艦「桑」

昭和19年12月3日、姉妹艦「竹」と共に第七次多号作戦従事中(レイテ増援輸送作戦)にレイテ島オルモック湾で米駆逐艦3艦ほかと交戦。1隻撃沈1隻撃破するも桑は沈没する。

第六三四海軍航空隊・第九三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。
第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊。

第六三四海軍航空隊碑文
第六三四海軍航空隊瑞雲隊は、水上爆撃機瑞雲二十四機を以て、昭和十九年五月岩国基地に於て編制し、呉海軍航空隊で訓練を実施した。
その搭乗員は隊長及び分隊長等一部を除き、二十歳前後の祖国愛に燃え元気溌剌たる若者たちであった。
戦局愈々急迫を告げ、敵軍比島レイテに上陸するや、命に依り呉基地を発進、これより苛烈な比島攻防戦に突入し、主としてラモン湾及びレイテ湾の敵艦艇を攻撃した。 戦闘は激烈を極め多大の損害を受けたが、呉残留隊の進出並に新たに偵三〇一飛行隊の編入を得て、レイテ湾を発進し怒涛のレイテ湾を発進し怒涛の如く北上する敵艦隊を、ミンドロ島サンホセ及びリンガエン湾に捕捉、攻撃を反復し敵艦艇撃沈破百三十隻以上、敵機撃墜破数十機に達する戦果を挙げ、大西海軍航空隊司令により、数度に亘り感状・賞詞を受くる栄誉に浴した。
戦局の推移と共に、命に依り昭和二十年二月台湾に転進、三月には沖縄戦に出撃、亦五月新たに偵三〇二飛行隊の編入を得て、終戦に至るまで、沖縄周辺の敵艦艇を反復攻撃し多大の戦果を獲得せり。
然し乍ら、我が方の損害も甚だしく、地上勤務員を含めて、三百余名の有意な人材を失うに至った。是将に痛恨の極みである。 吾等生存者相計りて、ここに碑を建て之を後世に伝え、併せて鎮魂の徴とする。
昭和五十七年十月
元第六三四海軍航空隊 司令 江村日雄 隊員一同

第九三四海軍航空隊碑文

第九三四海軍航空隊は、昭和十七年二月三座水偵隊として編制され、マニラリツクババンを経て、同年六月には南遣艦隊付属となり、アンボン島ハロンに進出、マイコール基地を併用、観測隊、水戦隊を加え、豪州北方アラフラ海方面の警備、制空権保持等の為、勇戦奮闘数々の偉勲を挙げたのである。
昭和十九年にはマカッサルに、同二十年にはフィリピンに移動、その間克く困苦欠乏に耐え任務の全力傾尽せしも敵機との空中戦及び敵の爆撃等による戦死者は二百余名の夥しい数に及び、悔いて尚且つ余りあり、真に痛恨の限りである。
このたび、当時の部隊関係生存者有志相はかり、これら戦死者の冥福を祈ると共に、苦戦の実情を、永く後世に伝えんと、 ここに、第六三四、第九三四海軍航空隊の、合同慰霊碑を建立するに至る。
昭和五十七年十月
元第九三四海軍航空隊 司令 時永縫之助  隊員一同

軍艦大井戦没者慰霊碑

軽巡洋艦球磨型の4番艦「大井」 同型艦の北上と共に、重雷装艦に改装されたが活用できず高速輸送艦へ改装され輸送任務に従事。
昭和19年7月19日、マニラからシンガポールに向けて南シナ海を航行中に米潜水艦フラッシャーに雷撃され沈没。

祖国永遠の平和を念じつつ艦と運命を共にした戦友の武勲を後世に伝え、その霊を永久に安かれと祈り我等有志相計ってこの碑を建つ
軍艦大井戦友会

平成元年(1989) 7月19日建立

軍艦球磨慰霊碑

軽巡洋艦球磨型1番艦「球磨」
蘭印周辺の哨戒と輸送に従事していたが昭和19年1月11日、球磨は対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港。イギリス海軍T級潜水艦タリホーに補足され雷撃を受けマラッカ海峡附近にて沈没。

碑文
大正9年8月佐世保工廠に於いて竣工 
爾来20有余年広大なる地球に其の雄姿を顕し、祖国防衛の重責を果たせる 
巡洋艦熊は苛烈なる太平洋戦争の真只中、第2南遣艦隊第16戦隊に編入され、南方洋上にて臨戦行動中、昭和19年1月11日午前11時57分、ペナンの西方11浬、マラッカ海峡に於いて、英国潜水艦タリ・ホウの雷撃を受け戦友の尊き英魂139柱と共に、海底深く永遠にその姿を没したり 
巡りて40有余年の星霜を経たるも、切々の情念を新たにして追惜禁じがたく、茲に有志相計り「軍艦球磨戦没者慰霊碑」を建立す 
合掌の中に球磨を象徴する磨き球の下 在天の英魂来りて鎮まり給え 英会陰に其の英霊を慰むべしと記念す

軍艦三隈戦歿者慰霊碑

最上型巡洋艦2番艦「三隈」
昭和17年6月7日ミッドウェー海戦。第七戦隊第2小隊(三隈、最上)と第8駆逐隊(荒潮、朝潮)は衝突を起こし艦首を喪失した最上を護衛し退避行動へ。米軍追尾を受け、更に単艦退避した三隈は米軍機により爆撃され沈没。

碑文
 軍艦三隅は彼の過酷な太平洋戦争に於いて西南太平洋並に東南太平洋海域に奮戦せるも遂に昭和17年6月7日ミッドウェー北方洋上にて艦長以下695名の将兵と共に没す。
 今や我が国は平和な豊かな国となりたるもこの幸を見ることなく艦と運命を共にされた多くの戦友に対し切々なる感謝の誠を捧げるものである。
 ここに有志相計り鎮魂慰霊碑を建立し祖国日本の永遠の平和を希うものである。
昭和59年6月7日
軍艦三隅会

軍艦初鷹慰靈碑

昭和58年4月建立。
初鷹型敷設艦(急設網艦)1番艦。

急設網艦とは自軍勢力圏内にある港湾、海峡及び水道等へ防潜網や捕獲網を敷設するための艦種。当艦は東南アジア方面で補給や船団護衛任務に従事。
昭和20年5月16日、マレー沖にて米潜水艦ホークビルの雷撃により沈没。

第一〇三海軍工作部 戦没者之碑

昭和59年5月27日建立。
呉海軍工廠を主体とし艦船修理や小型艦船建造等の技術部隊として昭和17年1月、比島キャビテ軍港に設置。
米軍ルソン反攻上陸により陸軍山下奉文師団と協力しマニラ防衛部隊に編入。
軍の陰に隠れ敢えなく逝った非戦闘部隊の偉業を偲ぶ。

ソロモン方面第十二防空隊慰霊碑

昭和17年12月編成。ラバウル方面に展開。 昭和21年2月復員により解隊。

工作艦朝日・山彦丸・山霜丸合同慰霊碑

工作艦「朝日」は元は敷島型戦艦2番艦。日露戦争、第一次世界大戦では主力艦として参加し、太平洋戦争では工作艦として参加。40年に渡る活躍であった。

昭和17年5月25日に旧型低速故に米潜水艦により雷撃を受け翌日沈没。

「山彦丸」 昭和19年1月10日、米潜水艦の雷撃を受けて航行不能となり13日に沈没。
「山霜丸」 昭和19年2月22日、米潜水艦の雷撃を受け翌23日にも米潜水艦の雷撃を受けて沈没。
二隻とも元は山下汽船の大型貨物船。

駆逐艦叢雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦5番艦「叢雲」
開戦時は第12駆逐隊に所属。のち第11駆逐隊に編入。

昭和17年10月12日、サボ島沖海戦で損傷した古鷹の救援に出動。サボ島西40海里で米軍機の爆撃を受け大破し雷撃処分。

駆逐艦天津風之碑

陽炎型9番艦「天津風」。
当艦には次世代型駆逐艦「島風」用試作高性能機関が搭載されていた。

昭和19年1月16日米潜水艦の雷撃にて大破し艦前部を喪失。昭和20年3月下旬、仮艦首を装備。
4月10日、歴戦の駆逐艦「天津風」は日本本土へ帰投中に米軍機の攻撃を受け アモイ島南岸に座礁し航行不能となり爆雷の自爆により爆破処分。

最後の天津風艦長森田友幸大尉による謹書
「戦友よ安らかに眠り給へ」

第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

第六艦隊隷下部隊として昭和19年8月編成。
第三十一潜水艦基地隊としてフィリピン・セブ島に進出し、対空警戒や甲標的整備に従事。またマニラ防衛等に参加。

工作艦明石慰霊碑

日本海軍唯一の新造工作艦「明石」。
「移動する海軍工廠」として南方海域で活躍。米海軍からはその活躍ぶりから最重要攻撃目標とされる。 昭和19年2月17日、トラック島空襲により損傷しパラオに回航。同年3月30日のパラオ空襲で大破着底する。

戦歴表碑文

本艦は日本海軍が最初より工作船としての設計建造した唯一の艦で建造佐世保工廠 艤装呉工廠 竣工昭和14年7月
(略)

戦歴
竣工と共に連合艦隊に附属行動を共にし 船体兵器機関の小修理を行い工作艇としての機能を発揮した
昭和17年8月トラック島に進出し南東方面海域で損傷せる艦艇の修理を行って大きな戦果を挙げ沈没に類した重巡最上 青葉 阿賀野などを帰還せしめた

最後
トラック大空襲の被害を免れパラオ方面に転進 修理活動を続けたが19年3月30日 ウルグターブル島の海岸に鎮座し 悲愴な最期を遂げ 187名の勇士が尊い犠牲となって散華された。

「工作船明石 慰霊碑」と表題したのは明石が船と人とが一体となり大きな戦果を挙げた事に対し戦歿英霊の功績と共に永くこれを顕彰せんとするものである。

海防艦稲木戦歿者慰霊碑

鵜来型海防艦12番艦「稲木」 昭和19年12月16日竣工し近海の船団護衛に従事。 昭和20年8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没。

善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

昭和16年10月、呉一特(呉第1特別陸戦隊)高射砲中隊として編成。ニューギニア戦線に展開。昭和18年9月、ラエ防衛陣地からサラワケット越えを敢行、標高4000m高山戦として史上類を見ない長距離行軍となる。部隊はキエリで終戦。

伊号第十一潜水艦之碑
呂号第百四潜水艦之碑

伊九型潜水艦(巡潜甲型)3番艦「伊11」 オーストラリア周辺海域通商破壊戦に従事。 昭和18年7月20日に豪海軍軽巡洋艦「ホバート」を雷撃し大破させる。 昭和19年1月サモア方面に向かった後に消息不明。

呂百型潜水艦(小型)の5番艦「呂104」 南方海域で哨戒や輸送任務で活躍。 昭和19年5月17日、サイパンを出港し「あ号作戦」のため散開線に配備されたが米軍護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受け沈没。

軍艦熊野慰霊碑

最上型巡洋艦4番艦「熊野」 昭和19年10月。捷一号作戦に於いて栗田艦隊第七戦隊として出撃するも大破しマニラに退避。同じく大破していた青葉とともに本土回航の為に出港し道中奮闘したが帰還は果たせず11月25日に沈没。(同航した青葉は呉に帰還)

呉海軍設営隊顕彰慰霊碑

海軍大将嶋田繁太郎書 呉軍港より出撃した設営隊27部隊を合祀。 太平洋全域に渡る軍設備の建設や運営に従事。

軍艦古鷹戦没者慰霊碑

源田實謹書
古鷹型巡洋艦1番艦「古鷹」
平賀譲が手掛けた代表艦

昭和17年10月11日-12日、サボ島沖海戦。 第六戦隊旗艦青葉・古鷹・衣笠、第11駆逐隊第2小隊初雪・吹雪で進軍中に米軍と交戦、古鷹は集中砲火を浴び航行不能となり沈没。

碑文
軍艦古鷹は20糎砲を搭載する重巡の第一艦として江田島の霊峰古鷹山の名を取り大正15年3月31日に竣工した。
当時諸性能極めて優秀にして艦容又独創的となった。
大東亜戦争開戦劈頭、ウエーキ島及びグアム島攻略を支援、次に珊瑚海々戦、第一次第二次ソロモン海戦等に参加、就中第一次ソロモン海戦に於ては抜群の戦果を収めた。
昭和17年10月11日サボ島沖夜戦に於いて勇戦奮闘せるも遂に23:30沈没した。
茲に重巡古鷹の慰霊碑を建立して戦没者の冥福を御祈りする。
尚 本慰霊碑は古鷹関係生存者有志の献資により建立した。
昭和49年9月10日

軍艦鬼怒慰霊碑

長良型巡洋艦5番艦「鬼怒」 昭和19年10月の捷一号作戦時には、鬼怒・重巡洋艦青葉・駆逐艦浦波からなる第16戦隊を編制しレイテ島への兵員輸送に従事。 10月26日レイテ島オルモックからの帰路に米軍機の爆撃を受けパナイ島北方で被爆沈没。

碑文
軍艦鬼怒は大東亜戦争に端を発せれるや南方方面第4潜水戦隊旗艦としてマレー半島を南下スラバヤ、セレベス、シンガポール方面の激戦に数々の功績を重ね最期には第16戦隊旗艦としてレイテ湾作戦に参加、昭和19年10月25日敵空50機と交戦、翌26日午後5時25分遂にさすがの鬼怒も最終の美を飾り去った、
軍艦鬼怒竣工以来同艦に於いて戦死された方がこっら今の日本の礎となられた尊い戦友の英霊に対し思い出の鬼怒よみたま今 母港に帰りし安んじて眠り給へと祈る
昭和55年5月25日
軍艦鬼怒慰霊碑建設賛同者一同

軍艦隼鷹慰霊碑

日本郵船客船橿原丸を改装した航空母艦「隼鷹」 ミッドウェーで主力空母喪失後に穴を埋める活躍をする。また高速輸送艦としても運用され佐世保に疎開し終戦まで残存。 戦後は機関損傷から復員船指定もなく商船への復帰もなく昭和22年8月1日解体終了。

駆逐艦秋風慰霊碑

峯風型駆逐艦9番艦「秋風」
昭和19年10月下旬、比方面への緊急輸送作戦従事中の「隼鷹」護衛任務に従事。11月3日、米潜水艦は隼鷹に対し雷撃するも秋風に命中し秋風は沈没。辛くも隼鷹は難を逃れた。
秋風慰霊碑は隼鷹慰霊碑の隣に建立されている。

献辞碑文
昭和十九年十月三十日空母隼鷹は高千穂空挺部隊八五〇名と各種兵器弾薬を満載これを護衛する軽巡 木曽 第三十駆逐隊(卯月、夕月、秋風)と共に夕闇迫る佐世保軍港をマニラへと出港した
緊迫した航海が続いた十一月三日夜半隼鷹の左舷を護衛中の秋風に左六十度方向より米潜ビンタード発射の魚雷が隼鷹に命中するのを避けるため全速で前進体当りを行ない一瞬の間に山崎艦長以下二〇四名が全員戦死した
時正に二十二時五十三分 北緯十六度四十一.五分 東経一一七度二十一分マニラ西方海面で秋風はその勇姿を消したのである
思えばあの重大な輸送作戦が成功し戦後我々が無事復員して今日あるのは偏えにこの尊い犠牲の賜と確信するものである
このため秋風の戦没者に感謝し この偉勲を後世に傳え また御霊の安らかに眠られんことを願って隼鷹戦友会の有志一同 御遺族そして秋風の御遺族並びに賛同者の協力を得て鎮魂の碑を建立し亡き秋風戦没者に哀悼の意を表わすものである
平成三年九月二十二日 
建立委員長 吉川亘 

第十七駆逐隊之碑

谷風・浦風・浜風・磯風・雪風・初霜

碑文
第十七駆逐隊の戦歴
我が第十七駆逐隊は谷風浦風浜風磯風雪風初霜の六艦を以って編成され大東亜戦争を戦ったが昭和十九年六月九日北ボルネオ沖にて谷風を失い浦風は昭和一九年十一月二十一日台湾海峡にて沈没。
浜風・磯風は昭和20年4月7日沖縄洋上にて沈没。
初霜は同年7月宮津湾で破損し憾みを千載に残した。
雪風は最期まで艦が保全され終戦後は復員船として活躍した。
当駆逐艦隊は日本海軍の誇る精鋭の甲型駆逐艦でさきの大戦において祖国日本の防衛に任じ数々の武勲をたてたが総員六百五十五柱の戦没者をみた誠に痛恨の極みである。
茲に第十七駆逐艦の栄光を後世に伝え且つは祖国の安泰と英霊の安からんことを祈念して同志相寄り謹んでこの碑を建立する。
昭和57年3月21日

駆逐艦浜風戦歿者慰霊碑

陽炎型13番艦「浜風」
第17駆逐隊に所属した姉妹艦と主要な海戦に参加。戦艦武蔵・金剛・空母蒼龍・飛鷹・信濃といった帝国海軍主力艦の沈没に立ち会い救助活動に従事。 最後は昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦大和と共に撃沈。

呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑

昭和18年、呉で編成されラバウルに進出。 その後、ブーゲンビル島ブインに転戦。 そのままブーゲンビル島ブイン基地にて終戦を迎える。

軍艦加古戦没者慰霊碑

元加古艦長高橋雄次書
古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」
昭和17年8月8日、第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)は第一次ソロモン海戦に参加し活躍。戦闘終了後の8月10日。その帰路に米潜水艦の雷撃により沈没。

第四艦隊遭難殉職者之碑

第四艦隊事件。
昭和10年の台風により海軍艦艇が被った大規模海難事故。参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を被った。
なかでも最新鋭の吹雪型特型駆逐艦「初雪」「夕霧」は艦橋付近で艦首切断の大損害を受けた。殉難者54名。

軍艦矢矧殉職者之碑

筑摩型防護巡洋艦2番艦「矢矧」
(当艦は初代。阿賀野型「矢矧」は2代目)

大正7年(1918)秋、南太平洋及び印度洋方面の警備任務の帰途に艦内にインフルエンザが流行し乗員471名のうち殉職者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。

第三十四号駆潜艇戦歿者慰霊碑

初代艇長逆井保治謹書
第十三号型駆潜艇を改良した第二十八号型駆潜艇の1隻。同型艦31隻。 昭和17年8月31日竣工。昭和20年3月26日英艦と交戦沈没(小アンダマン島東方沖)。

軍艦神通戦没者慰霊碑
海軍中将 伊崎俊二之墓

川内型巡洋艦2番艦「神通」
第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将。

昭和18年7月、コロンバンガラ島沖海戦において旗艦「神通」が戦没し運命を共にした。死後、海軍中将に進級。

碑文
昭和十八年七月十二日コロンバンガラ島沖夜戦に於いて米巡洋艦と交戦し神通は百十糎探照灯で敵艦を照射し子隊の雷撃砲撃を容易にし、自から標的となりながらも勇猛果敢に戦い多大なる戦火をあげたが尊い命を失いました。

駆逐艦椿戦没者慰霊碑

元艦長田中一郎少佐書
松型駆逐艦(丁型)15番艦「椿」

昭和19年11月30日竣工。昭和20年7月に瀬戸内海の備讃瀬戸で空襲にあい中波。終戦時は中破状態で呉に残存。昭和23年7月28日に解体が終了した。

伊二九潜戦没者慰霊碑

第十四潜水隊司令寺岡正雄謹書
伊号第二十九潜水艦。 インド洋で通商破壊任務を行い船舶7隻撃沈。また日独往復に成功寸前まで行った艦。昭和18年7月26日ドイツ帰路に比島沖にて敵潜の雷撃を受け木梨鷹一艦長以下全乗員が戦死し沈没。

不朽
艦と共に身おば砕きし火柱の
  一瞬をただ見つめたるまま

大東亜戦争中輝かしい戦歴を重ねた伊号第29潜水艦は昭和19年7月26日午後4時15分頃ドイツ派遣の重大使命を果して一路帰国の途上米国潜水艦の雷撃を受けて沈没。
乗組員107名もまた艦と運命を共にせり。 バタン島沖バリンタン海峡の、そうそうたる海原水深く波静かなる紺ぺきの海。
そこは祖国に生命を捧げた精鋭と艦の不朽の偉勲を語るところ、その海には今もなお壮烈偉大なる殉国の魂が永遠の眠りをつづけている。

伊三六三潜殉職者之碑

伊号第三百六十三潜水艦。
回天攻撃隊に参加。8月14日に呉帰港し終戦を迎える。
昭和20年10月29日、呉から佐世保へ回航の途中、宮崎県沖で触雷沈没。 墓碑の上の潜望鏡は、その後引き上げられた本艦の夜間潜望鏡、という。

レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

レンドバ島で戦死した「呉鎮守府第六特別陸戦隊」および「第三十八師団歩兵第二二九連隊第七中隊」の慰霊碑。レンドバ島守備隊は米軍上陸を打電したのち消息を絶っている。

ソロモンの
 孤島に散りし
  戦友の
英霊よながく
 ここにやすかれ

軍艦青葉戦没者慰霊碑

青葉型重巡洋艦の1番艦「青葉」
昭和17年第一次ソロモン海戦・サボ島沖海戦で活躍。
昭和19年捷号作戦(レイテ沖海戦)で大破、かろうじて呉軍港に帰投。 修理の見込みが立たないまま昭和20年7月呉空襲で大破着底。昭和22年7月解体完了。

 風荒れ雨はくるうじ
 草木は空にもえ出でて
 やがて青葉いろどられ
 真夏の苦熱如何あらん
 ますらたけおの胸の血は
 青葉の如くもゆるなり

軍艦吉野戦死者之碑

吉野型防護巡洋艦1番艦「吉野」
1893年(明治26年)完成当時は世界最速の軍艦。
日露戦争では第三戦隊に所属。1904年(明治37年)5月15日、旅順港閉塞作戦従事の帰路に濃霧に遭遇し味方艦「春日」と衝突沈没。戦死者319名。

軍艦信濃戦歿者之墓

靖國神社宮司 筑波藤磨 書(第五代宮司)
大和型戦艦3番艦を航空母艦改装したものが「信濃」。 昭和19年11月下旬、未完成のまま横須賀から呉へ回航中に米潜水艦の魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没。合祀者885柱。

第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

嶋田繁太郎書
第一号型輸送艦(一等輸送艦)3番艦。日本海軍で最初にブロック工法を導入した艦型とされる。 本艦は昭和19年6月29日竣工。昭和19年9月15日、ミンダナオ島で座礁中に米潜水艦より雷撃を受けタンク破裂炎上し火災沈没。

軍艦衣笠慰霊碑

青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」 昭和17年10月のサボ島沖海戦で古鷹と吹雪が沈没し青葉が大破した第六戦隊は解隊し健在だった衣笠は第八艦隊直属に再編成。(青葉は呉修理へ) 11月、第三次ソロモン海戦において米軍機の攻撃を受け航行不能となり沈没。

碑文
軍艦衣笠は、先の太平洋戦争において、勇戦奮闘するも、昭和17年11月14日 南太平洋ニュージョージア島南方洋上に沈む。
今やわが国の平和と繁栄を目の当たりにするとき、祖国の礎となって艦と運命を共にされた亡き戦友に対し我々は切々たる感謝の思いを禁じ得ない。
ここに40周年を迎えるにあたり、鎮魂慰霊の碑を建立して、その遺徳を顕彰し祖国日本と世界の永遠の平和を心より念願するものである。
昭和57年11月14日
軍艦衣笠慰霊碑建立委員会

駆逐艦浦波慰霊碑

吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)10番艦「浦波」
昭和19年10月26日、第十六戦隊(青葉、鬼怒、浦波)はレイテ沖海戦に伴う輸送作戦(オルモック湾揚陸作戦)に従事。「浦波」は揚陸の帰路に米軍機の空襲により長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」等と共に撃沈。

第十六防空隊戦没者慰霊碑

昭和18年4月、横須賀海軍砲術学校にて編成。 第八艦隊第七連合特別陸戦隊編入。 5月ラバウルに進出し、次いでブーゲンビル島ブインに進出。コロンバンガラ島撤退作戦ニ参加。ショートランド諸島で終戦。

第百十三號輸送艦慰霊碑

特設輸送艦(二等輸送艦) 昭和19年10月竣工。 昭和19年11月25日、サンタクルーズ湾からマニラに向う途中にルソン島ダソル湾外で米空母機の攻撃を受け沈没。

駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

吹雪型駆逐艦9番艦「磯波」 昭和18年4月9日、船団護衛中にスラバヤ方面セレベス島南東で米潜水艦の雷撃で戦没。

駆逐艦呉竹慰霊碑

若竹型駆逐艦2番艦「呉竹」(くれたけ) 大正11年(1922)12月竣工。当初名は「第四駆逐艦」。 昭和3年8月1日「呉竹」と改名。昭和19年(1944)12月30日、バシー海峡にて米潜水艦の雷撃を受け戦没。

駆逐艦白雲慰霊碑

吹雪型駆逐艦8番艦「白雲」
開戦時は第十二駆逐隊所属。昭和17年3月に第十二駆逐隊は解隊となり第二十駆逐隊に編入。昭和18年に北方部隊の第九駆逐隊に編入。昭和19年3月16日、ウルップ島向船団護衛中、襟裳岬沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没した。

駆逐艦白雲慰霊碑

「吹雪」型特型駆逐艦の八番艦として、昭和3年7月28日竣工。

白雲について
白雲は昭和3年7月28日、第42号駆逐艦として呉で竣工、わずか4日後に艦名が改められている。
当時帝国海軍が精強を誇った特型駆逐艦の8番艦である。
昭和16年12月太平洋戦争の勃発時には、第12駆逐隊の司令駆逐艦としてマレー半島上陸作戦を支援、次いでボルネオ、スマトラ、ジャワ島などの攻略戦、インド洋制圧作戦に参加、昭和17年8月ガダルカナル島争奪戦で傷つくまで南方洋上各地を転戦し、数々の武勲を立てている。
その後北方部隊に編入され千島防衛の任に当っていたが、昭和19年3月16日夜、船団護衛中、北海道釧路沖に於いて無念にも米潜水艦の雷撃を受け、輸送船日連丸とともに沈没、艦長以下乗員270名、悉く壮烈な戦死を遂げられた。
波高く月明なき暗夜の海上で、将に沈まんとする白雲は全艦に灯火を点じていたと伝えられる。
祖国への訣別の点灯であったのかとおもえば痛恨の念が胸に迫り、哀惜の情は尽きない 。
爾来星霜を重ねて四十三年、今は我が国北辺鎮護の礎として、永遠の眠りに就く白雲の栄光を讃え、ともに殉じた戦没将兵の霊を慰めるため、有志相図ってここに鎮魂の碑を建立する。
昭和62年3月16日
白雲会

駆逐艦初風慰霊碑

陽炎型7番艦「初風」 昭和18年11月2日、初風は第十戦隊旗艦軽巡洋艦阿賀野の指揮下(阿賀野・駆逐艦長波、初風、若月)でブーゲンビル島沖海戦に参加、第五戦隊重巡妙高と衝突し、艦首を失い米艦隊の集中砲火を受けて沈没。

駆逐艦初風は、昭和18年11月2日 ブーゲンビル沖海戦に於いて壮烈な最期を遂げました。
その初風と運命を共にされました265名の鎮魂を願って 私ども遺族はこの趣旨にご賛同の方々露力を合わせて、遅ればせてはありますが、呉の母港の見えるこの地に、慰霊碑を建立いたします。祖国日本が永遠であることを念じつつ散華されましたその霊を御慰めし、ここに御冥福を御祈りいたします。

第六三四海軍航空隊慰霊碑

第六三四海軍航空隊は昭和19年9月の時点では海軍屈指の航空隊であった。
基地隊員四百余名は部隊に合流すべく新鋭空母雲龍に便乗し12月17日呉軍港出港したが19日午後4時57分、東シナ海舟山列島沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没、殆どが戦死。

呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

合祀潜水艦、伊号29隻、呂号6隻、合計35隻。

轟沈
轟沈 轟沈 凱歌が上りゃ
つもる苦労も苦労にゃならぬ
うれし涙に潜望鏡も
くもる夕日の
くもる夕日のインド洋

碑文
さきの凄絶なる大東亜戦争において、祖国の隆昌発展を願いつつ、万里の果てに敵を撃ち、至誠と情熱とを捧げて己が努めを尽くしたる後従容として戦没せし潜水艦三十五隻、艦と運命を共にされし英霊は三千余柱を数う。
戦いの日過ぎ去りて半世紀、今日の祖国の平和と繁栄とはここに眠れる尊き英霊の犠牲の賜にして切々たる追惜の情もだし難く有志相計り「呉鎮守府潜水艦戦没者之碑」を母港の上に建立す。
諸兄の示されたる純粋にして無垢、崇高なる殉国の真心とその輝かしい勲とを、後世に伝えてその遺徳を顕彰し、併せて祖国の永遠の平和を希うものである。
在天の英霊ここに還りて、ありし日を我等と共に静かに語らん。
平成3年4月23日
呉鎮戦没潜水艦合同慰霊碑建立委員会

駆逐艦敷波戦没者慰霊碑

吹雪型(特型駆逐艦)12番艦「敷波」 昭和19年9月4日、内地向船団を護衛してシンガポールを出港。9月12日に海南島東方沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没。

昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑

文字通り、昭和15年に徴募(召し募ること)された主計科の戦歿者のことであることはわかるが詳細は不明。

第二十四特根付 
特設駆潜艇 第十八日東丸戦没者慰霊碑

徴傭漁船を改造した特設駆潜艇「第十八日東丸」 昭和16年8月28日徴傭、昭和20年終戦時に残存。 第二十四特根とは「第24特別根拠地隊」のこと。

ショートランド島戦没者慰霊碑

元連合艦隊参謀長草鹿龍之介謹書
ソロモン諸島ブーゲンビル島南東のショートランド泊地に展開された第13防空隊の慰霊碑。 旧呉鎮十三防空隊員及呉六特南海砲台員の英霊を謹んで慰霊の為建立。

駆逐艦陽炎之碑

陽炎型駆逐艦1番艦。
昭和18年5月8日、第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)にてコロンバンガラへ輸送の帰途、同島南岸西方で触雷。航行不能となった陽炎は米機爆撃を受け沈没。なおこの1日で親潮・黒潮も沈没しており第15駆逐隊は全滅。

戦歴
駆逐艦「陽炎」は、「陽炎」型駆逐艦の一番艦として、昭和14年11月6日竣工した。
太平洋戦争開戦時は、第十八駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊としてハワイ真珠湾攻撃、ついでインド洋作戦に参加した。
その後、ミッドウェー海戦に参加した後、第十五駆逐隊に編入された。
ガダルカナル島方面の作戦に於いて一木支隊を緊急輸送、ルンガ沖海戦では米重巡艦隊に大損害を与えた。
昭和18年5月7日ソロモン諸島クラ湾で触雷、翌8日米陸軍機の空襲により被爆し沈没した。

軍艦天龍遭難死者紀念碑

明治31年7月23日建立。合祀者3柱。
明治18年(1885)3月5日竣工。日清日露戦争に参加。 明治30年(1897)11月26日に発生した火災で犠牲になった殉職者の慰霊碑。

軍艦廣丙遭難哀悼碑

広丙(こうへい)
明治29年(1896)5月建立。
清国海軍の防護巡洋艦。日清戦争の際に降伏、戦利艦として日本海軍に編入。新鋭艦として期待されていたが編入後1年足らずの明治28年12月21日に座礁し沈没。

軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)3番艦「鈴谷」
昭和9年11月20日の鈴谷進水式には昭和天皇が臨席。 昭和19年10月25日、レイテ沖海戦・サマール島沖追撃戦で空襲を受け酸素魚雷が誘爆し沈没。

軍艦鈴谷
ソ連領サハリン南部のチエホバ岳が旧日本領土の樺太であった頃に鈴谷岳と呼ばれ山裾を流れる鈴谷川にその名を取り二代目鈴谷として誕生する。 然し地球上に存在しなくなった地名鈴谷をこの世から忘れ去られる事に忍びず軍艦鈴谷とその犠牲者の功績を此処に伝える。

昭和十九年十月二十五日十時三十分頃撃墜した米空母機が魚雷甲板舷側にて爆発炎上し搭載魚雷の誘爆により北緯十一度四十五分東経一二六度十一分のサマール島東方海面の太平洋上に六百有余名の乗員と共に十三時二十二分その姿を海中に没す。
駆逐艦沖波に救助された四百余名も翌二十六日の米空母機の追撃により沖波は損傷、多数の死傷者を出したがマニラに帰着し、更に半数は陸戦隊としてマニラに残留し、又本国に帰った者もそれぞれ過酷な戦いに終戦迄に大多数が護国の花と散った。

鈴谷慰霊碑の片隅に鈴谷乗組員を救助した沖波慰霊碑がある。

救助駆逐艦沖波戦死者慰霊

昭和十九年十月二十六日、鈴谷乗員救助後マニラ帰投中、アメリカ機の追撃を受け死闘して斃れた沖波乗員戦死者の霊に捧ぐ

沖波はその後マニラにて昭和19年11月13日に大破着底

戦艦扶桑戦没者慰霊碑

扶桑型戦艦の1番艦「扶桑」
昭和19年10月25日。扶桑は通称西村艦隊(西村祥治)全7隻(戦艦山城・扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦満潮、朝雲、山雲、時雨)でレイテ湾へ突入。スリガオ海峡で米艦隊集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅。

碑文 戦歴
戦艦扶桑は呉鎮守府管下最初の超弩級戦艦として平時の連合艦隊に於いて輝かしい成績を挙げ、大東亜戦争勃発するや各地に転戦し、最後となった昭和十九年十月の捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し、捷一号作戦には僚艦山城とともに第二戦隊を編成し西村中将指揮のもとに比島スリガオ海峡よりレイテに向け突入、米艦隊と激戦、敵戦艦重巡戦隊の集中砲火と魚雷艇駆逐艦の雷撃を受け沈没。 阪艦長以下殆ど全員が戦死した。 時に昭和十九年十月二十五日午前二時四十五分。

特務艦間宮戦歿者慰霊碑

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

碑文
竣工後第一艦隊に所属続いて連合艦隊に編入し、当時唯一の給糧艦として支那事変、太平洋戦争に参加、揚子江沿岸並に比島トラック、パラオ、サイゴン等各方面に糧食酒保物品等の補給任務に従事した。
昭和十九年十二月十日物資を満載しサイゴン出港、マニラに向け航行中十二月二十一日午前一時、米潜水艦二隻の雷撃を受け海南島東方にて沈没。 艦長以下四百六十余名の乗組員が艦と運命を共にした。
誠に痛恨の極みである。
ここに間宮の栄光を後世に伝え且つ戦没者の御霊を慰めるべく生存者元乗組員及び旧海軍有志相集い浄財を得てゆかりの地にこの碑を建立す。
昭和五十八年十一月二十日 特務艦間宮

軍艦鹿島 有終之碑

香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」
有終之碑。鹿島は呉で終戦を迎えている。
開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦(司令長官井上成美)を務める。 戦争末期は輸送任務に従事。(特設護衛船団・海上護衛総隊)

第十戦隊旗艦 巡洋艦阿賀野慰霊碑

元第十戦隊司令官木村進謹書
阿賀野型軽巡洋艦1番艦。昭和17年10月竣工。第十戦隊旗艦。
昭和18年11月ラバウル空襲で損傷しトラックで明石の応急修理を受ける。
昭和19年、呉に回帰途中2月17日に米潜水艦雷撃により沈没。

阿賀野艦
 身は南海に
  沈めども
永久に護らん 
 秋津洲ねを
昭和49年10月12日 元通信長 太田守

第十戦隊旗艦 阿賀野 慰霊碑の回りには多くの駆逐艦の名が刻まれている。

昭和19年2月17日に沈没した阿賀野。阿賀野乗組員らは駆逐艦追風に救助されたが、追風も翌日のトラック空襲で爆沈。松田艦長以下多数の阿賀野乗組員も散華。

第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

島村浩二書(大佐・陸戦指揮官)
比島ミンダナオ島方面海軍部隊。第三十二特別根拠地隊はミンダナオ島ダバオを中心に防衛に従事。 昭和20年4月27日、米軍ダバオ攻撃が始まり部隊は陸軍と協力して防衛に務めるが漸次消耗し終戦を迎える。

軍艦伊勢慰霊碑

捷号作戦当時艦長 中瀬泝謹書
伊勢型戦艦1番艦「伊勢」
昭和18年、僚艦の日向とともに航空戦艦へ改装され「第四航空戦隊」編成。 昭和19年10月レイテ沖海戦で活躍。昭和20年北号作戦成功後、7月28日の呉軍港空襲にて大破着底し終戦を迎える。

碑文・献辞
第二次世界大戦起るや航空戦艦として各地に転戦し武威を輝かし、昭和廿年七月二十四日及び二十八日敵機の大群の攻撃を受け、勇戦奮斗のかいなく倉橋島北岸に擱座着底し護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど護国の鬼と化したる百九十名の勇士に痛恨おくあたわざれど戦友よ星移り月かわれども永遠にその名をとどめ之れを顕彰せん 願はくば安らけく眠り給へ
昭和四十五年十月二十五日 
軍艦伊勢慰霊碑建設委員長 師岡勇

第五三一海軍航空隊慰霊碑

昭和18年編成。最前線の雷撃機隊。天山を主力とする。マーシャル諸島に展開。 昭和18年12月クエゼリン環礁地上戦開始。ルオット島司令部通信途絶。 昭和19年2月解隊。地上戦が発生しなかったウォッゼ基地隊員は戦後鳳翔にて復員。

戦歴
第531航空隊は昭和18年7月1日天山11型艦上攻撃機36機をもって舘山において編成 直ちに北千島方面に進出 同年11月舘山及び北千島の擂鉢・片岡に派遣隊を残し本隊はマーシャル群島ウオッゼ島に転じ 同方面の作戦に従事 輝かしい戦果を収めたが 翌19年初米機動部隊との戦いにおいて全航空機を失い搭乗員は全滅 同年2月20日をもって解隊 ウオッゼ基地隊員は全員第四艦隊司令部附・第64警備隊付となる。 同島にて米軍の絶え間ない攻撃と想像を絶する飢餓との闘いのうちに20年8月終戦を迎え同年11月生存者58名全員鳳翔にて帰国、戦死戦病死者206名。
篠崎 英夫 記

八十二号海防艦戦没者慰霊碑

艦長 森武 謹書 丁型海防艦(第二号型海防艦)。同型艦67隻。
昭和19年12月31日竣工。昭和20年8月10日、北鮮東方沖でソ連航空機の雷撃を受け沈没。

重巡最上戦没者慰霊碑

最上型重巡洋艦の1番艦「最上」
ミッドウェー海戦で損傷し後部主砲二基を撤去し航空巡洋艦に改装。 昭和19年10月25日、西村艦隊としてレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦に参戦し大破、退避中に志摩艦隊の那智と衝突、曙により雷撃処分。

軍艦雲鷹戦歿者之碑

大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」 もと日本郵船所有の新田丸級豪華客船「八幡丸」。 新田丸級三姉妹船(新田丸=沖鷹、春日丸=大鷹、八幡丸) 昭和19年 9月17日、ヒ船団護衛任務に従事中、米潜水艦の雷撃により沈没。

軍艦比叡戦歿者之碑

金剛型コルベット艦2番艦「比叡」
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦で大破、同海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年8月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

軍艦厳島乗組員之碑

「三景艦」と呼ばれた松島型防護巡洋艦の二番艦。
明治27年9月17日の日清戦争黄海海戦戦死者の慰霊碑。
明治28年9月建立。
当初は眼鏡橋畔に建立。昭和37年4月に海自呉警備隊正門横に移設。その後昭和56年に現在の場所に移設。

呉所管海軍 看護長看護師看護手 看護之墓

大正3年4月30日建立。
当初は呉海軍看護科員を祀るために呉市和庄共同墓地に建立。 建立以来80年以上を経て無縁仏となっていたため、旧看護科の有志が平成9年9月23日に呉海軍墓地に移設した。

戦艦大和戦死者之碑

大和型戦艦1番艦「大和」。日本海軍が建造した史上最大の戦艦。
昭和16年12月16日に竣工。
昭和20年4月7日14時23分、天一号作戦において第二艦隊旗艦として第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃し米機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈。


以下の慰霊碑は撮影し損ねたり、訪れ損ねたりしました。
大変悔しいですが、またの機会を期したい、と。

航空母艦飛鷹の碑
英国水兵の墓碑
駆逐艦島風戦没者之碑
伊號第八潜水艦之碑
伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑
第三十三警備隊戦歿者慰霊碑
大東亜戦争戦没者名碑

今回の慰霊碑参拝で新たに知ることが出来た艦や歴史も多くあり、ほんの一握りではあれど、その最期を偲ぶよすがもまとめることも出来ました。 ありがとうございました。

海軍工機学校(海軍機関学校)跡地散策

平成29年10月及び平成31年3月撮影

海軍工機学校兵舎(横須賀学院2号館)

横須賀は三笠公園の近く。
神奈川歯科大学と横須賀学院の界隈は、かつては「海軍工機学校」(海軍機関学校)であった。

米軍側から見た「海軍工機学校」と「横須賀海軍病院」の記事はこちらから。


位置関係

USA-M378-25
1947年(昭和22年)07月24日‐米軍撮影を加工
GoogleMap航空写真 現在の様子

海軍工機学校跡(海軍機関学校跡)

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院
守衛さんの許可を得て、ちょと見学にいってみましょう。

守衛の許可を得て入校しております。

神奈川歯科大学及び神奈川歯科大学附属病院 大学中庭の西側に。

海軍工機学校・軍人勅諭の碑

昭和7年1月4日建立
軍人勅諭下賜50年記念
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書(海軍中将)

村田校長は工機校長ののちに横須賀工廠長に任命

誠心
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし
二 軍人は礼儀を正しくすへし
三 軍人は武勇を尚ふへし
四 軍人は信義を重んすへし
五 軍人は質素を旨とすへし
海軍工機学校長 村田豊太郎謹書

海軍工機学校正門門柱及び壁

海軍工機学校 海軍栓

海軍工機学校 煉瓦倉庫

神奈川歯科大学校舎の裏側に。

倉庫の向こう側は、現在は米軍基地。

旧横須賀海軍病院跡
 (米海軍横須賀基地内)

神奈川歯科大学敷地内から、米軍基地方面を望む。フェンスの向こう側にある建物が、かつての「横須賀海軍病院」。現在も米海軍病院として使用されている。

旧横須賀海軍病院 奉安殿跡

横須賀海軍病院の建屋の前には「奉安殿」も残っている。
こちらもフェンス越しに拝見。

奉安殿とは 天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影)や教育勅語などを納めていた建物。

前述の「神奈川歯科大学」及び「神奈川歯科大学附属病院」の東隣には「横須賀学院」という小中高一貫の私立学校がある。

横須賀学院
戦前の海軍工機学校(海軍機関学校)跡地に戦後「青山学院横須賀分校」が開校。その後、青山学院は撤退し昭和25年に継承した横須賀学院が当地に設立している。

横須賀学院の守衛さんにお伺いを。
「海軍の学校の碑を見学したい」と申告すると「一般に公開はしてないけど良いよ、授業中だから気をつけてね。碑の場所は・・・」と気さくに碑の場所を教えていただきました。
ありがとうございます。ちょっと見学に行ってみましょう。

海軍機関学校跡碑

横須賀学院(許可を得て入校)
碑には正面写真と碑文を刻んだ銅板が貼付されている。

海軍機関学校跡
記念碑建立の由来
海軍機関学校の沿革は明治2年に遡るのであるが、明治34年9月1日白浜校舎が現在地に落成し日夜機関生徒の訓育に当り、その後大正12年9月1日関東大震災により校舎を全焼し江田島に移転する迄の22年間延1,324名の卒業生を送り機関科将校揺籃の地として寔に意義深く記念すべき場所であるので、当横須賀学院の御厚意と同窓生諸賢の熱意によって校跡を後世に遺したく旧校庭の一角にこの記念碑を建立した次第である。
昭和43年6月3日建之

学校跡碑のある場所のうしろの建物(横須賀学院2号館)が、実はかつての工機学校兵舎。昭和13年頃の建設とされている。

生徒たちの邪魔をしないように撮影してサクッと退散。

学校内は、なかなか立ち入るのに緊張しますね。
次はフェンスの向こうの米軍敷地内が気になります。


関連

横須賀の諏訪公園周辺散策

平成29年10月撮影

京急線・汐入駅周辺の散策。場所としては諏訪公園を軸に。


横須賀のどぶ板通りを歩いていて前から気になっていた碑。
実はまだ行ったことが無かったので、入り口の碑につられてみます。

明治天皇横須賀行在所入口石柱

昭和9年建立。
ここは入口。この先に行在所(あんざいしょ)があったとのことで行ってみましょう。

入口石柱からまっすぐに進んで石段を登ると突き当りに横須賀幼稚園。
隣接する公園に目指すものがありました。

明治天皇横須賀行在所阯

昭和11年4月建立
史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和八年十二月文部大臣指定

聖蹟の碑(向山行在所跡)

向山行在所跡は、 明治天皇が横須賀行幸の際、宿泊・休憩した建物の跡地です。
昭和8年11月2日に史跡名勝天然記念物保存法により指定
昭和23年6月29日に指定解除

「聖蹟」の揮毫は海軍大将加藤寛治

「明治天皇横須賀行在所阯」碑
「聖蹟」碑(向山行在所跡)

聖蹟として整備され、2つの碑を中心に御影石の柵柱と門扉(昭和5年の銘あり)もあった形跡が残るも現在は遊具に囲まれた公園。
幼稚園の隣の公園は、かつての行在所の記憶を絶妙なバランスで残しつつ、ほのぼのとしておりました。

行在所跡から横須賀幼稚園を経て緑ヶ丘女子高校の隣から諏訪公園(八幡山)へ。

明治天皇御駐蹕碑

元帥東郷平八郎謹書
昭和8年11月3日(明治節)建立

明治天皇は度々横須賀に行幸されており麓の向山行在所に宿泊されていた。

駐蹕碑の頂点には地球を型どった球体、そして翼を拡げた金鵄の姿が。

石版には 明治天皇が明治四年・明治六年・明治八年と横須賀造船所を御巡覧したり艦隊運動を天覧されたりした御実績が記されている。

「明治天皇御駐蹕碑」のある場所はちょっとした空間が広がっておりまして。
きっとなにかあったんだろうなあという痕跡も。
諏訪公園(八幡山)の高台ともなっており、横須賀芸術劇場がよく見える。

横須賀芸術劇場はまたのちほど。
次は諏訪公園(八幡山)の由来となった諏訪神社へ参りましょう。

どぶ板通りからそれたところに「諏訪大神社」が鎮座している。
横須賀の中心的な神社のひとつ。
何度か参拝したことは有るけど久しぶりの参拝を。
神社の後ろに展開している「諏訪公園」が目的地だったので方向が重なったとも言いますけど。

神社隣の魚藍亭・よこすか海軍カレー館は老朽化で閉店…

横須賀 諏訪大神社

横須賀「諏訪大神社」 参道に看板がありました。

SUWA SHRINE AND PARK
OFF LIMITS
TO U.S FORCES
PERSONNEL

「諏訪神社及び公園、米軍関係者の立入禁止」
これは米軍が神社と協議のうえで注意喚起をする為に取付けた看板とのことで…

横須賀「諏訪大神社」
(すわだいじんじゃ/すわおおかみしゃ/すわおおかみのやしろ)
御祭神 健御名方命・事代主命

康暦2年(1380)横須賀城主三浦貞宗が横須賀総鎮守として、長峯城の城口にあたる古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請したことにはじまる。

領主三浦氏が滅んだ後は祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
慶長11年に代官発起で村の人々により社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬される。
昭和3年に郷社昇格。
昭和20年に県社昇格の内許がでるも終戦を迎え今日に至る。

ハイフリ・・・ですね。 作品を見たこと無いので詳細はわかりませんが。 ご多分に漏れず、このエリアが隔離コーナーのようです。

御朱印頂戴いたしました。
こちらの神社には何度か参拝しておりましたが実は御朱印を戴くのは初めて。社務所は無人ですが近くの宮司さん宅で頂戴できます。

東叶神社の咸臨丸御朱印帳に戴きました。
隣は横須賀追浜の雷神社。横須賀に相応しい帳面に。

諏訪公園

「諏訪大神社」から奥へと脚を進めます。
八幡山の「諏訪公園」へ向かいましょう。
ここにも海軍関係を含む幾つかの史跡が残っております。

招魂塔台座
横須賀海軍工廠工員殉難者慰霊招魂塔跡

明治45年5月27日(海軍記念日)に八幡山山頂(諏訪公園)に建立。
しかしここに鎮座していた招魂塔は戦後GHQの指示で撤去。

海軍軍都・横須賀ゆえに誤魔化しきれず目立ちすぎたのだろうか…悔やまれます…今は台座に電柱が虚しく…

満期記念碑

桜樹二百本・横須賀鎮守府大正三年度徴兵
詳細は不明ながら、横須賀鎮守府での大正3年度の兵役満期を迎え諏訪公園に桜木200本を植樹したことを記念して建立と推測。

奉納「舟型手水鉢」

青島攻略参加工作船関東丸工作部一同・大正7年9月

工作艦「関東」
元は日露戦争で鹵獲した露汽船「マンチェリア」を中国東北部由来の「関東」と命名し運用。
青島の戦いは大正3年の第一次大戦に際してドイツ帝国東アジア拠点青島を日本・英国連合軍が攻略した戦い。

謎の軍艦甲板の一部

諏訪公園の片隅に。詳細は不明。
横須賀市でも詳細不明で「以前は緑が丘高校入口付近にあった」といい、一説には「戦艦三笠の物ではないか?」とも言われているようです。

甲板を砲弾に打ち抜かれた跡が生々しい。

動物愛護の碑

戦前この諏訪公園(八幡山・古谷山)には小さな動物園がありヒグマなどが飼育されていたという。
が、昭和19年に空襲が本格化し逃走など含め飼育が危険となった為に射殺。

動物愛護の碑は昭和60年建立。横須賀市長横山和夫書。
碑のある場所はヒグマの檻があった場所だそうで…

頌徳碑

大正6年建立
篆額は徳川達孝(田安徳川家・日本弘道会会長)
撰文は横須賀高等女学校校長の北村包直 (横須賀高等女学校は現在の県立横須賀大津高校の前身。北村は三浦半島の郷土史家として著名)

第二代横須賀町長であり横須賀市誕生の功労者であった江頭正五郎を讃える碑。

記念植樹之碑

皇太子殿下御降誕 (昭和9年12月23日・社団法人横廠工友會建立)
横須賀海軍工廠長・村田豊太郎書(海軍中将)

昭和天皇の皇太子 明仁殿下御誕生(昭和8年12月23日)を記念して諏訪公園に植樹。
横廠工友會=横須賀海軍工廠労働組合工友会

諏訪公園内の何かの跡。

鳥居跡

かつて諏訪公園は八幡山(古谷山)と呼称されており八幡神社が鎮座。
八幡神社は横須賀製鉄所(横須賀造船所・横須賀海軍工廠)により奉じられていたという。
この鳥居石柱跡が現在の諏訪神社のものか、かつての八幡神社のものかは不詳であるが、鳥居石柱には「…工廠船渠工場」「大正」の文字を見ることが出来たので、海軍工廠関係者の奉納であることは間違いないだろう。

こんな感じで諏訪公園散策は終了。
改めて諏訪大神社を経て諏訪公園の山をおります。

諏訪公園の西側に「横須賀芸術劇場」がある。
じつは、この場所も海軍関連の史跡。

旧海軍下士官兵集会所跡

かつてこの場所は海軍工廠に面した海軍下士官兵集会所。
戦後は米軍が接収し昭和47年迄「Enlisted Men’s Club(EMクラブ)」として使用。
その後この地は横須賀芸術劇場(平成6年2月建設)となる。
下士官兵集会所跡碑は駐輪場の隅に埋もれていた…

ここまでくると道を挟んだ向こう側の「 ショッパーズプラザ横須賀 」(イオン横須賀)(令和元年現在閉鎖中)に触れたくなりますが、それはまた別にしましょう。諏訪公園周辺の散策編としては以上で〆

龍本寺の海軍慰霊碑(横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑と軍艦千島海軍機関師五士の墓碑)

平成29年10月撮影

京急線の横須賀中央駅から高台の方に向かう。

「猿海山龍本寺」(日蓮宗)
この寺院に、横空ゆかりの慰霊碑がある。

横須賀海軍航空隊 殉職将士追悼碑

海軍大将 永野修身 書
昭和九年七月五日建立

昭和9年7月5日に相陽時事新聞社が発起となり建立。
横須賀市長 小泉又次郎 も後援に名を連ねる。(小泉純一郎の祖父)
揮毫した 永野修身 は、当時は横須賀鎮守府司令長官。

碑面裏には「遺芳千秋」(後世にまで残る名誉や業績の意)

大正4年~15年に殉じられた横須賀海軍飛行将士51柱を祀る。
最初に名を刻まれている 足立東三郎(海軍大尉)、武部鷹男(海軍大尉)、柳瀬久之丞(海軍三等水兵)の三名は 横須賀海軍工廠で製作されたファルマン水上機の試験飛行中の大正4年3月6日に墜落殉職している。これは、海軍搭乗員の日本国内における最初の殉職者であった。

横須賀海軍航空隊に関してはこちらも。


横須賀海軍航空隊殉職者追悼碑の隣にある碑

軍艦千島 海軍機関師 五士の墓碑

伊藤雋吉海軍中将 撰文

明治25年11月30日。
仏国から日本に回航中の軍艦千島(通報艦)が愛媛沖で英国商船ラベンナ号と衝突沈没し74名が犠牲となり殉職機関士5名を合祀した墓碑。
千島艦事件。
明治28年9月建立。

余談ながら、揮毫した伊藤雋吉は、創設期の海軍きっての能書家。軍艦の艦尾の艦名表示(ひらがな)に使う、いろは48文字を揮毫し、以後の帝国海軍及び海上自衛隊を通じて、伊藤が揮毫した文字が使用され続けているという。

千島艦事件で沈没した水雷砲艦「千島」は、青山霊園「畝傍の森」に、巡洋艦「畝傍」と並んで慰霊碑があります。
千島の慰霊碑は砲身と砲弾。
ともに建造後間もなく消息を絶ったり沈没したりした悲運艦。


猿海山龍本寺(日蓮宗)

横須賀海軍航空隊と予科練誕生の地散策

平成28年6月撮影

位置関係

野島(掩体壕)
夏島(掩体壕・地下壕)
貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・予科練誕生之碑)
位置関係。
日産工場が滑走路界隈。

USA-M46-A-7-2-50
1946年(昭21)02月15日‐米軍撮影写真を加工

現在の様子 Google航空写真

野島

シーサイドライン野島公園駅。野島後方には夏島が見える。

この夏島周辺が「横須賀海軍航空隊」(横空・追浜空)の展開されていた地区。
野島には横空の掩体壕があるのだ。 案内地図に記載ないけど。

遠くに見えるのが夏島。手前に滑走路が広がっており、野島とは橋で繋がれていた。現在、橋はない。

野島

野球場の右奥にフェンスと穴が。これが「野島掩体壕跡」。 この「野島の掩体壕」は野島山の東西を貫通し全長は260m。海軍小型機100機を格納する計画で、現存掩体壕の中でも国内最大規模とされている。

野島の掩体壕

 野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
 この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入口があります。
 出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部は、幅約10メートル、高さ8メートルで、素掘りの状態です。
 作業に当たった横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約い100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
 通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
 第三〇〇設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊司令部地下壕や松代大本営地下壕(長野県松代町)などの建設にも加わっていました。
 平成22年3月 横浜市

野島掩体壕跡
正直、大きすぎて今まで見てきた「掩体壕」の概念では測りきれない。 だって通常の掩体壕は航空機1機ですよ。野島と夏島の掩体壕で100機ってねえ。 ちなみに出入口部分は幅約20m、高さ7m。

貫通しているので反対側にまわってみましょう。今度は海側から開口部を見てみます。

野島公園。
さて、野島の頂上に向かってみます。掩体壕が東西に横断してトンネルのように掘られた野島山の頂上には展望台が設けられています。

野島公園。
野島山の頂上より、夏島方面を望む。
横須賀海軍航空隊(横空)・追浜海軍航空隊の滑走路などは、この方面に展開していた。

野島から夏島を望む。夏島には貝塚もあり古代から人々の営みがあったことがわかる。
いまは工場地帯、ちょっと前は海軍航空隊基地・・・そう考えると変遷が感慨深く。

野島稲荷神社

野島稲荷神社。 野島総鎮守。

海軍よりも古くからの社。良い感じの稲荷様でしたのでちょっと見ていきましょう。
野島山南側鎮座。伏見稲荷系統。

安貞元年1227に阿波守長島維忠発願により子の修理佐頼勝が造立。
万治年間(1658~1660)野島浦南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称した。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にありそのため鬼門の守り神として頼宣公の篤い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたとされている。

手水に狐様がいらっしゃいます。 この手水舎の雰囲気、好きですねえ。

石段両脇にも狐様。これは良い稲荷様。

境内社は船玉社、他。船の守り神、航海往来の守り神。緑に覆われた岩山が垂直に切り立つ。

海軍航空基地近くの鎮守様。 往時の軍人たちもきっと参拝したであろうことを夢想しつつ拝するひととき。

伊藤博文金沢別邸

野島には「旧伊藤博文金沢別邸」がある。明治31年(1898)に建設された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築、とのことで。 東京からもほど近く、富岡金沢の地は明治期に海浜別荘地として人気だったそうで。

野島の「旧伊藤博文金沢別邸」。建物の老朽化が激しかったことから平成21年に復元修復工事が行われている。
野島も貝塚があり、古代から脈々と人々が営んでおり、こうして色々な歴史が交差しているのも興味深い。

貝山へ向かいます。
バスは磯子駅か追浜駅か田浦駅か。どれでも良さそう。
だいたい15分から20分に1本程度の輸送密度。

貝山緑地

現在は工場エリア。
この貝山緑地と夏島貝塚のみが異質な空間。

貝山緑地・夏島貝塚。
この西側、現在は日産の工場エリアには「横須賀海軍航空隊」「海軍航空技術廠」「追浜飛行場」「追浜海軍航空隊」が展開され「海軍航空発祥の地」となる。
ただし、今回の探訪は貝山緑地だけ。夏島は未訪問。

予科練誕生之地記念碑 甲飛鎮魂之碑 入口

このあたりは貝山地下壕も展開されていた。※非公開

追濱神社社号標

入口脇には「追濱神社」社号標が残る。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊・追浜飛行場での犠牲者を祀る追濱神社がこの地にあった。

現在は追浜雷神社境内の「濱空神社」(横浜海軍航空隊神社)ともども祀られている。

横須賀海軍航空隊

もともとこの地は横須賀海軍航空隊の地。

追浜海軍航空隊が正式に制度上で展開される以前から、この部隊は追浜飛行場・追浜海軍航空隊と呼称しており、横空(横須賀海軍航空隊)と追浜空(追浜海軍航空隊)は同じ意味を持つ場合もある。 ややこしい。

「整備科航空予備学生」が昭和13年以降に横須賀海軍航空隊で展開。
その教育は追浜飛行場で実施。

開戦に伴い横空は遠距離哨戒任務に就き教育任務をする余裕がなくなった為、整備科航空予備学生教育は、独立した追浜空に機体整備、洲ノ埼空は兵器整備と分散。

横須賀海軍航空隊・横空
 ↓分遺
追浜海軍航空隊・追浜空
相模野海軍航空隊

横浜海軍航空隊・浜空

館山海軍航空隊・館空
↓分遺
洲ノ埼海軍航空隊・洲ノ埼空

予科練

海軍予科練習生は昭和5年に横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊したことにはじまる。
昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。

昭和14年3月1日に横空から霞ヶ浦海軍航空隊に予科練は移設。

予科練1期生から10期生までは横空。
11期生以降は霞空、そして13期以降は土浦空そのほかで大量採用となる。

予科練誕生之地

海軍予科練習生制度のはじまり。
霞ヶ浦湖畔にうつるまで、この横須賀追浜飛行場の地で若き海鷲たちは育っていったのだ。

予科練誕生之地

光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し国を想うひとすじの少年たちが溌剌としてここに溢れていた
昭和5年6月1日 横須賀海軍航空隊内の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し やがて予科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は15歳から17歳 修業年限は3ヶ年 俊秀なる大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国5900余名の志願者から厳選された79名が第一期生としてここに入隊した
土浦 三重 鹿児島などのちには19を数えるに至った予科連航空隊の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和14年3月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
予科練の歴史15年3ヶ月のうち実に8年9ヵ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのである
そこで目指したものは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった 予科練を巣立った若人たちは飛行練習生教程 実用機練成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった
予科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ

昭和56年6月1日
此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次
書  鈴木忠正



予科練誕生之地

予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和5年6月1日第一期生入隊以来、昭和14年2月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より運ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと、唯々国の為同胞の為にと信じて各地に
勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同 、今は亡き同窓の英霊を偲びて、
思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也。

昭和56年6月1日 
 予科練一期生より十期生まで生存者一同

貝山緑地「予科練誕生之地」の反対側。

海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑

桜に錨。
若き海鷲の飛び立つよすがを偲び。
敬意を。感謝と哀悼を。

頭を下げ、黙する。

海軍甲種飛行予科練習生
鎮魂之碑

碑文
昭和12年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員養成を急務とした。
高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。
ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。
昭和12年9月1日全国の中等学校から厳選された250名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで13万9720名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。
しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に6778柱にのぼる。
その中の一人は次の歌を残して散華した。
血潮もて 茜と染むる 悔ゆるなし
 雲を墓標の 空の御楯は
私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。
平成9年11月2日 
甲飛生存者有志
遺族一般賛同者有志

「鎮魂之碑」の隣に移動してきた記念碑がある。

海軍航空発祥之地 記念碑

こちらは戦前(昭和12年)に作られた記念碑のため、より一層に格調高い。

海軍航空発祥之地 記念碑

明治四十五年 始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追浜ニ卜シ 東西二百米 南北六百米ノ地積ヲ画シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日 海軍大尉河野三吉 カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 同六日 海軍大尉金子養三モ亦 ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是実ニ帝国海軍飛行ノ嚆矢ナリ 今茲ニ 碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ 以テ記念ト為スト言フ
昭和十二年十一月三日
横須賀海軍航空隊

海軍航空発祥之地 記念碑 案内  
 右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った 追浜神社や気象観測所があった。
 1912年、 同隊において実施された「日本海軍の初飛行」を記念して、当初の碑は1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
 この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
 戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。

貝山緑地を登る。
頂上の展望台に行ってみましょう。

由来はわからないが、あんずが遊歩道の両脇に植えられおり、たわわに実を蓄えていた。 ※勝手な収穫は禁止されております。。。

貝山緑地頂上の展望台。
夏島方面は…樹木で視界が。追浜飛行場はこの方向に展開されておりました。

ハイカラな建物は横須賀市リサイクルプラザ・アイクル。
沖には海自の海洋観測艦「わかさ」が見えました。

貝山緑地。このあたりは海軍の砲台の跡地という。

地下壕もゴロゴロしているが非公開なので、見える範囲で往時を偲ぶ。 また周辺では海軍時代の建物が現在も民間にて使用されているが今回は時間都合で立ち寄らず。

追浜の雷神社

追浜の雷神社。 (いかづち神社・かみなり神社)

御祭神は火雷命 創建は承平元年(931)と伝承。
天正9年(1581)に現在地に遷座。

御神木を見上げれば、これは黄葉の季節に再訪したくなるほどに見事な銀杏。
朱色を軸にしたバランスが美しい。
良き空間。

先述したように追浜は横須賀海軍航空隊・海軍航空技術廠の地。

いわずもがなで海軍との縁も深い。
奉納された絵馬は海軍に関係する話題も多い。
(著作権的な観点からモザイク処理しました)

浜空神社

境内には「浜空神社(濱空神社)」が鎮座。

浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた当地に、わけあって浜空神社が遷座。

昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。追浜空犠牲者を合祀。

浜空に関しては、「 横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策 」にて記載あり。

この界隈は、夏島と海軍航空技術廠の残存建物などが未訪問。
はやいところ訪れないと。
宿題です。