平成28年6月撮影
目次
位置関係
野島(掩体壕)
夏島(掩体壕・地下壕)
貝山(海軍航空発祥之地記念碑・甲種予科練鎮魂之碑・予科練誕生之碑)
位置関係。
日産工場が滑走路界隈。
野島
シーサイドライン野島公園駅。野島後方には夏島が見える。
この夏島周辺が「横須賀海軍航空隊」(横空・追浜空)の展開されていた地区。
野島には横空の掩体壕があるのだ。 案内地図に記載ないけど。
遠くに見えるのが夏島。手前に滑走路が広がっており、野島とは橋で繋がれていた。現在、橋はない。
野島
野球場の右奥にフェンスと穴が。これが「野島掩体壕跡」。 この「野島の掩体壕」は野島山の東西を貫通し全長は260m。海軍小型機100機を格納する計画で、現存掩体壕の中でも国内最大規模とされている。
野島の掩体壕
野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。
この掩体壕は、標高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入口があります。
出入口の部分は、幅約20メートル、高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部は、幅約10メートル、高さ8メートルで、素掘りの状態です。
作業に当たった横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約い100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでした。
通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。
第三〇〇設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊司令部地下壕や松代大本営地下壕(長野県松代町)などの建設にも加わっていました。
平成22年3月 横浜市
野島掩体壕跡
正直、大きすぎて今まで見てきた「掩体壕」の概念では測りきれない。 だって通常の掩体壕は航空機1機ですよ。野島と夏島の掩体壕で100機ってねえ。 ちなみに出入口部分は幅約20m、高さ7m。
貫通しているので反対側にまわってみましょう。今度は海側から開口部を見てみます。
野島公園。
さて、野島の頂上に向かってみます。掩体壕が東西に横断してトンネルのように掘られた野島山の頂上には展望台が設けられています。
野島公園。
野島山の頂上より、夏島方面を望む。
横須賀海軍航空隊(横空)・追浜海軍航空隊の滑走路などは、この方面に展開していた。
野島から夏島を望む。夏島には貝塚もあり古代から人々の営みがあったことがわかる。
いまは工場地帯、ちょっと前は海軍航空隊基地・・・そう考えると変遷が感慨深く。
野島稲荷神社
野島稲荷神社。 野島総鎮守。
海軍よりも古くからの社。良い感じの稲荷様でしたのでちょっと見ていきましょう。
野島山南側鎮座。伏見稲荷系統。
安貞元年1227に阿波守長島維忠発願により子の修理佐頼勝が造立。
万治年間(1658~1660)野島浦南端に紀州大納言徳川頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称した。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にありそのため鬼門の守り神として頼宣公の篤い尊信を受け社殿造営にも力を尽くしたとされている。
手水に狐様がいらっしゃいます。 この手水舎の雰囲気、好きですねえ。
石段両脇にも狐様。これは良い稲荷様。
境内社は船玉社、他。船の守り神、航海往来の守り神。緑に覆われた岩山が垂直に切り立つ。
海軍航空基地近くの鎮守様。 往時の軍人たちもきっと参拝したであろうことを夢想しつつ拝するひととき。
伊藤博文金沢別邸
野島には「旧伊藤博文金沢別邸」がある。明治31年(1898)に建設された茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築、とのことで。 東京からもほど近く、富岡金沢の地は明治期に海浜別荘地として人気だったそうで。
野島の「旧伊藤博文金沢別邸」。建物の老朽化が激しかったことから平成21年に復元修復工事が行われている。
野島も貝塚があり、古代から脈々と人々が営んでおり、こうして色々な歴史が交差しているのも興味深い。
貝山へ向かいます。
バスは磯子駅か追浜駅か田浦駅か。どれでも良さそう。
だいたい15分から20分に1本程度の輸送密度。
貝山緑地
現在は工場エリア。
この貝山緑地と夏島貝塚のみが異質な空間。
貝山緑地・夏島貝塚。
この西側、現在は日産の工場エリアには「横須賀海軍航空隊」「海軍航空技術廠」「追浜飛行場」「追浜海軍航空隊」が展開され「海軍航空発祥の地」となる。
ただし、今回の探訪は貝山緑地だけ。夏島は未訪問。
予科練誕生之地記念碑 甲飛鎮魂之碑 入口
このあたりは貝山地下壕も展開されていた。※非公開
追濱神社社号標
入口脇には「追濱神社」社号標が残る。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊・追浜飛行場での犠牲者を祀る追濱神社がこの地にあった。
現在は追浜雷神社境内の「濱空神社」(横浜海軍航空隊神社)ともども祀られている。
横須賀海軍航空隊
もともとこの地は横須賀海軍航空隊の地。
追浜海軍航空隊が正式に制度上で展開される以前から、この部隊は追浜飛行場・追浜海軍航空隊と呼称しており、横空(横須賀海軍航空隊)と追浜空(追浜海軍航空隊)は同じ意味を持つ場合もある。 ややこしい。
「整備科航空予備学生」が昭和13年以降に横須賀海軍航空隊で展開。
その教育は追浜飛行場で実施。
開戦に伴い横空は遠距離哨戒任務に就き教育任務をする余裕がなくなった為、整備科航空予備学生教育は、独立した追浜空に機体整備、洲ノ埼空は兵器整備と分散。
横須賀海軍航空隊・横空
↓分遺
追浜海軍航空隊・追浜空
相模野海軍航空隊
横浜海軍航空隊・浜空
館山海軍航空隊・館空
↓分遺
洲ノ埼海軍航空隊・洲ノ埼空
予科練
海軍予科練習生は昭和5年に横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊したことにはじまる。
昭和12年に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度が創設され、従来の制度は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。
昭和14年3月1日に横空から霞ヶ浦海軍航空隊に予科練は移設。
予科練1期生から10期生までは横空。
11期生以降は霞空、そして13期以降は土浦空そのほかで大量採用となる。
予科練誕生之地
海軍予科練習生制度のはじまり。
霞ヶ浦湖畔にうつるまで、この横須賀追浜飛行場の地で若き海鷲たちは育っていったのだ。
予科練誕生之地
光る海 明るい太陽の下 大空をこよなく愛し国を想うひとすじの少年たちが溌剌としてここに溢れていた
昭和5年6月1日 横須賀海軍航空隊内の一隅に海軍少年航空兵の教育機関として横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し やがて予科練と愛称されるようになった
志願者の年齢は15歳から17歳 修業年限は3ヶ年 俊秀なる大空の有志は英才の早期教育に俟つとの観点に立ってこの制度は創設され全国5900余名の志願者から厳選された79名が第一期生としてここに入隊した
土浦 三重 鹿児島などのちには19を数えるに至った予科連航空隊の萌芽である
時局の進展につれて海に臨み山を負うこの地は狭小となって昭和14年3月霞ヶ浦湖畔に移り翌年独立して土浦海軍航空隊となった
予科練の歴史15年3ヶ月のうち実に8年9ヵ月はここ追浜の地で教育活動が行われたのである
そこで目指したものは鉄石の訓練をものともせず乾いた砂が水を吸いこむようにあらゆるものを純粋に受け入れて自らを育てていった 予科練を巣立った若人たちは飛行練習生教程 実用機練成教育と研鑚を重ねてたくましい若鷲と育ち太平洋戦争に於ては名実共に我が航空戦力の中核となり水陸の基地から航空母艦から戦艦巡洋艦或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが戦局利あらず敵の我が本土に迫るや特別攻撃隊員となり名をも命をも惜しまず一機一艦必殺の体当たりを決行し何のためらいもなく無限の未来を秘めた蕾の花の生涯を祖国防衛の為に捧げてくれたのである
顧みれば少年たちは戦いを求めてこの地に集まったのではなく制空護国の一途の念いからであった
予科練誕生以来既に五十一星霜 若人たちの至純の赤心が祖国の安寧と世界平和の礎となることを祈念して旧学び舎の丘の上にこの碑を建つ
昭和56年6月1日
此の地に学んだ生存者一同
撰文 倉町秋次
書 鈴木忠正
予科練誕生之地
予科練とは海軍飛行予科練習生の略称にして海軍少年航空兵とも別称す。
昭和5年6月1日第一期生入隊以来、昭和14年2月第十期霞ヶ浦に移るまで、全国より運ばれたる少年此の地に集い学び此の地を巣立ちて日夜猛訓練の中に技倆を磨き、やがて日支事変勃発するや中国の空に第二次世界大戦においては南海の空にと、唯々国の為同胞の為にと信じて各地に
勇戦敢斗嚇々たる武勲を残してその大多数が大空に散華す。
我々不思議に命永らえたる生存者一同 、今は亡き同窓の英霊を偲びて、
思い出の此の地追浜神社跡に建碑す。
即ち予科練誕生之碑也。
昭和56年6月1日
予科練一期生より十期生まで生存者一同
貝山緑地「予科練誕生之地」の反対側。
海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑
桜に錨。
若き海鷲の飛び立つよすがを偲び。
敬意を。感謝と哀悼を。
頭を下げ、黙する。
海軍甲種飛行予科練習生
鎮魂之碑
碑文
昭和12年国際関係が悪化し国防が最重要視される頃、海軍では航空機の発達と共に、今までの大艦巨砲主義から航空機へと思考を変え、航空機搭乗員養成を急務とした。
高度な飛行技術と強靭な肉体を求められる搭乗員は、心身共に優秀な青少年を求めた。
ここに、甲飛即ち海軍甲種飛行予科練習生制度が誕生した。
昭和12年9月1日全国の中等学校から厳選された250名が第一期性として横須賀海軍航空隊に入隊した。
以後太平洋戦争の激化に伴い以後太平洋戦争の激化に伴い最終の第16期生まで13万9720名もの青少年たちが、国を護るために各地の航空隊の門をくぐった。
しかし、戦局の悪化により大空の果て、海原のそこに散った甲飛の御霊は、実に6778柱にのぼる。
その中の一人は次の歌を残して散華した。
血潮もて 茜と染むる 悔ゆるなし
雲を墓標の 空の御楯は
私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して私たちは国家危急の折、救国の大義に殉じられた多くの同窓の御霊の冥福を祈念するとともに、甲飛の歴史の伝承と我が国の永遠の平和を念願して、ここ甲飛発祥の地横須賀に、この碑を建立する。
平成9年11月2日
甲飛生存者有志
遺族一般賛同者有志
「鎮魂之碑」の隣に移動してきた記念碑がある。
海軍航空発祥之地 記念碑
こちらは戦前(昭和12年)に作られた記念碑のため、より一層に格調高い。
海軍航空発祥之地 記念碑
明治四十五年 始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追浜ニ卜シ 東西二百米 南北六百米ノ地積ヲ画シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日 海軍大尉河野三吉 カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 同六日 海軍大尉金子養三モ亦 ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス
是実ニ帝国海軍飛行ノ嚆矢ナリ 今茲ニ 碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ 以テ記念ト為スト言フ
昭和十二年十一月三日
横須賀海軍航空隊
海軍航空発祥之地 記念碑 案内
右に夏島 左に野島を望見し、海に向かって延びていた滑走路をほうふつさせるこの台地は、もと横須賀海軍航空隊の一部であり、ここには同隊の殉職者を祭った 追浜神社や気象観測所があった。
1912年、 同隊において実施された「日本海軍の初飛行」を記念して、当初の碑は1937年、この台地の下、最古の飛行機格納庫跡に建てられたが、戦後破壊された。
この碑は1956年、海空会によって再建されたものであるが、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、周辺の敷地一帯が国より株式会社ナブコに払い下げられたため、工場内に保存されることになった。
戦後50年目の1995年、この碑は関係者により、公共の場所である現在地に移設復元された。
貝山緑地を登る。
頂上の展望台に行ってみましょう。
由来はわからないが、あんずが遊歩道の両脇に植えられおり、たわわに実を蓄えていた。 ※勝手な収穫は禁止されております。。。
貝山緑地頂上の展望台。
夏島方面は…樹木で視界が。追浜飛行場はこの方向に展開されておりました。
ハイカラな建物は横須賀市リサイクルプラザ・アイクル。
沖には海自の海洋観測艦「わかさ」が見えました。
貝山緑地。このあたりは海軍の砲台の跡地という。
地下壕もゴロゴロしているが非公開なので、見える範囲で往時を偲ぶ。 また周辺では海軍時代の建物が現在も民間にて使用されているが今回は時間都合で立ち寄らず。
追浜の雷神社
追浜の雷神社。 (いかづち神社・かみなり神社)
御祭神は火雷命 創建は承平元年(931)と伝承。
天正9年(1581)に現在地に遷座。
御神木を見上げれば、これは黄葉の季節に再訪したくなるほどに見事な銀杏。
朱色を軸にしたバランスが美しい。
良き空間。
先述したように追浜は横須賀海軍航空隊・海軍航空技術廠の地。
いわずもがなで海軍との縁も深い。
奉納された絵馬は海軍に関係する話題も多い。
(著作権的な観点からモザイク処理しました)
浜空神社
境内には「浜空神社(濱空神社)」が鎮座。
浜空とは横浜海軍航空隊。
横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた当地に、わけあって浜空神社が遷座。
昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。
昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。
平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。追浜空犠牲者を合祀。
浜空に関しては、「 横浜海軍航空隊(浜空)と飛行艇の名残散策 」にて記載あり。
この界隈は、夏島と海軍航空技術廠の残存建物などが未訪問。
はやいところ訪れないと。
宿題です。