「新潟県」カテゴリーアーカイブ

長岡空襲の慰霊巡拝と長岡史跡散策

新潟県長岡市。
長岡は、2度の戦災で焼失をしている。戊辰戦争と太平洋戦争。
そして、太平洋戦争では、新潟県下で最大の被害をだしている。
長岡空襲の鎮魂巡礼をさせていただきました。
(ただし、時間の関係があり、すべての慰霊碑を網羅しておりません。)

以下、戦跡と碑石と墓所の散策。


長岡空襲

昭和20年(1945年)8月1日の午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。
1時間40分にわたり、新潟県長岡市の中心部市街地を標的に、125機のB-29によって925トン焼夷弾が大量に投下され163,000発あまりの焼夷弾が長岡市に降り注いだ。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1,488人の市民が死亡した。罹災戸数は11,986戸にも及ぶ。

総務省>

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_02.html


長岡市>

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/kuusyu.html

長岡は、山本五十六の出身地でもあり、長岡空襲の爆撃中心点は、結果として山本五十六の生家の近くの明治公園であった。

以下、関連する史跡を散策。


長岡戦災資料館

資料館がある。まずは、事前情報として、最初に足を運ぶことをお勧めます。
(私は、時間の制約があり、最後に見学でしたが)

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/siryoukan.html

場所

https://maps.app.goo.gl/ewx8wxgYAQT5jyFV6


長岡空襲爆撃中心点の碑(明治公園)

山本五十六生家の山本公園の近くにある明治公園。
ここが、長岡空襲の爆撃中心点であった。

長岡空襲爆撃中心点の碑
米軍は、昭和20(1945)年6月に長岡地域を空撮し、リト・モザイクと呼ばれる精密な航空写真を作成した。そこに爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(約1.2km)の円を描き、その円の中心点を狙って爆撃する作戦をとった。その地点がここ明治公園にあたり、長岡空襲における爆撃中心点である。
同年8月1日の長岡空襲では、この作戦に基づき125機の米軍爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下した。それにより市街地の8割が焼け野原となり、現在わかっているだけで、1,486人の尊い命が失われた。
長岡空襲の史実を後世に継承し平和の尊さを伝えるため、ここに碑を建立する。
 平成28(2016)年8月1日
  長岡市

長岡のリト・モザイク(米国立公文書館所蔵)
記された円は確率誤差円といい、米軍は円内に着弾する確立を50%と見込んでいた。横軸070縦軸073の交わる位置が爆撃中心点である。
赤い線はB29の侵入経路であり、南西から北東へ飛行した。

明治天皇行在所御遺蹟(明治公園)

明治公園は、明治天皇が巡幸の途中に立ち寄った場所が由来となっている。明治天皇の北陸巡幸は1878年(明治11年)のことであった。

明治11年9月22日
明治天皇行在所御遺蹟
子爵牧野忠篤謹書

牧野忠篤は、旧越後長岡藩牧野家15代、貴族院議員。
忠篤は戊辰戦争で山本義路(帯刀)が戦死し無嗣となった旧長岡藩の家老山本家を、当時海軍勤務であった高野五十六少佐に家督継承させて再興するよう働きかけをして実現させている。

野本互尊胸像(明治公園)

明治公園には、互尊文庫(図書館)がある。
創設者・野本恭八郎(野本互尊翁)

野本互尊(恭八郎)は、教育者として互尊独尊の言葉を残し、山本五十六をはじめ、長岡出身の人物に大きな影響を与え、陽明学者の安岡正篤とも深い親交があった。
また、11月3日を文化の日(旧明治節)とし、富士山を国立公園とする活動も行っていた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ED7dYVrYvGvCgwcr5


戦災殉難者之墓(昌福寺)

長岡空襲に際して、身寄りが分からない遺体は合同で荼毘に付されましたが、遺骨の埋葬場所はなかなか見つからなかった。そうしたなかで、昌福寺が埋葬場所の提供。
1945(昭和20)年9月に遺骨はようやく埋葬された。そして、1947(昭和22)年9月には、市民の寄附により墓碑が建立された。

戦災殉難者之墓

昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う

合掌

鵜殿春風の墓(昌福寺)

鵜殿団次郎(鵜殿春風)
幕末期の洋学者。蕃書調所教授。諱は長養、号は春風。

鵜殿春風の墓
 長岡藩士の鵜殿団次郎は天保2年(1831)生まれ。春風と号した。
 幼いころ神童とうたわれ、江戸に遊学し、蘭・英の学を修めた。数学・測量学に優れ、幕府の蕃書調所で数学を教授した。
 勝海舟をたすけて、西郷隆盛との交渉の間にたち、江戸開城を成功させた。
 長岡藩開戦後、急いで帰郷したが、病のため、明治元年(1868)38歳で没した。
 著書に「万国奇観」などがある。
 長岡市教育委員会

昌福寺
戊辰戦争では負傷者を手当てする軍病院としても機能した。
戊辰戦争戦後間もない明治2年、米百俵で有名な小林虎三郎が焼失を免れた昌福寺の本堂を借りて学校を開校している。
「長岡国漢学校発祥之地碑」が門前にある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kJC4Gcwmbio2VYPo8


河井継之助の墓(栄凉寺)

河井継之助の墓
 文政10年(1827)1月1日、長岡城下同心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
 河井家の禄高は、120石であったが、その才腕を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
 北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、慶応4年(1868)8月16日、会津塩沢で陣没した。
 長岡市教育委員会

河井家の墓は此處
忠良院殿が継之助様であります

墓石がいくつかあるが。

ひときわ、ぼろぼろなのが、河合継之助の墓と思われる墓石。
長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒された墓石という。

牧野家代々の墓(栄凉寺)

栄凉寺は、長岡藩牧野家の菩提寺でもあった。

二見虎三郎の墓(栄凉寺)

河井継之助が長岡藩の運命を決めた小千谷談判に随行した唯一の長岡藩士。

戦歿者供養塔(栄凉寺)

明治戊辰戦争以降太平洋戦争終了迄の戦歿者を合祀。

合掌

栄凉寺

場所

https://maps.app.goo.gl/s9Ta2dase21kZo8b7

この日は、河井継之助記念館は休館日でした。。。

まあ、長岡はまた来ると思います。

撮影:2023年9月


長岡空襲関連史跡について

長岡市サイトをベースに散策するのをおすすめします。

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/sensai5.html

①模擬原子爆弾投下地点跡地の碑(左近町、永代橋付近)
②柿川戦災殉難地の碑(柳原町、柳原公園)
③戦災殉難者慰霊塔(表町1、平潟公園)
④平和像(本町3、平和の森公園)
⑤長岡空襲爆撃中心点の碑(坂之上町3、明治公園)
⑥戦災殉難者之墓(四郎丸4、昌福寺)

1番から4番まで、まだ巡礼できていません。。。
機会あれば、再訪します。


関連

「聯合艦隊司令長官・山本五十六」由縁の地を巡る(長岡)

長岡に赴く機会があった。
長岡といえば、山本五十六。せっかくなので、山本五十六元帥ゆかりの地を巡ってみる。


山本五十六

新潟県長岡出身。
旧姓は高野(たかの)。
海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。
海軍兵学校では、同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。

昭和18年4月18日、ソロモン諸島前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。
日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物。


山本元帥生誕記念公園

山本五十六元帥の生家を復元し、記念公園として整備してある。

山本元帥誕生地

山本五十六は、1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生した。
当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と命名された。

山本元帥生誕記念公園記
 山本元帥は長岡の生んだ最大の偉人であるばかりでなく、明治・大正・昭和の三代に於ける日本の代表的偉人である。偉人は遠い處にあるのでなく、他にあるのでなく、我の中にある。誰れもの各個の性質の中にそれぞれ偉人の素質に存している。こゝに来り集まる青少年達よ、大人達よ、この人に學び、この人に倣え。然らば則ち亦偉人となることが出来よう。偉人とは自ら謙虚にして堅忍不抜、自らを人の中に置き、人のために、社會のために、國家のために捧げる人である。これが自らを大に生かす所以である。
 元帥は明治十七年四月四日、この地で、舊長岡藩士高野貞吉六男として生れた。時に貞吉五十六歳であった。後年赫々世界歴史上にその偉大さをうたわれた聖将山本元帥その人であった。長岡の歴史、山川、風土が元帥の修養努力と相待って、その人格と地位とを作り上げたのである。
 元帥の学んだ阪之上小學校、長岡中學校もこゝから近い。青少年達よ、この偉人に續け。元帥は自ら處すること嚴に他を處すること寛であった。自らを捧げて他を大ならしめる山本精神はこゝで生れたのである。
 こゝに我が景仰會が元帥の胸像を安置して、その誕生地を記念し、後進子弟の奮起を待つ所以である。
 昭和33年11月3日
 山本元帥景仰會

山本元帥生誕の地
 提督山本五十六は、明治17年(1884)、旧長岡藩士の髙野貞吉の六男に生まれた。
 高野家は代々儒官と槍術指南役をつとめ、質素倹約の生活を家風とした。
 五十六は海軍兵学校にはいり、大正五年、迎えられて旧長岡藩家老・山本家の名跡を継いだ。海軍次官を経て、連合艦隊司令長官。
 昭和18年(一九四三)太平洋戦争において戦死、元帥の称号をうけた。
 生家は戦災で焼失し、後に復元した。
   長岡市教育委員会


山本五十六胸像

山本元帥の胸像。

胸像は、昭和23年、霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したもの。

もとは、山本五十六の戦死後の昭和18年12月に作られ、霞ヶ浦航空隊に設置されたコンクリート製の全身像。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。
この地のブロンズ像は、胸像部分を鋳直復元したもの。

また、現在、陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内の予科練記念館前に建っているものは、戦後の平成16年1月に作った新しいブロンズ像となる。

以下は、土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。(2023年4月撮影)


山本五十六の生家

山本元帥生誕の地 
 山本元帥は、長岡藩士の髙野貞吉の第六男としてここに生まれ、のちに海軍兵学校にすすみ、少佐のとき長岡藩家老山本家の名跡の絶えるのをおそれ迎えられて山本家を継ぐ。
 大東亜戦に壮烈な戦死を遂げられ元帥府に列し、特に元帥の称号を賜る。ご生家は昭和20年の戦災で焼失したので、これを復元し、ここを山本記念公園と命名した。
   長岡市教育委員会

石膏の山本元帥の胸像。

山本五十六の手紙。
昭和17年に、相馬御風に送ったもの。相馬御風も山本と同じく新潟の出身(糸魚川)

位牌。

大義院殿誠忠長陵大居士

「長陵」は生前の山本が用いていた雅号

常在戦場

越後長岡藩・牧野家に代々伝えられてきた家訓。長岡藩の藩風・藩訓でもあった。

手前の左端に写っているのが、山本五十六であろうか。

山本五十六の手紙

終戦の詔

真珠湾攻撃の電文

手紙

便所

台所

廊下

階段

山本五十六の勉強部屋(二帖部屋)

部屋から、胸像がよく見える。

場所

https://maps.app.goo.gl/FCZ58Kcnn393ncAEA


山本五十六記念館

1999年に開業した山本五十六記念館。

http://yamamoto-isoroku.com/

山本元帥御愛育の名木「唐楓(とうかえで)」
 この楓は、山本五十六が鎌倉在住の頃に自ら買い求め、以後、大切に育てられていたものである。
 昭和14年、海軍次官官舎より青山の自宅に転居する際には、「その楓は、もとから官舎にあったものじゃないから持っていこう」と移しかえたという逸話が残っている。
 南青山の旧山本邸は、都市開発の関係で取り壊されたが、その際に有志により一旦移植され、丹念に生育された後、平成22年秋に山本五十六記念館に寄贈されたものである。

館内は撮影禁止。
下記のサイトで360度パノラマビューできる。

https://360vrpanorama.jp/yamamoto-isoroku/hall.html

見どころは、「一式陸上攻撃機・長官搭乗機の左翼」

昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。

展示品

山本五十六記念館展示図録を購入しました。

場所

https://maps.app.goo.gl/o2w5Ss1LadW8FNjv5


山本五十六墓所(長岡・長興寺)

山本家の墓所。
長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) 

山本家の墓
 長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々、藩主牧野氏に仕え、政治、文政に尽くした。
 特に老迂齋精義(ろううさいきよよし)は、名家老と称賛され、歴代の藩主を五十年にわたってよく助けた。幕末、帯刀義路(たてわきよしみち)は、北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
 山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官として、近代戦を指揮したが、昭和十八年四月十八日、南冥に散華した。
 長岡市教育委員会

山本家の墓。中央に山本五十六の墓石。左隣りに山本帯刀。

大義院殿誠忠長陵大居士

大正六年五月十九日 越後長岡 山本五十六

五十六 昭和十八年四月十八日於南太平洋戦死享年六十歳
十三 大義院殿誠忠長陵大居士 

最後の山本五十六の墓誌は、長男の山本義正氏が追記したもの。

旧長岡藩家老の山本家墓誌は山本家を相続した山本五十六によって記されています。
平成十六年(2004)十月二十三日の中越地震で崩壊した墓碑の改修にあたり父の戒名を加えて建立しました。
 平成十九年(2007)四月十八日
  山本義正

山本家の家紋は、左三つ巴紋

長興寺

場所

https://maps.app.goo.gl/dwNtciK67PvKwXAs5


山本五十六墓所(多磨霊園)

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

※2015年2月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …


阪之上小学学校(長岡町立阪之上尋常小学校)

山本五十六は、明治23年(1890)4月、長岡町立阪之上尋常小学校)現在の阪之上小学校)に入学している。


新潟県立長岡高等学校(古志郡立長岡尋常中学校)

山本五十六は、明治29年(1896)4月、古志郡立長岡尋常中学校(旧制新潟県立長岡中学校)に入学。
正門は、国の登録有形文化財(建造物)、大正5年(1916)建立なので、山本五十六よりも新しい。


長岡駅

明治31年(1898)に開業。

昭和18年(1943)4月18日、一式陸上攻撃機に搭乗し前線視察中、パプアニューギニア ブーゲンビル島上空で米軍機の攻撃を受け山本五十六は戦死。
およそ一か月間極秘事項として伏せられ、5月20日、堀悌吉により山本家に五十六の訃報が伝えられる。
翌21日午後3時、大本営発表。
国民には新聞やラジオ報道を通じて「元帥府に列せられ国葬を賜う」と知らされた。
6月5日、東京麻布の水交社を出発した葬列は日比谷公園に到着、盛大に国葬は営まられた。
6月7日、長岡駅に到着した山本の遺骨は、多くの市民に見守られ菩提寺長興寺の山本家墓所に納められた。

※撮影:2023年9月


関連

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊

多磨霊園

12月8日

米内光政

井上成美

ドン山の大砲(新潟)

新潟県新潟市中央区。
日本海沿いに広がる新潟市内最大規模の海浜公園「西海岸公園」。
その公園に「ドン山」と呼ばれる小高い一角がある。
「ドン山」の名前の由来は、全国各地で作られた午砲台(正午の時報代わりに、空砲を打っていた場所・午砲山)と、そこに据えられていた大砲に由来し、いまもドン山の大砲が復元されている。

ドン山の大砲

ドン山の由来
 時計が現在のように普及していなかった明治、大正時代に、新潟では大砲で空砲をうち、人々に正午を知らせていました。
 これは、明治6年から大正13年までの52年間続きました。
 明治5年以前の新潟の人々は、現在の第四銀行本店のところにあった町内会所の中の和時計をもとに、2時間ごとに打ち鳴らす鐘を聞いて時を知りました。
 時計のなかった当時としては、明け六つの鐘、暮れ六つの鐘などと呼ばれ、人々にとって重要なものでした。
 明治6年、旧暦から新暦に改められたことを契機に、同年6月15日から寄居砂山(現在の旧新潟大学理学部跡)の白御影石を積んで木柵をめぐらした小高い丘の上に、六角形の白い番小屋と車輪のない大砲を据え付け、空砲をうって正午を知らせました。
 この大砲の音は、風向きによっては遠く新発田まで聞こえるほど大きな音であったため、新潟の人々はもちろん近郊の村々でも正午を知ることができ、重宝がられ、ドン山といわれて人々に親しまれていました。
 大正8年、この場所に新潟高等学校が建設されることになり、ドン山はやむなく二葉中学校のこの地に移転し、大正13年の午砲が廃止されるまで続きました。
 砲先は、はじめ市街地の方向に向けられていましたが、打つのドーンとものすごい音がしたため、新しく建てられた二葉中学校の勉強の支障となるということで、大正10年頃、海に向けられました。
 大正13年の新潟新聞によると、明治6年から明治38年まで車輪のない大砲を使用し、明治39年には、八木朋直氏の寄贈による車輪のある大砲に取り替えられ、廃止される大正13年まで使用されたということです。
 廃止後、その保存のため初代大砲は白山公園内に設置され、その後大円寺公園に移設されました。2代目大砲も大円寺公園に存置され、昭和18年頃まで保存されていましたが、両方とも戦争のため其の姿を消してしまいました。
 新潟市公園水辺課
 西土木事務所

大砲について
 このたびのドン山に据えられた大砲の復元は、確かな資料に乏しく、不明な点が多くありました。
 明治・大正時代の新聞・国会図書館・自衛隊武器学校での調査、郷土史家の意見などを参考といたしました。
 その結果、明治42年の雑誌「新潟交友」、大正13年の「新潟新聞」から、ドン山の情景、大砲の大きさ、大砲の打ち方などを把握することができました。
 大砲は、明治初期、陸軍で使用していたもので、前装式(弾薬を砲口から装填する)でり、当時、フランス製の大砲を模して国内で制作したと推測されました。
 さいわい、国立国会図書館で当時の「欧州諸国現用野山砲兵附図」を収集することができました。
 その中から、フランス製の大砲を基本として、ドン山をイメージ復元したものであります。

ドン山から望む日本海。

西海岸公園

場所

https://maps.app.goo.gl/Y9uwBxj7rLrXy7pH9

撮影:2023年10月


関連

新潟縣護國神社

新潟縣護國神社

平成30年12月参拝

明治元年10月29日、新潟市常盤岡(現在の新潟大学医学部)に「招魂社」を建立。
明治8年に新潟招魂社と改称し昭和14年に「新潟縣護國神社」と改称。
戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者79700余柱を祀る。

参拝を

御由緒と御写真と

亡き戦友の顔
 陸軍少尉 田沢清作命
  昭和19年9月30日
  テニアン島にて戦死
  新潟県中蒲原郡村松町出身 31歳

笑つてゐるこの写真!
やるだけ俺はゆつたんだと
笑つてゐる 写真
あこがれの桜花と散つたよと
笑つてゐる写真
これで俺の一生は意義があつたんだと
笑つてゐる写真
あとの大東亜は貴様らに頼むぞと
笑つてゐる写真
靖國神社で待つてゐるぞと
笑つてゐる写真
神様になつた戦友の
この写真!

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

新潟縣護國神社
明治大学戦没学徒忠霊殿

近代日本における対外戦争50年余の間、
明治大学関係者は多数の戦没者を出した。
その数は分かっていない。
太平洋戦争敗戦の際、混乱のなかで奉納の
戦没者名簿が紛失したといわれるが、その数は
学徒出陣を中心に、2000名余とも3700名余とも云われる。
1939年に大学は戦没者記念碑として「忠霊殿」を建立した。
これは駿河台旧図書館(現研究棟前)内に
置かれ、毎年7月10日に慰霊祭を行ってきた。
太平洋戦争の戦没者も合祀され、
1950年、関係者の尽力により
新潟縣護國神社に移され、
明治大学校友会新潟支部(現新潟地域支部)が
主体となって例祭を行ってきた。
このたび、護國神社の御厚意により、
同本殿脇に「明治大学戦没学徒忠霊殿」が新たに
建立されたのを機に、 この間の経緯を記し、
世界平和を願い永遠の追悼を誓うことになった。

2007年6月 明治大学

御朱印を頂戴いたしました。
「不易流行」「温故知新」「敬神崇祖」の三文字から添言葉を選んで下さいということで、迷いなく敬神崇祖を。

建屋写真は「斎館」「社務所」「迎賓館TOKIWA」

新潟縣護國神社
平和の礎

昭和43年建立 中央に「護國の塔」
頭の前の大理石で「平和」を表し、右の女性は「祈り」、左の男性は「誓い」を表している。
この碑は過ぎる大戦において祖国の平和と郷土の繁栄を念じつつ散華された新潟県関係者の軍人軍属在外邦人及び内地戦災者のみたまを慰めている。

平和の礎

…われわれは、この尊い礎に対し感謝の誠を捧げるとともに平和への思いを新たにし明るい豊かな郷土の建築に邁進することを誓うものであります。 願わくば秋風薫るこの丘を、みたまのこよなき憩の場とされて安らかに静まりますよう祈念いたします。(略)

新潟護國神社の慰霊碑群は石垣で一段高くなった参道の脇に林立している。
ゆえに碑の裏面に回り込むことが出来ず、でした。

軍馬の霊を慰む
新潟県軍馬慰霊碑保存会

鎮魂

第十三師団歩兵第百十六連隊第七中隊 戦友会
平成元年五月吉日

歩兵第116聯隊は新発田にて編成。
主に中国大陸に展開し徐州会戦・武漢作戦・襄東作戦などに参戦。そのまま中国大陸で終戦を迎えている。

戦没犬慰霊碑

大陸に
 訓え育てし
  愛犬の
英姿しのばん
 霊よ
  安かれ

平成二年四月
元関東軍軍犬育成所 所員一同 建立

献燈
元関東軍軍犬育成所所員一同 戦没犬慰霊碑保存会員一同

近衛歩兵第二聯隊軍旗拝受百周年記念碑

第三十代近衛師団長 飯田貞固書
昭和四十九年八月 近歩二会新潟県支部 建立

近衛歩兵第2聯隊は明治7年(1874年)軍旗拝受、昭和49年(1974)が100周年。
飯田貞固は最終階級が陸軍中将。新潟県出身。昭和16年予備役。

陸軍少年飛行兵新潟出身戦没者
慰霊の碑

内閣総理大臣 中曽根康弘 書
昭和60年11月建立

戦いが終わつて此処に40年
死んで行った友の霊を弔う
生き残りの戦友たちの
悲しくて強い
平和への願いが何時までも
消える事の無い様に
悲願の碑となった
戦友並びに御参加皆様方の
御芳名を刻んで以て
後世にその志を残さんと
欲したのであるが許されず
心残りである

野戦重砲兵第十五聯隊之碑

詳細は不明。副碑として記念碑建立募金者名もある。

新潟縣護國神社
予科練鎮魂之碑

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

新潟県出身の海軍飛行予科練習生戦没者鎮魂碑
予科練鎮魂之碑保存会・昭和63年建立

鎮魂慰霊之碑

平成7年終戦50周年記念
新潟県海交会

新潟出身で戦没なされた海軍軍人軍属などの慰霊碑

※海交会、海友会、水交会はそれぞれ別組織であるが、海軍関連団体として合同で活動することも多い。水交会は全国11支部しかない為、地区によっては海交会が地域密着で中心団体となることが多い。

流雲碧空

白鴎遺族会新潟県支部・海軍飛行予備学生生徒有志
平成9年建立

…祖国日本の平和と愛する人々の幸せを祈り学窓から敢然と大空の決戦に挑み勇戦散華された本県出身の海軍飛行予備士官及び当支部の発展に寄与された物故戦友の慰霊と顕彰の為生存同期生有志が建てたものである

元歩兵第116聯隊
第2中隊の樹 植樹記念碑

平成3年4月15日建立

三つの祈
一 先の大戦で散華された戦友の御霊安らかに
二 祖国の復興に尽くし病没された戦友の冥福を祈る
三 風雪に耐え幾山河越え来りし戦友の健康長寿を祈る

元歩兵第百十六聯隊
第三中隊慰霊碑

平成五年八月十五日 歩兵第百十六聯隊は新発田にて編成。第十三師団所属。

慰霊塔 近衛歩兵第三聯隊 新潟

近衛歩兵第三聯隊は明治18年(1885)に編成。兵営は赤坂。

慰霊之碑

ソ連抑留本県出身者166人の慰霊碑
財団法人全国強制抑留者協会新潟県支部慰霊碑設立委員会
平成5年建立

第2次大戦は日本のポツダム宣言受諾により終戦となったが連合軍の一員であるソ連軍のみは宣言を守らず60余万人の奨兵を強制抑留し極寒のシベリアで数年間に及び苛酷な重労働を強制し、飢えと寒さのなか遂に力尽き祖国生還の希いも空しく本県出身者1600余名は無念の死を遂げた 辛うじて生還し得た私達はシベリア抑留死没者の冥福を祈り 再び戦争のない世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する

解散記念碑 

新潟県傷痍軍人会 新潟県傷痍軍人妻の会 平成25年建立


戊辰役殉難者墓苑(戊辰霊園)

戊辰戦争での新潟での犠牲者を祀る墓苑。
薩長の主力は明治元年4月に柏崎・小千谷を占領し、7月に長岡藩を攻略。新潟は戦場とかし西軍(薩長)と東軍(米沢・会津・庄内藩)双方に多くの犠牲者を出した。 この墓苑では東西両軍の区別なく祀っている。

戊辰役東軍慰霊碑
戊辰薩藩戦死者墓(松方正義書)
御親兵十津川隊 戊辰役戦歿者招魂碑
大洲藩船殉難者慰霊

慰霊碑

昭和60年に新潟大学医学部(元招魂場跡地)から発掘された戊辰の役戦死者遺骨92柱を埋葬。

「戊辰役殉難者墓苑」(戊辰霊園)

満州開拓殉難者の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

昭和34年8月15日建立

国策の名のもと国家の勧奨に基づき民族協和と新しい村作りに挺身してきた満州開拓青少年義勇隊報国農場員等が昭和20年8月9日戦局の急変に遭い爾来銃弾に病魔に飢餓に酷寒に続続と斃れ遂に異境の土と化した者実に5千まことに痛恨極まりないところである ここにこれ等殉難の霊を慰め永遠の平和を祈願してこれを建てる
 昭和34年8月15日
  新潟県開拓民自興会

綏芬河の碑
 戊辰役殉難者墓苑内

我等は国策により、新潟県郷土中隊として、昭和十八年六月、山崎喜三治隊長以下三九九名が綏芬河義勇隊訓練所に入所。
昭和二十年八月七日、ソ連軍が侵攻し、九日に無防備無抵抗の隊員を銃撃、四十数名の若い生命が奪われた生き残った隊員も逃避行中に飢と寒さで、満州の荒野で数多く他界した。
平成元年、二年と、亡き拓友の終焉の地、八道橋を訪ねて供養を行った。
平成二年十月、綏芬河会総会で有志相図り、亡き友の鎮魂と、若き日の友情を刻み、この地に綏芬河の碑を建立する。
 平成三年七月七日 綏芬河訓練所有志

冬の新潟、本格的に雪降る前の12月上旬の参拝でした。
参拝は16時ごろであり、日没を気にしながらしょうしょう駆け足の参拝。 次回はもうすこし気持ちもゆっくりとさせて参拝したいと思いつつ。

ありがとうございました。

新潟村松の戦跡散策

平成31年3月撮影

村松兵営の営門

「村松」
私にとっては懐かしい土地。
かつて「蒲原鉄道」が五泉駅から村松駅まで結んでいた時(全盛期はもっと長く加茂駅まで結んでいたが)、母方の祖父母が新津や水原に居住していたということもあり、足繁く「蒲原鉄道」に通っていた時代があった。学生時代の思い出。

平成11年(1999)に蒲原鉄道全線廃線。廃線後はあまり足を運ぶ用事がなくなった村松に、奇しくも戦跡を求めてまた赴くことになるのは想定外のことでした。

そんな懐かしい「村松」は、当時は「軍都」と呼ばれた街でした。

村松へ

「蒲原鉄道の鉄道」がなくなり、現在は新潟駅から走っている高速バス「蒲原鉄道バス 五泉村松線」に乗るのが村松に赴くには便利。

かつてのように五泉まで磐越西線に乗ってそこから・・・というルートのほうが今はアクセスがしにくいようで。

位置関係

USA-R465-No2-19
1948年(昭和23年)11月23日 米軍撮影

営所通りの突き当りに「村松兵営」

村松駅舎

建設年代は不明。昭和の気配が残る駅舎。鉄道線が廃止されたあともバスターミナルとして引き続き活用されている。

村松駅

蒲原鉄道株式会社
村松駅 バス停
JASの名称が残っているトラベル看板
かつてここに待合所と改札があった
かつてここに待合所と改札があった
蒲原鉄道線のホームと線路があった場所
ホーム側
かつてこちら側は鉄道ホームだった

現役時代の蒲原鉄道の写真は20年前に撮影したものでフィルムスキャンしたデータがどこかのHDDで眠っているため、サルベージ出来たらアップロードします。
今は往時の思い出と、往時を知っている人は脳内補完でお願いいたします。

営所通り

村松の中心にある商店街。その名も「営所通り」
この通りを真っすぐ行けば「忠霊塔・村松公園」と「旧兵営跡」

商店街は祭日・旗日、日章旗が掲げられておりました。

営所通りを真っ直ぐ歩く。
村松駅から20分位歩く。結構遠い。

村松兵営

明治27年の日清戦争の影響により、明治29年(1896)に「歩兵第30聯隊」が編成され、明治30年に村松に兵営を展開。
日露戦争では村松より歩兵第30聯隊も出征し凱旋。記念として「村松公園」が造営されている。
昭和18年(1943)には「村松陸軍少年通信兵学校」が設立。


日の出町交差点。
北に愛宕小学校、南に村松体育館がある交差点が、かつての「正門」

営門と歩哨舎が残っている。

軍都村松

 明治27・28年の日清戦争における軍備拡張により、歩兵第30聯隊が新設された。陸軍省が設置場所を調査している中、村松町では町会で愛宕原の地4万坪を献上することを議決し、明治29年8月には村松に歩兵第30聯隊が設置されることが決定した。
 施設の概要は、兵舎・練兵場・作業場・病院・射的場などが兵営敷地に建設された。そのほか、村松町では往来の便を図るため兵営門前から下町まで新道を建設した。(現在の学校通り、当時は「営所通り」と呼ばれていた。)
 明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状態に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。この日露戦争記念として造営されたのが村松記念公園である。
 旧陸軍との関係は終戦まで続き、終戦間際の昭和18年には、村松陸軍少年通信兵学校が開校され全国各地から少年兵が入校した。昭和20年、終戦を迎え軍都村松の歴史は幕を閉じた。

将校集会所 門柱

 将校集会所は、主に士官(少尉以上の軍人)の集会に使用されていました。
 村松兵営の集会所は、現在の村松体育館(さくらアリーナ)付近にあったと考えられます。
 1945年(昭和20年)の終戦で兵営が廃止された後、門柱の所在は長い間不明となっていましたが、2013年(平成25年)に新発田市の陸上自衛隊で発見され、2014年3月に現在の地場所に移設されました。
 2016年12月 五泉市教育委員会

村松兵営跡

碑文

 このあたりは明治三十年から昭和二十年に至る約五十年の間村松兵営のあったところである
 祖国の護りと世界の平和のため郷土の若人はこの兵営において苦楽を共にし死生を同じうする戦友として昼夜を別たず教練演習や戦技訓練に精進した。 その雄叫びは愛宕の山にこだまし喇叭の響きは菅名 白山の峯もをゆるがすばかりであった。 かく鍛え抜いたつわものは伝統の越後魂を以って出でては日露戦争・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争と到るところ堅忍克艱赫赫たる武勲を打樹て入りては郷土の健全な発展に貢献した併し栄光の影には幾多の貴い犠牲があった。 この犠牲こそが今日祖国の発展を齎らした貴い礎であることを忘れてはならない。
 星移り時は流れて幾春秋今や由緒深き兵営も全くその姿を変え空しき過去に葬り去られようとしている。
 この時にあたり関係者一同 計らずも村松町多数有志各位の絶大な協力をいただいた事実に衷心感謝を捧げつつ相携えて意義ある史跡としてこの兵営の足跡を記し英霊の遺勲と先人戦友の業績を永く後世に伝えるよすがともせんためこの碑を建てるものである。

村松兵営の足跡

明治三十年八月  
  歩兵第三十聯隊駐屯 
  同聯隊は明治二十九年一月新発田聯隊にて編成第二師団に編入
明治 三十一年三月 
  歩兵第三十聯隊に軍旗親授
明治 四十一年十月 
  歩兵第三十聯隊第十三師団に編入
大正十四年五月  
  軍備縮少により歩兵第三十聯隊第二師団に編入 
  高田に移駐
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田より分屯
昭和十二年四月  
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田に復帰
昭和 十三年一月   
  新発田陸軍病院臨時村松分院開設、支那事変の傷病兵収容
昭和十六年四月  
  新発田陸軍病院臨時村松分院閉鎖
昭和十六年七月  
  歩兵第百五十八聯隊駐屯高田独立歩兵団に編入
昭和十六年九月  
  歩兵第百五十八聯隊に軍旗親授
昭和十八年六月  
  歩兵第百五十八聯隊新発田に移駐西守第二師団に編入
昭和十八年九月  
  陸軍少年通信兵学校開校
  (村山陸軍少年通信兵学校より分校)
  18年12月第11期生800名 
  19年6月第12期生600名 
  20年4月第13期生400名卒業
昭和二十年八月
  大東亜戦争終結により兵営閉鎖
昭和五十四年四月二十四日  
  村松兵営跡記念碑建設会

兵営のあった場所の南東隅の場所に境界標石が残っている。

村松兵営 陸軍境界石

村松兵営の南側に空間が広がっている。

村松兵営 練兵場跡

現在は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育研究センター 村松ステーション」。農場として活用されている。

門柱がある。この門柱が練兵場時代のものかどうかは不詳。
雨が強くて水滴がレンズについてしまった写真になってしまいました。

村松兵営の地から南西方向に歩みを進める。

村松陸軍病院
 現在の南部郷厚生病院

病院入口の北側に門柱が残っている。

かつての村松陸軍病院、現在は南部郷厚生病院。
建屋は建設年代は不詳。

病院の南東隅に、陸軍境界石が残っている。
村松兵営といい、村松陸軍病院といい、いずれも南東隅に残っている。

村松陸軍病院 陸軍境界石

村松陸軍病院の南側には「村松公園」と愛宕山。
日露戦争の戦捷記念公園。

村松公園

村松公園は、明治39年10月に日露戦役記念として造られました。今では県民が選んだ「にいがた景勝100選」で、第3位に選ばれています。

五泉市>村松公園
https://www.city.gosen.lg.jp/hyande/2/4/2281.html
塗り潰された(戦捷)記念灯籠 
海軍の錨が刻まれた灯籠
開設記念碑 明治39年11月建立

歩兵第30聯隊将校団奉納の鳥居

忠霊塔

村松陸軍墓地に埋葬されていた御遺骨も改装され忠霊塔に埋葬されているという。
昭和18年(1943)に陸軍省が建立。2017年の改修工事で当時の忠霊塔頂部の棟飾りは屋根から下に降ろされて保存設置されている。

合掌

護國の英霊此処に眠る(昭和43年11月建立、南部郷遺族会)

村松陸軍少年通信兵慰霊の樹

案内看板
慰霊碑と忠魂碑と忠霊塔と。

戦場に散った少年たちの碑

この丘上には、先の太平洋戦争下、祖国の急を救おうとして、悲惨な最期を遂げた少年通信兵812柱の御霊が眠っています。

村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて
何時訪うも 香華絶えぬと 村松の 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を護る会

戦没陸軍少年通信兵 慰霊碑

慰霊碑建立の由来

 この慰霊碑は 
先の大東亜戦争等において
祖国の安泰と 
家族の平安を願い 
敢然と戦場に赴き 
義を盡し
若くして華の如く散った 
陸軍少年通信兵の英霊を
慰めるため我等相図り
村松町の御好意のもとに
この地に建立し
八百余柱の御霊を合祀したものであります
ここにその偉勲を後世に伝え
永遠の平和を
祈念するものであります

 平成7年10月11日 全国少通連合会

碑文(裏面)

昭和8年東京ニ陸軍少年通信兵ノ教育開始セラレ逐年増員シ昭和17年陸軍少年通信兵学校トナレリ
昭和18年ニハ更ニ新潟県村松町ニ陸軍少年通信兵学校開設セラレ併セテ7千余名ノ若人ヲ教育シ国軍戦力統合ノ骨幹タル通信連絡ニ盡瘁シ各戦線ニ偉勲ヲ樹テ作戦ノ要望ニ応ヘシメタリ
然ルニ苛烈ナル戦線ニ或ハ瘴癘ノ地ニ多クノ少年通信兵ヲ戦病没セシメ其数300余名ニ及ヒシハ痛恨ノ極ミナリ 
殊ニ昭和19年秋南方戦線ニ向フ少年通信兵230余名ハ九州沖及東支那海ニテ敵潜水艦ニ襲ワレ戦線ニ至ラズシテ船ト共ニ水漬ク屍トナレルハ真ニ慟天哭地痛恨惜惜ク能ハサル所ナリ

終戦後20有5年今ヤ我国ハ稀有ノ隆昌ト平和ニ栄エ世界ノ大国トナレリ

惟フニ是レ一ニ祖国ノ無窮ヲ念ジ悠久ノ大義ニ殉ジタル英霊ノ加護ニヨルモノト謂フヲ得ヘシ

生キテ此ノ盛運ニ遭フ我等相諮リテ空清ク気澄メル村松ノ地ヲトシ碑ヲ建テ以テ尊キ御霊ヲ永ク鎮メ祭リテ慰メ奉ル 
在天ノ諸霊願ワクバ我等ガ微哀ヲ享ケラレンコトヲ
  昭和45年10月11日
   全国陸軍少年通信兵連合会

忠魂碑

明治39年3月建立
陸軍中将 西島助義 書

日露戦争時の陸軍第30聯隊にまつわる忠魂碑
忠魂碑は練兵場並びに兵営の方向を見渡す高台に鎮座。

揮毫された西島中将は日露戦争・奉天会戦の第2師団長。
歩兵第30聯隊は第2師団隷下として日露戦争で活躍。
遼陽会戦では第2師団が行った「弓張嶺の夜襲」と呼ばれる師団規模の夜襲作戦にも参加している。

公園の隣には鹿園があった。

村松公園は雨の中での散策ということもあり、見逃したスポットが多々あったのが判明。
「鉄傘の灯籠」「タマ公」「日の丸灯籠」など見逃し。残念。またの機会。

から西の方に一気に移動する。

戦跡としての散策ではないが、一箇所寄りたいところがあった。

城跡公園
五泉市村松郷土資料館

村松城址跡の公園。村松は堀氏三万石の城下町。
ここにかつて走っていた蒲原鉄道の車両が保存されている。
どうしても、車両が見たかったのだ。

蒲原鉄道保存車両モハ11

加茂~村松~五泉

 この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9kmが開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
 昭和10年ごろは、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
 昭和60年3月、加茂・村松間17.7kmが廃止されバス輸送に変換したので、往時を懐古するとともに、ここ城跡公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。

私が知っている蒲原鉄道は末期の五泉~村松間の時代のみ。
平成11年(1999) のころ。
それより前の昭和60年(1985)は知らない時代。それでも車両のカラーリングは同じということもあり懐かしさを感じる。

この車両に軍都村松時代は、歩兵30聯隊の兵士たちや、通信学校の少年たちも乗車し揺られながら五泉と村松、加茂と村松を往来していたかもしれない。

あの時代、同じ時代を知る車両。
感慨深いものがある。

帰りの時間が厳しかった。

もっとゆっくりしたかったし資料館を見学したかったが時間切れ。断腸の思いで村松駅に戻る。
今はもう村松駅は電車がこないバスターミナルのみではあるが。

JR五泉駅と菅名岳を蒲原鉄道バス車中から見送る

新潟新発田の戦跡散策(歩兵第16聯隊)

平成31年3月撮影、新潟県新発田市

歩兵第16聯隊

明治4年(1871)、新潟に東京鎮台第一分営が置かれ、明治7年に、新発田城内に「白壁兵舎」が落成したのを機に新発田歩兵第16聯隊が編成。

明治21年(1888)、第2師団所属。日露戦争時は新設第13師団所属。宇垣軍縮により13師団廃止後に再び第2師団所属に戻る。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」

太平洋戦争では、ジャワ島、ガダルカナル島、フィリピン、中国雲南省、ビルマ方面で勇戦し、終戦をベトナム・サイゴンで迎えている。

白壁兵舎
 白壁兵舎広報史料館

明治7年に陸軍兵舎として建築されたフランス様式と和風城郭様式の和洋折衷小屋組等に見られる歴史的建造物である白壁兵舎を移築復元し、平成26年から「陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館」として公開されている。


新潟でちょっとだけ隙間の時間ができた3月の某日。新発田に足を運んでみました。まずは史料館を見学。駅から新発田城までは距離があるのでレンタサイクルでの移動を推奨。

新発田兵舎之跡

陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館

見学コースは二階から。

二階の窓からは、新発田城が望めます。

兵舎の建築にあたっては、明治政府が取り入れていたフランス式兵制に基づきつつ、日本の伝統的技術を要する棟梁が建設をおこなったために、和洋折衷方式での小屋組みが特徴。

日本の伝統的な「梁と船肘木と柱」箇所と、斜めに組んだ「フレンチトレス方式」が融合した内部。

白壁兵舎の由緒

移築復元前の姿を写した写真と、歩兵第16聯隊本部兵舎鬼瓦

歩兵第16聯隊旗(複製)

明治大正昭和の歴戦の弾雨で房だけが残る。新潟県護国神社に奉納されたものの複製を展示。

終戦を仏印出迎えた歩兵第16聯隊は奉焼通達に対し、跡形もなく奉焼するのが忍びなく、聯隊長決断で房を切り取り各将校に奉持させ、一欠片でも多くを新発田に持ち帰ることとなり、旗竿部だけを奉焼し、竿部の菊の御紋章はノミで粉砕した。これを方方に捨てるのは畏れ多いとのことで、房の欠片とともに幹部に奉持させた。

新発田兵営配置図

本間雅晴中将

本間雅晴(陸軍中将)は佐渡島出身。大東亜戦争ではフィリピン攻略戦を指揮。昭和21年4月3日、マニラにおける軍事裁判で銃殺刑。享年59歳。

本間雅晴陸軍中将のコーナーがありました。新潟出身。

フィリピンのロスバニョスにある本間雅晴中将の慰霊碑・写真

本間雅晴中将 辞世 直筆
甦る 御國の末を 疑はす 心豊かに 身をも捧けむ

本間雅晴中将の書

「以和為光」 和を以て光と為す

「弾幕能落ちるとこゆえ息をつめ、突撃を待つ兵の無事なり」

「竹と達磨」本間雅晴夫人の富士子氏の掛絵。達磨を本間雅晴中将に見立てているともいう。

本間雅晴中将の勲章やステッキ、将官用指揮刀など。

歩兵第十六聯隊歌

作・本間雅晴

歩16当時は中隊長を勤めていた。

新潟にゆかりある軍人として、山本五十六元帥海軍大将と今村均陸軍大将の書も掲げてあった。

山本五十六は新潟は長岡の出身。

今村均は父親の転勤にとこない新発田中学に転入。太平洋戦争時は新発田歩兵第16聯隊を含む第16軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮。

新発田第16聯隊にまつわる数々の展示コーナー

日清戦争・日露戦争

満州事変・シベリア出兵

ノモンハン事件

支那事変(日中戦争)

大東亜戦争

復元室・軍服など

新発田陸軍病院で使用していた衝立 (県立新発田病院)

二階部分の展示は旧軍を中心としたものでした。

一階部分は自衛隊コーナー

白壁兵舎。床下の様子も見学できます。

白壁兵舎と陸上自衛隊新発田駐屯地、新発田城址。

駐屯地の西側に公園があります。

新発田西公園

歩兵第十六聯隊衛戍地内

かつての・・・

越佐招魂社 戦没者納骨堂

戦後新発田に進駐軍が入った際に園内の慰霊塔・碑の取り壊し撤去を要求されたが、当時の町会議員大竹金吾氏の命がけの努力により免れた。今もなお当時のままの形で保存されている。

新発田聯隊 遺勲の譜

明治の建軍以来、国運を賭す全戦役に参加した越佐健児の栄光の勲を宣揚。

越佐戦没者納骨堂(陸軍墓地)

歩兵第十六聯隊創設以来の御英霊の御遺骨が眠る越佐戦没者納骨堂。1万5千柱の御霊がこの地に眠っている。

忠霊
戦友 今村均謹書

今村均陸軍大将は第16軍司令官として隷下の第16聯隊を率い、ジャワ島(蘭印)攻略戦を指揮。今村均陸軍大将自身も新発田中学校を卒業しており、御英霊とご縁が深い。

ガダルカナル島戦記念碑

ガダルカナル島の石を用いた慰霊碑

ガダルカナル島記念碑
太平洋戦争の命運を賭した激戦の島ガダルカナル。
この碑は旧新発田聯隊が凄惨苛烈飢餓と悪疫の中に郷土と県人の栄光を荷いつつ斗い遂に広安聯隊長以下全滅に等しい悲運に遭遇し身を祖国と民族に捧げた尊い記念であります。
ここに駐日英国大使館を始め内外関係者多数の好意と御協力により伝統ある越佐健児の勇戦敢斗をしのび併せてその冥福と平和への祈願をこめ特にガ島の石にきざみ思い出深い菖蒲城址に建立いたしました。
 昭和37年4月23日 ガダルカナル島戦記念碑建設期成会

日露戦役忠霊塔

歩兵第十六聯隊 軍旗奉焼之碑

平成22年8月建立

ビルマ戦慰霊平和塔

昭和45年8月16日 歩兵第十六聯隊あやめ会 建立

ガダルカナル島で広安寿郎聯隊長以下全滅に等しい犠牲を受けた第十六聯隊は堺吉嗣聯隊長以下の精鋭でもって再編された。

マライ半島から進撃した第16聯隊は雲南にて支那軍と死闘をし、堺聯隊長は負傷。新たに井上晴蔵聯隊長を迎え青葉兵団の主力となった第16聯隊はビルマにて英印軍と戦闘を繰り返し、ビルマの山野に井上聯隊長以下2000余柱の犠牲をだした。

この塔は戦後25年、生還したわれら戦友が自ら集い浄財を出し合って建立したもので仏教の国ビルマの象徴であるパゴダに形どり、これを通じ亡き英霊を故山に迎えその冥福を祈り、長く構成に平和をこいねがわんとするものである。
この真情は、必ずや英霊の照覧するところとなるであろう。
(略)
歩兵第十六聯隊と由緒ふかい菖蒲城址の一角に立つ慰霊平和塔は、幾星霜にわたって盤石に硬く在天の英魂の降鑑し帰依するところならんことを祈る。

合同忠霊塔

シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬之地

(西伯利亜出兵戦没者残骨灰埋葬之地)

越佐招魂碑

篆書文字、台湾総督・小松宮彰仁親王のご親筆

明治31年11月23日鋳造

西公園にて慰霊碑をめぐり、この日の散策は終了。

西公園の向かいは、新発田駐屯地。

新発田城

戦国時代の豪族・新発田氏の居城。新発田重家は上杉謙信に属し、上杉軍団の中核として有名を馳せたが、上杉景勝と対立し敗退。そののちに秀吉家臣の溝口秀勝が新発田6万石(のちに10万石)の大名として入封。爾来、新発田藩・溝口氏は一度も国替えなく溝口氏12代の治世が廃藩置県まで続いた。

旧二の丸隅櫓
三階櫓

新発田城に残る明治以前の建築物としては、本丸表門は1732年再建。また旧二の丸隅櫓は1668年の大火以降の再建、いずれも国重要文化財。また天守のかわりとして三階櫓が復元されているが駐屯地内のため内部は非公開。

あわただしく新発田駅に戻り、今回の散策は終了。

次に来ることがあれば、史料館をゆっくりと見学しつつ、城下町新発田を楽しみたいと思う。

「新潟空襲で孤軍奮闘した船」軍用船宇品丸慰霊塔

平成30年12月撮影・新潟市

軍用船宇品丸慰霊塔(新潟市中央区)

初の日本陸軍保有軍用輸送船「宇品丸」
陸軍運輸部・船舶部隊の拠点が置かれた宇品の名を冠した船。
この船は、新潟空襲に際して、米軍機をひきつけ弾薬を浪費させたことにより、新潟を護った軍用船であった。

昭和20年8月10日「新潟空襲」
新潟港に襲来する米軍機に対し唯一応戦した宇品丸は米軍機1機を撃墜。
宇品丸の船員3人、兵員16人が戦死している。

軍用船宇品丸慰霊塔

宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽して逃走した。
その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。 昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。
茲に当時の市長村田三郎氏の筆を得てささやか乍ら建立を実現し以来毎年町内会にて慰霊祭を執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮
 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの  
 霊なぐさむと伏し拝む

歌碑  
 ああ悲壮 
世界平和を   
  夢に抱き  
 玉砕しけり 
宇品の勇士

歌碑裏

大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日新潟港湾付近の空襲を受けた際、山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の勇士は国土防衛に敢然として迎撃奮戦し乗員はほとんど玉砕した
その慰霊50年忌に当たり、永遠の世界平和とミタマの安らかなるご冥福を祈念しここに之れを建立する
 平成6年8月吉日 (以下個人名は略)


宇品丸 (陸軍輸送船)

日本陸軍運輸部保有の輸送船。
米国にて1919年(大正8年)竣工、総トン数は2214トンの小型貨物船。

1929年、陸軍省は当時「宗安丸」として民間就航していた当船を購入し「宇品丸」と命名。 陸軍省運輸部の拠点にして陸軍船舶部門の中心が宇品であった。
宇品丸は陸軍所有の初の輸送船として、そして陸軍運輸部の顔として宇品を拠点に訓練に従事。
海軍とも協力し、模擬上陸船訓練なども実施され、また軍需輸送にも使用された。

1941年の大東亜戦争開戦後は主として瀬戸内海を拠点に輸送や訓練に活躍。

昭和20年、宇品丸は日本海での食糧輸送に就く。7月6日、新潟沖で米軍敷設の機雷に接触し浸水、沈没防止の為に信濃川河口で擱座。
8月10日、新潟市はF6F戦闘機16機の空襲を受ける。
宇品丸は高射砲・機銃あわせて6門で応戦し米軍機1機を撃墜するも被弾炎上。150人の乗員のうち船員3人兵員16人が戦死。

昭和21年5月、戦後も放置されていた宇品丸のサルベージが開始。浮揚に成功し舞鶴港に曳航され修理。

昭和25年のポツダム命令によって宇品丸は朝鮮郵船に払い下げられ、1958年には室町海運に譲渡、1966年までは持ち船として船名が確認できていた。


宇品丸慰霊塔 「宇品丸」が座礁していた場所に近い山田町町内会をはじめとする有志らが、8月10日の交戦により死亡した兵士・船員の霊を慰めるため、昭和29(1954)年、に「軍用船宇品丸慰霊塔」を建立。
慰霊祭は8月10日。
平成8(1996)年からは地元有志が興源寺で慰霊祭を続けている。

近くの「「入船みなとタワー」からみた信濃川河口と日本海。 宇品丸は信濃川河口に擱座していた。
ちょうど対岸には「あざれあ」(新日本海フェリー)も停泊。

先日、新潟にを訪れる機会がありましたので、ちょっとだけ足を伸ばして「宇品丸慰霊塔」に参拝した記録でした。


2023年10月追記

周辺が工事中でした。工事は2024年3月まで。

平和祈念碑

宇品丸の碑の近く、水戸教公園に、新潟市の平和祈念碑がある。

https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/danjo/jinken/heiwakatsudo/heiwa_kinenhi.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/nigata_nigata_001/index.html

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。
さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲となり尊い命を亡くされました。
また当時、市内の捕虜収容所に収容されあるいは強制連行されて来ていた外国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。
あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい発展を続けております。
しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。
市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。
 平成十年八月十日
  新潟市長 長谷川 義明

場所

https://maps.app.goo.gl/JCmY6BmzcqbTVznD6


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https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_10.html

https://www.sankei.com/article/20150811-HSYDYZKHOBNG3AODPVQBKR3BW4/