新潟村松の戦跡散策

平成31年3月撮影

村松兵営の営門

「村松」
私にとっては懐かしい土地。
かつて「蒲原鉄道」が五泉駅から村松駅まで結んでいた時(全盛期はもっと長く加茂駅まで結んでいたが)、母方の祖父母が新津や水原に居住していたということもあり、足繁く「蒲原鉄道」に通っていた時代があった。学生時代の思い出。

平成11年(1999)に蒲原鉄道全線廃線。廃線後はあまり足を運ぶ用事がなくなった村松に、奇しくも戦跡を求めてまた赴くことになるのは想定外のことでした。

そんな懐かしい「村松」は、当時は「軍都」と呼ばれた街でした。

村松へ

「蒲原鉄道の鉄道」がなくなり、現在は新潟駅から走っている高速バス「蒲原鉄道バス 五泉村松線」に乗るのが村松に赴くには便利。

かつてのように五泉まで磐越西線に乗ってそこから・・・というルートのほうが今はアクセスがしにくいようで。

位置関係

USA-R465-No2-19
1948年(昭和23年)11月23日 米軍撮影

営所通りの突き当りに「村松兵営」

村松駅舎

建設年代は不明。昭和の気配が残る駅舎。鉄道線が廃止されたあともバスターミナルとして引き続き活用されている。

村松駅

蒲原鉄道株式会社
村松駅 バス停
JASの名称が残っているトラベル看板
かつてここに待合所と改札があった
かつてここに待合所と改札があった
蒲原鉄道線のホームと線路があった場所
ホーム側
かつてこちら側は鉄道ホームだった

現役時代の蒲原鉄道の写真は20年前に撮影したものでフィルムスキャンしたデータがどこかのHDDで眠っているため、サルベージ出来たらアップロードします。
今は往時の思い出と、往時を知っている人は脳内補完でお願いいたします。

営所通り

村松の中心にある商店街。その名も「営所通り」
この通りを真っすぐ行けば「忠霊塔・村松公園」と「旧兵営跡」

商店街は祭日・旗日、日章旗が掲げられておりました。

営所通りを真っ直ぐ歩く。
村松駅から20分位歩く。結構遠い。

村松兵営

明治27年の日清戦争の影響により、明治29年(1896)に「歩兵第30聯隊」が編成され、明治30年に村松に兵営を展開。
日露戦争では村松より歩兵第30聯隊も出征し凱旋。記念として「村松公園」が造営されている。
昭和18年(1943)には「村松陸軍少年通信兵学校」が設立。


日の出町交差点。
北に愛宕小学校、南に村松体育館がある交差点が、かつての「正門」

営門と歩哨舎が残っている。

軍都村松

 明治27・28年の日清戦争における軍備拡張により、歩兵第30聯隊が新設された。陸軍省が設置場所を調査している中、村松町では町会で愛宕原の地4万坪を献上することを議決し、明治29年8月には村松に歩兵第30聯隊が設置されることが決定した。
 施設の概要は、兵舎・練兵場・作業場・病院・射的場などが兵営敷地に建設された。そのほか、村松町では往来の便を図るため兵営門前から下町まで新道を建設した。(現在の学校通り、当時は「営所通り」と呼ばれていた。)
 明治37年、日露両国(日本とロシア)は戦争状態に入り、村松の歩兵第30聯隊も出征した。この日露戦争記念として造営されたのが村松記念公園である。
 旧陸軍との関係は終戦まで続き、終戦間際の昭和18年には、村松陸軍少年通信兵学校が開校され全国各地から少年兵が入校した。昭和20年、終戦を迎え軍都村松の歴史は幕を閉じた。

将校集会所 門柱

 将校集会所は、主に士官(少尉以上の軍人)の集会に使用されていました。
 村松兵営の集会所は、現在の村松体育館(さくらアリーナ)付近にあったと考えられます。
 1945年(昭和20年)の終戦で兵営が廃止された後、門柱の所在は長い間不明となっていましたが、2013年(平成25年)に新発田市の陸上自衛隊で発見され、2014年3月に現在の地場所に移設されました。
 2016年12月 五泉市教育委員会

村松兵営跡

碑文

 このあたりは明治三十年から昭和二十年に至る約五十年の間村松兵営のあったところである
 祖国の護りと世界の平和のため郷土の若人はこの兵営において苦楽を共にし死生を同じうする戦友として昼夜を別たず教練演習や戦技訓練に精進した。 その雄叫びは愛宕の山にこだまし喇叭の響きは菅名 白山の峯もをゆるがすばかりであった。 かく鍛え抜いたつわものは伝統の越後魂を以って出でては日露戦争・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争と到るところ堅忍克艱赫赫たる武勲を打樹て入りては郷土の健全な発展に貢献した併し栄光の影には幾多の貴い犠牲があった。 この犠牲こそが今日祖国の発展を齎らした貴い礎であることを忘れてはならない。
 星移り時は流れて幾春秋今や由緒深き兵営も全くその姿を変え空しき過去に葬り去られようとしている。
 この時にあたり関係者一同 計らずも村松町多数有志各位の絶大な協力をいただいた事実に衷心感謝を捧げつつ相携えて意義ある史跡としてこの兵営の足跡を記し英霊の遺勲と先人戦友の業績を永く後世に伝えるよすがともせんためこの碑を建てるものである。

村松兵営の足跡

明治三十年八月  
  歩兵第三十聯隊駐屯 
  同聯隊は明治二十九年一月新発田聯隊にて編成第二師団に編入
明治 三十一年三月 
  歩兵第三十聯隊に軍旗親授
明治 四十一年十月 
  歩兵第三十聯隊第十三師団に編入
大正十四年五月  
  軍備縮少により歩兵第三十聯隊第二師団に編入 
  高田に移駐
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田より分屯
昭和十二年四月  
  歩兵第十六聯隊第三大隊新発田に復帰
昭和 十三年一月   
  新発田陸軍病院臨時村松分院開設、支那事変の傷病兵収容
昭和十六年四月  
  新発田陸軍病院臨時村松分院閉鎖
昭和十六年七月  
  歩兵第百五十八聯隊駐屯高田独立歩兵団に編入
昭和十六年九月  
  歩兵第百五十八聯隊に軍旗親授
昭和十八年六月  
  歩兵第百五十八聯隊新発田に移駐西守第二師団に編入
昭和十八年九月  
  陸軍少年通信兵学校開校
  (村山陸軍少年通信兵学校より分校)
  18年12月第11期生800名 
  19年6月第12期生600名 
  20年4月第13期生400名卒業
昭和二十年八月
  大東亜戦争終結により兵営閉鎖
昭和五十四年四月二十四日  
  村松兵営跡記念碑建設会

兵営のあった場所の南東隅の場所に境界標石が残っている。

村松兵営 陸軍境界石

村松兵営の南側に空間が広がっている。

村松兵営 練兵場跡

現在は「新潟大学農学部付属フィールド科学教育研究センター 村松ステーション」。農場として活用されている。

門柱がある。この門柱が練兵場時代のものかどうかは不詳。
雨が強くて水滴がレンズについてしまった写真になってしまいました。

村松兵営の地から南西方向に歩みを進める。

村松陸軍病院
 現在の南部郷厚生病院

病院入口の北側に門柱が残っている。

かつての村松陸軍病院、現在は南部郷厚生病院。
建屋は建設年代は不詳。

病院の南東隅に、陸軍境界石が残っている。
村松兵営といい、村松陸軍病院といい、いずれも南東隅に残っている。

村松陸軍病院 陸軍境界石

村松陸軍病院の南側には「村松公園」と愛宕山。
日露戦争の戦捷記念公園。

村松公園

村松公園は、明治39年10月に日露戦役記念として造られました。今では県民が選んだ「にいがた景勝100選」で、第3位に選ばれています。

五泉市>村松公園
https://www.city.gosen.lg.jp/hyande/2/4/2281.html
塗り潰された(戦捷)記念灯籠 
海軍の錨が刻まれた灯籠
開設記念碑 明治39年11月建立

歩兵第30聯隊将校団奉納の鳥居

忠霊塔

村松陸軍墓地に埋葬されていた御遺骨も改装され忠霊塔に埋葬されているという。
昭和18年(1943)に陸軍省が建立。2017年の改修工事で当時の忠霊塔頂部の棟飾りは屋根から下に降ろされて保存設置されている。

合掌

護國の英霊此処に眠る(昭和43年11月建立、南部郷遺族会)

村松陸軍少年通信兵慰霊の樹

案内看板
慰霊碑と忠魂碑と忠霊塔と。

戦場に散った少年たちの碑

この丘上には、先の太平洋戦争下、祖国の急を救おうとして、悲惨な最期を遂げた少年通信兵812柱の御霊が眠っています。

村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて
何時訪うも 香華絶えぬと 村松の 昭和の白虎隊とぞ 守り給える

戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を護る会

戦没陸軍少年通信兵 慰霊碑

慰霊碑建立の由来

 この慰霊碑は 
先の大東亜戦争等において
祖国の安泰と 
家族の平安を願い 
敢然と戦場に赴き 
義を盡し
若くして華の如く散った 
陸軍少年通信兵の英霊を
慰めるため我等相図り
村松町の御好意のもとに
この地に建立し
八百余柱の御霊を合祀したものであります
ここにその偉勲を後世に伝え
永遠の平和を
祈念するものであります

 平成7年10月11日 全国少通連合会

碑文(裏面)

昭和8年東京ニ陸軍少年通信兵ノ教育開始セラレ逐年増員シ昭和17年陸軍少年通信兵学校トナレリ
昭和18年ニハ更ニ新潟県村松町ニ陸軍少年通信兵学校開設セラレ併セテ7千余名ノ若人ヲ教育シ国軍戦力統合ノ骨幹タル通信連絡ニ盡瘁シ各戦線ニ偉勲ヲ樹テ作戦ノ要望ニ応ヘシメタリ
然ルニ苛烈ナル戦線ニ或ハ瘴癘ノ地ニ多クノ少年通信兵ヲ戦病没セシメ其数300余名ニ及ヒシハ痛恨ノ極ミナリ 
殊ニ昭和19年秋南方戦線ニ向フ少年通信兵230余名ハ九州沖及東支那海ニテ敵潜水艦ニ襲ワレ戦線ニ至ラズシテ船ト共ニ水漬ク屍トナレルハ真ニ慟天哭地痛恨惜惜ク能ハサル所ナリ

終戦後20有5年今ヤ我国ハ稀有ノ隆昌ト平和ニ栄エ世界ノ大国トナレリ

惟フニ是レ一ニ祖国ノ無窮ヲ念ジ悠久ノ大義ニ殉ジタル英霊ノ加護ニヨルモノト謂フヲ得ヘシ

生キテ此ノ盛運ニ遭フ我等相諮リテ空清ク気澄メル村松ノ地ヲトシ碑ヲ建テ以テ尊キ御霊ヲ永ク鎮メ祭リテ慰メ奉ル 
在天ノ諸霊願ワクバ我等ガ微哀ヲ享ケラレンコトヲ
  昭和45年10月11日
   全国陸軍少年通信兵連合会

忠魂碑

明治39年3月建立
陸軍中将 西島助義 書

日露戦争時の陸軍第30聯隊にまつわる忠魂碑
忠魂碑は練兵場並びに兵営の方向を見渡す高台に鎮座。

揮毫された西島中将は日露戦争・奉天会戦の第2師団長。
歩兵第30聯隊は第2師団隷下として日露戦争で活躍。
遼陽会戦では第2師団が行った「弓張嶺の夜襲」と呼ばれる師団規模の夜襲作戦にも参加している。

公園の隣には鹿園があった。

村松公園は雨の中での散策ということもあり、見逃したスポットが多々あったのが判明。
「鉄傘の灯籠」「タマ公」「日の丸灯籠」など見逃し。残念。またの機会。

から西の方に一気に移動する。

戦跡としての散策ではないが、一箇所寄りたいところがあった。

城跡公園
五泉市村松郷土資料館

村松城址跡の公園。村松は堀氏三万石の城下町。
ここにかつて走っていた蒲原鉄道の車両が保存されている。
どうしても、車両が見たかったのだ。

蒲原鉄道保存車両モハ11

加茂~村松~五泉

 この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9kmが開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
 昭和10年ごろは、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
 昭和60年3月、加茂・村松間17.7kmが廃止されバス輸送に変換したので、往時を懐古するとともに、ここ城跡公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。

私が知っている蒲原鉄道は末期の五泉~村松間の時代のみ。
平成11年(1999) のころ。
それより前の昭和60年(1985)は知らない時代。それでも車両のカラーリングは同じということもあり懐かしさを感じる。

この車両に軍都村松時代は、歩兵30聯隊の兵士たちや、通信学校の少年たちも乗車し揺られながら五泉と村松、加茂と村松を往来していたかもしれない。

あの時代、同じ時代を知る車両。
感慨深いものがある。

帰りの時間が厳しかった。

もっとゆっくりしたかったし資料館を見学したかったが時間切れ。断腸の思いで村松駅に戻る。
今はもう村松駅は電車がこないバスターミナルのみではあるが。

JR五泉駅と菅名岳を蒲原鉄道バス車中から見送る