長岡空襲の慰霊巡拝と長岡史跡散策

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新潟県長岡市。
長岡は、2度の戦災で焼失をしている。戊辰戦争と太平洋戦争。
そして、太平洋戦争では、新潟県下で最大の被害をだしている。
長岡空襲の鎮魂巡礼をさせていただきました。
(ただし、時間の関係があり、すべての慰霊碑を網羅しておりません。)

以下、戦跡と碑石と墓所の散策。


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長岡空襲

昭和20年(1945年)8月1日の午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。
1時間40分にわたり、新潟県長岡市の中心部市街地を標的に、125機のB-29によって925トン焼夷弾が大量に投下され163,000発あまりの焼夷弾が長岡市に降り注いだ。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1,488人の市民が死亡した。罹災戸数は11,986戸にも及ぶ。

総務省>


長岡市>

長岡は、山本五十六の出身地でもあり、長岡空襲の爆撃中心点は、結果として山本五十六の生家の近くの明治公園であった。

以下、関連する史跡を散策。


長岡戦災資料館

資料館がある。まずは、事前情報として、最初に足を運ぶことをお勧めます。
(私は、時間の制約があり、最後に見学でしたが)

場所


長岡空襲爆撃中心点の碑(明治公園)

山本五十六生家の山本公園の近くにある明治公園。
ここが、長岡空襲の爆撃中心点であった。

長岡空襲爆撃中心点の碑
米軍は、昭和20(1945)年6月に長岡地域を空撮し、リト・モザイクと呼ばれる精密な航空写真を作成した。そこに爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(約1.2km)の円を描き、その円の中心点を狙って爆撃する作戦をとった。その地点がここ明治公園にあたり、長岡空襲における爆撃中心点である。
同年8月1日の長岡空襲では、この作戦に基づき125機の米軍爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下した。それにより市街地の8割が焼け野原となり、現在わかっているだけで、1,486人の尊い命が失われた。
長岡空襲の史実を後世に継承し平和の尊さを伝えるため、ここに碑を建立する。
 平成28(2016)年8月1日
  長岡市

長岡のリト・モザイク(米国立公文書館所蔵)
記された円は確率誤差円といい、米軍は円内に着弾する確立を50%と見込んでいた。横軸070縦軸073の交わる位置が爆撃中心点である。
赤い線はB29の侵入経路であり、南西から北東へ飛行した。

明治天皇行在所御遺蹟(明治公園)

明治公園は、明治天皇が巡幸の途中に立ち寄った場所が由来となっている。明治天皇の北陸巡幸は1878年(明治11年)のことであった。

明治11年9月22日
明治天皇行在所御遺蹟
子爵牧野忠篤謹書

牧野忠篤は、旧越後長岡藩牧野家15代、貴族院議員。
忠篤は戊辰戦争で山本義路(帯刀)が戦死し無嗣となった旧長岡藩の家老山本家を、当時海軍勤務であった高野五十六少佐に家督継承させて再興するよう働きかけをして実現させている。

野本互尊胸像(明治公園)

明治公園には、互尊文庫(図書館)がある。
創設者・野本恭八郎(野本互尊翁)

野本互尊(恭八郎)は、教育者として互尊独尊の言葉を残し、山本五十六をはじめ、長岡出身の人物に大きな影響を与え、陽明学者の安岡正篤とも深い親交があった。
また、11月3日を文化の日(旧明治節)とし、富士山を国立公園とする活動も行っていた。

場所:


戦災殉難者之墓(昌福寺)

長岡空襲に際して、身寄りが分からない遺体は合同で荼毘に付されましたが、遺骨の埋葬場所はなかなか見つからなかった。そうしたなかで、昌福寺が埋葬場所の提供。
1945(昭和20)年9月に遺骨はようやく埋葬された。そして、1947(昭和22)年9月には、市民の寄附により墓碑が建立された。

戦災殉難者之墓

昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う

合掌

鵜殿春風の墓(昌福寺)

鵜殿団次郎(鵜殿春風)
幕末期の洋学者。蕃書調所教授。諱は長養、号は春風。

鵜殿春風の墓
 長岡藩士の鵜殿団次郎は天保2年(1831)生まれ。春風と号した。
 幼いころ神童とうたわれ、江戸に遊学し、蘭・英の学を修めた。数学・測量学に優れ、幕府の蕃書調所で数学を教授した。
 勝海舟をたすけて、西郷隆盛との交渉の間にたち、江戸開城を成功させた。
 長岡藩開戦後、急いで帰郷したが、病のため、明治元年(1868)38歳で没した。
 著書に「万国奇観」などがある。
 長岡市教育委員会

昌福寺
戊辰戦争では負傷者を手当てする軍病院としても機能した。
戊辰戦争戦後間もない明治2年、米百俵で有名な小林虎三郎が焼失を免れた昌福寺の本堂を借りて学校を開校している。
「長岡国漢学校発祥之地碑」が門前にある。

場所:


河井継之助の墓(栄凉寺)

河井継之助の墓
 文政10年(1827)1月1日、長岡城下同心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
 河井家の禄高は、120石であったが、その才腕を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
 北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、慶応4年(1868)8月16日、会津塩沢で陣没した。
 長岡市教育委員会

河井家の墓は此處
忠良院殿が継之助様であります

墓石がいくつかあるが。

ひときわ、ぼろぼろなのが、河合継之助の墓と思われる墓石。
長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒された墓石という。

牧野家代々の墓(栄凉寺)

栄凉寺は、長岡藩牧野家の菩提寺でもあった。

二見虎三郎の墓(栄凉寺)

河井継之助が長岡藩の運命を決めた小千谷談判に随行した唯一の長岡藩士。

戦歿者供養塔(栄凉寺)

明治戊辰戦争以降太平洋戦争終了迄の戦歿者を合祀。

合掌

栄凉寺

場所

この日は、河井継之助記念館は休館日でした。。。

まあ、長岡はまた来ると思います。

撮影:2023年9月


長岡空襲関連史跡について

長岡市サイトをベースに散策するのをおすすめします。

①模擬原子爆弾投下地点跡地の碑(左近町、永代橋付近)
②柿川戦災殉難地の碑(柳原町、柳原公園)
③戦災殉難者慰霊塔(表町1、平潟公園)
④平和像(本町3、平和の森公園)
⑤長岡空襲爆撃中心点の碑(坂之上町3、明治公園)
⑥戦災殉難者之墓(四郎丸4、昌福寺)

1番から4番まで、まだ巡礼できていません。。。
機会あれば、再訪します。


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