ドン山の大砲(新潟)

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新潟県新潟市中央区。
日本海沿いに広がる新潟市内最大規模の海浜公園「西海岸公園」。
その公園に「ドン山」と呼ばれる小高い一角がある。
「ドン山」の名前の由来は、全国各地で作られた午砲台(正午の時報代わりに、空砲を打っていた場所・午砲山)と、そこに据えられていた大砲に由来し、いまもドン山の大砲が復元されている。

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ドン山の大砲

ドン山の由来
 時計が現在のように普及していなかった明治、大正時代に、新潟では大砲で空砲をうち、人々に正午を知らせていました。
 これは、明治6年から大正13年までの52年間続きました。
 明治5年以前の新潟の人々は、現在の第四銀行本店のところにあった町内会所の中の和時計をもとに、2時間ごとに打ち鳴らす鐘を聞いて時を知りました。
 時計のなかった当時としては、明け六つの鐘、暮れ六つの鐘などと呼ばれ、人々にとって重要なものでした。
 明治6年、旧暦から新暦に改められたことを契機に、同年6月15日から寄居砂山(現在の旧新潟大学理学部跡)の白御影石を積んで木柵をめぐらした小高い丘の上に、六角形の白い番小屋と車輪のない大砲を据え付け、空砲をうって正午を知らせました。
 この大砲の音は、風向きによっては遠く新発田まで聞こえるほど大きな音であったため、新潟の人々はもちろん近郊の村々でも正午を知ることができ、重宝がられ、ドン山といわれて人々に親しまれていました。
 大正8年、この場所に新潟高等学校が建設されることになり、ドン山はやむなく二葉中学校のこの地に移転し、大正13年の午砲が廃止されるまで続きました。
 砲先は、はじめ市街地の方向に向けられていましたが、打つのドーンとものすごい音がしたため、新しく建てられた二葉中学校の勉強の支障となるということで、大正10年頃、海に向けられました。
 大正13年の新潟新聞によると、明治6年から明治38年まで車輪のない大砲を使用し、明治39年には、八木朋直氏の寄贈による車輪のある大砲に取り替えられ、廃止される大正13年まで使用されたということです。
 廃止後、その保存のため初代大砲は白山公園内に設置され、その後大円寺公園に移設されました。2代目大砲も大円寺公園に存置され、昭和18年頃まで保存されていましたが、両方とも戦争のため其の姿を消してしまいました。
 新潟市公園水辺課
 西土木事務所

大砲について
 このたびのドン山に据えられた大砲の復元は、確かな資料に乏しく、不明な点が多くありました。
 明治・大正時代の新聞・国会図書館・自衛隊武器学校での調査、郷土史家の意見などを参考といたしました。
 その結果、明治42年の雑誌「新潟交友」、大正13年の「新潟新聞」から、ドン山の情景、大砲の大きさ、大砲の打ち方などを把握することができました。
 大砲は、明治初期、陸軍で使用していたもので、前装式(弾薬を砲口から装填する)でり、当時、フランス製の大砲を模して国内で制作したと推測されました。
 さいわい、国立国会図書館で当時の「欧州諸国現用野山砲兵附図」を収集することができました。
 その中から、フランス製の大砲を基本として、ドン山をイメージ復元したものであります。

ドン山から望む日本海。

西海岸公園

場所

撮影:2023年10月


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