新潟新発田の戦跡散策(歩兵第16聯隊)

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平成31年3月撮影、新潟県新発田市

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歩兵第16聯隊

明治4年(1871)、新潟に東京鎮台第一分営が置かれ、明治7年に、新発田城内に「白壁兵舎」が落成したのを機に新発田歩兵第16聯隊が編成。

明治21年(1888)、第2師団所属。日露戦争時は新設第13師団所属。宇垣軍縮により13師団廃止後に再び第2師団所属に戻る。太平洋戦争時の通称号は「勇1302」

太平洋戦争では、ジャワ島、ガダルカナル島、フィリピン、中国雲南省、ビルマ方面で勇戦し、終戦をベトナム・サイゴンで迎えている。

白壁兵舎
 白壁兵舎広報史料館

明治7年に陸軍兵舎として建築されたフランス様式と和風城郭様式の和洋折衷小屋組等に見られる歴史的建造物である白壁兵舎を移築復元し、平成26年から「陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館」として公開されている。


新潟でちょっとだけ隙間の時間ができた3月の某日。新発田に足を運んでみました。まずは史料館を見学。駅から新発田城までは距離があるのでレンタサイクルでの移動を推奨。

新発田兵舎之跡

陸上自衛隊新発田駐屯地・白壁兵舎広報史料館

見学コースは二階から。

二階の窓からは、新発田城が望めます。

兵舎の建築にあたっては、明治政府が取り入れていたフランス式兵制に基づきつつ、日本の伝統的技術を要する棟梁が建設をおこなったために、和洋折衷方式での小屋組みが特徴。

日本の伝統的な「梁と船肘木と柱」箇所と、斜めに組んだ「フレンチトレス方式」が融合した内部。

白壁兵舎の由緒

移築復元前の姿を写した写真と、歩兵第16聯隊本部兵舎鬼瓦

歩兵第16聯隊旗(複製)

明治大正昭和の歴戦の弾雨で房だけが残る。新潟県護国神社に奉納されたものの複製を展示。

終戦を仏印出迎えた歩兵第16聯隊は奉焼通達に対し、跡形もなく奉焼するのが忍びなく、聯隊長決断で房を切り取り各将校に奉持させ、一欠片でも多くを新発田に持ち帰ることとなり、旗竿部だけを奉焼し、竿部の菊の御紋章はノミで粉砕した。これを方方に捨てるのは畏れ多いとのことで、房の欠片とともに幹部に奉持させた。

新発田兵営配置図

本間雅晴中将

本間雅晴(陸軍中将)は佐渡島出身。大東亜戦争ではフィリピン攻略戦を指揮。昭和21年4月3日、マニラにおける軍事裁判で銃殺刑。享年59歳。

本間雅晴陸軍中将のコーナーがありました。新潟出身。

フィリピンのロスバニョスにある本間雅晴中将の慰霊碑・写真

本間雅晴中将 辞世 直筆
甦る 御國の末を 疑はす 心豊かに 身をも捧けむ

本間雅晴中将の書

「以和為光」 和を以て光と為す

「弾幕能落ちるとこゆえ息をつめ、突撃を待つ兵の無事なり」

「竹と達磨」本間雅晴夫人の富士子氏の掛絵。達磨を本間雅晴中将に見立てているともいう。

本間雅晴中将の勲章やステッキ、将官用指揮刀など。

歩兵第十六聯隊歌

作・本間雅晴

歩16当時は中隊長を勤めていた。

新潟にゆかりある軍人として、山本五十六元帥海軍大将と今村均陸軍大将の書も掲げてあった。

山本五十六は新潟は長岡の出身。

今村均は父親の転勤にとこない新発田中学に転入。太平洋戦争時は新発田歩兵第16聯隊を含む第16軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮。

新発田第16聯隊にまつわる数々の展示コーナー

日清戦争・日露戦争

満州事変・シベリア出兵

ノモンハン事件

支那事変(日中戦争)

大東亜戦争

復元室・軍服など

新発田陸軍病院で使用していた衝立 (県立新発田病院)

二階部分の展示は旧軍を中心としたものでした。

一階部分は自衛隊コーナー

白壁兵舎。床下の様子も見学できます。

白壁兵舎と陸上自衛隊新発田駐屯地、新発田城址。

駐屯地の西側に公園があります。

新発田西公園

歩兵第十六聯隊衛戍地内

かつての・・・

越佐招魂社 戦没者納骨堂

戦後新発田に進駐軍が入った際に園内の慰霊塔・碑の取り壊し撤去を要求されたが、当時の町会議員大竹金吾氏の命がけの努力により免れた。今もなお当時のままの形で保存されている。

新発田聯隊 遺勲の譜

明治の建軍以来、国運を賭す全戦役に参加した越佐健児の栄光の勲を宣揚。

越佐戦没者納骨堂(陸軍墓地)

歩兵第十六聯隊創設以来の御英霊の御遺骨が眠る越佐戦没者納骨堂。1万5千柱の御霊がこの地に眠っている。

忠霊
戦友 今村均謹書

今村均陸軍大将は第16軍司令官として隷下の第16聯隊を率い、ジャワ島(蘭印)攻略戦を指揮。今村均陸軍大将自身も新発田中学校を卒業しており、御英霊とご縁が深い。

ガダルカナル島戦記念碑

ガダルカナル島の石を用いた慰霊碑

ガダルカナル島記念碑
太平洋戦争の命運を賭した激戦の島ガダルカナル。
この碑は旧新発田聯隊が凄惨苛烈飢餓と悪疫の中に郷土と県人の栄光を荷いつつ斗い遂に広安聯隊長以下全滅に等しい悲運に遭遇し身を祖国と民族に捧げた尊い記念であります。
ここに駐日英国大使館を始め内外関係者多数の好意と御協力により伝統ある越佐健児の勇戦敢斗をしのび併せてその冥福と平和への祈願をこめ特にガ島の石にきざみ思い出深い菖蒲城址に建立いたしました。
 昭和37年4月23日 ガダルカナル島戦記念碑建設期成会

日露戦役忠霊塔

歩兵第十六聯隊 軍旗奉焼之碑

平成22年8月建立

ビルマ戦慰霊平和塔

昭和45年8月16日 歩兵第十六聯隊あやめ会 建立

ガダルカナル島で広安寿郎聯隊長以下全滅に等しい犠牲を受けた第十六聯隊は堺吉嗣聯隊長以下の精鋭でもって再編された。

マライ半島から進撃した第16聯隊は雲南にて支那軍と死闘をし、堺聯隊長は負傷。新たに井上晴蔵聯隊長を迎え青葉兵団の主力となった第16聯隊はビルマにて英印軍と戦闘を繰り返し、ビルマの山野に井上聯隊長以下2000余柱の犠牲をだした。

この塔は戦後25年、生還したわれら戦友が自ら集い浄財を出し合って建立したもので仏教の国ビルマの象徴であるパゴダに形どり、これを通じ亡き英霊を故山に迎えその冥福を祈り、長く構成に平和をこいねがわんとするものである。
この真情は、必ずや英霊の照覧するところとなるであろう。
(略)
歩兵第十六聯隊と由緒ふかい菖蒲城址の一角に立つ慰霊平和塔は、幾星霜にわたって盤石に硬く在天の英魂の降鑑し帰依するところならんことを祈る。

合同忠霊塔

シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬之地

(西伯利亜出兵戦没者残骨灰埋葬之地)

越佐招魂碑

篆書文字、台湾総督・小松宮彰仁親王のご親筆

明治31年11月23日鋳造

西公園にて慰霊碑をめぐり、この日の散策は終了。

西公園の向かいは、新発田駐屯地。

新発田城

戦国時代の豪族・新発田氏の居城。新発田重家は上杉謙信に属し、上杉軍団の中核として有名を馳せたが、上杉景勝と対立し敗退。そののちに秀吉家臣の溝口秀勝が新発田6万石(のちに10万石)の大名として入封。爾来、新発田藩・溝口氏は一度も国替えなく溝口氏12代の治世が廃藩置県まで続いた。

旧二の丸隅櫓
三階櫓

新発田城に残る明治以前の建築物としては、本丸表門は1732年再建。また旧二の丸隅櫓は1668年の大火以降の再建、いずれも国重要文化財。また天守のかわりとして三階櫓が復元されているが駐屯地内のため内部は非公開。

あわただしく新発田駅に戻り、今回の散策は終了。

次に来ることがあれば、史料館をゆっくりと見学しつつ、城下町新発田を楽しみたいと思う。

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