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立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

立川の戦跡としては、以下も参照に。


史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。

防衛省・市ヶ谷台ツアー

平成30年6月撮影

6月某日。
縁あって防衛省・市ヶ谷地区の見学を。
通称「市ヶ谷台ツアー」に参加してきましたので、そのときのレポを以下に。

※令和3年(2021年)、現在とはツアーの内容が異なります。

令和3年は、大本営地下壕が見学コースに加わりましたが、メモリアルゾーンは見学コースから無くなりました。以下のレポートも参照に。



市ヶ谷台ツアー

通常は1回のツアーで多いときは60人から100人ほど集まるという人気の見学会。私が参加した日は団体のキャンセルがあったとのことで、なんと10人ほどの少人数のツアーに。
「皆さんラッキーですよ。ゆっくり案内できます」と、案内の方からご挨拶があったぐらいの少人数だったようです。

見学時は撮影可能エリアと撮影不可エリアがあり。もちろん掲載していく写真は撮影可能なところのみ。

私が参加したのは午前の部。午前の部はメモリアルゾーンの見学があり一番興味深かった。
午後の部は月~木は広報展示室見学、金は防衛研究所見学ということで3パターンある。(他も気になる…)


庁舎A棟前

儀仗広場

来賓がいらっしゃると、この広場で儀仗隊が儀仗を行ってますね。
広場の「日の丸」は、雨の日は晴れの日の3/1の大きさになったり、祝日はもう一回り大きいものになったりするらしい。

庁舎A棟前の「儀仗広場」の下側。
木々の中に見える「石灯籠」、実は「地下壕の通気口」でもある。
石灯籠カモフラージュ。
地下壕は4メートルのコンクリート壁で守られ、地下14メートルに3本掘られており、地下には炊事場や食堂なども設けられていた。

地下壕の発掘調査などは、このあと訪れる「市ヶ谷記念館」内での展示コーナーで知ることができます。

展示機。
市ヶ谷ツアー内で唯一の自衛隊装備品を見学。

UH-1H ひよどり


市ヶ谷記念館

昭和12年(1937)陸軍士官学校本部として1号館が建設。
その後、士官学校は座間、予科士官学校は朝霞に移転し、昭和16年に大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が市ヶ谷台に置かれた。終戦後はGHQに接収され極東軍事裁判法廷として使用。1998年に一部を移築復元し現在に至る。

市ヶ谷記念館
当記念館は、旧1号館の解体に伴いその象徴的部分とされる玄関前車寄せ、旧大講堂、旧便殿の間、旧陸軍大臣室を復元した建物であります。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に「陸軍士官学校・大講堂」として作られ、終戦後の昭和21年5月から昭和23年11月までの間は「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷としても使用された空間。

復元は裁判当時の姿ではなく、戦前の陸軍大講堂の姿、ゆえに玉座もある。

玉座の場所に通訳ブース、その正面が特別傍聴席など。
向かって左が裁判官席、右が被告席。
撮影位置(講堂入口)は傍聴人席(2階)及び記者席(1階)から。

玉座側から。東京裁判当時は通訳ブースが置かれていた。
玉座から見た視点は遠近法が使われている。
本来は2階席は 陛下の玉座より高い位置にあるものの、玉座の 陛下からは2階が高く見えないように工夫されている。入り口の大扉も小さく見せる工夫あり。

大講堂入構時に映像「市ヶ谷台の歩み」を視聴。
著作権の兼ね合いで撮影は禁止。まずはこの映像で市ヶ谷台の歴史を学びます。

大講堂内は映像と展示物(著作権に関わるもの・撮禁表示有)の一部撮影禁止。 また撮影可能であってもフラッシュの使用は禁止。

パンフレット「市ヶ谷記念館 市ヶ谷台の歩み」 写真を撮ったものもあれば撮り忘れたものもある(!)ので、先にパンフレットを参考資料として置いておきます。


玉座

玉座の床は箱根の寄木細工。強度を保つためという。
そして玉座へ至る 陛下専用の階段。
写真では伝えにくいが、 陛下が階段を上がり易いように最初の段には中央に盛り上がりが、上部4段は中央に窪みが施されているという。


大講堂1階に歴史的な展示物が並んでいるので個人的な興味で幾点か紹介して見たいと思います。

阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國遊就館に。

市ヶ谷台には後述しますが「メモリアルゾーン」があり、一角に「阿南惟幾荼毘の碑」もある。見学は不可でしたがパンフを戴きました。(不可だった理由も後述)

終戦の8月15日に陸軍大臣として三宅坂官舎で自刃された阿南大将の遺体は15日夜に荼毘に。
再整備時にその地にあった碑を移設。墓は多磨霊園に。

多磨霊園 阿南惟幾之墓

加藤隼戦闘隊 加藤少将の銅像の原型  

ガラスの反射が制御できませんでしたが…

加藤建夫陸軍中佐(戦死後に陸軍少将)


エンジンの音 轟々と
隼は征く 雲の果て
翼に輝く 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印はわれらが 戦闘機


山下奉文大将から知人に宛てた礼状

昭和11年


極東国際軍事裁判用壁掛地図

極東国際軍事裁判(東京裁判)では多くの地図が法廷の壁に掛けられ使用されたが、この地図もマッカーサー率いるGHQが日本地図株式会社(当時)に発注し、同社が昭和21年5月3日に納入した地図と同じものである。
満洲、支那、佛印…


帝國軍艦比叡進水紀念品

軍艦比叡模型(文鎮)


航空母艦 飛龍模型 壹

昭和12年航空母艦進水記念として横須賀鎮守府長官より旧竹田宮王殿下に贈呈されたもの

横須賀鎮守府長官 百武源吾(海軍) から 竹田宮恒徳王(陸軍) への贈呈か。


今村中将着用品

功二級金鵄勲章
勲一等瑞宝章正章と副章
勲一等旭日大綬章正章と副章
今村中将着用品

今村均 陸軍大将 開戦時は第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。終戦時は第8方面軍司令官としてラバウルを守りきっている。


梅津美治郎大将愛用の軍刀  

終戦時の陸軍参謀総長、降伏文書調印式全権。東京裁判で終身刑、獄中死。


荒木貞夫大将愛用の軍刀  

皇道派の重鎮。二・二六事件で予備役に。東京裁判で終身刑。のち釈放。


栗林中将からの画手紙
(長男 太郎氏に宛てた手紙)

栗林忠道 陸軍大将
硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長・小笠原方面陸海軍最高指揮官)として防衛戦を指揮し玉砕。


栗林忠道 陸軍大将 からの 御書簡
(硫黄島から愛嬢 たか子さんへ)

栗林閣下は、次女のたか子さんを たこちゃん と呼び、「戦地のお父さんより」と手紙を送っている。


西郷従龍ゆかりの品

従龍って誰?と思って調べてみました。
西郷隆盛の弟 西郷従道 元帥海軍大将 初代海軍大臣 の孫にあたる人物でした。
西郷従龍 陸軍少佐

一階部分の展示は盛りだくさんでもっと時間が欲しいところでしたが時間切れ。
二階へ誘導されます。


旧陸軍大臣室

士官学校時代、士官学校長室として使用された。 昭和16年以降は陸軍大臣室であったが、その後は陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使われた。

部屋の中央には解体前の「旧1号館」の縮尺1/50模型がドンッっと置かれております。陸自時代のものになりますね。

ちなみに模型でも掲げられている「旧1号館」時代(平成9年解体まで)のシンボルマーク「桜」と「大時計」は1階玄関に展示してありました。

部屋の片隅には
「大本営陸軍部標札」
「陸軍士官学校標札」

「陸軍省で使用した印」
「陸軍大臣及び陸軍省副官の公印」
「東条英機大将使用の実印」 なども展示。

これらの歴史的遺産に「おおおっ!!」です。

こちらはガイドの方が口頭で。そんなに深くは触れてくれるな…な感じでサラリと。

昭和45年11月25日の三島事件、この部屋(東部方面総監執務室)で総監を人質にした際に「三島由紀夫のつけた3つの刀傷」が扉に残っている。参加者的には撮影スポット。


旧便殿の間

士官学校時代、陛下の休憩所(御便殿の間)であった。
その後は陸上自衛隊幹部学校長室として使われた。

展示物がいくつか。
おもむろに展示してある「明治天皇御立場跡の碑」はもともとどこにあったものなんだろう・・・

扉や窓の上部にメッシュの小窓。実はこの部分は空洞になっており、地下から冷気をとりこみ、部屋を冷却していたというエアコンがなかった時代の工夫が、 陛下の休憩所に施されている。

陸軍特別大演習 昭和9年11月 群馬県

ガラス乾板。最前列から最後尾まで高画質に鮮明に写すためにガラスに焼き付けた写真。高い位置から集合写真を「長方形に写す」為に実際には台形で整列しての撮影という。(写り込みの反射が厳しい

陛下を中心に、演習に参加した士官がすべて写った集合写真。 前列には大将以下の将官、最後列は少尉となるようです。

よくみれば、山本五十六や、東条英機も写っておりますね。

けっこう見学時間がたりないですね。思ったよりも慌ただしい見学でした。
これはもう一度の見学をしたくなる…

このあとは隊舎の前を通り厚生棟で買物と休憩。なお撮影は禁止。
厚生棟にはスタバやセブンやミリタリーショップなどあり。
が、休憩が15分しかなく…


市ヶ谷台ツアー メモリアルゾーン

自衛隊殉職者慰霊碑

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。
毎年10月に追悼式が行われて平成29年には25柱が新たに祀られたという。

自衛隊殉職者慰霊碑
昭和55年10月再整備。碑銘は鈴木善幸首相揮毫。中央は黒御影石、左右は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっており、中央の球体は平和の象徴たる鳩とともに、仲間が欠けることがない丸を表している。副碑として池田首相の旧慰霊碑を備える。

ツアー参列者一同、一列に横に整列し、黙祷を捧げる。
1900余名の殉職なされた隊員の皆様に。
その功績を永久に顕彰し、敬意と哀悼の意を。


左手にいくつかの石碑があった。

市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。

東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

昭和39年の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、その司令部跡地に置かれた碑を移設。

戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。


メモリアルゾーン

市ヶ谷台の各所に点在していた碑を移設し集めたエリア。ただこの市ヶ谷台ツアーでは時間の都合で「自衛隊殉職者慰霊碑」を遠目に拝するのみで案内は終了。ガイドの人に「メモリアルゾーンの石碑を見学することは出来ないの?」と聞いてみたところ・・・
過去に年に一度ぐらい、悪天候などでツアー参加者が少なくて(それこそ2人とか)、時間が余りまくったときには見学の機会があったらしい。そうでもない場合は時間の都合でメモリアルゾーンの細かな見学は設けていない、と。 今回は10人ほどの少人数でしたが、それでも駄目でした。残念。

実際の見学は出来ませんでしたが
以下、パンフレットをベースに見学した気分だけ味わっていこうと思います。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

終戦時の陸軍大臣として敗戦の責を感じ8月15日に自刃。

杉山元帥、吉本大将自決之跡の碑

第一総軍司令官杉山元元帥と軍令部付であった吉本貞一大将がそれぞれ9月12日と14日に市ヶ谷台で自決。

雄健神社跡

雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。昭和16年、御神体が奉還され、今回移設した。

全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎖」、「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

大元帥陛下御立所
九九式十糎山砲

砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

陸軍士官学校跡の碑

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

東京陸軍幼年学校跡の碑

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した

陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決

約2時間の市ヶ谷台ツアー。
見どころ満載で、見損ねたところも多数な感じで、非常に充実していたツアーでした。
これはまた参加したい(平日のみの開催だから、なかなか参加するのが難しいのが現実だけど)

あとは、難しいけどメモリアルゾーンをゆっくり見学したいものです… 〆

見学しました

市ヶ谷台ツアーリーフレット(旧版)


関連

市ヶ谷水管橋

海軍工作学校と海軍通信学校(久里浜)

平成31年3月(通信学校・久里浜駐屯地)及び平成30年5月(工作学校関連)撮影

海軍通信学校庁舎(昭和14年)

「海軍工作神社」

久里浜八幡神社
境内社「海軍工作神社」
昭和16年4月に久里浜にて開校した、海軍の工作術教育を行う海軍術科学校「海軍工作学校」校内に祀られた神社を発祥とし、戦後に海軍工作学校戦没者慰霊として久里浜八幡神社境内に遷座したという。 社号標は「平成7年8月吉日建立・・・」と銘記あり。

「久里浜八幡神社」を参拝。
境内地からは弥生式土器も出土しており、周辺には古墳も点在。 当社の創建は養老4年(720)という。


「海軍工作学校跡」碑

海軍少将 美原泰三 謹書(終戦時の海軍工作学校長)
久里浜公園

海軍工作学校は工作術専門の教育機関として昭和16年4月開校。(それまでは工機学校が工作術を兼務)特殊潜航艇「海龍」は海軍工作学校の研究開発であった。 海軍工作学校卒業者のうち戦死者は5千余人という。

海軍工作学校跡碑
建設之趣旨
 昭和十六年此の地に創設された海軍工作学校は、従来工機学校の一分科であった工作科が始めて独自の教育機関を持った画期的なもので、その後更に沼津分校の設立に拠て発展して行ったのであります。其の間、数万の学生、練習生に工業技術(金工、木工、潜水)教育を施し大きな成果を挙げました。
 此の学校を卒業した若者或は職員として深いゆかりのあった、工作科関係の多数の人達が太平洋戦争に殉じ尊い生命を捧げ、北海の果て又は南冥の戦場に散華されましたことは誠に痛恨に耐えません。戦後復員した者達は、本校等で習得した技術と旺盛な精神力を夫々の分野に於て発揮し祖国復興に大きな役割を果し、平和日本建設の原動力となったものと確信致します。
 今此の母校跡に記念の碑を建設し、謹んで海軍工作科関係戦没英霊の御冥福を御祈りするとともに此の地を訪れる卒業生、遺族並びに関係の皆様が当時を偲ぶよすがとし、永くその業績を称えたいと念願するものであります。
昭和五十二年三月 発起人一同 (碑文引用ここまで)

旧海軍工作学校戦没者慰霊祭
http://kurihama.info/event/kousakugakkou_ireisai/

当地は毎年5月22日13時に久里浜八幡神社より神職が出向し、神式にて慰霊祭が斎行されているという。 すでに遺族会は数年前に解散しており現在は久里浜観光協会が主導・・・


久里浜には海軍工作学校のほかにも、海軍通信学校(現在の久里浜駐屯地)や海軍機雷学校(のち海軍対潜学校)があった。海軍対潜学校は現在の「横須賀刑務支所・久里浜少年院」の近く。ちなみに最後の対潜学校長は木村昌福 少将。そこにも跡地の石碑がある。

久里浜駅近くの長安寺に慰霊碑があるというので立ち寄ってみました。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

昭和22年1月 
浦賀引揚援護局建立 引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っているという。
(神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)
合掌を…

同じく、久里浜の長安寺にある「祠」


「通校神社(海軍通信学校神社)」

海軍通信学校庁舎前に鎮座していた「通校神社」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

久里浜駐屯地 歴史館にて

「海軍通信学校」跡

現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。

碑は志摩清英(通信学校長・海軍中将) 謹書

平成31年3月の久里浜駐屯地「桜まつり」で敷地内見学。「海軍通信学校跡」の碑は立入禁止エリアでしたので許可を得て望遠撮影。

立入禁止エリアが多くて・・・

海軍通信学校庁舎(現在の本館)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。
戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。
昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。


海軍通信学校兵舎
(第一兵舎・第二兵舎)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。

海軍通信学校以来の建物は「1」「2」「3」と棟番号が振られている。

海軍通信学校・海軍栓

陸上自衛隊久里浜駐屯地内

歴史館前に
歴史館前に
第一、第二兵舎の間に
第一、第二兵舎の間に

海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


久里浜駐屯地内の記念碑

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立
保安隊記念碑 昭和29年
保安隊駐屯記念碑 昭和28年
保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立

久里浜駐屯地「歴史館」

海軍甲種飛行予科練習生の電信術錬成之碑建立記念
帝国海軍 精神注入棒
海軍通信学校時代の軍艦旗掲揚に使用された竿
海軍通信学校校歌
山下奉文ゆかりの書

山下奉文閣下から陸軍少年通信学校長に就任された高木正実大佐に宛てて書かれたもの。

観桜

もともと「桜まつり」でしたね。観桜も。

非常に空いていた久里浜駐屯地。午前9時から2時間ほど滞在。

ちょうどこの日は米軍のフレンドシップデーとも被っていたというのもあるのかな。私は、このあとは横須賀走水方面に赴きました・・・