立川駐屯地の戦跡散策(立川防災航空祭)

令和元年11月9日

立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。
旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。

立川の戦跡としては、以下も参照に。

平成29年4-5月 陸軍航空工廠の碑 立川陸軍飛行場 大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点と...

史料館の中庭にいくつかの記念碑が集められている。まずはそこから。

八紘一宇


八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立


紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正○謹書

八紘一宇 (立川駐屯地 史料館 より)

※ 昭和15年に、紀元2600年を記念して陸軍航空補給廠本部前に建立されました。
「陸軍航空補給廠」は、昭和9年3月所沢より立川に移転しました。当時立川や近在の人々からは「航空支廠」と呼ばれており、まさに日本陸軍航空補給の総元締でありました。」

※ 長年にわたりアジアが欧米列強の植民地と化している実情を憂い、アジアおよび世界が一つの家族のように一つの傘のもと、いつまでも平和で共に栄えるようにとの願いをこめて、昭和15年に記念して建立されました。そして、八紘一宇の願いどうり、我国によって大東亜戦争がはじまり、数多くのアジアの国々が植民地から開放され、その勢いは、アフリカなど全世界へ広がりました。

※ 字は、陸軍中将 山下 奉文が書いた字です。

行幸紀念

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

飛行第五戦隊記念碑

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は
大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 
同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

皇太子殿下行啓記念碑

昭和16年10月28日

史料館東庭園

移駐当時の隊員が造成。飛んでいった飛行機が無事に帰ってくるようにと、ブーメランの形を模している。

立川駐屯地竣工記念植樹碑

昭和58年5月29日

ちょっと移動しまして「本館」前に。

立川黒松

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

立川駐屯地史料館

陸軍飛行第五聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

国連旗・日章旗・星条旗
米合衆国極東空軍立川基地全面返還式当日に降納された国連旗・日章旗・星条旗 昭和52年11月30日

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

昭和初期の蓄音機

杉山元 元帥の書
板垣征四郎 大将の書

二式射撃照準器甲一号
皇紀2602年(昭和17年)正式採用

三菱式双発型輸送機ニッポン号羅針盤
大毎東日新聞社が帝国海軍九六式陸上攻撃機を改造し世界一周を行った機体の羅針盤

そのほか展示など

野外展示

立川防災航空祭
駐屯地の様子など

飛行展示

史料館に籠もっていたので、飛行展示はあまり見れませんでした・・・

スタートダッシュが遅かったので、大型ヘリ搭乗整理券は貰えず・・・でした。そのあたりはまた次回にでも。