立川陸軍飛行場跡散策

平成29年4-5月

陸軍航空工廠の碑

立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場も頭っており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。

位置関係

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川小唄記念碑
 旧立川飛行場正門前

(立川 市制五十周年記念 憩いの場 曙町二丁目交差点)

かつて飛行第五戦隊の正門があった地に隣接する公園。
前述の地図でいうと陸軍航空技術学校のあるあたり。
平成29年に新しい碑が建立された。

立川小唄 (昭和5年発表)
作詞 大関五郎
作曲 町田嘉章

東京ばかりか浅川青梅
 五日市から一走り
汽車だ電車だ川崎からも
 空の都よ立川よ

☆ わたしゃ飛行機風まかせ
   舵の取りよで宙返り
  オヤクルリトセー
   ションガイナー

飛行五連隊ありゃ格納庫
 ほんに技術部さしむかい
ここは日本の飛行機の名所
  空の都よ立川よ
☆繰り返し

渡れ日野橋お茶屋が見える
 浮いて静かな屋形船
眺め懐かし秩父や御嶽
 空の都よ立川よ
☆繰り返し

碑文
立川小唄記念碑建立由来
 大正11年(1923年)立川に陸軍航空隊が開設、当初軍用だけでなく民間空港としても使用され、国内便の他、諸外国からも多くの飛行機が飛来し、昭和6年(1931年)羽田空港が出来るまで、国際空港としての役割を担い立川は「空の都」と云われ飛行場と共に発展してきた。
 この立川小唄は昭和5年(1930年)に制作、踊りと共に発表されたもので、飛行場だけでなく当時の立川の情景を27節に分けて描写し、空の都立川を謳歌し広く地域で歌われたもので、この記念碑はその内の3節を選んで刻写したものです。
 戦後、飛行場は長年に亘り米軍基地として使用されてきたが昭和52年(1977年)返還され、国営昭和記念公園を始め数々の跡地利用が進み、立川市は多摩の中核都市として大きく発展し、今やかつての立川が「空の都」と云われてきたことが消え去ろうとしている。
 この度、末永く「空の都立川」を伝えるため、かつての立川飛行場正門前のこの地に記念碑を建立する所以である。

平成29年5月吉日 
 立川小唄記念碑建立委員会

乙式一型偵察機サルムソン 2

立川飛行場の航空神社?

昭和4(1929)年4月、立川陸軍飛行場に接して航空神社が創建。もともとは地元の有力者が鬼門除けとして京都北野天満宮を勧請させたものを、陸軍飛行第五戦隊の要望により航空殉職者を合祀したことにはじまるという。

参考サイト:https://chinokigi.blog.sonet.ne.jp/2012-07-08-4

確証は取れていないけれども現在の昭和記念公園の南側、当時でいうところの滑走路の南端、駐車場の片隅にある小祠が「立川の航空神社」の名残という。
往時の地図的には一致するが詳細は不明。

立川航空支廠名残の踏切

JR青梅線の踏切の名称に往時の名残が残る。
「航空支庁前踏切」
この「航空支庁」とはかつての「航空支廠」、このあたりに「立川陸軍航空廠」が存在していた。
立川飛行場の西側にあたる。

「航空支庁前踏切」から更に西に向けて歩く。

「航空支庁西門踏切」
こちらは西立川駅の東隣の踏切になる。
この2箇所の踏切の名前に僅かに往時の名残がある。

西立川駅と東中神駅の間。
これは往時のものかどうか不明ですが、もしかしたら往時のものかもしれません。
敷地外から撮影。

JR青梅線「東中神駅」の東側には、基地変換後に未開発の空白地域が残っておりましたが、現在は再開発中。
数年前に訪れた人のレポートでは、なにやらが残っていたようですが、今は見ての通りに更地です。このあとはどうなるのでしょうかね…

踏切に残る守衛所跡

JR青梅線「東中神駅」横
「村山街道踏切」に残っている「守衛所跡」
この踏切から
北は 「陸軍航空工廠」
北東は「陸軍航空技術研究所」
東が 「陸軍航空工廠立川支廠」

踏切脇のここだけがまわりとは違和感を感じる空間。

たしかに往時のコンクリっぽい雰囲気。
いまでこそ何をガードしているかわからない空間。

守衛の気持ちで中に立ってみたら、意外と空間があった。

地味ですが、再開発の狭間でわずかに残された往時の記憶。
なんとかこのまま残っていてほしいものですが。

さて、東中神駅と中神駅の中間あたりを目指します。

東中神駅と中神駅の中間「昭和郷踏切」
昭島は昭和町と拝島町合併による複合地名。昭島駅は元は昭和前駅(昭和飛行機の働きかけによる)
中神駅から立川基地引込線「立川工廠線」が昭和18年敷設。航空工廠への資材運搬用線路。戦後は米軍に活用され昭和53年廃止。

中神引込線通り

さきほどの「昭和郷踏切」から北上する。 この道がかつての航空工廠及び戦後米軍へ資材を運搬していた「貨物線廃線跡」 現在は道路として整備されている。

「中神引込線通り」
この道を北上していくと線路分岐点にちょっとしたモニュメントがある。

平成12年(2000)に昭島市が整備した際に当時使われていたレールの一部と転轍機(ポイント変換機)が保存されている。

立川陸軍航空工廠線
立川基地引込線

昭和18年に陸軍唯一の飛行機製造部門として展開された航空工廠への資材運搬用路線。
戦後は米軍接収の立川基地専用線として燃料輸送貨物線として使用された。
立川基地は昭和52年変換。引込線も昭和53年廃線。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)
分岐点

右の線路跡へと歩みを進めていきました。
線形以外は他に見どころは残っていないしどちらを歩いても行き着く先(立川陸軍航空工廠跡)は一緒です。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)
終着地点


かつての陸軍航空工廠跡地は数年前までは周辺から取り残された空間でしたが、再開発が進んでおりまして。
すっかり見事に綺麗になってます。

立川陸軍航空工廠跡

再開発中。
奥では「国際法務総合センター」の準備が進む。 2017年(平成29年)9月開始。 撮影時はまだ運用開始前でした。

陸軍航空工廠の碑

平成2年九月建立 
航友会長 陸軍少将 浅見平吾

陸軍航空工廠の跡地は、この碑から道を隔てた東側一帯。
陸軍航空工廠本館は、ここから東南四百米の所にあった。

陸軍航空工廠の碑

碑誌
陸軍航空工廠は、この地昭島に、昭和15年4月開設され、従業員1万80余名が航空機生産に従事し、昭和20年8月終戦により解体せり。
昭和48年8月初代工廠長陸軍中将猿谷吉太郎氏をはじめとして旧従業員有志により航友会を設立、親睦を旨とし、年一回当地に集い旧交をあたため今日に至る。
今ここに当時をしのぶよすがとして記念の碑を建立す。
平成2年9月吉日 航友会有志一同

昭島市立むさしの公園

「立川陸軍航空工廠跡」を北上。
「国際法務総合センター」北側に新しく開設(2016年11月)されたのが「昭島市立むさしの公園」。
道路を挟んで東西の公園。
西公園と東公園。 東公園に気になる文字列「廃線跡モニュメント」とあります。

廃線跡モニュメント

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」
その東公園に「廃線跡モニュメント」が設置。

立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)名残。
再整備時に残存していたレールやバラスト等を再利用してモニュメントとして一部を保存。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」
「廃線跡モニュメント」
公園内の3ヶ所にモニュメントとして「立川陸軍航空工廠線跡(立川基地引込線跡)」廃線跡が復元されたという。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

廃線跡をモニュメントとして復元というのには複雑な気持ちだけど。それでも何もなくなってしまうよりか断然に価値があると思う。

黒い棒のようなものは「複式コントロールボックス」と銘あり。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

丘の先にも別の「廃線跡モニュメント」があります。
遊歩道を横断するレール。

「立川陸軍航空工廠跡」に新設された「昭島市立むさしの公園」

さきほどの2つは東公園の廃線跡モニュメント。
西公園はほんの僅かにモニュメントが設置。

えーと。 歩道を横切る黒い線。レールの跡ですね。
これは言われないと気が付かない…

立川飛行機(立飛)

かつては国内4位の航空機メーカーであった。
全身は1924年設立の石川島飛行機製作所(石川島飛行機)
1934年に95式一型練習機を製造。「赤とんぼ」として陸軍主力練習機として使用された。
1936年に立地名の立川飛行機と改称。戦中は中島飛行機の開発した「一式戦闘機・隼」の大規模移管生産などを請け負う。
戦後は「立飛工業」から「新立川航空機」へとスライド、本家は「立飛企業」かた「立飛ホールディングス」となる。
現在「立飛」は全身の立川飛行機の略称からつけられたものであり、立川モノレール駅「立飛駅」にも採用されている。

立川防災航空祭(2019年)にて

立飛(TACHIHI)グループイメージキャラクター
たっぴくん
たっぴちゃん

立川で不動産業を営む立飛で生まれた「たっぴくん」「たっぴちゃん」。とっても仲良しな二人は、お気に入りの羽がついたリュックに「愛と夢と幸せ」をたくさんつめこんで今日も大空をお散歩中!

立飛駅(多摩モノレール)

日本の航空機産業の宝 R-53型軽飛行機

立飛駅周辺のこの場所は、むかし飛行機を作る工場がありました。
約3万8千4百人の工員が働いていて、通称「赤トンボ」九五式一型中間練習機(キ-9)、一式双発高等練習機(キ-54)など約1万機弱あまりが作られました。
また、戦後国産第1号機としてR-52型軽飛行機も作られました。

多摩モノレールは立川飛行場東側の工場エリアを縦断している。
乗っているだけでもいろいろ見えてきて楽しいものがある。
「立川飛行機」を脳裏に描きつつのモノレール車窓も感慨深く。

流れをくむ立川駐屯地にも機会あれば(一般公開日)行かないとダメですね。


立川駐屯地にも行ってきました。

令和元年11月9日 立川駐屯地の一般公開に合わせて見学をしてきました。旧軍や戦跡に関することを中心に記載を。 立川の戦跡として...