「兵庫県」カテゴリーアーカイブ

第3師団創立63周年・千僧駐屯地創設73周年記念行事(2024年・伊丹)

大阪出張の前泊で、大阪入りしていたので、なんとなく第3師団司令部が所在している「千僧駐屯地」に足を運んでみました。
大雨で、ろくに写真は取らず、でしたので、さらりと。


千僧駐屯地

旧軍がいっさい地縁としては関与していない珍しい駐屯地。
昭和27年に開設。
第三師団長は陸将。第三師団副師団長は陸将補、駐屯地司令を兼務。

ちなみに千僧(せんぞ)と読む。難読系。
大僧正「行基」ゆかりの地。
行基が農業振興のために昆陽池を造営した際に出た犠牲者の霊を慰めるために、元明天皇の命を受けて713年に千人の僧を招いて行った「千僧供養」から。


広報資料館(千僧駐屯地)

海軍航空爆弾
「二十五番通常爆弾」(対艦艇用/250キロ爆弾)
対艦250キロ爆弾、です。

「AN-M66型1トン爆弾」
太平洋戦争中、米軍が大阪城近くに投下した爆弾

「七年式三十糎榴弾砲」
陸軍が大正7年(1918年)に制式化した口径305mm重砲

広報資料館内に。「記念館」と掲げられていますね。

第三師団は、近畿2府4県を管轄。
中部方面隊直轄と合わせた関西の陸自駐屯地は下記となる。
 兵庫県:千僧、姫路、青野原
 京都府:福知山、大久保、桂、宇治、祝園
 大阪府:伊丹、信太山、八尾、川西
 滋賀県:今津、八尾、大津
 奈良県:(陸自駐屯地なし)
 和歌山県:和歌山

木口小平。広島歩兵21聯隊第3大隊第12中退所属。
「キグチコヘイハ テキノ タマニ アタリマシタガ シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」

硫黄島の砂
英霊に敬意を

野外展示。


殉職隊員顕彰碑

合掌

第三師団庁舎


観閲式・観閲行進

グランドに移動します。雨の移動は煩雑ですね。
また毎度毎度で、入退出するたびに手荷物検査するのも煩雑で。。。

到着時間が遅かったので、良い場所が確保できず。
写真はあまり取らずで見物します。

雨で傘が広がるので、視界も今ひとつ。

午前の部の模擬戦闘訓練は写真諦め。


第3偵察戦闘大隊

今津駐屯地に新編された大隊。
第3偵察戦闘大隊は、滋賀県高島市の今津駐屯地に駐屯していた第3戦車大隊と兵庫県伊丹市の千僧駐屯地に駐屯していた第3偵察隊を基幹として、令和5年3月に新編。

16式機動戦闘車、87式偵察警戒車、軽装甲機動車、オートバイ(偵察用)が主要装備品。


模擬戦闘訓練展示

午後の部を。

状況終了

雨でなかなか厳しい環境でしたが、訓練展示を2回実施してくれる駐屯地記念行事ははじめてでした。

※撮影:2024年5月


関連

姫路城周辺の戦跡散策

姫路に行く機会があったので、隙間の時間で夕方に駆け足気味に姫路城の周辺を散策してみた。きちんと、散策できてないけど、まずはざっくりでも、何もしないよりかはマシかな、という感じで、巡ってみました。


姫路城

実は、初めて見ます。これは、やはり美しいですね。
良いものを拝見できました。
なお、日没直前なので、あまり時間もなく、城を遠望するのみ。


歩兵第10聯隊跡碑

柵の内側、立入禁止エリアになにやら石碑があります。

三の丸広場の北東。天守閣のすぐ下、です。

歩兵第十聯隊跡碑

歩兵第10聯隊は、明治7年に大阪鎮台にて編成され、明治9年に姫路に転営。
宇垣軍縮の影響で、大正14年に岡山に転営。

望遠で、、、

歩兵第十聯隊は明治七年大阪鎮台に於て編成同九年此の城域に移る爾来駐屯して大正十四年岡山轉營に至る
 其の間兵庫岡山及び當初は鳥取縣に跨る徴募区より毎年入營せし壮丁皆滅私奉公の至誠に徹して日夜練武に精進一旦有事の秋に備ふ
 春風秋雨五十年終始衞戍の責に任じ更に西南の役を始め日清日露の両戰役に際し勇躍國難に於いて偉勲を樹つ
 茲に其の史蹟を永く記念して此の碑を建つ
  昭和四十二年三月
   姫路歩十會

誠忠

奥になにかあった。立ち入りできないので望遠。。。

(前略)
廢藩置縣後陸軍ノ所管タリシヲ昭和八年五月文部省ニ移管シ本市ニ於テ縦覧通路ヲ開設ス仍テ此ノ碑ヲ建ツ

陸軍から移管されて姫路市が通路を開設したことを記録する石碑。

場所

https://goo.gl/maps/F81hPo5TiqDrVqvu8


迫撃第四大隊

姫路城の南西の広場にある記念碑。

中国戦線で戦い抜いた迫撃砲部隊の記念碑。第11軍に属していた。
迫撃第四大隊発祥の地。

迫四の友 集い来りて 白鷺乃地に立つ

迫撃第四大隊發祥の地に之を建つ
 昭和十二年七月日中事變の勃發と共に郷土の衆望を擔ひ姫路に於て編成せられた我が大隊は十年の歳月を大陸の戰野に轉戰常に特殊任務に從事する獨立大隊として國軍唯一の精華たりしも曽て征旅に就くに方り命運懸けて祈りしひと本の植樹も今は亡く仍てその跡に生還せる者相集ひ我等が鎮魂の賦をここに埋銘し以て萬世不易世界平和を祈念するものである。
 昭和五十六年三月吉日 迫四會

愛馬の碑

場所

https://goo.gl/maps/9F9UFNCmAWZ4n9r87


歩兵第39聯隊碑

兵ども乃 あゝ三九 庭の跡
姫路市長 吉田豊信 書

歩兵第三十九聯隊は日清戦争後姫路に創設せられ第二次大戦の終わるまで姫路城内に屯し文武両道を練磨すること五十有余年平時は國家の中堅となり出でては北満より南洋に至るまで勇躍國難に当たり赫々たる偉勲を樹つ
我等戦友は関連諸部隊と相計り往年の面影を偲び茲元営内跡に記念碑を建て血染の軍旗の一部を地下に浄めて永へに顕彰せんとす
 昭和五十一年十一月
  姫路 三九会

場所

https://goo.gl/maps/bxyRo6wQNPapLQzZ7

左側に、第39聯隊の兵営があった。
現在は、兵庫県立姫路聴覚特別支援学校などがある。


歩兵第39聯隊の境界標石

「姫路城 埋門跡」近くに、陸軍の境界標石(陸軍標柱)が残っている。

陸軍省

このあたりが、第39聯隊の兵営の最南西端にあたる。

埋門跡


国道2号線建設之碑

姫路城の中堀を埋め立てて国道2号線を建設した記念碑。
案内板に掲げられた御紋が重々しい。

この石碑は昭和七年(一九三二)二月、国道2号線の改修を記念して建てられた。改修にあたって、中堀が東西約四五〇メートルにわたって埋め立てられた。中堀のあったことがわかるように、その境界線にこの石碑が建てられた。この石碑は元々は道路の西側にあったが、昭和六十一年(一九八六)の国道2号線拡張工事のため、同所に移転された。中堀の埋め立ては大正期にも進められていた。昭和七年当時、この石碑から東側はすでに埋め立てられて商業地等に変貌しており、姫路市立女子技芸学校(現在の姫路市立琴丘高等学校)も建てられていた

姫路駅のテラスから。この眺望は絵になりますね。

時間がなくて、陸軍第10師団兵器庫(姫路市立美術館)に行けなかったのが悔しい。

https://goo.gl/maps/L7G1L8NUxsHXE4L87

ストリートビューより。。。

姫路、再訪できるかな、、、、

※2023年6月撮影


関連

兵庫縣姫路護國神社

「兵庫縣姫路護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

ちなみに兵庫県は、護國神社が2社あります。神戸と姫路。内務大臣指定護国神社として。
 兵庫縣神戸護國神社:兵庫県東部地区出身の戦没者53,257柱
 兵庫縣姫路護國神社:兵庫県西部地区出身の戦没者56,988柱

参考

兵庫縣姫路護國神社

戊辰の役(明治元年)以降国難に殉ぜられた兵庫県西南部地域(播州、但馬地区)出身の護国の「みたま」五万六千九百八十八柱命を祀る。

1893年(明治26年)より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、1936年(昭和11年)に鎮座地を決定。
1938年(昭和13年)に竣工・鎮座した。
翌1939年(昭和14年)、制度改革により「兵庫縣姫路護國神社」となり、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後のGHQ占領下では一時的に姫路城の別名の白鷺城に因んで「白鷺宮」と改称していたが独立後は元の社名に復している。


兵庫縣姫路護國神社境内

社号標

昭和天皇御製
静かなる
 神のみそのの
  朝ぼらけ
世のありさまも
 かかれとぞおもふ

昭和13年歌会始の御製「神苑朝」

狛犬

社号標

昭和17年12月8日建立。開戦の1年後。

御社殿

拝礼

ありがとうございます。


御朱印

御朱印をいただきました。


護國神社の由緒

兵庫縣姫路護國神社の由緒を、書き起こし。
これは、とても佳き記述です。

護國神社の由緒 
明治という時代は今に続く国の仕組みの基になりました。
慶応3年(1867)徳川慶喜公が大政奉還を明治天皇に上奏し、王政復古の大号令によって明治政府樹立が宣言されました。この前後、国内では、独立を保つ近代国家をめざして様々な議論や戦いがありました。
姫路藩河合惣兵衛宗元をはじめ明治維新の志半ばで倒れた勤王の志士を、慰霊顕彰する祭祀が、明治26年(1893)この地で執行されました。それが当護國神社の始まりであります。
その時代から昭和に至るまで国家を守護し、地域とそして何より家族を守ろうとして殉ぜられた方々を英霊とお呼びし、最新としてお祭りしています。
先人の困難を振り返り、あらためて私たちが平和で豊かな国土に暮らしていることに感謝し未来の御加護を祈りましょう。

我が国が米国や英国などと戦った大東亜戦争は、国内に物資も乏しい上に供給を止められ惨烈を極めました。特に「比島散華碑」に記載された部隊が派遣されたフィリピン、ルソン島のように、南方では武器も食料も尽きその上マラリアなど熱帯特有の病気に罹るなど、将兵の疲労困憊は、極度に達し、遂に力尽きて斃れるものも多かったのです。生存者は少なく、戦後13年を経て昭和33年(1958)4月、政府の手により比島方面遺骨収集が行われました。共に戦った戦友は、護國神社に相よって英霊の偉勲を讃え、石碑を建立しました。
召集や志願で戦地に向かわれ戦死された方々の残された手紙や遺書には、本土への空襲を阻止するなど祖国防衛の気概と家族を守らんとする思いにあふれています。

明治維新のさきがけから、戦陣に倒れた英霊は246万余柱です。当護國神社には郷土の人たち56,988柱の方々が祀られています。多くの方々が「欧米諸国によるアジアの植民地を開放し、自立を目指すという理念と構想」を元に始まったとされる大東亜戦争で戦死をされました。
昭和6年(1931)の満州事変から昭和20年(1945)の長い戦いの中、我が国は、資源や財力も乏しく敗戦を迎えました。戦後約6年8ヶ月もの間、占領下におかれ、民族固有の価値観が制限されました。その間当護國神社は、社名を「白鷺宮」として祭祀を永続し、昭和27年占領が解かれ、再び護國神社と復称いたしました。昭和28年8月衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」が、全会一致で承認され、東京裁判でいわゆる戦犯と呼ばれた方々の名誉が回復されました。

先の大戦は、国家国民を挙げての戦いでありました。
勉学に励む20歳以上の学生も戦場に向かいました。
東京オリンピックが開催された国立競技場は、昭和18年(1943)に出陣学徒壮行会が行われました場所です。
また、国民は男女を問わず、地域や工場で奉仕するなど銃後を守りました。「賀堂流碑」は、戦地に兵士の慰問に行かれ戦死された宗家を顕彰して建立されました
今を生きている私たちが、戦争の起こった当時の状況を学び理解することは、大変重要なことです。私たちはそれらの資料に基づいてその歴史を客観的に見ることができます。しかし、動乱のなかに生きた英霊は、大変な困難を前に一心に、自分の命をかけて、国家を、地域を、家族を守ることが、正しい道と考え立ち向かわれました。
そのことを後世の人達が称え、感謝することはとても大切なことです。

日本全国には8万柱を超える神社が鎮座しています。
日本最古の歴史書「古事記」が編纂されて1300余年になりますが、それ以前から私たち民族は、自然と祖先を崇拝し感謝をささげるために、8百万の神々を祀ってきました。
私たちが命をいただき生きているのは、自然の恵みと祖先のおかげであります。
護國神社の御祭神は身近なご先祖の一柱です。
あなたのたくさんのご先祖様の中には、必ず御英霊がいらっしゃいます。
ふりかえって、もう一度社殿を見てください。
子孫を温かく見守って下さるまなざしを感じられると思います。
神社のいわれを深く知り、もう一度頭を垂れ感謝の気持ちを伝えてください。
 ここはあなたの祈りが届場所です。
  姫路市本町118
  兵庫縣姫路護國神社


境内の慰霊碑

鉄五四五四部隊 比島散華碑

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)の慰霊顕彰碑。
昭和三十四年十月建立。

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れりかくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らずかくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

碑の傍らには、「輜重車の車輪」が献納されておりました。

散華鎮魂
二六四三

2643は、紀元かな。
そうすると、1983年(昭和58年)奉納の鐘と推測できる。
(紀元2600年=西暦1940年=昭和15年)


姫路歩兵第百三十九聯隊 
鎮魂碑

第百三十九聯隊の戦友戦没者1357柱の慰霊顕彰

姫路歩兵第百三十九聯隊略史
昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、数年にわたり、よく治安の大任を果す。
昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県、登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。
終戦後、八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国に帰り得ない英霊一三五七柱あり。
われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。

第139聯隊戦友会  
 会長 伊藤栄一謹書
  平成四年五月吉日


歩兵第八十一聯隊・野砲兵第二十三聯隊 
鎮魂

歩兵第八十一聯隊、野砲兵第二十三聯隊戦友戦没者の慰霊顕彰

鎮魂
 元第十七師団長 酒井康

酒井康は、第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将、勲一等に至る。陸士24期を経て陸大32期首席。
昭和17年12月から17師団長として南方戦線ニューブリテン島の防衛にあたり、ラバウルで持久戦のさなか、終戦を迎えた。

歩兵第八十一聯隊戦友会
野砲兵第二十三聯隊戦友会
建之

歩兵第八十一聯隊ハ支那事変酣ノ昭和十三年第十七師団隷下ニ編制八月軍旗ヲ遠ク長江山野ニ進メ宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉ク捷チ馳騁千里武名華中ニ遍ク 
戦雲南東太平洋ヲ蓋フヤ十八年秋敵雷撃ニ僚船轟沈ノ悲運ニ堪ヘ南溟ノ怒涛遙カニューブリテン島マーカス岬ニ奮迅御嘉賞ヲ賜フ士氣凛々祖国ノ興廃ヲ賭シテブーゲンビル島タロキナ攻隊ノ死闘半ハ終戦ノ令下り無念軍旗ヲ奉焼ス 征戦七年殉国ノ勇士五千有余敵弾ト飢餓瘴癘ニ遂ニ還ラス実ニ痛恨断腸ノ極茲ニ我等碑ヲ刻ミ忠烈武勲ヲ千載ニ垂レテ英魂ヲ鎮メ邦家無窮ノ安寧ヲ希フヤ切ナリ
 昭和五十七年五月三日
  歩兵第八十一聯隊戦友会

第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月大陸に進出
武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島に上陸・ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す
創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
  昭和五十七年五月三日
   野砲兵第二十三聯隊戦友会


詩歌吟詠道 賀道流碑

部隊慰問中に急逝された詩歌吟詠道賀堂流(初代宗家・礒部賀堂)の慰霊顕彰の碑

詩歌吟詠道 賀道流碑

碑文
詩歌吟詠道賀堂流は初代崇吟社礒部賀堂創始 礒部家を宗家として伝承す
初代は明治二十六年七月姫路東郷町松下家に生れ礒部家に入婿坂田町に住す姫路藩吟詠を伝えし西村宣孝の教を受く多年刻苦の末豪壮且つ幽麗なる吟詠法を創案しその格調天下に冠たり
全国に門人を得社会人心の醇化並に吟詠界に貢献多大なりしが昭和十七年再度戦陣慰問吟行中に中国山西省喉馬鎮に急逝し靖国神社に合祀さる
爾來二十星霜茲に及門相謀り流碑を建立して当流の由来を記しその発展を期すると共に創始の偉績を万世に顕揚す
   昭和三十七年三月
     詩歌吟詠道賀堂流門弟一同


征き逝きし 同胞迎う 里もみじ


敬仰 国旗掲揚塔

敬仰

海軍少将 水井静治 書

水井静治は海兵40期。千代田や千歳の艦長、舞鶴や呉の防戦司令官を経て終戦時は第81戦隊司令官。

碑文
 戊辰の役以降、今次大戦に至る数次の戦役において祖国の負託に応え国難に赴き散華された御霊の、不滅の偉勲を顕彰し国際社会にあって国家を表徴する英霊由縁の日章旗と、海軍伝統精神の象徴たる軍艦旗を捧げるとともに、併せて国旗尊厳を後世に伝承すべく念願して、海軍在籍者の団体兵庫県海交会、ならびに海軍ゆかりの有志により、ここに国旗掲揚塔を建立し奉献する。
  平成2年11月吉日
    兵庫県海交会

境内の石碑群

兵庫縣姫路護國神社サイト

TOP

姫路城

周辺も散策してみましたが、それは別記事にて

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに

大阪星田で散華した学鷲・中村純一中尉の慰霊巡拝

以前、宝塚聖天を参拝した際に、目についた慰霊碑があった。
それが、中村純一中尉の顕彰碑(慰霊碑)であり、そこで交野市の星田駅近くの戦死場所にも慰霊碑があると聞き、それを知ったのはなにかの縁、いつかは行かねばと、心の片隅に気にかけていた。
先日、大阪に赴く機会があり、運良く時間があったので、足を運んでみました。


中村純一中尉慰霊碑(星田)

星田駅周辺の再開発により、新設された星田北4号公園に移設された、「中村純一中尉慰霊碑」。
移設先でも大切に整備された、清廉な慰霊の空間が設けられておりました。

合掌

陸軍中尉中村純一は 学鷲として参戦 凄惨苛烈なる戦局俄かに急迫を告ぐる頃 一切の懐疑迷妄を越え 淡々として特別攻撃隊を志す
昭和二十年七月九日 天日を覆ひて来襲せる敵機群に突入 壮絶なる空中戦を展開するも 遂に被弾 この地に恨みを残して散る 
近隣有志が相集ひ 烈士の霊を懇ろに弔い 鎮魂の碑を建つ
平和は血と涙によって築かれたるも 愛惜と悲しみは尽きず 痛恨の碑の前に伏し 御霊安かれと祷る
 鹿児島市西43-32 中村三郎 撰

中村純一中尉の弟である、中村三郎氏の撰文。

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。戦死の地に慰霊碑が設置されている。

また、被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されており、いきいきランド交野(交野市)にて展示保管されている。
兵庫県宝塚市の宝塚聖天にも遺族による顕彰碑が設置されている。

再開発の影響で、「陸軍用地の境界標石」も2つ移転されてきた。
星田駅の北側には、陸軍香里火薬製造所へ専用線路があり、その境界標石であった。なお、陸軍香里火薬製造所周辺にも境界標石が多数残存しているというが、さすがに今回は時間がないので、散策などはまたの機会で。

後方は、JR学研都市線。

陸軍香里火薬製造所へ専用線路跡、でもある。ちょうどカーブを描いて北上する位置に公園が整備された。

星田北4号公園

移転前は、このあたりに、慰霊碑があった。

じつは最初は、あるべき場所に慰霊碑がなく、ちょっと焦りましたが、移設先の記載があって安心しました。

中村純一中尉慰霊碑 場所

https://goo.gl/maps/F9RMxBNj6tz5U2m38


中村純一中尉の搭乗機「飛燕」

いきいきランド交野(交野市立総合体育施設)に、中村純一中尉搭乗の飛燕の残骸が展示されている。

平成17(2005)年3月16日に、第二京阪道路の工事で発掘された。
調査の結果、昭和20年7月9日に撃墜された中村純一中尉の飛燕と判明。

60年後にエンジン発見(高知新聞 2008年9月5日)
米機と交戦 戦闘機「飛燕」
※一部抜粋
 1945年7月9日、敵機の接近を知った中村純一中尉=当時(23)=ら17機は伊丹飛行場(現大阪空港)を飛び立った。相手は硫黄島から飛来した約60機の米戦闘機P51。爆撃機B29の護衛を主な目的とし、優れた性能を誇った。
 飛燕は戦時中、実戦に投入された数少ない水冷式エンジンの戦闘機。高馬力で選果を挙げたが、故障が多く、整備士泣かせだったとされる。
 P51一機に中村中尉らの四機が立ち向かったが、すべて撃墜され、中村中尉は落下傘で脱出、敵機の翼でひもを切られ、墜落死した。機体は水田に突っ込み、機種が地中にめり込んでいた。
 目撃者によると、遺体に目立った傷はなく、身につけた赤いマスコット人形が印象に残ったといい、遺体は住民らによって手厚く葬られた。

交野で発掘された出土品(飛行機の残骸)
 2005年(平成17)3月16日に、交野市星田北8丁目の第二京阪道路建設現場で、飛行機の残骸が出土しました。交野市は、発見者の浪速国道事務所から出土品の引き渡しを受けました。
 今後、出土品は、交野歴史文化や教育の一環に使っていきます。

概要
 星田北地域の第二京阪道路建設工事現場で3月16日、橋梁基礎杭施行中に機関銃一丁と銃弾3発が発見されました。
 その後、調査を進めるうちに3月23日には飛行機のエンジンとプロペラが見つかるなど25日までに多数の各種部品が出土しました。
 
 星田歴史風土記(平成7年、財団法人交野市文化財事業団発行)には、次のように史実が記載されています。
 
 「60年前、第二次世界大戦の終戦前の7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島県出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた」と言われています。

 今回見つかったこれらの部品は、エンジンのマークから飛燕のもので、中村純一中尉が操縦さていたものであることが確認されました。

問い合わせ 交野市「平和と人権を守る都市宣言」を進める実行委員会(事務局:交野市総務部人権と暮らしの相談課)

陸軍3式 「飛燕 戦闘機1型乙」
全幅 12.00m
前長 8.74m
全高 3.70m
エンジン 液冷 1100馬力
最高速度 590km
昭和16年12月生産開始 川崎航空機岐阜工場で昭和20年6月まで生産されました。
太平洋戦争でビルマ フィリピン 沖縄 本土防衛など各地で活躍した戦闘機です。

発動機(エンジン)

川崎航空機の社章。

陸軍で唯一、液冷の航空機を開発していたのが、川崎航空機。

ドイツ空軍のメッサーシュミット「Bf109」に搭載されていたダイムラー・ベンツ製のエンジン「DB 601」を、ライセンスを取得し国産化したのが、陸軍機を手掛けるカワサキ(川崎航空機ハ40)であった。
同じタイミングで、海軍機を手掛けるアイチ(愛知航空機アツタ21)もライセンスを取得。
同じ日本で2社(陸海軍それぞれが折半せずに)が個別にライセンス費を払ったために、ドイツ政府は困惑したという逸話もある。

三式戦闘機一型(キ61)は、ハ40発動機を搭載。
三式戦闘機二型(キ61-Ⅱ改)は、ハ140発動機を搭載。

飛燕のエンジン(川崎ハ-40)は、所沢航空発祥記念館にもありました。

プロペラ

墜落時の衝撃で曲がったものと思われる。

二式二十粍固定機関砲(ホ五)

一式十二・七粍固定機関砲(ホ一〇三)

いききランド交野

場所

https://goo.gl/maps/NbwWLRueEuGoiLHJ8


中村純一中尉慰霊碑(宝塚聖天)

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」に鎮まる中村純一中尉の慰霊碑。

終戦33周年の年、昭和53年8月に宝塚聖天に、戦没者英霊礼拝堂「大光明殿」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

以下の記事も参照に。

場所

https://goo.gl/maps/gFiLp9F5BUo3LuwMA

大阪府交野市の撮影:2023年7月
兵庫県宝塚市の撮影:2019年8月


関連

「旧開明尋常小学校奉安庫と機銃掃射の弾痕跡」尼崎の戦跡と近代建築散策・その2(兵庫尼崎)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その1は下記にて


奉安庫

明治23年(1890年)10月30日発布された 明治天皇の勅語「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」と御真影とを、不敬にあたらないように保管し、そして火災から守るための設備として、校内に奉安庫もしくは奉安殿(奉安所)を設置することが明治24年(1891年)11月文部省訓令第4号によって定められた。

学校校舎内に設ける場合は「奉安庫」、校舎外に独立しさせた場合は「奉安殿」となる。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、奉安庫や奉安殿の撤去、解体が進んだが、当校の奉安庫は解体を免れ、貴重な遺産として現存している。


旧開明尋常小学校の奉安庫跡

平成14年(2002年)に閉校した尼崎市立開明小学校。
現在は「尼崎市役所開明庁舎」として活用されている。

現存する校舎は、室戸台風の災害復興事業として、昭和12年(1937年)に竣工。RC造3階建。
戦前の奉安庫が残っているのが非常に珍しい。

1階の旧校長室には戦前の奉安庫や家具が現存し、現在はメモリアルコーナーとして使用されている。


旧開明尋常小学校

開明尋常小学校は、昭和12年の竣工。
現在は、尼崎市役所開明庁舎として活用されている。

艦船の艦橋のようなデザイン。

尼崎市役所開明庁舎(旧開明尋常小学校校舎)

この建物は室戸台風の災害復興事業として1937年(昭和12)2月に開明尋常小学校校舎として竣工しました。校庭を 囲むようにしてL字型に建つ建物は、整然と並ぶ窓の上部に校舎の端から端につながる庇が取り付けられ、水平性が強調された端正な趣を示しています。建物の南端と西端には意匠が異なる玄関が設けられていますが、特に南玄関から上階に上がる階段室は外部に半円形に張り出し、煙突のように天に突き出した柱とも相まって、まるで艦船の艦橋のようなダイナミックなイメージを受け、外観上の最大の特徴になっています。また1階の旧校長室には戦前の奉安庫が現存しています。


機銃掃射による弾痕が残る塀


学校の塀には、機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。

機銃掃射による弾痕が残る塀
 ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元、開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。
 尼崎では1945年(昭和20年)3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1000戸、り災者総数約4万2000人という大きな被害を受けています。
 この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明築でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。
 戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
   平成17年3月

尼崎市サイト

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028313/1028787.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/171572

場所

https://goo.gl/maps/V9VM4JE1EXPDqPvD6

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

鳴尾飛行場と川西航空機鳴尾製作所の戦跡散策(西宮)

兵庫県西宮市の東部。武庫川や鳴尾地区には、戦前、川西飛行機の工場と海軍の飛行場があった。
往時を偲ぶものは少ないが、そんな西宮市の東部を散策してみました。


川西航空機株式会社

現在の新明和工業の前身。
九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、強風、紫電、紫電改などの海軍向けの航空機を製造した。特に水上機と飛行艇には定評を持つメーカー。
傑作機「二式大艇」を生み出したのも川西航空機。
飛行艇のDNAは、帝国海軍の二式大艇から救難飛行艇 US-2(US-1A改)へと受け継がれている。

中島知久平(中島飛行機)に出資していた川西清兵衛は、トラブルから出資を引き上げ、1920年(大正9年)に自社での飛行機メーカーを目指して川西機械製作所を創業。
川西機械製作所飛行機部は、1928年(昭和3年)に川西航空機(現・新明和工業)として独立した。
1930年(昭和5年)鳴尾製作所を開設。帝国海軍と密接な関係となり、海軍も積極的に川西飛行機を後押しし、大型飛行艇メーカーとしての成長をすすめていく。
1938年(昭和13年)、海軍管理工場となる。
1942年(昭和17年)に、甲南製作所(鳴尾製作所分所・現在の新明和工業甲南工場)、姫路製作所が完成。
1943年(昭和18年)、鳴尾製作所に隣接していた鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部の土地が接収され、鳴尾飛行場と川西飛行機用地として使用され、従業員輸送と資材輸送のために、阪神国道駅及び国鉄西宮駅と接続する専用鉄道(のちの阪神武庫川線)も建設された。
川西飛行機は、鳴尾・甲南・宝塚・姫路に製作所(工場)を擁していたが、戦争末期には4製作所ともに米軍空襲により壊滅。工場疎開を余儀なくされた。
戦後の企業再建では、母体であった株式会社川西機械製作所は、第二会社として神戸工業を設立し、解散。神戸工業は富士通と合併。引き継いだ部門は、富士通テンを経て、デンソーテンとして、川西器械製作所を継承している。
川西飛行機株式会社は、昭和22年に明和興業と社名変更し、昭和s4年に、自動車部門の明和自動車工業と、汎用機械の新明和興業に分割。明和自動車工業はのちにダイハツ傘下となり吸収。
新明和興業は、昭和35年に「新明和工業株式会社」に社名変更し、海上自衛隊の救難飛行艇をはじめてとした航空機製造を継続している。


二式大艇(二式飛行艇)

川西航空機が製造した当時世界最高の性能を誇った傑作機。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」と別称された名機。連合国コードネームEmily。
二式大艇でもって、飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。
川西航空機が生み出した帝国海軍の飛行艇の伝統は、戦後は、新明和工業によって海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれている。

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示
 (鹿屋にも行きたい、、、、

以下、参照


甲子園口駅

この日の散策は、甲子園口駅からスタート。

まずはJR神戸線に沿って西に歩いてみました。


甲子園SL公園

川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川ー洲先駅が開通。昭和19年に武庫大橋ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。

甲子園SL公園には、国有鉄道と阪神電鉄武庫川線の貨物を物語る給水塔がモニュメントとして残っていた。

 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。
 この路線は、その後、工業資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代にその役目を終え廃止されました。
 戦後の社会復興に貢献してきた武庫川線の歴史を残す貴重な資料、また、歴史的かつ地区のシンボルとして補修を施し、モニュメントとして生まれ変わりました。

武庫川線に関しては後述します。

場所

https://goo.gl/maps/48tXzUwvr9mKW63S8


まんぼうトンネル(甲子園口)

JRの線路の下をくぐるトンネル。屈まないと通行できないほどの小ささ。高さは130センチほど。
地図を見て、ちょっと面白そうだったので立ち寄り。

もともとは、明治7年に官設鉄道が開業する際に線路の盛り土の下を
用水路が流れるように作ったトンネルだったという。
西宮には、3つほど通称「まんぼうトンネル」がある。今回はそのうちの一番東側のトンネル。これが一番、間口が小さい。

下記の写真は、わかるかな、自転車を押したおじさんがかがみながら通行中です。

北側の半円トンネルは明治29年の複線工事でレンガで造営され、南側の四角トンネルは大正15年の複々線工事のときに延伸したものという。そのために形状が違うのかな。

場所

https://goo.gl/maps/MsmkJTwyUVNH55SX7


いったん、甲子園口駅まで戻って、そこから南下していきます。

武庫川女子大学 甲子園会館
(旧大阪海軍病院・旧甲子園ホテル)

武庫川女子大学の甲子園会館。
昭和5年(1930年)に甲子園ホテルとして竣工。
その後、昭和19年に帝国海軍が借受し、呉海軍病院大阪分院として開院。昭和20年3月に、大阪海軍病院として独立し、終戦を迎える。
その後、米軍の将校宿舎を経て、昭和40年(1965年)、武庫川学院が譲り受け教育施設として活用されている。

甲子園会館(武庫川女子大学サイト)

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/

申請をすれば見学も可能。

流石に女子大なので、私は通りすがりに敷地外からチラ見。
時間がある時に改めて申請して見学したい。

場所

https://goo.gl/maps/46fyrEBYJKmqYbyZ8


明和病院

川西航空機株式会社(現在の新明和工業株式会社)は、福利厚生として、社員用に4つの病院を有していた。
その一つが西宮市鳴尾にあった昭和17年9月に川西航空機株式会社付属病院として創設された「鳴尾病院」。
鳴尾病院は、昭和20年の終戦後に川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、地域に恩返しをしたいとして「明和病院」を再出発させた病院。

明和病院 理事長あいさつ

https://www.meiwa-hospital.com/outline/directors-greetings.html

明和病院 概要

https://www.meiwa-hospital.com/outline/profile.html

場所

https://goo.gl/maps/oRdQcrw3UWewGnYY7


鳴尾飛行場

帝国海軍の航空基地。
鳴尾川を挟み、川西航空機鳴尾製作所に隣接しており、川西航空機の試験飛行用飛行場でもあった。
川西航空機鳴尾飛行場の隣には、もともと鳴尾競馬場(旧・阪神競馬場)があったが、1943年(昭和18年)の春競馬終了後に海軍に接収され、鳴尾飛行場として再整備されることになった。
鳴尾飛行場を建設するにあたっって、浜甲子園阪神パーク(遊園地)などの施設も接収している。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として現存。

戦後は、武庫川女子大学付属中学校・高等学校や浜甲団地、浜甲子園運動公園などに再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-44
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

拡大。滑走路は、米軍の資材置き場として活用されている。
左上には、甲子園球場(1924年完成)。
滑走路から鳴尾川を挟んだ右側が、川西航空機鳴尾製作所。


旧鳴尾飛行場管制塔
旧鳴尾競馬場本館(貴賓館)

竣工は昭和10年(1935年)。もともとは、競馬場のスタンドだった。

現在の武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として使用されている。

武庫川女子大学

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~okazaki/designworks/mwu-jhs/index.html

日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIK17H01_Y5A510C1AA1P00/

管制塔として使用された最上部。

いまでは、そんなに高くは無いが、往時は一際高い建物として管制塔の役目を果たしたのだろう。

X字を描く滑走路のちょうど真ん中に、管制塔がある。

場所

https://goo.gl/maps/4biu4yYk7hkefKk2A


鳴尾飛行場跡

内陸部は、再開発で跡形もない。
浜甲子園運動公園の向こうの団地群は、武庫川団地。川西航空機鳴尾製作所があった場所。

海側。
当時、鳴尾飛行場の滑走路は海上に面していた。
しかし、海際は、「浜甲子園阪神パーク(遊園地)」の残骸もあり、排水溝の跡もあり、なにがなにやらよくわからない残骸にあふれている。鳴尾飛行場の滑走路の残骸もあるのだろう。

残骸があつまる。
きっと、鳴尾飛行場滑走路の残骸もある、、、はず。

甲子園浜

沖合に見える岩礁が鳴尾飛行場時代の海岸線(防波堤)という。

鳴尾飛行場時代の防波堤

鳴尾飛行場の滑走路の残骸。

滑走路東南に位置するところに、瓦礫があつまっている。

場所

https://goo.gl/maps/wSd5Gb2fxQr6sTty9


鳴尾川

鳴尾川の西が鳴尾飛行場、東が川西航空機鳴尾製作所であった。
写真の左側にみえる武庫川団地が川西航空機鳴尾製作所の跡地。


武庫川団地

このあたり一帯は、戦前は川西航空機鳴尾製作所であった。
往時を偲ぶものはなく。

阪神電車がいました。

阪神電車の赤胴車。

自販機も特別仕様。

キレイに保存されている車両。良いですね。

場所

https://goo.gl/maps/nxgZiR4tCNq2ez739


阪神電鉄武庫川線

冒頭の「甲子園SL公園」でも触れたが、阪神電鉄武庫川線の前身は、川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川駅ー洲先駅が開通したことにはじまる。
昭和19年には、武庫大橋駅ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。
終戦後に旅客営業中止。昭和23年に武庫川駅ー洲先駅間での運行が再開。
昭和33年に西ノ宮駅ー洲先駅間の貨物線は休止され、45年に貨物廃止、昭和60年に休止中の武庫大橋ー武庫川間が廃止。
その1年前に昭和59年に現在の「武庫川団地前駅」まで南側は路線が延伸された。

西宮市

https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14039

武庫川団地前駅

武庫川駅

武庫川駅の引込線は、かつての線路跡。

武庫川線の引込線は途中でおわり、線路も剥がされて、線路跡のみがのこる。

武庫川橋の北側からは、住宅地として、線路跡が活用されている。

場所(武庫川橋)

https://goo.gl/maps/2JYjCqWgCDVgimni7

鳴尾・武庫川の散策は、9時スタートで、12時終了。ざっくり3時間で10キロ(電車利用部分は除く)の散策でした。

※撮影:2023年4月


関連

尼崎の戦跡と近代建築散策・その1(兵庫)

兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その2は下記にて


橘公園の高射砲台座

尼崎市役所に隣接する橘公園。
この公園に、高射砲陣地の台座(砲座)が残っている。

関西方面の防空は高射第3師団(司令部は大阪市立美術館に設置)が担当。

尼崎は大阪に隣接する地の利もあり、戦前から工業都市として発展。尼崎市内には最大規模の軍需工場「住友金属工業プロペラ製造所」もあったが、昭和20年6月15日の第4回大阪空襲で壊滅している。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_09.html

橘公園の高射砲台座(砲座)は2基残っている。

1基は、花時計の奥にあるライオン像の台座。

2期目は、ベンチと水道の横になんとなくある不自然な円柱。
柱上には、砲床も残っている。

公園には特に、高射砲台座を示す由来看板などはない。

尼崎公園

https://amagasaki-park.com/plant1

場所

https://goo.gl/maps/gyW2GnWDgsSawPug8


高射砲台座の位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-15
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

該当部分を拡大。
黄色が橘公園の部分。赤色は住宅地となり、遺構は特に残っていない。
黄色部分の陣地は、残っている台座(砲座)の高さがあることからもわかるが、土塁でもって丘のように盛り上がっていたことがわかる。
中央の黒い部分は「溜池」。1962年に尼崎市役所が建設されるまえは、この地は「池」であった。


昭和大典記念時計塔

昭和天皇の即位の礼を記念して、昭和3年・1928年11月に建立されたもの。

大阪の陸軍第四師団長・林弥三吉中将の揮毫

帝国在郷軍人会

場所

https://goo.gl/maps/WjWHnRRty18nfzk2A


旧尼崎警察署

大正15年(1926)11月30日竣工の旧尼崎警察署。
兵庫県内において完全な形で残る戦前期の警察署庁舎としては唯一のもの。

昭和45年(1970)3月31日、尼崎中央警察署は新築庁舎に転出し、敷地と建物は尼崎市の管理となった。
尼崎市立城内児童館として約20年活用されたが、阪神淡路大震災で被災。安全性を考慮し閉鎖され、現在に至る。

レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000289653

場所

https://goo.gl/maps/9ApJyJf7S92Yh3Qq7

旧警察署の隣の敷地に、なにやら石碑。
昭和16年建立の紀元2600年記念での青山幸利公顕彰碑のようでした。尼崎藩2代目藩主。初代は、青山幸成。

陸軍大将・本庄繁の扁額謹書。

本庄繁は、兵庫出身であったので、その縁から、かも。


尼崎市立歴史博物館(旧尼崎高等女学校)

昭和13年(1938)に竣工した尼崎高等女学校校舎。
その後、城内中学校となったが、平成17年に中学校は移転統合。
空き校舎を活用し、平成21年(2020)に尼崎市立歴史博物館としてリニューアル。

博物館の見学も今度しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/TLA1VDmGHDh8PzqXA


阪神電鉄旧尼崎発電所

明治34年(1901年)竣工の煉瓦造りの尼崎火力発電所。
発電所としては大正8年4月6日に休止。
現在は資材倉庫として活用。

阪神電車の車窓から、尼崎城と煉瓦建造物を一緒に楽しみ事ができる。

ホームからも。

公道から見学。

尼崎城が小さく見える。

赤が先状側からも。

ちなみに城址公園は、西三の丸に当たる場所で2018年の外観復元天守。本丸は、尼崎市立明城小学校の場所となる。

場所

https://goo.gl/maps/LMvZdr9kcwX4hG8Z7

※撮影:2023年4月


関連(尼崎)

軍艦「橋立」のキャプスタン(素戔嗚神社・尼崎)

関西方面に行く機会があったので、気になっていた場所に足を運んでみました。


軍艦「橋立」

大日本帝国海軍の防護巡洋艦「橋立」。
艦名は名勝「天橋立」に由来する。
排水量4,210トンで、三景艦のうち唯一の国産艦(横須賀造船部で建艦)であった。

清国が保有していた戦艦「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として、計画されたのが松島型防護巡洋艦。いわゆる「三景艦」(松島・厳島・橋立)であった。

1885年に清国北洋艦隊が就役させた「定遠」「鎮遠」
定遠級戦艦2隻は、基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mmという、当時の列強海軍が東アジアに配備していた大型艦を凌駕する、アジア最強の戦艦であった。
日本海軍は定遠級戦艦に対抗するために、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲を装備する軍艦を建造。「松島」は後部甲板に主砲を配備し、「厳島」と「橋立」の2隻は前部甲板に主砲を配備した。当時の日本海軍の艦艇では32cm砲を取り扱いするには困難を極めたが、一番艦の「松島」は日清戦争では連合艦隊の旗艦を務めた。
「橋立」は、日清戦争開戦直前の明治27年(1894年)6月26日竣工。同年の8月1日に日清戦争開戦。
連合艦隊に所属し、松島・厳島・橋立の三景艦として、清国北洋艦隊の鎮遠・定遠を撃破し、日清戦争の勝利に貢献した。

明治37年(1904 )の日露戦争では、三景艦の松島・厳島・橋立と、拿捕艦であった鎮遠を交えた第三艦隊第五戦隊の旗艦を橋立が務めている。

大正11年には横須賀海兵団の練習船として使用され、大正14年に廃船となり、大正15年(1926)に解体となっている。

軍艦「橋立」のキャプスタン

兵庫県尼崎市の素戔嗚神社。
境内に、軍艦「橋立」のキャプスタンが奉納されている。
キャプスタン(capstan)は、垂直軸回転式のウインチのことをいう。

明治廿七八年日清戦役旗艦橋立表上甲板ノCAPSTANロクロナリ昭和元年赤井氏が其艦ヲ拂下ゲ之ヲ本神社ニ献納 紀元二千六百年 赤井常吉

要約すると
明治27年~明治28年の日清戦役(日清戦争)旗艦(旗艦じゃない)の「橋立」の表上甲板のCAPSTAN「ロクロ」。
解体の翌年、昭和元年(1926)に払い下げされ、素戔嗚神社に献納された、という。

キャプスタンのことを「轆轤(ろくろ)」と表現しているのは面白い。たしかん「ろくろ」だ。

緑の四角は、塞いだ蓋。
ここに、キャプスタンバー(横棒)をさして、人力で回転させた。

明治40年頃、横須賀軍港の「橋立」
wikipedia参照写真

以下は参考まで。キャプスタンの例。

「明治丸」
これは橋立と近いメージですね。回転させるためのキャプスタンバー(横棒)があると、イメージがわかりやすい。これで人力で回します。

記念館「三笠」
橋立の5年後に竣工した三笠。すでに機械化されてますね。 

護衛艦「しらぬい」
いまどきのキャプスタン


素盞嗚神社(西素盞嗚神社)

兵庫県尼崎市大庄西町鎮座。
永禄年間の創建という。

兵庫県神社庁

https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6304065.html

武庫川の上にある「阪神武庫川駅ホーム」
「素盞嗚神社」は阪神武庫川駅の北、尼崎側の東にある。

場所

https://goo.gl/maps/TfECLbvZAEXRepdR9

※撮影:2023年4月


関連

兵庫県には海軍艦艇関連の奉納神社が多いような。

鳴尾八幡神社慰霊塔(戦艦安芸の砲身?)

令和元年12月参拝

西宮市に所用があった。隙間の時間を利用して阪神電車「甲子園」駅に。そこから歩いて10分ほどのところに「鳴尾八幡神社」という神社が鎮座。
まずは御社殿にて参拝をし、参道脇に建立されていた「慰霊塔」に拝する。

鳴尾八幡神社慰霊塔
 戦艦・安芸の砲身

鳴尾村関係の戦没者500余名を祀る慰霊塔。
この慰霊塔に使用されている砲身、伝聞では「戦艦安芸の砲身」と伝わっている。砲身の先には鷲が翼を拡げていた。

合掌

木々が茂っていて後ろには回り込みができなかったので境内地の外から慰霊塔の背面を。

慰霊塔の台座背面には獅子頭があった。

戦艦 安芸

姉妹艦「薩摩」とともに日本国内で建造された最初の戦艦。準弩級戦艦。

1907年進水、1911年(明治44年)竣工。
日本の戦艦として初めてカーチス式タービン機関を搭載。薩摩と違いタービン機関を搭載した安芸は姉妹艦とされる薩摩と違い初期の弩級戦艦に匹敵する速力(20ノット)を誇った戦術的価値の高い戦艦であった。
ワシントン海軍軍縮条約により薩摩・安芸ともに廃棄が決まる。1923年(大正12年)9月20日除籍。研究射撃の標的艦に指定される。
1924年(大正13年)、戦艦「扶桑」に曳航された「安芸」は、新鋭の長門型戦艦「長門」「陸奥」による射撃により沈没。

両舷の副砲として、
戦艦「薩摩」は、40口径12cm砲 に対し
戦艦「安芸」は、40口径15.2cm砲 を配備していた。

この慰霊塔に使用されているのは、一説には「12cm砲の砲身」という。ところが戦艦「安芸」には12cm砲は搭載されていなかったので、この慰霊碑の砲身が「12cm」なのか「15.2cm」なのかの真偽は不詳。

鳴尾八幡神社

兵庫県西宮市鎮座。鳴尾地区の総鎮守。旧村社。
創立年代不詳なれど、創立は文安時代(1444~1449)とされる。

社号標は昭和3年5月建立。

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」

令和元年9月参拝

宝塚市に鎮座している寺院。
「宝塚聖天了徳密院」

「ゼロ戦墓地」「零戦墓地」としても著名。
(不本意ながら心霊スポットとしても著名らしい)
噂は聞いており気になっていたところ、ちょうど関西方面に赴く用事がありましたので、これ幸いと脚を運んでみました。

宝塚聖天 英霊礼拝堂
大光明殿

終戦33周年の年、昭和53年8月に「戦没者英霊礼拝堂」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

合掌

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」建立縁起

 兵庫県宝塚市宝梅町の「宝塚聖天」(真言宗了徳密院)に此の度(昭和53年 )、英霊礼拝堂「大光明殿」が建立されました。此の礼拝堂は(写真)の如く堂上に祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機(零式戦斗機)が安置されています。何故このような礼拝堂が此の寺に建立されたのか、その縁起を述べて一人でも多くの賛同者が出られることを願います。此の礼拝堂は、宝塚市に住む一人の信者K氏の寄進によって建立されました。K氏は少年の頃、その生れ故郷の山村には特攻隊の飛行訓練場がありました。いよいよ明日は出撃!「鹿屋」に飛立つ前夜の光景が、今でもありありと目の前に浮かぶのであります。「おばちゃん行って来ます!」と云って、K氏の母親の手を両手で握りしめた少年兵の姿!目に一杯涙をためて、K氏の姉と握手して別れて行った少年兵の顔!日の丸の鉢巻をシッカリとしめて操縦席に坐った雄雄しい姿!

 それを見送る家族の人々の涙一杯の顔!あれから三十三年経過しました。然し今尚ハッキリと胸に浮かぶのは、英霊となられた人々の其の時の心の中であります、見送る家族の人々の心の中であります。その心の中が痛い程ハッキリとK氏の胸に映るのであります。此の胸の痛みは、恰度其の同じ年齢と成った我が子の顔を見るにつけ一層切実と成るのであります。現在の世の中は坐っていて世界中の物が食べられます。テレビを見ていればパリの花も、ロンドンの川の流れも目の前に楽しみことが出来ます。然し一体、 これは誰のおかげなのか、私達に代わって国の為にあえて、何の疑いも持たず戦死された方々を忘れてはならない。其の方々の英霊をお祭りしなけれればならない。慰霊せねば罰があたる。家でも国でも同じことではないか。K氏はそんな思いで一杯でした。そんな心境の時に宝塚聖天の住職と出会ったのであります。

 宝塚聖天は、今から50年程前に日下義禅大僧正と宝塚市名士、平塚嘉右ヱ門翁との二人の力に依って開創された寺であります。日下義禅和尚は昭和9年6月15日、弘法大師降誕千五百年記念に陸軍省に爆撃機を献納した人であります。平塚嘉右ヱ門翁は宝塚ホテル宝塚ゴルフ場等を創設して、阪急電鉄創立者小林一三氏と共に宝塚市生みの親として敬愛され、現在宝塚市建立の「平塚嘉右ヱ門翁頌徳碑 」が宝塚聖天境内に建てられています。このような環境ですから、支那事変勃発するや直ちに、宝塚聖天隣接地に広々とした軍人墓地が開設されて堂々たる軍人のお墓がズラリとお祭りされています。

「お母ちゃん!あれ、誰のお墓なの?」
「アレはね、だまされて、戦争して、死んだ人のお墓なのよ!」
 何という言葉でしょう。鉛の煮え湯を呑まされた気がしました。一体全体、今の世の中は、どうなっているのか。第一、これで戦死した人々に対して、すむのか。遺族が聞いたらどんな気がするのか、こんな母親に育てられて日本の国の将来は、一体どうなるのか?唯々茫然とするバカリでした、と住職は嘆息しました。宝塚聖天の住職は、毎月靖國神社に「月参り」しています。靖国社頭の「英霊の遺書」に非常に感銘し、是非宝塚軍人墓地にも此の「英霊遺書」の掲示場を設けて、一人でも多くの人々に読んで頂き度いと念願していました。そんな時にK氏の家に頼まれて「神さん」をお祭りすることに成りました此時、K氏と住職と、二人の胸中は一度に爆発したのであります。そして英霊礼拝堂建立の話が宝塚聖天信徒総代須藤真男氏に相談され、茲に具体化して行ったのであり、須藤真男氏は平塚嘉右ヱ門翁の御令孫であります。

 合掌のその手で築こう世界の平和

 世界の平和は、先づ見えない英霊の慰霊鎮魂が根本であります。
青春を捧げ散っていった戦没者の象徴として、零式戦闘機を堂上に奉安しましょう。
 戦没者260万の英霊をお祭りしましょう。
 護国英霊、日清、日露戦役大東亜戦争の忠魂をお祭りしましょう。
 敵、味方怨親平等供養回向しましょう。
 遺品、遺書、写真、書籍等を出来るだけ、広く、多く永く子孫に伝へて、二度と再びかかる事なきよう世界の平和を誓いましょう。
 英霊の前に黙祷を捧げて、静かに英霊の声に耳を傾けましょう。

賛助団体(アイウエオ順 6月20日現在)
一、 一生会有志
一、  大阪市傷痍軍人会
一、  大阪市傷痍軍人妻の会
一、  金鵄会宝塚支部
一、  甲飛十期会有志
一、  三〇三会
一、  特操会
一、  陸軍特別操縦見習士官有志
一、  独立野砲第二聯隊
一、  三重空甲飛十一期会
一、  陸軍少年飛行兵有志
一、  陸軍少年飛行兵十五期会有志
一、  六親会
一、  その他五団体程度の申し込みがあります。

英霊礼拝堂 堂内

終戦33周年戦没者英霊堂 建立
願主 宝塚遺徳顕彰会
寄進 神戸道雄
設計 株式会社 宮本公務設計事務所
施工 中央建設 株式会社
零戦制作 全日本整備 株式会社
完成 1978年8月

記念樹靖国神社拝桜
昭和53年8月吉日

零式艦上戦闘機

英霊礼拝堂「大光明殿」堂上には、祖国の勝利を信じ青春を捧げ国に奉じた戦没者の象徴として零式戦闘機が安置されている。

カウル部分や20mm機銃なども再現されている。

機体番号は「63-888」
零戦五三型の胴体下に250キロ爆弾を設置した戦闘爆撃機型が零戦六三型。その「63」を意味しているものかどうかは不明。


神風特別攻撃隊之魁
甲飛十期之碑

甲飛十期(予科練・土浦空)は、特攻第一号となった神風特別攻撃隊・敷島隊に2名を出し、その魁となっている。

第一神風特別攻撃隊 敷島隊
昭和19年10月25日
マバラカット基地発 タクロバン沖機動部隊攻撃
零戦
大尉  関 行男  (愛媛・海兵70期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 中野 盤雄 (福島・甲飛10期) 戦闘301飛行隊
一飛曹 谷 暢夫  (岐阜・甲飛10期) 戦闘305飛行隊

飛長  永峰 肇  (宮崎・丙飛15期) 戦闘305飛行隊
上飛  大黒 繁男 (愛媛・丙飛17期) 戦闘331飛行隊

 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を編成した。

ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは

 敷島の大和心を人問わば 
  朝日に匂う山桜花(本居宣長)

 この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二十五日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。若干20歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。

飛天光明之珠海

レイテ海の真砂
この海に甲飛十期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり輝いている。
甲飛十期會

あなたを忘れない

建記
一、地鎮祭 平成5年11月10日
一、定礎式 平成5年12月10日
一、題文 谷一枝書
一、碑文 甲飛十期會撰
一、タイムカプセル内に
散る桜 残る桜 甲飛十期の記録
 戦死者 名簿
 生存者 名簿
 醵金者 名簿
一、竣工除幕式 平成6年4月1日
甲飛十期會建立


戦没者追悼
平和祈念碑

終戦50周年記念 平成10年8月15日


中村純一中尉慰霊碑

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。JR学研都市線・星田駅近くに慰霊碑あり。
被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されている。


宝塚軍人墓地

合掌


宝塚聖天了徳密院

七宝山了徳密院。宝塚の聖天さん。

七宝山了徳密院は大阪浦江福島聖天了徳院の別院として、大正8年、日下義禅大和尚(元真言宗東寺派管長)によって建立。

http://www.ryomitu.com/

神仏習合の寺院、聖天様。

夏空の下での参拝でした。

逆瀬川駅(さかせがわ)からバスでアクセスを。
地図にも「零戦」と記載されている場所。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

令和元年6月 兵庫県尼崎市

難波八幡神社の境内に、榛名のマストが残されていると聞き、足を運んでみました。
駅から歩くにはちょっと遠く、私はJR神戸線立花駅からバスで赴きましたが、JR尼崎駅もしくは阪神尼崎駅、阪神塚口駅などからもバスの便はあるようです。

軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)

マストには以下の文言がみえる。

國光宣揚 軍艦 榛名

草むらには石碑。

昭和十一年十二月十八日建立
会長 陸軍中将 権藤伝次
西大阪支部長 間口伊之助

戦艦「榛名」は、昭和8年から1年かけた「第二次近代化改装」にて上部構造物の大幅な近代化を行い、その際に後部マスト(後檣)が撤去されている。
その後部マストが昭和11年に、大日本国光宣揚会道場の庭園に国旗掲揚塔として無償下付されたものという。当時の大日本国光宣揚会道場は現在の塚口病院のあたりにあった。戦後、病院建設にあたりマストは難波八幡神社に移設された。

「大日本国光宣揚会」(本部・大阪)の会長であった権藤伝次は、陸軍中将(旧10期)、 歩兵第18連隊長、第36旅団長等などを歴任。

以下、軍艦「榛名」の後部マスト(後檣)の写真を。

難波八幡神社

兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15鎮座
八幡大神を祀る。
仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」 とされる。

兵庫縣神戸護國神社

平成30年11月参拝 兵庫県神戸市灘区鎮座

「兵庫縣神戸護國神社」は兵庫県東部ゆかりの戦没者53,257柱を祀る。

ちなみに兵庫県内は、護國神社が2社あり、西部は「兵庫縣姫路護國神社」として西部地区出身の戦没者56,988柱を祀っている。
いずれも内務大臣指定護国神社。


兵庫縣神戸護國神社

戦没者慰霊祭祀は当所、神戸市兵庫区会下山(楠公の湊川の戦いで有名)で招魂斎庭・祭壇を設け、毎年官民合同で斎行されていた。
昭和16年6月に灘区王子町に社殿を造営。
昭和20年6月5日の神戸大空襲により壊滅。

社号標は昭和16年6月。創建時からのもの。鳥居は平成25年再建。

戦後は「兵庫御霊神社」と一時改称し、昭和27年に社号を「兵庫縣神戸護國神社」と復称、昭和34年に現在地にて新社殿を再建。
阪神大震災でも社務所半壊などの被害を受けるも復興。

境内社には末廣稲荷社が鎮座している。

狛犬は「大東亜戦争大捷祈願」として、昭和17年3月吉日に奉じられたもの。

手水鉢は、社殿再建時の昭和34年10月吉日に「兵庫縣神戸護國婦人会」より奉献されたもの。
中央には護国の英霊ゆかりの戦地を正面に仰ぐように地球儀が添えられている。


響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

響 第五三三三部隊戦歿者慰霊塔

昭和13年春半ば
内蒙古派遣独立混成第二旅団独立歩兵第二大隊が始めて中国大陸の首都北京に於て編成されて以来、支那事変並びに大東亜戦争に参加中国全土及び南方方面に転戦、戦没された御霊の冥福を祈る為、当時の戦友相寄り浄財を募り茲に、この地を選び建立す。
昭和四十五年四月吉日


大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

大戦殉難 北方異民族慰霊之碑

 過ぐる大戦に於て無数の白系ロシア人、ギリヤーク人、オロッコ人が中野の子等と共に理想に参画し、非情なる最後を遂げ、帰るに安住の祖国さえなき事実を知らざる者、今日余りにも多い。
 永久凍土(ツンドラ)を吹きすさぶ風に、或いは北大洋の怒涛音にこれら北方異民族の亡き同志の声を聴くものは日に日に少なくなってきている。この碑はこれら残り少ない生き証人にかわって死の意味を問い続ける昭和の語部(かたりべ)となろう。
 そしてこの碑の祈念するところは、余りにも報われることのない故北方異民族同志への鎮魂であり、盤石深く刻み込まれたものは祖国の永遠の安泰であり、平和の二文字である。
 昭和50年5月19日
 全国壱万参千五百有余名 
  建立同志会代表 扇 貞雄(元陸軍少佐・元樺太敦香陸軍特務機関長)


陸軍少年飛行兵顕彰碑 建立の記

陸軍少年飛行兵顕彰碑
建立の記

 日本陸軍航空の華として、昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は、昭和二十年八月の終戦までの間、第一期生から第二十期生まで五万八千八百余名を数える。
 その歴史的生命は僅か十二年に過ぎなかったが此の間、日支事変をはじめ、ノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空部隊の中核として敢然と大空の決戦場に出陣し、本県からも多くの少年達が参加した。
 若冠十五歳前後で大空を志し、猛訓練に耐え、青春を惜しみなく国の危急存亡に捧げ、その多くは祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら若き命を雲染む屍と散っていった。
 戦後三十五年、日本の空に平和が訪れ、かつてこれら戦友と苦楽を倶にした兵庫県下在住の生存者ならびに有志相集い、今は亡き戦友の御霊と功績を偲び、若人が国の為につくした栄誉と、至純にして崇高な精神を讃え、その歴史的事実を後世に伝えるとともに、戦争を実際に体験した我々が世界の平和と人類の幸福を祈念してこの碑を建立する。
 昭和56年4月5日
  陸軍少年飛行兵出身者の集い
  兵庫県少飛会

陸軍少年飛行兵顕彰碑脇に
「献木 同期の桜」
昭和54年5月10日建立


歩兵第百七十連隊 慰霊之碑

歩兵第百七十連隊 慰霊之碑
昭和58年11月13日 歩兵第170連隊慰霊碑建立委員会

歩兵第170連隊は兵庫篠山編成。開戦時は印度支那派遣軍として南部仏印駐留。昭和17年、乗船中の輸送船が撃沈され軍旗喪失、乗船将兵の多くが戦死。その後の南方戦線にて消耗し昭和18年6月解隊。


雄魂
第十四飛行団司令部
飛行第六十八戦隊
飛行第七十八戦隊
戦歿者慰霊碑

昭和52年5月 ニューギニア飛燕会

昭和18年3月、第14飛行団隷下の第68戦隊、第78戦隊が最初の「飛燕」部隊として編成。ニューギニア戦線にて寡勢の中で奮戦。昭和19年7月25日に力尽き解散…


御朱印

「兵庫縣神戸護國神社」
御朱印を頂戴いたしました。
桜柄の「靖國神社御朱印帳」に。

この御朱印帳では、「靖國」「愛知」「大阪」「広島」「埼玉」「茨城」「千葉」「栃木」「群馬」「長野」「山梨」と護國神社を巡っており、今回の「兵庫神戸」で12社目となります。ゆっくりとですが巡拝を。

「兵庫縣神戸護國神社」

護國神社は桜の季節も良いですが、紅葉の季節も感慨深いものがあり。
紅葉の向こうに鎮まる慰霊碑に静かに接するひとときを。


関連

はじめに

神戸三宮の戦跡と近代史跡散策

平成29年3月

平成29年3月15日、神戸方面に赴く用事があった。
せっかくなので神戸に点在する戦跡・近代史跡スポットを午前中のスキマ時間で軽く散策。


三ノ宮駅高架橋の機銃掃射痕

JR三ノ宮駅。
この何気ない東西を結ぶ高架線路橋の景観の中に戦争の爪痕が残っている。
手前の遊歩道からJR線高架橋を覗いてみると・・・

神戸大空襲

神戸は昭和20年終戦までに128回の空襲の受けており、この穴は米軍戦闘機による機銃掃射の跡(山側から海側に貫通)とされている。

JR三ノ宮駅の高架線路橋。
橋の名前は「加納町第一架道橋」。
歩道から覗いてみると無数の穴が開いていた。

色が塗り替えされました。以下は2024年3月撮影。


JR「三宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。阪急「神戸三宮駅」 駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

阪急・神戸三宮駅の弾痕

JR「三ノ宮駅」のほかに、阪急「神戸三宮駅」にも戦争の爪痕が残っている。

阪急「神戸三宮駅」
駅ホームの上に広がる巨大な屋根をよくよく見てみると・・・

駅ホームの上に広がる巨大な屋根。
見上げてみると修復の跡などが。

これも「神戸大空襲の傷跡」
B-29焼夷弾の貫通痕。

思った以上に修復の痕跡が残っていました。
なかには衝撃で曲がったままのものも。

駅に残る戦争の痕跡を感慨深く見上げつつ。
三宮駅から南下します。市役所方面へ。


神戸市役所

どうやら日本で最初に設置された「花時計」が、この「神戸の花時計」とのことで。(1957年4月26日稼働開始)
「へー」なスポット。

神戸市役所24階展望ロビーを目指します。
特に深い意味はないけど高いところからの眺望は好きですので。

神戸市役所24階展望ロビーより

「錨」と「神戸市章」「北前船(KOBE)」が見えました。
日没30分後から23時まで点灯される神戸のシンボル。

「錨山」の錨は明治36年の明治天皇行幸観艦式を記念して錨の形に植栽したことに始まり昭和56年に永久電飾となる。

神戸市役所24階展望ロビーより
摩耶の方向。
鵯越の方向。
ポートアイランドの方向。
長田須磨の方向。

神戸の歴史を鑑みると、今の景色も色々感慨深いものがあります。

市役所から海の方に向けて南下する。


神戸税関

2代目庁舎は1927年竣工。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎とのことだけど、今回は時間がなかったので外観をちらりと眺めて次へ。


神戸海軍操練所跡碑

元治元年(1864)5月、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関・海軍工廠。
錨のモニュメントは旧戦艦の錨らしいが「旧戦艦の錨…」以下が読めない

神戸海軍操練所跡碑
碑文は「書」をかたどっており個性的な碑。

神戸海軍操練所跡碑
由来
 万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいながら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
 文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。
当時、海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
 元治元年(1864年)、海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。
 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。今はただ、遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。
昭和四十三年十月建之

勝海舟による海軍の発祥の地。これが明治海軍への礎となるのだ。

実はこの場所は「NTTドコモ神戸ビル」の前。
「神戸海軍操練所跡碑」の隣には「神戸電信発祥の地」の碑。
明治3年に大阪川口電信局と神戸伝信機局の間(40km)に開通。これが関西地方における電信の発祥であるという。

「操練所跡碑」から「居留地通海岸通」を西に。
居留地通りの建物はまたのちほど触れていきます。
メリケン波止場の「港公園」に一対の碑がある。 (跡地とややこしいです)


神戸海軍操練所記念碑

海軍営之碑

「海軍営之碑」
徳川宗家16代当主徳川家達謹書
碑文は勝海舟謹書(軍艦奉行安房守勝物部義邦撰)

なおこの碑はレプリカで本物は六甲山の諏訪山公園にある。


陸奥宗光顕彰碑

「陸奥宗光顕彰碑」
陸奥宗光(1844~1897)は勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬らと共に学び、のちに第4代兵庫県知事となり第二次伊藤博文内閣での外務大臣を務めた人物。(伊藤博文は初代兵庫県知事)

「陸奥宗光顕彰碑」 碑裏面は昭和四八年当時の外務大臣大平正芳による。
「近代日本の揺籃期に内政外交に尽くした功績は不滅である」

国史を愛し郷土史を偲ぶ人びとに捧ぐ
 昔、この周辺を摂津国、神戸村小野浜と呼んだ。東は脇浜、西は弁天浜で、現在の神戸港の玄関口である。
 海の先覚者たちは、この浜が今に世界的な要港となるのを見通して、神戸海軍操練所を開設した。造船所、機関学校、兵学校もある広大なもので、その生徒も200名以上を数えた。ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。
 この浜は新しい日本の発祥の地である。
昭和48年5月吉日

海軍操練所の生徒で神戸に忘れられない人
所長・海軍奉行 勝海舟
塾頭・坂本龍馬(のち海援隊長)
伊藤俊助(のち伊藤博文・兵庫県初代知事・初代内閣総理大臣)
陸奥陽之助(のち陸奥宗光・兵庫県四代知事・第二次伊藤内閣外務大臣)

「みなと公園」をあとにして、旧居留地エリアにまいります。 ちなみに時間軸としては三宮駅9時散策開始で、ここまでで約30分経過しておりました。


神戸郵船ビル

大正7年(1918)に旧日本郵船神戸支店として建設された近代ビル。

「神戸郵船ビル」の反対側には近代ビルが林立しています。
これはワクワクします。

手前から「海岸ビル」「商船三井ビルディング」そして3つ先が「 チャータードビル」となります。
実は近くで見てみるとこれらのビルにも戦争の爪痕が残っているのです。


海岸ビル

旧三井物産神戸支店として1918年に竣工。
阪神淡路大震災で全壊し、高層ビル再建時に低層部(4階まで)旧外壁を再構築した。この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている。
近代化産業遺産。

「海岸ビル」
外壁には神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。

海岸ビル。低層階内部が美しい・・・


商船三井ビルディング

旧大阪商船神戸支店として1922年(大正11年)に竣工。
近代化産業遺産。アメリカルネサンス様式。
大正期の大規模オフィスビルとして唯一現存。

「商船三井ビルディング」の 外壁にも神戸大空襲による機銃掃射痕が残る。
今となっては言われなければ気がつかない小さな痕跡。
戦争の爪痕。


神港ビル

1939年(昭和14年)に川崎汽船本社ビルとして竣工。現在もオフィスビルとして利用されている。近代化産業遺産。 アールデコ風の屋上の塔屋が目立つ。


チャータードビル

チャータード銀行(Chartered Bank)神戸支店として1938年に竣工。
近代化産業遺産。

「チャータードビル」 外壁に機銃掃射の痕をみる。


旧居留地エリアの内部へと足を進めます。

神戸市立博物館

この建物はかつての「横浜正金銀行神戸支店」(戦後は東京銀行神戸支店) 1935年(昭和10年)に竣工した新古典主義様式の建物。
国の登録有形文化財指定。

「神戸市立博物館」 旧「横浜正金銀行神戸支店」
入口の脇にちょっとだけ痕跡が残ってました。
機銃掃射の痕。

今回の神戸では「機銃掃射痕」ばかり探す散策をしてしまいまして。 オシャレな神戸の街なかで、観光とは程遠いフィールドワーク…


神戸外国人居留地の下水道(公開施設)

慶応3年(1868)の開港にともない居留地が展開。 居留地の下水道は明治5年(1872)頃に完成したもので、近代下水道としては日本最古のものという。
国登録有形文化財指定。土木学会選奨土木遺産。


旧居留地十五番館
旧アメリカ合衆国領事館

1880年竣工。
旧居留地に唯一現存する居留地時代(1868年~1899年)の建築物。
国重要文化財指定。
1995年の阪神・淡路大震災において全壊するも再建。現在はレストランが営業している。


南京町中華街

居留地エリアから次の目的地(花隈)に向かう途中に南京町中華街があったのでフラフラと寄り道してしまいました。
なんか珍しく観光っぽいことしてますね。


花隈公園(花隈城跡)

永禄10年(1567)織田信長が荒木村重に命じて築城させたと伝承。
荒木村重が信長に反旗を翻したため花隈城は荒木方の有岡城支城となるが天正8年(1580年)に落城。
池田恒興によって兵庫城が築城された為に花隈城は廃城。


「東郷の井碑(東郷井)」( 花隈公園 )

「東郷の井碑」 命名は財部彪、揮毫は小笠原長生。
元々は花隈7-16界隈にあった。
初代戦艦大和(神戸小野浜造船所・1887年起工) 建造監督官として東郷平八郎が就任し花隈に滞在。
大和進水時には初代艦長に就任。

「花隈公園」にならぶ2つの碑
「花隈城跡」 「東郷の井」
荒木村重と池田恒興
東郷平八郎と財部彪と小笠原長生

なかなか強烈です。


花隈公園から北上する。

神戸教会(日本基督教団神戸教会)

1932年に建設されている4代目の会堂で、スクラッチタイル張りの外壁に高い尖塔が聳える。
教会としては1874年(明治7年)4月に設立された日本最古級のプロテスタント教会という。

太平洋戦争末期には会堂が日本軍に接収され、外壁を黒く塗られたという。
なんとなく往時の黒塗りのあとが残っているような気がしないでもなく…

神戸大空襲時(昭和20年6月5日)に爆弾によって破壊された会堂前市道の溝蓋の敷石。
道路拡張時に教会にて保存。

今回の神戸散策では唯一の「戦争遺跡を明記した案内板」と出会えました。


生田神社

三宮の生田神社境内には、神戸大空襲で被災した楠の大木がある。 昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼けただれた御神木。

生田神社
延喜式内名神大社。旧社格は官幣中社。 現在の神戸市中央区の一帯が社領であり「神戸」地名の語源となっている。
御祭神は稚日女尊 「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも。

神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ神託があったと書紀には記載。
この時に神戸生田の地とともに、大阪住吉・神戸長田・西宮広田も同時に祀られ「四社鎮祭」とされている。

花隈駅から阪急神戸三宮駅に戻る。朝9時から散策を開始して所要3時間でした。

で、仕事先に向かうためにポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)に乗り込んだわけです。 神戸遠景が美しい…