「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。

上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
スマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の加古川航空隊で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた飛行第22戦隊長(22FR長)として着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機大田製作所や小泉製作所を目標とする。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。
100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後陸軍中佐特進)

飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。

疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)の跡地散策

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

平成30年2月神奈川県愛甲郡愛川町中津地区に残る相模陸軍飛行場(中津飛行場)の跡地散策。 神奈川県愛川町に残る陸軍飛行場ゆかりの地。...

陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

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福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第10回はひっそりと佇むプロペラ型の碑(市内沼代98付近)。旧日本軍の上原重...
太平洋戦争末期、小田原市沼代のミカン山に墜落死した陸軍中佐の慰霊碑が、地元住民の手で守られ続けている。関係者の高齢化が進み、お参りが大変になり、昨年10月には住民が用地と費用を負担し山から住宅地の道路沿いに移した。保護行政の遅れのある現状に…