「旧開明尋常小学校奉安庫と機銃掃射の弾痕跡」尼崎の戦跡と近代建築散策・その2(兵庫尼崎)

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兵庫県尼崎市。大阪の隣。
先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。
いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。

その1は下記にて

兵庫県尼崎市。大阪の隣。先日、関西方面に赴いた際に尼崎を散策。いくつか戦跡と近代史跡を巡ってみました。 その2は下記にて ...

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奉安庫

明治23年(1890年)10月30日発布された 明治天皇の勅語「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」と御真影とを、不敬にあたらないように保管し、そして火災から守るための設備として、校内に奉安庫もしくは奉安殿(奉安所)を設置することが明治24年(1891年)11月文部省訓令第4号によって定められた。

学校校舎内に設ける場合は「奉安庫」、校舎外に独立しさせた場合は「奉安殿」となる。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、奉安庫や奉安殿の撤去、解体が進んだが、当校の奉安庫は解体を免れ、貴重な遺産として現存している。


旧開明尋常小学校の奉安庫跡

平成14年(2002年)に閉校した尼崎市立開明小学校。
現在は「尼崎市役所開明庁舎」として活用されている。

現存する校舎は、室戸台風の災害復興事業として、昭和12年(1937年)に竣工。RC造3階建。
戦前の奉安庫が残っているのが非常に珍しい。

1階の旧校長室には戦前の奉安庫や家具が現存し、現在はメモリアルコーナーとして使用されている。


旧開明尋常小学校

開明尋常小学校は、昭和12年の竣工。
現在は、尼崎市役所開明庁舎として活用されている。

艦船の艦橋のようなデザイン。

尼崎市役所開明庁舎(旧開明尋常小学校校舎)

この建物は室戸台風の災害復興事業として1937年(昭和12)2月に開明尋常小学校校舎として竣工しました。校庭を 囲むようにしてL字型に建つ建物は、整然と並ぶ窓の上部に校舎の端から端につながる庇が取り付けられ、水平性が強調された端正な趣を示しています。建物の南端と西端には意匠が異なる玄関が設けられていますが、特に南玄関から上階に上がる階段室は外部に半円形に張り出し、煙突のように天に突き出した柱とも相まって、まるで艦船の艦橋のようなダイナミックなイメージを受け、外観上の最大の特徴になっています。また1階の旧校長室には戦前の奉安庫が現存しています。


機銃掃射による弾痕が残る塀


学校の塀には、機銃掃射の弾痕が生々しく残っていた。

機銃掃射による弾痕が残る塀
 ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元、開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。
 尼崎では1945年(昭和20年)3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1000戸、り災者総数約4万2000人という大きな被害を受けています。
 この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明築でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。
 戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
   平成17年3月

尼崎市サイト

RC造3階建で,敷地の東側と北側にL字形平面で建つ。東棟南端から平屋を延ばし,入隅に設けた四半円平面の玄関ホールとその上の半円筒形階段室がアクセントとなる。外壁は矩形窓を整然と配し,窓庇で水平線を強調している。昭和初期のRC造学校建築の好...

場所

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※撮影:2023年4月


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