「宮城県」カテゴリーアーカイブ

戦後の食糧難から生まれた「仙台牛タン焼き」

戦後日本。GHQ統治下にあった昭和20年代の日本は慢性的な食糧難にあった。


昭和20年代の仙台

第二次世界大戦後、仙台にもGHQが進駐。
大量に牛肉を消費する駐留米軍が残したタンとテールを有効に活用するために、1948年(昭和23年)、仙台の焼き鳥店「太助」初代店主・佐野啓四郎が、牛タンシチューより着想し、知識・技術を用い、牛タン焼きの専門店を開業したことが「仙台牛タン」の始まりという。

「牛タン定食」は、当時の食糧難(農地改革や戦後開拓をしてもコメ不足)を反映した「麦飯」、電気冷蔵庫が普及する前の時代に望むべくもない生鮮野菜に代わる「野菜の浅漬け」、佐野啓四郎氏の出身地である山形県の伝統料理「味噌南蛮」、エネルギー革命前で都市ガスが一般化していなかった当時の燃料事情を反映した炭火による牛タン焼き、そしてテールスープが構成要素となっている。

ちなみに、GHQ進駐軍は、多くは解体された牛肉の正肉ばかりを輸入していたため、臓物の牛タンの充分な供給元としては望めず、多くの牛タンを必要となった際には、周辺県の屠畜場にまで牛タン等を求めることとなったという。


初代牛タンの味を生み出した、佐野啓四郎氏

佐野啓四郎氏は、山形県西村山郡西里村(現・河北町)の生まれ。
20代のころから、料理の世界に入り、割烹料理で住み込みで働いていた。毎朝築地市場に買い出しに行く中で知り合った中華料理・洋食・和食の各店で働く人々との交流において牛タンや牛テールの美味しさを知らされ、在京中にフランス人シェフがいる洋食屋にてタンシチューを食する機会もあった。
昭和16年に太平洋戦争が始まる。
佐野は1942年(昭和17年)に、徴用され宮城県柴田郡船岡町(現・柴田町船岡)の第一海軍火薬廠に配属となったが、明け番の日は商売をしても良い職場だったため、船岡で焼き鳥屋を始めた。
昭和20年8月の終戦を機に、佐野は仙台に移り、焼き鳥屋を開店し、物資不足の中で、牛タンや牛テールの活用研究を開始した。
昭和23年、佐野は新たに「太助」を開店し、佐野が考案した「牛タン焼き」の提供が始まった。

牛たん焼きの誕生は、戦後の混乱期に当たる昭和20年代。
仙台市一番町に焼鳥屋を営んでいた、佐野啓四郎氏によって生み出された。
佐野氏は、洋食レストランで口にした、タンシチューにヒントを得て、日本人の口に合う牛たん料理作りに没頭した
試行錯誤を重ね、シンプルな味付けで素材そのものの風味が楽しめる、牛たん塩味を考案。
店では、23年から販売を開始した。
その人気に、宮城県や仙台市の観光担当者も注目し、「年間を通して口に出来る郷土料理にしてほしい」と、佐野氏に協力を要請。
これにより、今ではおなじみとなった、麦飯・テールスープとの“黄金”セット「牛たん定食」が誕生した。
評判は瞬く間に広まり、牛たん屋「旨味太助」には連日マスコミが殺到。同店が出演した全国放送番組には、多方面から注目を浴びた。

なお、佐野を創業とする現存する店舗「太助」は、2系統に別れている。
「味・太助」は創業者・佐野啓四郎の息子が2代目を務める店。
「旨味・太助」は創業者・佐野啓四郎の一番弟子の娘婿が店主を務める店。
今回は、とくに意図はなく、「旨味・太助」に足を運びました。


旨味・太助

良い店構え。

牛たん定食

創業当時のままの噛み応えのある塩味の牛タン。これは満足度が高くて美味。

麦飯と牛テールスープ

牛たんの塊

塩味の炭焼き

※2024年9月


関連

「昭和の聖将」今村均の墓と輪王寺散策(仙台の戦跡散策・その6)

名将・今村均大将の墓がある輪王寺に足を運びました。
本編は、「その6」です。

仙台市の輪王寺。仙台藩伊達家にゆかりの深い寺院。

境内案内図もわかりやすいですね。墓地を彷徨わなくて済むので助かります。
境内裏手の墓地には、足を運ぶ。


今村 均

今村均
1886年(明治19年)6月28日 – 1968年(昭和43年)10月4日)
陸士19期、陸大27期首席。陸大同期は本間雅晴や東條英機などがいた。最終階級は陸軍大将。
仙台藩士の家柄で仙台出身。
太平洋戦争では、初戦に第16軍司令官として蘭印作戦を指揮した名将。ジャワ軍政では、中央よりとかくの批判を受けるも、独自色を発揮し成果を発揮する。
昭和17年に第8方面軍司令官として、ラバウルに着任。
ラバウルで自給自足体制を確立。米軍は今村によって要塞化したラバウルの状況を知った米軍は、占領を回避し、打撃による無力化に留め、封鎖を実施。ラバウル守備隊は孤立したが、自給自足体制を整えていたために、今村均の陸軍第8方面軍は、草鹿任一の海軍南東方面艦隊とともに終戦までラバウルを維持し続けた。

陸軍大将 今村均 明治19年~昭和43年〔宮城〕
南方進攻作戦の最終段階、蘭印攻略作戦を指揮した昭和の名将
今村は、知、情、意の調和がとれた名将と知られています。開戦前、今村は、陸軍大学校で蘭印の石油資源を含む要域占領を目的とした蘭印攻略作戦準備を統括しましたが、よく部下と意志の疎通を図り、各級指揮官が孤立しても適切な判断ができるよう認識統一に努めていました。そして今村は、第16軍司令官としてその作戦指揮を執り、戦域の広大さ、部隊運用の複雑さがありつつも名将ぶりを発揮しました。また、昭和17年2月11日発令の第16軍命令(下掲史料)からもわかるように、今村は、兵站を特に重視し、各正面毎綿密に準備しました。さらに住民の安全に意を尽くし、住宅地への軍の進入を厳に諫め、占領後は住民の心に寄り添います。第16軍主力は、3月1日、ジャワ本土に上陸、日本軍戦力を過大評価したオランダ軍は、9日に降伏します。占領後、今村は、敵味方の区別なく緩和を主義とする軍政の実行を指示します。今村の軍政は緩すぎると中央で問題となりますが、その意思は揺るぎませんでした。戦後、今村は、ジャワ戦犯裁判で捕虜虐待の責任を追及されますが、責任追及は当然と求刑を甘受します。結局この法廷では無罪となり巣鴨に送還されますが、自ら志願してマヌス島に送られ、29年の刑期終了まで旧部下数百名とともに在監の苦悩を共にします。

防衛研究所 https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_19.html


今村均の墓

今村均家累代之墓

合掌

墓誌
今村均
 明治19年6月28日 仙台に生まる 陸軍士官学校 陸軍大学校を卒業し 歩兵第四聯隊付 英国駐在武官 等を歴任 第二次世界大戦に際しては 郷土部隊と共にジャワ ラバウル方面の戦闘に参加す
 昭和18年5月 陸軍大将に任ぜらる 昭和43年10月4日歿
勲一等功二級従三位
 享年82歳

今村家の家紋は、浮線蝶紋


輪王寺境内を巡ります。

昭和大戦戦没者慰霊碑

昭和の戦いに 
 国のために倒れ 
  帰らぬ私達を
ふるさとの人は 
 忘れないで下さい

合掌

この碑は、昭和の大戦で戦没した将兵の慰霊の為昭和37年有志が通町公園内に建立した。
然し、仙台市が平成13年に撤去削損、国民は碑に託された将兵360余柱を思い、多くの協力を得て再建した。
 国のため戦死された人々よ
  安らかにお眠りください
    平成14年3月建立

昭和の大戦戦没者慰霊碑
別名 戦没者の声なき声、忘れないでの碑
 昭和6年、満州事変より、大東亜戦争後ソ連抑留の18年間、国の命により戦いに倒れた将兵212万1千名、その多くは遺骨すら故郷に帰へらなかった。
遺族らは父や夫の面影を追い、昭和37年通町公園に慰霊碑を建立、裏面に戦没者名(364柱)を刻み残した。然し、40年後の平成13年、仙台市は公園整備の際撤去、他に転用の為。碑の両面を削除した。
人々は祖国に尽くした戦没者と遺族の進駐を思い、碑石の返却を求め慰霊の為、亡き人の声なき声を碑文とし、日本の永遠の平和と安泰を願い、この地に再建した。
 平成14年3月
  戦没者遺族・妻子孫他
  旧軍・自衛隊市民有志


志賀潔博士の墓

赤痢菌発見の志賀潔博士の墓所


飯沼貞雄の墓

白虎隊士として飯盛山で自刃するも偶然救助されて、唯一蘇生した人物。


輪王寺

伊達家ゆかりの古刹。

※撮影:2023年8月


関連

仙台陸軍墓地・常盤台霊苑(仙台の戦跡散策・その5)

仙台陸軍墓地のあった場所を巡ってみました。
本編は、「その5」です。


仙台陸軍墓地(常盤台霊苑)

歩兵第四聯隊が駐留した仙台。往時の陸軍墓地は、「特話題霊苑」として宮城県によって管理されている。
宮城県が、昭和28年に国から譲渡を受け、戦没者慰霊の合葬碑等を建立し、慰霊祭等を行っている。
現在は、一般非公開となっており施錠され、敷地内に立ち入ることができない。

常盤台霊苑

入れないと知ってはいたが、訪れてみた。
入口で、手を合わせ黙祷をする。

常盤台霊苑の由来
 ここ常盤台霊苑はもとの陸軍墓地であり明治年間平時に病没した第二師団将兵軍属の墓であった。後に日露戦争及び満洲事変における戦歿勇士合葬の墓をそれぞれこの地に建立したのは当時世界列強の包囲と抑圧に耐えて我が民族の独立と生存を守り抜いた国民的心意気の発露であった。
 昭和20年8月大東亜戦争の配線と共に人身極度に混迷し為にこの聖域は荒廃してこの戦争に斃れた勇士の遺品は仮の堂中に納められたまま永くその所に安んずることができなかった。
 サンフランシスコ平和条約成り我が国独立の快復と共に県民の総意は再びここに大東亜戦争勇士合葬の墓を建立し聖域を補修し昭和28年11月これを完成したのである。
天主台の護國神社が戦没者英霊の神域であればここはその墓域である。
 その名も常盤台霊苑と改め不滅の遺芳を偲びつつ毎年毎月の祭を絶やすことはない。
 日本民族無窮の生命は古来敬神崇祖の伝統に輝く
ここに霊苑の由来を碑に刻んで永く後世に伝える所以である
  昭和44年3月
   文 島貫常行

文責の島貫常行は、宮城県出身の陸軍大佐(砲兵・士候39 陸大47優等)ルーマニア駐在武官などを務めた。

標柱

陸軍墓地

占用期間が記されていた。どうやら5年更新のようです。

占用期間
自 昭和13年10月1日
至 同 18年9月30日

閉門。立入禁止。
脇の隙間から入れそうだけど、もちろん入らない。
門前で拝礼する。


常盤台霊苑の後方

敷地の後方から、見渡せる高台があった。
多くの陸軍墓地に足を運んだが、立入を制限しているだけあって、霊域として見事な空間を保っていた。

左:満州事変戦没勇士合葬之墓
中央:明治三十七・八年役戦死病没者合葬之墓
右:大東亜戦争戦没勇士合葬之墓

宮城県

https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syahuku/shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/gtzcAmj8n64y5SrH7

撮影:2023年8月


関連

宮城野の戦跡散策(仙台の戦跡散策・その4)

榴岡公園周辺の宮城野地区の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その4」です。


仙台陸軍地方幼年学校阯

仙台市立宮城野中学校の敷地内にいくつかの記念碑が建立されている。
敷地外から見学。

仙台陸軍地方幼年学校阯

第一期生 多田駿書

昭和14年建立。

多田 駿
1882年(明治15年)2月24日 – 1948年(昭和23年)12月18日)
陸士15期・陸大25期。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。
支那事変のトラウトマン和平工作の中心人物。

こちらは、1939年(昭和14年)4月1日に、再生した仙台陸軍地方幼年学校の記念碑。
再興した幼年学校は、太白区三神峯であったので、この記念碑は移設。
太白区三神峯時代の仙台陸軍地方幼年学校の記念碑も、宮城野区五輪時代の敷地に移設されたので、ちょっとややこしい。

なお、三神峯公園にも「雄大剛健」幼年学校の碑が建立されているが、未訪問。

以下は、仙台市歴史民俗資料館より。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

いくつかの石碑があつまっている。

仙台陸軍地方幼年学校記念碑

1924年(大正13年)3月。軍縮により地方幼年学校が廃止となったことにより、設置された記念碑。
当地=宮城野区五輪時代の仙台陸軍地方幼年学校。

明治42年建立の「皇太子殿下手植えの松」碑と
「明治天皇 昭憲皇太后 御大葬遥拝之地」碑

場所

https://maps.app.goo.gl/e7w3xHqJFx5xMqBWA


宮城野原練兵場跡
(宮城野原公園総合運動場)

いまは楽天イーグルスの本拠地、ですね。
この地は、かつて練兵場でした。


明治天皇 大正天皇 御野立所跡

正門入口のすぐ脇に、記念碑がありました。

明治天皇 大正天皇 御野立所跡

第二師団在仙各部隊、将校下士卒等一同によって、昭和2年(1927) 建立
練兵場の北端にあり、戦後に撤去されていたものを昭和44年(1969)に再建したもの

場所

https://maps.app.goo.gl/ktSKDqDnsgMp63N59


騎兵 捜索 第二聯隊之跡

明治40年(1907)に第2師団編成改正があり、宮城野練兵場の南端に山砲兵第1大隊が設置。大正14年の軍縮によって、山砲兵第1聯隊は新潟高田に移転。
跡地には、騎兵第二聯隊が移転。騎兵第二聯隊は昭和15年(1940)に乗馬中隊と軽装甲車中隊編成となり、太平洋戦争中は、捜索第二聯隊と称された。

東海道
騎兵 捜索 第二聯隊之跡

東街道
 東街道は「あずま」への道で白河から多賀城までの道であった。
 この街道は仙台市では、鈎取から木ノ下の西、宮城野原を経て多賀城に、向かっていた。

騎兵捜索第二聯隊之跡
大正14年 川内からこの地に移駐

宮城野の 萩喰いさかる 軍馬かな
 虚子

場所

https://maps.app.goo.gl/ZZcvEZb5typb17tw7

※撮影:2023年8月


関連

榴岡公園の戦跡散策(仙台の戦跡散策その3)

仙台市内の榴岡公園の戦跡を散策してみました。
本編は、「その3」です。


榴岡公園

宮城県仙台市宮城野区。
江戸時代からの桜の名所。
戦前は、歩兵第四聯隊が営所をおいた。
仙台市歴史民俗資料館は、旧陸軍歩兵第四聯隊兵舎。


歩兵第四聯隊

宮城県仙台市の榴岡に営所を設置。仙台鎮台(第2師団)の司令部が仙台城に設置されたことに対して、聯隊が榴ヶ岡に設置されたのは、仙台城が要害の地にあり、広瀬川の氾濫時には、交通途絶し、仙台城から部隊が出動できなくなるために、白に対して広瀬川の対岸に位置し、街道に近い榴ヶ岡に置かれた。
歩兵第四聯隊は、明治8年(1875年)に発足。太陽戦争では、初戦をジャワ島、ついでガダルカナル島での激戦を経て、終戦はビルマで迎えている。


旧第四聯隊兵舎
(仙台市歴史民俗資料館)

陸軍第2師団歩兵第4聯隊の兵舎。
宮城県内最古の洋風木造建築。

宮城県指定有形文化財 令和5年3月24日指定
旧第四連隊兵舎
 明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では 最古のもの、瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角にはコーナー ストーン、ガラス入り上下窓、出入り口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻のある 階段等の特徴を持つ、これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ている ことから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
 終戦まで70年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年 までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。 内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年 の状態に復元された。昭和54年(1979)11月3日、仙台市歴史民俗資料館 として開館した。
 なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は榴岡 公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。
 平成27年3月
  仙台市教育委員会

白を基調としたシンプルな美しさがあります。

中に入ってみましょう。

四聯隊コーナーがあります。

大正四年に空撮した歩兵第四聯隊。
中央が榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の兵営地。

軍隊生活の再現。

仙台陸軍地方幼年学校
榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東隣に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設置された。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

仙台空襲

仙台空襲は、昭和20年7月9日深夜から10日未明にかけて、131機編成のB29爆撃機のうち123機が仙台上空に到達し、約3000mの高度より爆撃を行い、合計1万2961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。7月17日・8月9日・10日の小規模な爆撃も含め、1400名近い人々が空襲によって亡くなった。
(以下略)

満洲事変勇士合奏の墓は、常盤台霊苑にある。立ち入りできないけど。
昭和6年に勃発した満洲事変での日本軍の最初の戦死者は、仙台第二師団だった。

仙台と西南戦争

軍都仙台の誕生
仙台と日清戦争
仙台と日露戦争

愛国婦人会と国防婦人会
帝国在郷軍人会

仙台と満洲事変

満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争

徴兵制と庶民のくらし

対外戦争と歩兵第四聯隊

歩兵第四聯隊全図

榴ヶ岡歩兵営図

招魂社
宮城縣護國神社

ガイドブック 仙台の戦争遺跡 2008
こちら、購入しました。はかどりますね。


歩兵第四聯隊営門跡

榴岡公園の西側。このあたりに営門があったという。


歩兵第四聯隊之碑

至誠無息
歩兵第四聯隊之碑

今村均(仙台出身の陸軍大将)による謹書。

 歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相継いで護國の大任についた 其間明治十年西南の役を初めとし日清日露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべき聯隊であった 然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝より親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した 我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである
 昭和三十五年九月九日   
  重陽会
  その他有志一同


陸軍省所轄地標柱(境界標柱)


朝鮮戦役記念の碑

明治17年(1884)の甲申事変の開化派(独立党)と守旧派(事大党)が衝突し、京城(ソウル)の日本大使館護衛にあたったのが、歩兵第四聯隊第一中隊であった。
歩兵第四聯隊第一中隊は、事大党側の清国軍及び朝鮮軍と戦闘し死傷者を出している。
朝鮮戦役記念の碑は、軍功を称えて明治18年12月建立。


梅の園碑
(石原莞爾を偲ぶ碑)

石原莞爾は、昭和6年に陸軍中佐として関東軍の作戦主任参謀として、満洲事変を指揮。翌年の昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還。
昭和7年10月、石原莞爾は、満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣。そして、この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第四聯隊長に着任。
石原莞爾が第四聯隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間であったが、出身地である東北の名門の聯隊に着任できたことを喜んでいる。

石原莞爾氏は昭和八年九月から二ヶ年間この地に歩兵第四連隊長として在任し連隊諸兵の栄養源又非常用として自ら植えられた
この四連隊跡地が仙台市民の公園として開放されたことを祈念してこの碑を建立する
 昭和五十二年三月二十五日
  石原莞爾将軍を偲ぶ会
  建立会一同

歩兵第四連隊長
石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴)
梅二〇〇本植える

榴岡公園は桜の名所として知られるが、今も石原莞爾なごりの梅園も残っている。


場所

https://maps.app.goo.gl/qB5NDWXWPL62xa78A

※撮影:2023年8月


関連

仙台城址周辺の戦跡散策(仙台の戦跡散策その2)

仙台城周辺の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その2」です。


野砲兵第二聯隊之跡
(第二師団野砲兵第二聯隊)

仙台城の北にある国際センター駅のさらに北側。
宮城県美術館の東側道路の植え込みの陰に、ひっそりと跡地の石碑があった。

野砲兵第二聯隊之跡

昭和58年の建立。

明治11年(1878)に砲兵第2大隊が榴ヶ岡に創設され、後に山砲兵第2大隊となり、明治16年(1883)に川内に移転、明治17年に野砲兵第2聯隊となった。

これはわかりにくい。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/ftq371WNTHgudYye8


親兵淵
(第二師団野砲兵第二聯隊)

親兵淵
ここの淵は「親兵淵」と呼ばれ、対岸の崖の上に駐屯していた旧陸軍野砲第二聯隊の親兵さんがこの淵で泳いだり、洗濯したちしていたことから名付けられたものです。

場所

https://maps.app.goo.gl/BNCdAXDrtBLPJgtA7

広瀬川

左側に高台に、野砲第二聯隊が駐留していた。


軍馬軍用動物彰忠塔

昭和15年(1940)の紀元二千六百年奉祝行事を記念して、軍馬や伝書鳩や警戒犬などの軍用動物の慰霊のために建立。

軍馬軍用動物彰忠塔

参加聖戦
 日清戰役
 日露戰役
 西伯利亞事變
 満洲事變
 支那事變

場所

https://maps.app.goo.gl/sHJhsudzFKbHh1S8A


満洲事変軍馬戦歿之碑

満洲事変軍馬戦歿之碑

昭和六年九月十八日以降無言ノ戰士トシテ満洲事変變ニ参加セシ第二師團下諸部隊戰病死馬八十七頭ノ霊ヲ合祀ス
 昭和八年十二月
  正六位勲六等四竃仁邇書

四竃仁邇(雅号は静堂)は、仙台の裁縫教育の先駆者であり、音楽教育の先駆者でもある。

2つの軍馬関連の慰霊碑

場所

https://maps.app.goo.gl/VhJEBPpknEA5BSXP7


家畜慰霊碑

昭和30年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/Cf587NmoUbGEtm918


工兵隊の跡
(第二師団工兵第二聯隊)

明治15年(1882)に工兵第二中隊が創設。
明治22年(1889)に工兵第二大隊となり、明治30年(1897)に旧駐留地の亀岡から仙台大橋通に移転。
昭和11年(1936)6月1日に、工兵第二聯隊に改編された。

工兵隊の跡

場所

https://maps.app.goo.gl/9HDZ3H2DP8e94Xi66


フリーメイソンの石碑(米軍仙台ロッジ跡?)

仙台城大手門の入り口近くに「フリーメイソン」らしき石がある。

諸説あるが、仙台城(青葉城)には、戦後に進駐軍が駐留しており、米軍「フリーメイソン」の「仙台ロッジ」があったということから、「フリーメイソン仙台ロッジの礎石」であるという説が濃厚とのことで。

場所

https://maps.app.goo.gl/XyiCrwpzpT8NRrH66


松川大将之碑

仙台出身である松川敏胤の記念碑。
仙台城唯一の復元建築物である大手門隅櫓のちかくにある。

松川敏胤は、軍事参議官・朝鮮軍司令官・東京衛戍総督や第10・第16師団長を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功二級に至る。陸士旧5期、日露戦争時は満州軍作戦参謀であった。

松川大将之碑

題額は閑院宮載仁親王

発起人はそうそうたる面々が名をつられている。

松川将軍薨シテ追慕措ク能ハス我等集リテコノ碑ヲ建ツ
協力者ハ陸軍大学兵学教官当時ノ学生旧部下其ノ恩顧ヲ受ケタル者ニシテ題額ハ畏クモ 閑院宮載仁親王殿下ノ御深筆ナリ 
友田宣剛文ヲ撰シ四竃仁邇之ヲ書ス
 昭和4(1929)年4月30日
発起人
 河合操 田中義一 田中國重 奈良武次 武藤信義 大庭二郎 尾野實信 山梨半造 町田経宇 福田雅太郎 白川義則 森岡守成 鈴木荘六(イロハ順)

場所

https://maps.app.goo.gl/3v6g3MQCLUnLribBA

大手門隅櫓のすぐちかく。


御大典記念樹

三の丸跡に。

御大典記念樹

これは別の石碑

大正14年10月竣功

なにが竣功したのは不詳。。。


林子平の碑

江戸時代後期の経世論家、元仙台藩士。
高山彦九郎、蒲生君平と並ぶ「「寛政の三奇人」の一人。


魯迅の像と魯迅の碑

魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。
魯迅と仙台とは、1904年、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)の最初の中国人留学生として入学した縁がある。


仙台市地下鉄の国際センター駅を拠点に南北を散策しました。

※撮影:2023年8月


関連

宮城縣護國神社(仙台の戦跡散策その1)

宮城県仙台市。仙台を代表する観光地でもある青葉城址(仙台城址)に宮城縣護國神社が鎮座している。そのため、青葉城址の観光客も自然の流れで参拝するために、非常に賑わっている護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

本編は、仙台の戦跡散策の「その1」です。


宮城縣護國神社

青葉山の仙台城(青葉城)本丸跡に創建。
明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管区(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神五万六千余柱を御祀りしている。

国際センター駅から歩いていったので、途中の見どころを押さえつつ。
仙台城址の石垣。

宮城縣護國神社

社号標は、鈴木孝雄謹書。
鈴木孝雄は陸軍大将。終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎の弟。

由緒
 明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役で尊い生命を御国に捧げられた 郷土出身者の み霊を祀る。
 明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸阯に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在 御祭神5万6千余柱をお祀りしている。
 (神社本庁包括別表神社)

御本殿
 御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている 伊勢神宮の 外宮「風宮」の旧御正殿で、昭和28年の第59回神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社の御復興にあたり、神宮の特別の思召しを以って昭和30年東北に初めてさずけられた極めて尊い御殿である。
建築様式は、唯一神明造(「掘立式で棟の左右を棟持柱で支える」で伊勢神宮よりそっくりそのまま御移築したものであるが、お屋根のみ建物を永く保存するために萱葺を銅板葺に改めてある。

宮城縣護國神社 由緒

https://gokokujinja.org/yuisho/yuisho.html

御英霊に感謝を。哀悼を。

朱塗りの護國神社。

参拝

御朱印を頂戴しました


英霊顕彰館(宮城縣護國神社境内)

平成16年、宮城縣護國神社創立百周年を迎え、この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館した。

英霊顕彰館 サイト

https://gokokujinja.org/eirei/eirei.html

概要
 護国神社は、平成16年、創立百周年を迎えました。
 この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館いたしました。
 「明治維新・戊辰戦争→日清戦争→日露戦争→第一次世界大戦→満州事変→支那事変→大東亜戦争→終戦・戦後→アジアの独立」と戦史を追いながら、それぞれの戦役・事変で散華された我が郷土の英霊について遺影・遺書・遺品等を中心に展示しております。

館内は遺影・遺書・遺品等を中心に展示。

歩兵第四聯隊の軍旗

大日本帝国陸軍第二師団歩兵第四聯隊。
終戦時に仏領インドシナ・サイゴン西北約80キロのホクモンのゴム林内で奉焼された。

復元した軍旗には、数多くの亡き歩兵第四聯隊の御英霊の魂が宿っている。

乃木大将
「古道照顔色」

明治維新

日清戦争
日露戦争

第一次世界大戦
上海事変・満州事変

ノモンハン事件・支那事変

大東亜戦争

特攻

終戦

利根

飛龍

雪風

矢矧

大和

巡潜乙型
秋津洲
北上

宮城縣護國神社の歴史

随想録
陣中有情
ガダルカナル島での日記
陸軍大尉 安田憲一命は、ガ島で戦士した。

戦時日誌

硫黄島収集遺留品

仙台空襲

三浦襄命(仙台市出身)
バリ島にて自決
「独立を約束できず謝罪のため人柱となる。屍を越えて独立を獲得せえよ」とバリ島民に告げ、自決。同島民には今なお『バリ島の父』として記憶される。

さくら陶板(靖國神社ご創立150年記念事業)

ビルマの竪琴

改めてゆっくりと観覧したと思います。
ありがとうございました。


鎮魂の泉(宮城縣護國神社境内)

御製

鎮魂の泉

「鎮魂の泉」
 この「泉」は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽され、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下百八十㍍の地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮られますように作成した。
 石組は、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グァム、サイパン、宜昌(中国)、占守島(中千島)等、御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、サンゴ礁等を用いて大東亜戦争終結五十周年を記念し建立した
 平成七年八月一五日


浦安宮(宮城縣護國神社境内)

別宮浦安宮。
左宮には天照大御神・豊受媛大神・級長津比古神・級長戸辺神、右宮には当地に屋敷神として古くから祀られている白水稲荷大神と伊達政宗公がまつられている。


昭忠碑(宮城縣護國神社管理)

仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社管理)。
明治35(1902)年、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された。
東日本震災により高さおよそ15mの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄(とび)が落下・破損する被害を蒙った。
鵄本体旧状通りに戻した場合、大地震が発生した際には再び高所より落下する恐れがあるため、安全性を考慮して塔の下に設置復元を実施。

鵄は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)が依嘱を受けて同校内で制作・鋳造したもの。

昭忠
元帥大勲位功二級彰仁親王書

小松宮彰仁親王

明治34年8月起工
明治35年7月竣工

東日本大震災の記憶~昭忠碑(しょうちゅうひ)~
設置年
 明治35年(1902)(明治33年制作委嘱 明治34年着工)
設置目的
 西南戦争・日清戦争等戦没者慰霊碑
所在地
 仙台市青葉区川内 青葉山公園仙台城本丸跡
所有者
 宮城縣護國神社
「昭忠」揮毫
 小松宮彰仁親王(1846~1903)
 (昭忠とは、忠義を明らかにするという意)
全体の高さ
 約20m
鵄の材質
 とび ブロンズ製
鵄の重量
 4,689トン(修復後の内部構造材を含む総重量)
鵄の制作
 宮城県昭忠会(陸軍第二師団関係者で組織され、会長は宮城県知事)が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に制作委嘱
 川邊正夫(岡山県生まれ1874~1918)全体構想立案
 沼田一雅(福井県生まれ1873~1954)鵄原型製作
 桜岡三四郎(茨城県生まれ1870~1919)鵄の鋳造
 津田信夫(千葉県生まれ1875~1946)鵄の鋳造

 昭忠碑の塔上に設置された鵄は、戦前の金属供出を免れた明治30年代制作のブロンズ彫刻作品として希少であり、仏像を除くブロンズ彫刻として東北地方で最も古い時期に設置された重要な作品です。
 平成23年3月11日の東日本大震災により、鵄が塔上から落下し、大きく破損しました。
 破損した鵄は、平成25年2月、文化財レスキュー事業により、石段前に仮設置され、平成26年5月から文化庁補助事業として、保存修復事業が開始されました。平成27年7月、修復のため東京のアトリエに運ばれましたが、平成28年10月、修復作業が完了し、石塔の安全性を考慮し、塔の上ではなく、基壇上に設置されました。


伊達政宗公騎馬像

昭忠碑とおなじく、東日本大震災で被災した伊達政宗公騎馬像。2023年3月に修復が完了し、旧来の姿を取り戻している。

政宗の騎馬像は、昭和10(1935)年5月、藩祖公没後三百年祭を記念し、宮城県青年団が寄付を呼びかけて建立されたもの。
第二次世界大戦中の金属供出令によって消失するが、昭和39(1964)年9月に復元鋳造。

本丸跡からの眺望

仙台の戦跡散策、つづいては、仙台城址周辺の散策へ。

※2023年8月撮影


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