仙台の戦跡散策。
仙台市の戦災復興記念館に足を運んでみました。
目次
警報サイレン

モーターサイレンは今も昔も形状は大きく変更がない確立された原理っぽい。

サイレン
旧仙台市役所庁舎の塔屋内にあり、正午の時報を知らせていま
した。
戦争中は、空襲の警戒警報、空襲警報にも使われました。
イヤホンを耳にあてて、ボタンを押すと当時の警報を聞くことができます。

不明のジャンボサイレン発見 毎日新聞1983年(昭和58年)6月30日
戦前から正午の時知らせ
戦時下空襲警報も
(省略)
発見されたサイレンは、真っ赤にサビ付いていたが鉄製で、内部の羽根はアルミで出来ている。内蔵されたモーターが羽根を回し”うなり”を出す仕組み。大きさは約1メートル立方もあるジャンボサイズ。
このサイレンの製造、設置年月日は不明だが、記念館側の話では、戦前に旧庁舎のサイレン塔に取り付けられ、戦中、戦後と市民に正午の時を知らせたり、戦時下では空襲警報や警戒警報を伝え、多くの市民に知られた存在だったという。
しかし、背負わ41年、現市庁舎の前庭部分に建っていた旧庁舎が取り壊された際、行方がわからなくなった。
このほど、このサイレンが確認された場所は仙台市追廻の市公園管理事務所青葉山倉庫で、他のガラクタと一緒に放置されたままになっていたという。
(省略)





なかなか迫力のあるサイレン
仙台市戦災復興記念館
仙台市戦災復興記念館について
当館は、仙台市の「戦災復興の資料及び記録を総合的に展示し、市民の戦災復興への努力とその成果を記念するとともに、市民に文化活動の場を提供し、市民文化の向上に資する」(仙台市戦災復興記念館条例)ことを目的として、昭和56年4月1日に設置されました。

館内の様子。
ちなみに、入館料は大人120円。安すぎる。
仙台空襲と戦後の復興事業に関する展示



軍都仙台
軍都への歩みは、1871(明治4)年川内(仙台城二の丸跡)に軍の「東北鎮台」が置かれた事に始まります。後に仙台鎮台と改称し、鎮台は1888(明治21)年には第二師団となりました。また、榴岡には歩兵第四連隊がおかれました。

仙台空襲前後の空撮

明治·大正·昭和初期の建物
仙台の近代化の象徴であった、洋風建築物の多くは戦災によって焼失しましたが、県庁や市役所、仙台市立病院、三越百貨店など、戦災を免れた建物もわずかにあります。榴岡公園内に建つ歴史民俗資料館は、元歩兵第四連隊兵 舎 [1874( 明 治 7) 年 築 ] で 、 現存する県内最古の洋風建築です。

戦時下の食事

仙台に投下された焼夷弾






B-29による都市空襲の経緯
大都市に続いて、中小65都市が空襲されていった

仙台空襲
仙台空襲
1945(昭和20)年7月10日、0時3分ごろから約2時間にわたって、仙台はアメリカ軍B29型爆撃機による空襲を受け、被災者は57,000人、1,000人を超す尊い命が奪われました。917.6トンもの焼夷弾や爆弾が、仙台駅西側の街の中心部、第二師団のおかれていた川内の軍事施設及び市内の住宅地に投下され、静かなたたずまいをみせていた仙台は、一夜にして瓦礫の原にかわってしまいました。
1945年(昭和20年)7月10日午前0時3分




米軍資料から見た仙台空襲
1.B-29の日本本土空襲
第2次世界大戦末期の1944年夏、米軍はマリアナ諸島にB-29の基地を造り、同年11月から2500km以上離れた日本本土への空襲を開始した。
連日のように軍需産業や都市が空襲され66都市が焦土となった。そして原爆投下。この他にも数多くの町や村が小規模な空襲にさらされ、また米英海軍の艦載機攻撃や艦砲射撃を受けた。その結果,数10万人の生命が失
われた。
2.B-29による本土空襲の区分
B-29による空襲は下の資料1のように区分される。
*第|期は主に航空機産業を高高度より精密爆撃を行った。
*第Ⅱ期は東京・大阪等大都市への焼夷空襲で、低空から主に夜間のレーダー攻撃。沖縄作戦支援。工場爆撃を行った。
*第Ⅲ期は6月中旬より全国の中小都市を、1夜に4都市ずつ低空からレーダーで焼夷空襲。梅雨時の悪天候対策であった。
7月10日の仙台空襲は第II期、16回に及ぶ中小都市空襲の7回目で、比較的大きな市街地への最後の攻撃であった。
戦争終結のわずか1か月余り前のことである。
3.なぜ仙台は,空襲されたか
この問いの答えは,米軍資料にあった。米軍は日本の戦争継続能力に打撃を与えるため、大都市の大規模空襲に続き全国の中小都市を次々と空襲していった。
攻撃目標の都市を選択する資料となったのが、180の都市を人口順に並べた資料2である。この中で仙台市は13番目、223,630人 *。人口の他,都市の密集性・延焼性・軍需や輸送等徹底分析が行われ、目標として選ばれたのである。
*1940年国勢調査

4.空襲への手順
米軍は空襲前に収集した情報と偵察写真により、綿密な空襲計画を立て実行した。実行中も戦史将校をおき自らの戦闘を記録、 空襲後の評価を含む膨大な記録を残した。これらは米国立公文書館などに保存されており、情報公開されている。
この資料によって、仙台空襲がどのように計画され実行されたのかを知ることができる。
空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案した詳細な計画に従い、7月10日に空襲を実施した。
空襲によって与えた損害を知るため7月25日に航空写真を撮影し分析。焼失しなかった駅東部に対し、8月10日、再空襲計画を立てた。しかし15日に戦争が終わり、駅東部地域は再空襲を免れた。

7月10日仙台空襲と再空襲の計画

写真加工提供:工藤洋三氏
写真:米国立公文書館所蔵
街は2時間3分で焼け野原
空襲中の写真に現在の地図を重ねる
*左上は元写真。炎上部分の現在地がわかる。1時27分撮影
*空襲開始から1時間半後、左下の現東北大川内キャンパスにあった旧陸軍施設は盛んに燃えている。
*右側、現在の地下鉄南北線沿いの街並みは燃え、当時の木町通国民学校が炎上中。約30分後に攻撃は終わった。
*爆撃中心点は右下写真外に位置する。

空襲前後の写真比較 市街地の27%が焼失
損害評価図-与えた被害の程度を分析した図-
(図上に空襲目標の円と主な位置を記した)
*空襲後の写真上に焼失区域が斜線で示されている。円内にある市街地中心部と円外左の川内の軍事施設が焼失。
*円内でも駅の東部、南部(東北帝大)は焼け残った。
*黒の実線内が米軍の設定した住宅密集地域.。焼失した斜線部はこの27%で、他都市に比べて小さい。
*このため、再び空襲する計画が立てられた。

焼け残った東部に再空襲計画
再空襲の2つの目標エリア
(写真上に再空襲目標を示す2つの実線円と爆撃中心点座標、7月10日仙台空襲時の空襲目標を示す破線円を記した)
*8月10日、再空襲の計画が立てられ、焼け残った北東部と南東部に、半径0.9kmの円が設定された。
爆撃中心点は現在の常盤木学園南方(座標:081123)と、仙台一高南方(座標:081081)。どちらも東北本線沿線であった。
*半径1.2kmの破線円は仙台空襲時に設定された円。
*8月15日,戦争が終わり、再空襲を免れた。

仙台空襲と防空壕
下記で展開しました





空襲警報旗

米軍が透過した伝単
米軍が投下した伝単
伝単とは戦争相手国の市民や兵士の戦闘意欲を失わせる目的でばらまくビラ。
太平洋戦争末期、米軍は日本本土上空から大量の伝単をまいた。空襲予告や降伏勧告、戦況の不利などを知らせる内容で、これらの伝単を拾った者は、憲兵や警察へ届けることになっていた。拾って持っていると、非国民として処罰されたため、現在残っている物は少ない。
君達の指導者は嘘つきだ!!



変わる身近な街並み

仙台市電
1926(大正15)年、仙台市街電車(市電)が開通しました。区間は仙台駅前~大町一丁目間と東五番丁~荒町間。
その後北仙台、長町、八幡町まで延長され、1948(昭和23)年原町線の開通で完成をみました。通勤·通学·買い物客の足として多くの市民に愛され、利用されましたが、1976(昭和51)年、半世紀にわたる歴史を閉じました。


宮城県の戦争遺跡「防空壕」
特別コーナー的にまとめられていて、なかなか興味深い展示であったので、メモとして記録。


















仙台戦災復興記念館

※撮影:2025年9月
関連
仙台の戦跡散策・その1から



