仙台の戦跡散策。北山駅周辺を散策してみました。
北山駅のちかくに鎮座する御嶽三吉神社の境内にある「東北帝国大科学計測研究所の保管壕(地下壕)」
東北帝国大科学計測研究所が資料を保管するために作られた地下壕という。

目次
東北帝国大科学計測研究所
東北帝国大学では、国の総力戦体制の中で、科学動員の一環として、研究所の拡充を図り、1940年から1945年にかけて、全国の帝国大学で計26もの研究所が設立されていた。
東北帝国大学では、最多の8研究所を増設し「研究所大学」との異名を取るに至っていた。
新たに設立されたのは、選鉱精錬研究所、抗酸菌病研究所、科学計測研究所、航空医学研究所、高速力学研究所、電気通信研究所、非水溶液研究所、硝子研究所で、いずれも理系に分類される研究所。
東北帝国大科学計測研究所は、昭和18年設立。
2001年に、東北大学の3つの附置研究所(選鉱製錬研究所→素材工学研究所、科学計測研究所、非水溶液化学研究所→反応化学研究所)を統合・再編して「多元物質科学研究所」が設立されている。
仙台空襲と防空壕
「仙台市戦災復興記念館」の掲示から
仙台空襲と防空壕
1945年7月10日午前0時過ぎ、仙台市は米軍の B-29爆撃機123機による焼夷空襲を受け、市の中心部550 haが焦土と化し、被災者57,000人、死亡者1,399人(「仙台はフェニックス」より)を数える大きな被害を受けました。
東京では、約10万人の死亡者を出した3月10日の大空襲の後は自宅の防空壕(待避所)に入るよりも、早期に避難することが多くなっていました。これに対し、仙台では初めての空襲であったことから、防空壕の安全性を信じて避難した人が多く、猛火に包まれて逃げ場を失い多数の市民が命を落としました。
防 空壕とは焼夷弾や爆弾が落ちた時、直ちに飛び出して消火するための応急施設で、「待避所」と呼ぶことが1942年に定められましたが、無防備の市民にその意識はなく、防空壕は、火の雨から身を守る唯一の場でした。1,000余人の死亡者のうち防空壕での死亡が確認されるのが約90人。ほかに一家全員同じ場所で死亡するなど、防空壕でと推 測 さ れ る 方 が 200 人 、 合 計 す る と お よ そ 300 人 が 防 空 壕 で 生 命 を 断 た れ ま し た。
防空壕のいろいろ
防空壕は、行政の観点からは名称も役割も異なる点がありましたが、形の上では大きく2つに分けられます。
(1)竪穴式防空壕
崖がない街中など平地に掘られた壕。
1 個人宅のたこつぼ型の簡易な壕。
2 校庭や道路脇の素掘りの溝型壕。
3 戦争最末期、自治体や国の補助金により造られた掩蓋式防空壕。家の消火義務のある者以外の避難用とされた。公会毎に造られたが、空襲には無力で、逃げ込んだ多くの市民が犠牲になった。
(2)横穴式防空壕
崖や山腹を横に掘り進めた壕。仙台市の市街地近くには河岸段丘崖が広がり、壕の構築に適していた。
1 個人で掘った小規模の横穴。
2 戦争最末期、避難用に自治体や国の補助金で造った大規模な横穴式防空壕。周辺の住民を救ったが、数や立地場所が限られ、大勢を救うことはできなかった。

仙台市に残る防空壕に記載のある「北山」が今回の防空壕

「仙台市戦災復興記念館」にて。
竪穴式防空壕の再現模型


東北帝国大科学計測研究所の防空壕
本殿の下側に位置する地下壕。

湿気などの問題もあり、実際に保管壕としては使用されなかった、という。

散策




最深部。
燭台のように、くり抜かれた部分もある。








9月は、まだまだ緑に覆われてました。

御本殿の下。

御嶽三吉神社


仙台大観音がよく見える眺望


奥の高台に、地下壕がある。

場所:
※2025年9月撮影
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仙台の戦跡散策・その1から


