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いのはなトンネルの悲劇「湯の花トンネル列車銃撃事件」(高尾)

平成31年1月撮影

JR高尾駅には「銃撃痕」が残っていたが、高尾駅からちょっと奥まったトンネルでも「銃撃」による悲劇があった。


湯の花トンネル(いのはなトンネル)へ
(蛇滝口バス停)

高尾駅から「湯の花トンネル」(いのはなトンネル)列車銃撃の慰霊碑へむかいます。

高尾駅から小仏方面に向かうバスに乗り「蛇滝口」バス停で下車。
線路近くに慰霊碑がありますので参りましょう・・・

戦時中に銃撃の悲劇があった場所となります。


湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月5日、この地で米国戦闘機群によるわが国で最大規模の旅客列車銃撃空襲がおきました。
 8月2日の八王子空襲で中央本線が普通になった後、3日ぶりに新宿発長野行き419列車が浅川駅(現高尾駅)を出発し湯の花(猪の鼻)トンネルにさしかかった時、硫黄島から飛来したP51ムスタングの銃撃を受けました。この銃撃により警視庁の調べで52名が死亡し(実際は60名以上)、133名が重軽傷を負いました。
(以下略)
 2018(平成30)年8月
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会


湯の花トンネル列車銃撃空襲
戦災死者供養塔
慰霊の碑

慰霊の碑
 終戦間近の昭和二十年(一九四五)八月五日、真夏の太陽が照りつける午後十二時二十分頃、満員の新宿発長野行き四一九列車が、いのはなトンネル東側入口に差しかかったとき米軍戦闘機P51二機または三機の銃撃を受け、五十二名以上の方々が死没し、百三十三名の方々が重軽傷を負いました。
 この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。
 私どもは、この戦争の惨禍を決して忘れることができません。
 ここに、確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ、戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。

平成四年八月五日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

碑裏面
 戦災死者供養塔は、昭和二十五年八月、当時の上長房(現:裏高尾町、西朝川町)青年団が、亡くなった方々を供養するため、団員協力のもとに建立したものです。
 供養塔には、亡くなった方々を荼毘に付した日影沢の石が用いられました。
 地元に住む人々は、尊い犠牲者のお名前も人数も知ることなく、供養塔の前に手を合わせご冥福をお祈りしていました。
 昭和五十六年から八王子市教育委員会が八王子の空襲の調査を行い その後あらゆる手だてを尽くした結果、この事件の犠牲者は六十名以上と推定いたしました。
 そのうち、四十名のお名前と遺族が判った昭和五十九年、遺族関係者、地元の有志により七月二十一日に「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が発足いたしました。
 会では、この年の八月五日を「供養の日」に定め、毎年供養の集いを行い現在に至っています。
 供養塔は、はじめ唐沢踏切の北側にありましたが、地主のご好意で南側の土地を無償で提供していただき、昭和六十一年七月二十八日現在地に安置されました。
 かねてから、会では蓄積した浄財で亡くなった方々のお名前を刻んだ慰霊の碑の建立を計画していたところ、平成四年三月、東京八王子南ロータリークラブからも協力の申し出があり、ここに念願でありました慰霊の碑が完成いたしました。

平成四年六月十日
 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会

列車は湯の花トンネル手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来した米軍P-51戦闘機に捕捉され、機関車と1両目は特に激しく攻撃されトンネルに2両目の半分程が入ったところで停止。そのためトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒されて犠牲者が増加してしまった…

いのはなトンネル

このトンネルは戦後の新線(下り線)

煉瓦造の上り線が、空襲時から残っているトンネル。
(上り線は踏切の位置関係上、走行写真は撮影不可。)

現在の下り線(前述の列車写真は下り線)は新線。

高尾から先の複線は昭和37年以降。
煉瓦造トンネルの節々に欠けがあるのが空襲時の銃撃痕かもしれない。


湯の花トンネルの脇、甲州街道に面した蛇滝口バス停にある建物。

旧蛇滝茶屋
(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所)

この建物は空襲当時には既にここにあり、遺体安置所になったとも、遺族の集会所になったとも、雨戸を外して犠牲者救助に活用されたとも伝承されている建物。

当時、この地で起きた悲劇に想いを寄せつつ、慰霊碑に手を合わせる。

合掌


電気機関車ED16形(青梅鉄道公園)

中央本線419列車。新宿発長野行きの下り列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。

同形式の電気機関車ED16形1号機が準鉄道記念物・国重要文化財として青海鉄道公園に保存されている。
参考掲載。

準鉄道記念物
ED161 号電気機関車
ED16 形式は昭和6年に開発され、18両制作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子-交付缶、上越線 水上-石打缶などで活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南武線・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。
このED161 号機は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、平成30年10月31日、国の重要文化財に指定されました。

なお、八王子郷土資料館には、いのはなトンネルで銃撃を受けた該当機関車「ED16-7号機 標識」が保存されているというが、まだ未見。


参考

総務省
一般戦災死没者の追悼 > 追悼施設 > いのはな慰霊碑、戦災死者供養塔

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_hachioji_city002/index.html


関連

昭和20年8月5日の空襲。米軍戦闘機P-51マスタングの集団は、二宮駅にも機銃掃射を行っていた。

JR高尾駅に残る機銃掃射弾痕

平成29年11月・ほか撮影。

当時は「浅川駅」と称されていた「高尾駅」ホームに銃弾痕が残っている。


昭和20年7月8日

駅舎が米軍艦載機による機銃掃射をうけた爪痕。
そんな戦争の歴史を残す高尾駅を観察してみる。

同じ昭和20年7月8日の機銃掃射では「ランドセル地蔵」の悲劇もあった。


JR高尾駅

明治34年8月1日に浅川駅として開業。

現在の社寺風デザインの北口駅舎は大社線大社駅を設計した曽田甚蔵が設計、1927年(昭和2年)に竣工した2代目。

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

大正天皇大葬後、多摩御陵への参拝者は急増。輸送を担うは国鉄と京王電軌(京王電鉄)の2社。
運転本数の多い京王に人気があり、一方で劣勢の国鉄は利用促進のため「新宿御苑宮廷臨時停車場」の用材を用いて浅川駅(高尾駅)に移築改築をしたのが現在の駅舎という。

※高尾駅改修計画ではかつての皇室専用駅であった東浅川駅跡へ駅舎移築の予定となっている。


JR高尾駅 2番線ホーム屋根支柱(31番)

2番線ホームの屋根支柱(31番)に米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕が残っている。

銃撃痕
太平洋戦争末期(昭和20年)の米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕と思われます。


JR高尾駅 2番線ホーム屋根支柱(33番)

2番線ホームの屋根支柱(33番)にも米軍艦載機の機銃掃射による銃撃痕が残っている。
31番支柱及び33番支柱ともに銃撃痕の部分のみは塗装を施さずにわかりやすい状態となっている。


JR高尾駅 3番線ホーム屋根支柱(24番)

3番線ホームには「国内最古のレール」が、ホーム屋根支柱(24番)として使われている。

1901年(明34)に操業開始した官営八幡製鐵所にて1902年に製造されたレールであることを示しており、現時点で確認できる国産レールとしては最古のものとされている。


以下は現在の高尾駅舎が移築される予定の旧・東浅川駅の写真

旧・東浅川駅

八王子市立陵南会館跡(東浅川保健福祉センター第二駐車場)

今はヘンテコな駐車空間ですが、この場所にはかつて旧・東浅川駅(皇室専用の東浅川宮廷駅跡・昭和35年廃止)がありました。
社殿造の駅舎が八王子市に払い下げられて残っていたが、平成2年(1990)に新左翼系爆弾テロにより焼失…

市立陵南会館があった側から、参道(多摩御陵線)をのぞむ。

この陵南会館のあった東浅川宮廷駅跡は大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅であり、参道もその時に整備された。

参道の両脇

多摩御陵参道
武蔵陵墓地参道

ここから御陵参道が始まります。

南浅川を渡る。重厚な御橋。

南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋 。
御陵参道の橋は威厳にあふれている。

武蔵野陵の話は別の機会に。

中島飛行機半田製作所飛行場跡と半田散策

平成29年1月撮影

中島飛行機半田製作所

知多半田地区には、戦前に中島飛行機の工場があった。

中島飛行機といえば陸軍の戦闘機「隼」「鍾馗」「疾風」などが有名であるが、この半田製作所では海軍機を製造。

1943年1月末に主要建物が完成し半田製作所開設。
中島飛行機半田製作所では、主に海軍機2種類を製造。

艦上攻撃機「天山」
半田第1号機は1943年12月8日に完成。
終戦までに月産最大90機、平均月産49機、総生産機数は977機。

艦上偵察機「彩雲」
偵察機として抜群の性能を誇り、海軍最速機として追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」は有名。
半田第1号機は1944年6月に完成。半田製作所での制作機は427機。

北東の駅がJR武豊線「亀崎駅」(後述)。
西が「乙川駅」。
その南側の工場が中島飛行機半田製作所が転換された「輸送機工業株式会社」(富士重工の子会社)。
往時の滑走路跡を書いてみました。

中島飛行機半田製作所 滑走路跡

滑走路は長さ924mの1本。
南東側が堤防に当たるため、生産機である天山や彩雲を離陸できても着陸はできない離陸専用滑走路だったという。
ここより離陸した天山や彩雲は鈴鹿航空隊などに空輸されて再整備のうえで海軍へ納入された、と。

中島飛行機半田製作所の工場は滑走路の西に展開。
中島飛行機半田製作所は、戦後は輸送機工業株式会社に。(富士重工の子会社)。隣接する半田ソーラー発電所も当時の工場跡。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。

もうね、この滑走路末端部の「ターニングポイント」がこんな風に残って、往時の歴史を物語っているって興奮しますよね。

こりゃ、せっかく半田界隈にいるのであれば現地に行ってみないと。

戦後に米軍が撮影した航空写真

USA-R728-25
1947年12月26日撮影(昭22)
ターニングパッドと滑走路がはっきりと見える。無数の穴痕も・・・。
USA-R1493-154
1948年06月07日(昭23)
東の滑走路と、中央の工場部分がよく分かる。

中島飛行機半田製作所滑走路末端部
「ターニングパッド」跡


コンクリが見事に曲線を描いており、滑走路わきの排水路を構築しておりました。 円の中心部は住宅地となっておりますので、そちらは余り写さないように…。

円の反対側。
こちらは枯草に覆われ気味でしたが、排水路はキチンと残ってます。

この砂利が混じったコンクリート具合がステキです。

円形のターニングパッドから、真っ直ぐな に伸びる滑走路方向へと歩いてみました。

現地には案内看板のようなものは一切ないけど、間違いなくこの場所から戦地へと海軍機「天山」「彩雲」が飛び立っていった歴史があるのだ。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。
知らない人が見れば、ただの側溝。この側溝が戦前からここにあって、こうして今の世でもここにある奇跡に感謝する。歴史遺産として、静かに軍需工場の名残を伝えている空間は積極的な保存ではなく…ここにいつまでこうして残っていることか…と。

中島飛行機半田製作所跡

滑走路跡から西に歩むと「輸送機工業株式会社」がみえてくる。中島飛行機半田製作所の地に戦後に設立された会社。
2004年に富士重工業の完全子会社となっている。

建屋には大きく「SUBARU」 中島飛行機のDNAを継ぐ会社でもある。

JR武豊線「乙川駅」

この駅もまた中島飛行機半田製作所と縁が深い駅なのだ。工場への貨物側線を引くために高低差をなくす嵩上げ工事(盛土)を行い、その工事費用を中島飛行機が全額負担したという。
今も乙川駅の入口付近は嵩上げ名残の急坂が残っている。

中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫

そのまま歩いて辿り着いたのは「半田赤レンガ建物」

今でこそオシャレな建物ではあるが、このレンガ建物も紆余曲折あり、当初はビール工場、そして戦中は「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」となっていたのだ。

明治31年(1898年)にカブトビール製造工場として誕生。
昭和19年(1944年)に中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として活用され、戦後は民間のコーンスターチ製造工場となり、平成8年3月が半田市が所有。
登録有形文化財・近代化産業遺産

昭和20年(1945)7月15日。
「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」に米軍P-51戦闘機が超低空で飛来し急降下による機銃掃射を受け、その傷跡がレンガ壁面に残っている。この空襲では衣糧倉庫に火災も発生しており一部焼失する被害も出ている、と。

半田赤レンガ建物、今回は時間が無かったので外側を眺めただけで退散。
残念なことに赤レンガ建物の復刻ビールにありつけなかったのだ。半田ってビールもあれば、酒蔵もある(国盛)良い街ですね。これは今度ゆっくりもう一度来たい街になりました。


付記

JR武豊線「亀崎駅」
(JR最古の現役駅舎)

駅全体を損ねないカラーリングではあれど一際に大きいエレベーター跨線橋は2014年に新設されたもの。 今回の注目点はこれではなく駅舎そのもの。

この亀崎駅の駅舎。
なんと、1886年(明治19年)の開業当時から残るものとして「日本最古の現役駅舎」とされている。
(異説ありますが、現役駅舎として最古級なのは間違いなし)
この佇まい。
佳き雰囲気を醸し出しています。
とても綺麗です。

建物資産標
M19年1月

日本最古の現役駅舎。
当駅は、JR東海が2013年10月1日より導入した「集中旅客サービスシステム」により、大府駅管理の無人駅となっている。

駅舎後方。
まるで住居のようでもあり、面白いですね。(いまは無人駅だけど)
駅自体はこじんまりと綺麗に良くまとまっていました。
佳き駅舎。
もっとも、あっという間に鑑賞が終わってしまったので…さて、次に参りましょう…

JR武豊線「半田駅」
(JR最古の現役跨線橋)

日本最古の現役駅舎「亀崎駅」に次いで鉄道ネタとして訪れたのが同じくJR武豊線「半田駅」。
(亀崎駅から歩いてきて)到着は11時ごろでした。

※半田駅の跨線橋は2021年6月で現役運用終了。半田市が保存に向けて調整中という。

半田駅の跨線橋は、建築当時から変わらずに利用されている現役の跨線橋としては日本最古。
コチラも古く1910年(明治43年)11月完成という。
まずは駅の外側から見学してみましょう。

奇しくも武豊線には明治の鉄道建築物が集中して残っていることになります。
今回、たまたま半田に用事があったので、こうして見学できることになり運がよいです。これは。
跨線橋に萌えてきました。これもまた良い建造物です。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
良き味わい。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
跨線橋の脇には「ランプ小屋」も。 こちらも良き味わい。

せっかくなので入場券を買って中も見てみましょう。

開駅 明治19年3月(1886)
このこ線橋は、明治43年11月に完成 JRでは最古の駅です。

階段部分の斜めのガラス窓が美しい。

そして通路の天井。

跨線橋の根本。
ホーム上でずっと興奮しまくってます、わたしw

鉄柱には「明四十三 鐡道新橋」と書いてあるのかな。

こんな感じに跨線橋にだいぶ萌えてしまった私がいました。
まさか武豊線に歴史的な価値のある鉄道建造物があるとは思いもよらずで。

JR銚子駅舎建替前の記録(海軍香取航空基地の格納庫転用の駅舎?)

すでに解体済みです。平成30年に新駅舎となりました。

1945年(昭和20年)7月19日
空襲で銚子駅舎は焼失しており、終戦直後に海軍香取航空基地の格納庫を転用し駅本屋に改築したものとされている。
訪れてみればわかるが空間が広く格納庫転用の名残を感じる。

海軍香取航空基地跡の記録はこちら

内田百閒 「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅。夏目漱石の弟子である作家・内田百閒は昭和28年に「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」の中で銚子駅に関してこう記していた。

「…間もなく銚子駅の構内に這入った。終着の大きな駅ではあるが、本屋全体の感じが倉庫か格納庫の様で、少し薄暗く、よその駅とは丸で工合が違う」

さすがの内田百閒先生。
陸軍士官学校や海軍機関学校のドイツ語教官、法政大学ドイツ語教授時代に法政大学航空研究会会長に就任していただけあって、知ってか知らずか「格納庫の様だ」とご名答されていました。

内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」
内田百閒全集第7巻(講談社)
「房総鼻眼鏡・房総阿房列車」

銚子駅 平成28年10月18日撮影

既に一部では工事も開始されておりました。

駅構内では待合室とニューデイズは既に封鎖・・・。
柱が少ない内部空間が、僅かに格納庫の名残を残しているのかもしれない。

外側から駅舎を見てみれば、この長い建物が「格納庫らしい」とも。

建て替え前に。 いろいろと見て歩く。

跨線橋から、つい銚子電鉄ホームを見てしまいました。

地元駅から始発に乗って、電車に揺られて銚子駅にたどり着いたら、一休みしつつ待合室のTVで「小さな旅」を見たのも思い出の一つになりました・・・。

銚子駅  平成28年12月11日撮影

建替工事中のJR銚子駅。
平成28年12月11日の記録。

ホーム側から撮影。
この時はまだ違和感に気がつきませんでした。

跨線橋から撮影。
ん?…ない?あれ? 駅舎ブツ切りされてる……

正面。
あぁ…真ん中が…ない!
真ん中が完全に撤去…

覚悟はしてましたし、しょうがないこととはいえ、海軍香取航空基地格納庫転用とされた銚子駅駅舎の半身不随の姿。

銚子の青空と太陽は絵になる。 それは皮肉なことに、半身不随の姿で横たわるJR銚子駅の半壊な姿ですら…

バッサリと切り捨てられた姿が痛々しい。

覗きこんでみました。
これもまた、消えゆくものへの供養の記録。

海軍香取航空基地格納庫の気配を夢想しつつ、いち歴史ファン・海軍フリークとして、その姿を脳裏に刻む…

銚子駅舎さん!お疲れさまでした…