「沖縄県」カテゴリーアーカイブ

沖縄最古の慰霊塔「魂魄之塔」と「有川中将以下将兵自決の壕」米須霊域(沖縄戦跡散策8)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その8」となります。

その7は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


米須霊域

沖縄本島南部の糸満市に所在する「米須霊域」は、「平和祈念公園」に次ぐ霊域。
米須霊域は、「ひめゆりの塔」の南側に位置している。
米須霊域の西側には、全国植樹祭の会場となった「平和創造の森公園」が広がっている。


有川中将以下将兵自決の壕

歩兵第64旅団長・有川主一陸軍少将(ありかわもりかず・死後に中将)

歩兵第64旅団は、第32軍 第62師団 所属
第32軍隷下の全部隊が玉砕した。

有川中将以下将兵自決の壕

石第64旅団は沖縄県民の絶大なる協力を得て奮戦力闘したが武運拙く、将兵は悉く玉砕し、旅団長有川圭一中将は高級副官竹下勇大尉以下の将兵と共に此の壕で自決した。時は昭和20年6月21日の未明であった。
茲に全国篤志家の賛助を受け、記念の碑を建てその偉烈を後世に伝える云爾
   昭和56年6月21日 建立
     鹿児島県沖縄戦歿者慰霊会

場所

https://maps.app.goo.gl/TpMPfHeQ5hCvy2eHA


魂魄乃塔

沖縄では最古にして最大の合祀数となる慰霊塔。
沖縄戦最後の激戦地「米須」に建立された。
元々は納骨堂であり、沖縄各地に点在する慰霊塔で最古のものとされている。
(ご遺骨は、現在は、国立沖縄戦没者墓苑に転骨されている)

魂魄

<建立の経緯>
糸満市米須集落の南方300m、海岸寄りにある。ここは沖縄戦最後の激戦地であり、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場を失い、陸海空からの激しい攻撃を受け命を落とした人は数多い。敗戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村(現在の那覇市)の住民が米軍の許可を得て遺骨収集班を結成、道路や畑、丘、森に散っていた遺骨を集め魂魄の塔を建立した。合祀柱数3万5000は沖縄では最大の慰霊塔にあたるが、昭和54年2月摩文仁が丘に完成した国立沖縄戦没者墓苑にその大部分は転骨された。
なお、塔は終戦直後の石積みで素手造りであり崩れる恐れがあったため、平成元年補修され、あわせて碑文の刻板が設置された。
塔の裏側には
 にぎたまと なりてしづもる おくつきの
 み床の上を わたる潮風
と刻まれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.htmlhttps://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/konpakunotou

魂魄の塔
 この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡である。
 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。
 祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和五十四年二月摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。
 和魂となりてしづもるおくつきの
 み床の上を渡る潮風
  建立年月日 昭和二十一年二月
   財団法人 沖縄県遺族連合会

和魂となりてしづもるおくつきの
み床の上を渡る潮風
 翁長助静 詠 
  潭洞 書

 歌意は、和魂「平和でもの柔らかな徳を備えた霊魂」となってねむるおくつき(奥津城=墓)のみ床の上を潮風が吹き渡っている、ということです。
 終戦の翌年の昭和二十一年一月、沖縄の各地に散らばっていた旧真和志村民は自分の村に帰る予備的措置として、この米須一帯の地に集結させられました。
 沖縄戦において、島の南の果てまで追いつめられ、逃げ場を失った日本軍や民間人は、ここ
で夥しい数の戦死者をだしました。 戦死者の屍は目をおうばかりに散在し、放置されたままとなっていました。
 このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。
 この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています。
 なお、当時の歌碑は長い年月の流れに風化され、歌の文字もほとんど読取ることができないまでに失せてしまっていました。そこで、この歌碑はこれに心を痛めた当時の教え子たちが、戦後五十周年の節目にこの歌碑を建立しました。
       平成七年六月

 沖縄は国内でひとり戦場となり、言語に絶する状況下、20万余の同胞が散華した。
 かかる中で、昭和21年1月23日、九死に一生を得た真和志村民は、米軍によって当地に終結させられ、金城和信氏が村長に任命されたが、一帯は累々として亡骸が横たはる有様であった。
 この光景を痛嘆した金城村長は、先づ御遺体を弔ふべく決意し、夫人と共に、村民の協力を仰いで鄭重なる収拾を始めた。
そして、今は敵も味方もないとの信念で、彼我2万余柱を奉じて納骨堂を造り、同年2月27日、金城村長はこれを魂魄と名付け、自ら石碑に墨書して「魂魄」と刻んだ。
 更に、金城ご夫妻は、信子と貞子の愛娘を戦死させたこともあって、同年4月5日、乙女たちを祀る「ひめゆりの塔」を建立した。
 ひめゆりの名は、金城村長が、女子師範学校と県立第1高等女学校の姫百合に因んで命名したもので、自ら石碑に「ひめゆり」と刻み、亡き生徒たちの名を刻んだ。
 続いて金城ご夫妻は、同年4月9日、男子学徒を祀る「健児の塔」も建立した。
 後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦没者とその遺族のために生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられた。
 今では、方々に慰霊塔が建つようになったが、思えば、焼土と化した終戦直後に建立されたこの「魂魄の塔」こそは、沖縄における最初の鎮魂碑である。
 東京大学名誉教授 中野精一

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_007/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/LieJx2sixz3cGvu99


金城和信翁の胸像

「魂魄の塔」の隣に建立、北村西望の製作。昭和55年10月23日除幕式。
金城和信翁は、明治31年3月1日生まれ。戦前は沖縄県の小学校長などを歴任され、戦後の米軍占領下では、摩文仁におかれた真和志村の村長に就任。
米軍の許可を得て、ご遺骨の収集を開始し、昭和21年(1946年)2月に、戦後初の慰霊塔であり納骨堂として「魂魄の塔」が建立された。

金城和信翁は、明治三十一年沖縄に生れ その性寡黙にして温情溢れ 進んで艱難に当たる
思えば昭和二十年春夏の間 凄絶比類なき戦場となった沖縄は学徒を含む県民の殆どが戦列に加はり 実にその大半が国に殉じた
然るに戦火終るも 沖縄は引続いて米軍占領下に置かれ 為に人々は戦没者を祀ることに対し 先方の干渉を慮り実行を恐れたこのとき身を挺して県民の先頭に立った偉丈夫があった その人こそ金城和信である 翁は戦野に累々たる三万余の遺骨を拾収するや「魂魄の塔」を建立 鄭重にこれを収めてその尊い霊を慰め 続いて「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建て戦没学徒を悼んだ
爾来 翁は沖縄県遺族連合会会長となり 英霊の顕彰 遺家族の福祉援護 戦没学徒の処遇及び全国都道府県慰霊塔建設などのために尽瘁し その業績は遺家族の親 戦没学徒の父として遍く知られるに至った
しかして日本国家は 八十一歳の翁を正五位勲三等に叙し 授くるに瑞宝章を以てし 翁が一生の労苦に報いその功績を讃へた ここに翁の威徳を慕ふ者相集って胸像を建立するに至る
見よ いまなほ この地に在りて ふる里を見守る翁のまなざしを 翁よ 翼はくは魂魄この世に留まり次代を背負ふ人々を加護し給はらんことを
 昭和五十五年十月
  金城和信先生威徳顕彰会議 
  文化勲章日展会長北村西望書 

沖縄戦継承事業 戦場に動員された21校の学徒隊
 戦前、沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒たちが戦場に動員されました。女子学徒は、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。

https://www.pref.okinawa.lg.jp/kyoiku/seikatufukushi/1006765/1027103.html


東京之塔(東京都)

所在地糸満市山城
建立年月日昭和46年10月27日
敷地面積8,000㎡
合祀者数103,500柱(沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱)
管理団体東京都

東京之塔

 さきの大戦中、南方諸地域において戦没せられた東京都の関係者は実に10万有余柱に及ぶ。
 顧みればわれら同胞が戦禍に堪えて刻苦精励すること20有余年、よく平和の恩恵に浴しえたことは、ひとえに英霊が戦火の悲惨と生命の尊厳を貴い血をもって示されたたまものにほかならない。
 よって戦没者遺族をはじめ都民1100余万こぞって慰霊の誠を捧げ平和への誓いをこめ、ここ沖縄の激戦地米須の丘に謹んで東京の塔を建立する。
 み霊よ安らかに眠りたまえ
  昭和46年10月
   東京都南方地域戦没者慰霊碑建設委員会

「東京乃塔」の概要 東京都
この「東京之塔」は、さきの大戦において、南方諸地域で戦没された、東京都関係十万余柱の慰霊のために、建立されたものであり、一千百余万都民の心からなる平和への願いを象徴するものであります。

1、所在地
沖縄県糸満市字山城南コブサ原五百六十八番地

1、規模構造
敷地は約八千平方メートルあります。
基壇は八メートル四方で、遺族代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めてあります。
基壇中央に直径五メートルの塚があり、塚は建設当時の、二十三区、二十三市九町、九村を象徴する六十四個の石をもって構成されています。
塚の中心に縦一.三メートル、横二.三メートルの石棺の形を模した舟型式の黒御影石の塔が据えられています。
上段広場は、約四百五十平方メートルで三方を石垣で囲んであります。
この石垣は、沖縄産の栗石を用い、沖縄特有の積み方をしております。

1、竣工
昭和四十六年九月三十日

南方戦域方向盤

トラックやマリアナの方向を拝む

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/tokyonotou

場所

https://maps.app.goo.gl/q69EgP4NEbqat66d8


因伯の塔(鳥取県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和46年11月4日
敷地面積1,894㎡
合祀者数13,904柱(沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱)
管理団体鳥取県

因伯の塔

鳥取県民はその総意に依り此所に碑を建て大東亜戦争に当たり沖縄その他南方地域に於て戦没した郷土の勇士の偉勲を偲びその冥福を祈る
塔石は佐治石である
 昭和46年11月
  鳥取県知事石破二朗書

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/inpakunotou

場所

https://maps.app.goo.gl/amtQyiFHE565GC4e9


紀乃國之塔(和歌山県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和36年11月30日
敷地面積932㎡
合祀者数839柱
管理団体和歌山県

紀乃国之塔はこの地で祖国の安泰を祈念しながら壮烈な最期をとげた和歌山県出身839柱の英霊を祀るため、昭和36年11月敬弔の誠をこめて県民が建設したものであります。爾来遠く海を渡ってこの塔を訪れ英霊に対面されるご遺族や県民が年を追うて多くなりました。私も昭和44年11月参拝する機会を得ましたが、浄域を拡張整備したいとの声がとみに高まるを聞き、且つまた建塔された各位の意向を推察するとき、浄域を更に荘厳にすることが戦後25周年記念事業として最もふさわしいと考えて整備することにいたしました。 こいねがわくは諸霊には郷土の人々の捧げる追弔敬祭の微衷をおうけ下さらんことを。
 昭和45年11月
  和歌山県知事 大橋正雄

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/kinokuninotou

場所

https://maps.app.goo.gl/npfAGbtcJ8yBVfAYA


北霊碑(北海道)

所在地沖縄県糸満市米須
建立年月日昭和29年4月(昭和47年10月と平成8年11月に改修)
敷地面積640平方メートル
合祀者数40,850柱(沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱)
管理団体(一財)北海道連合遺族会

曠古の大東亜戦争はその惨烈ここ沖縄の決戦に極まって我北海道出身の将兵1万有余名も玉砕護国の楯とはなった。昭和29年4月北海タイムス社、北海道沖縄遺族会が、その霊を悼み全国に魁けて本碑を創建したが、爾来風雨18年漸くその補繕を迫られるに及び茲に本会の発議により、本年恰も沖縄の祖国復帰を卜し道並に全道市町村の助成及び沖縄会の協力をも得て浄財を募り、本島はもとより伊江島、慶良間等40余島並に広く南方海域諸島に散華した北霊凡そ3万余柱の招魂の聖碑ともなして之を改修した。
願わくは英魂、永遠に瞑せられんことを。改修にあたり終戦以来慰霊事業諸般に亘り献身的な奉仕援助を戴いた沖縄遺族連合会会長金城和信翁以下の御恩徳を銘記し永く後世に伝うる次第である。
 昭和47年5月15日

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/hokureihi

場所

https://maps.app.goo.gl/Pf7oHS8V7BsUQmdW8


大和の塔(奈良県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和42年11月16日
敷地面積642㎡
合祀者数15,871柱(沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱)
管理団体奈良県

この塔は、すぐる太平洋戦争においてふるさとを遠くはなれた南海の島々で、祖国の安泰と繁栄をいのりつつ散華された奈良県出身戦没者 1万 5000余柱のみたまを慰めるため、県民の心をこめて ゆかりの地ここ米須の丘に建立したものである。
1967年11月
奈良県知事 奥田良三

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/daiwanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/Qz3Z5YeUaV6zHtWV7


大分の塔(大分県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和40年11月17日
敷地面積314㎡
合祀者数約1,430柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)大分県遺族連合会

建塔の記
 太平洋戦争における最終段階としての沖縄の死闘の歴史は何人も涙なくして語ることができません。
 戦後10余年、県民生活もやや安定した1961年11月、大分県の遺族代表が初めて沖縄に巡拝したとき
 ふるさとの
  山河も泣かむ
   この島に
 散りたる若き
  御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の霊を慰めたのであります。
 他方数県で現地に永久的な慰霊塔を次々に建立するようになりましたので、このたび県遺族会の発意で、ここ最後の激戦地米須の丘に大分県耶馬渓産の霊石を用い「大分の塔」を建てることにいたしました。
 謹んで哀悼の誠を捧げ、英霊の御冥福と世界の平和を祈念する次第であります。
  1965年11月
   大分県知事 木下 郁
   大分県沖縄戦没者慰霊塔建設委員会 会長 小林政治

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/oitanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/bLoH7t7h1Yeob5bg8


ひろしまの塔(広島県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月23日
敷地面積1,594.2㎡
合祀者数34,635柱(沖縄戦戦没者1,271柱、南方諸地域戦没者33,364柱)
管理団体広島県

献辞
海を渡り また 海を渡り
郷土はるかに 戦って還らず
沖縄に散り 南方に散る 護国の英霊 3万4600余柱
ここに とこしえに 鎮まりませば
ふるさとの 妻子 父母 老いも若きも
海を渡り また 海を渡り
ここに もうでて み霊安かれと
祈らざらめや 祈らざらめや
 昭和43年 5月
  広島県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会
  会長 県議会議長 檜山袖四郎

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/hiroshimanotou

場所

https://maps.app.goo.gl/RAVz9ZwbkfhMYf5v7


讃岐の奉公塔(香川県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和43年5月18日
敷地面積910㎡
合祀者数32,413柱(沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱)
管理団体香川県

むかしむかし、
讃岐の国の殿様に仕える可憐な乙女がおってな
その娘はお姫様の身代わりに病気になり、悲しくも命を失った
人々はその死をいたみ、誠実にして至純
献身的なその心をあわれんで
「奉公さん」と名づけ
人形を作り功績をたたえたそうな

讃岐の奉公塔建立の碑
ここ沖縄、南方諸地域、中国大陸で祖国の安泰を願い
家族を案じつつ亡くなられた
3万2413柱の御霊
とこしえに安かれと祈るとともに
郷土の発展と恒久平和の実現を心から願いつつ
郷土人形奉公さんを想い起し
「讃岐の奉公塔」と命名する
  昭和43年5月吉日
   香川県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/sanukinohokotou

場所

https://maps.app.goo.gl/HDpFti5EXqyqReiM6


島根の塔(島根県)

所在地糸満市米須
建立年月日昭和44年3月28日
敷地面積1,179㎡
合祀者数908柱(沖縄戦戦没者)
管理団体(一財)島根県遺族連合会

島根の塔
美しく花開くためには
そのかくれた根のたえまない
営みがあるように
私達の平和で心静かな日々には
この地に散ったあなた達
の深い悲しみと苦しみが
そのいしずえになっていることを思い
ここに深い祈りを捧げます
 昭和44年 3月
  島根県知事 田部長右衛門

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/shimanenotou

場所

https://maps.app.goo.gl/LBp6XqrWH6HdVqp5A


開南健児之塔

開南鉄血勤皇隊・開南通信隊(開南中学校)
 開南中学校は、戦前の沖縄県で唯一の旧制私立中学校で1936年(昭和11年)に創設されましたが、沖縄戦によりわずか9年という短い歳月で廃校になりました。
 1945年(昭和20年)3月25日前後、教頭から「空襲下で学校としてまとまって入隊するのは難しいので、各自で入隊するように」との指示を受け、各自で部隊に向かうことになりました。
 開南鉄血勤皇隊の入隊先の第六十二師団独立歩兵第二十三大隊は、激戦地となった宜野湾ー浦添戦線に配置され多くの犠牲者を出した部隊で、入隊した開南中学生が全員戦死しました。
 3月9日、通信隊要員の生徒は、高嶺村の大城森(現糸満市)に駐屯していた第24師団司令部に配属されました。
 生徒らは、同地で訓練を受けた後、5月中旬、部隊とともに首里に移動しましたが、前田(現浦添市)方面の劣勢がはっきりした5月下旬頃、高嶺村の大城森に撤退することになりました。その後、真栄里集落西側に布陣していた大隊へ配置換えになり、それから国吉集落西側に布陣していた大隊へ配置換えとなりました。
 国吉へ配置換えになって間もなく、米軍野営陣地へ切り込みましたが、多くの犠牲者を出しました。8月29日に生徒らは米軍に収容されました。

戦没生徒らのご芳名が刻まれた銘板

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_008/index.html

場所

https://maps.app.goo.gl/dqDimAps5vBUVaT28


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その9」へ

「バックナー中将戦死之跡」と真栄里「栄里之塔」(沖縄戦跡散策7)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その7」となります。

その6は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


バックナー中将戦死之跡

糸満市真栄里(まえざと)。

沖縄方面連合軍最高指揮官・米第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、昭和20年6月18日、戦闘指揮中にこの地で戦死した。(死後に大将に昇進)
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した最高位の軍人。

バックナー戦死後の、6月23日に日本陸軍第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決し、沖縄における日本軍の組織的な戦闘は終了した。

バックナーが戦死した糸満市真栄里の高台、1952年に米軍によって記念碑が建立されたが、1974年に記念碑は、キャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)に移転され、1975年6月に日本側の沖縄県慰霊奉賛会によって、現在の慰霊碑が建立された。

IN MEMORIAM
CLAUDIUS M.EASLEY
1891-1945
BRIG.GEN.U.S.ARMY
KILLED ON THIS SPOT
19 JUNE 1945

追悼碑
米国陸軍准将
クローディアス エム イーズリー
1891 年-1945 年
1945 年6 月19 日
この地に於いて戦死す

 諸霊よ安らかに

米国第十軍司令官 
シモンB バクナー中将戦死之跡

一九四五年六月十八日米国陸軍中将サイモンボリバーバックナー此の地に於て戦死す

イーズリー准将慰霊碑

バクナー中将が戦死した翌日6月19日に戦闘指揮中に銃撃に遭い戦死

エドウィン・T・メイ大佐慰霊碑

米軍歩兵第383旅団長 エドウィン・T・メイの慰霊碑
昭和20年6月5日戦死

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/vice-admiral-buckners-death-trace

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1816.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/2Ai8ynUzZ5NpAgWe8


歩兵第22聯隊

愛媛県で編成された聯隊。「伊予の肉弾聯隊」と称された精鋭部隊。
4月1日の米軍上陸から始まった沖縄戦では、首里北方を守備していた第62師団を支援する為に第62師団に編成されたが、第62師団は4月下旬にはほぼ壊滅。
4月22日に、第24師団に編入され、「幸地の戦い」「首里防衛戦」にて激戦を繰り広げる。
沖縄防衛の中央部隊として奮戦するも6月11日、小緑の帝国海軍沖縄方面根拠地隊が全滅し、海軍壕に隣接していた22聯隊壕の第22聯隊も南部の「真栄里」に撤退。

真栄里で徹底抗戦を続けるも、17日に第22聯隊本部洞窟陣地に爆薬が投げ込まれ全滅玉砕。
6月18日には、第22聯隊と行動をともにしていた野戦重砲兵第1聯隊と連携し、アメリカ海兵隊第22連隊長ハロルド・C・ロバーツ大佐やアメリカ軍沖縄攻略部隊の司令官バックナー中将を戦死させ、19日、真栄里にて、アメリカ陸軍第96師団准将クラウディス・M・イーズリーも戦没。
しかし、19日には、日本軍の生き残り約9千名が掃討され、愛媛出身の独立歩兵第15大隊が総員玉砕し、翌20日に連携していた野戦重砲兵第1聯隊も玉砕。
21日はアメリカ軍は沖縄占領を宣言。
22日には、第22聯隊が一時隷属した第62師団の師団長・中将藤岡武雄と、独立混成第44旅団長・少将鈴木繁二が自決。
23日早朝、第32軍司令官の牛島大将と、参謀長・長勇中将が司令部壕で自決。
24日に、第22聯隊旗を託された連隊長附副官・少尉本田昇は、第24師団司令部に合流し、同じく第24師団隷下だった歩兵第89連隊の連隊旗とともに第24師団長・中将雨宮巽、24師団司令部付最先任上級曹長・准尉白石直之(松山市出身)らの立会いの下、奉焼した。
糸満市真壁「萬華之塔」敷地内には『山3474部隊慰霊之碑』が建立され、糸満市宇江城に『山雨之塔』「22連隊軍旗奉焼の地」の慰霊碑が建立されている。

17日に22連隊本部が玉砕した後も、第1大隊長・大尉小城正ほか生き延びている第22聯隊将兵は、最期まで徹底抗戦を続け、8月15日以降も戦い続け、11月15日に降伏をしている。

愛媛縣護國神社

栄里之塔(えいりのとう)

糸満市真栄里(まえざと)。
「真栄里」周辺には、「白梅乃塔」や「山形の塔」「バックナー中将の慰霊碑」「第32連隊終焉の地の碑」などの慰霊碑もあり、沖縄戦終盤で南部に撤退した日本軍とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられた地でもあり、愛媛の「歩兵第22聯隊」の最期の地でもある。
戦後、真栄里の住民が散らばっていた12,000柱を収集し、祀ったのが「栄里之塔」
昭和27年3月建立。合祀者数は12,000柱。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/eirinotou


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その8」へ

白梅学徒隊「白梅之塔」と奮闘継戦した山形聯隊「歩兵第32聯隊終焉の地」(沖縄戦跡散策6)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その6」となります。

その5は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


白梅学徒隊「白梅之塔」

沖縄県立第二高等女学校の「白梅学徒隊」慰霊の塔

白梅之塔
 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
 米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
 戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
 また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
 塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。
 毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
  平成十年六月二十三日 
   沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
 沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
 1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
 生徒たちの仕事は、負傷兵の看病や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
 その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
 6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
 6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
 国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続 け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。
  平成28年3月 
   沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

白梅之塔

建立は平成4年(1992)6月10日。
沖縄県立第二高等女学校同窓会

犠牲者の御芳名

ちいさな「白梅之塔」(もとの慰霊塔)と、「納骨堂」

白梅之塔

散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
 元教諭 金城宏吉
  昭和二十二年一月建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_012/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Crj79zEr4x6yd3CF9


白梅学徒隊「自決之壕」

白梅学徒看護隊
自決之壕

昭和56年6月23日建立

マチドーヌティラ
 字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦 9月にはクングゥチムヌメーという伝統行事が国吉自治会によって行われています。
 また、この壕は沖縄戦において第24師団第 1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は 1945年 6月 4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月 21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」 が米軍の激しい攻撃を受け、学徒 16人のうち 10人が死亡しました。
 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。
  糸満市 平成31年3月

周辺の位置関係

マチドーヌティラは「下の壕」。2021年11月に内部で崩落があり、立入禁止となっている。

ティラとは神が鎮座する洞穴であり、この地は、慰霊の場でもあり、聖なる場でもある。

白梅学徒隊自決の壕の入口。
内部崩落があり、立ち入り禁止となっていた。

合掌

南禅廣寺
白梅之塔の東側にあり、向かって左側に白梅学徒看護隊の自決之壕がある。
琉球王朝時代からの寺院という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5

https://maps.app.goo.gl/c3d88QHHLwKXaW1J8


萬魂之塔

糸満市国吉地区は沖縄戦最後の激戦が繰り広げられた場所である。
同地区の住民は各所に散っていた遺骨を洞穴に納めたが、昭和30年5月にコンクリートの塔を完成、無名戦没者の4000余柱を合祀した。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mankonnotou

敵味方関係なく、純粋に真摯に、戦没者を弔っている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5


陸軍大尉中村巌之碑

歩兵第32聯隊に属する独立機関銃第17大隊の隊長。
6月18日、中村大尉以下17名が戦死している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NHCK5YNfsa45vocYA


上の壕

上の壕(眞山之塔裏)は食糧弾薬倉庫、下の壕(白梅之塔側)は傷病兵の看護場所、であった。

白梅之塔 上の壕
 左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
 昭和20年6月22日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。
  昭和63年6月 白梅同窓会

格別に整備されていない竪穴は、静かに自然に埋没していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


眞山之塔

雨宮中将率いる第24師団の各部隊は運玉森を守っていたが、第32軍司令部が摩文仁へ移ったのに伴い、与座岳、国吉、真栄里の線に後退し布陣を敷き、米軍と戦った。ここに陣地を築いて戦い全滅した100人余りを祀っている。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mayamanotou

沖縄の守備を担った第32軍に属する第24師団は、圧倒的火力を誇る米軍相手に熾烈な抗戦を繰り広げるも南部に追い込まれ、師団長・雨宮巽陸軍少将は、6月20日に師団の自活自戦を指示し師団としての組織的な戦闘を終了させた。
第24師団の師団長・雨宮巽陸軍少将(死後に中将)と参謀長の木谷美雄大佐(死後に少将)は、1945年6月30日に自決している。
(なお、第32軍の軍司令官・牛島満陸軍中将は6月23日に自決)

 怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
 ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
  昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


山形の塔

糸満市真栄里、昭和40年建立。

1965年 2月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもの。この地は歩兵第32連隊が激しい戦いを繰り広げた場所でもある。

合祀者数:40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/yamagatanotou

山形の塔

山形県知事安孫子藤吉謹書

山形の塔建立記
 大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのび、み霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建てたのである
 昭和四十年二月六日
   建設期成同盟会長 加藤富之助

山形の塔
 この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。
 一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。
 右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
   山形県
    一九八二年十月(再記)

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


第二十四師団歩兵第三十二聯隊の壕(ウフ壕・田原屋取の壕)

歩兵第32聯隊の最期の壕
もともとは、真栄里の住民が整備した避難壕であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


歩兵第三十二聯隊終焉の地

沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。

我が興亡の史碑
歩兵第三十二聯隊終焉の地
呼名 霞城聯隊・満州八〇三部隊・山三四七五部隊、
   平成十七年八月 建
    聯隊関係者一同

 聯隊は明治31年3月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。
 太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和20年6月23日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の8月28日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
 この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる

場所:

https://maps.app.goo.gl/wokGqXuAjTMwQ1QVA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その7」へ

「沖縄陸軍病院糸洲二外科壕跡」と「糸洲の壕跡」(沖縄戦跡散策5)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その5」となります。

その4は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄陸軍病院糸洲二外科壕

いままで見てきた壕とは違い、ここは詳細な説明がとくにない、目立つことのない静かな壕。糸満市の糸洲集落の北側にある。
半分埋もれかけている。

ぬちどうたから

「ぬちどぅ宝」「命どぅ宝」
沖縄の言葉で「命こそ宝」を意味する。
沖縄戦では、集団自決から「命こそ宝」の言葉で気の残ったという証言も残っている。

陸軍病院第二外科壕

壕内には入れない。

開口部で合掌する。

コンクリートの塊で塞がれている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/EWBzQY65r5C9N5Yv9


糸洲の壕跡(ウッカーガマ)

糸満市字伊敷にある壕。
小池勇助少佐(死後に中佐昇進・佐久市出身)が率いた第24師団第二野戦病院の跡地。

6月26日、学徒隊の解散にともない、小池少佐は「ふじ学徒隊25人(積徳学徒隊・積徳高等女学校)」に、「君たちは非戦闘員だ。死んではならぬ。つらくても生きのび、戦争の悲惨さを後世に伝えるのが君たちのつとめだ」と訓示し解散命令を発した。小池少佐は、最後の訓示ののち学徒隊を送り出して自決。最終階級は中佐。

「ふじ学徒隊」は、多くの犠牲者をだした他の学徒隊と比べ、3人の犠牲者に留まり、小池少佐の教えを守った。
小池勇助軍医の辞世の句
 南の孤島の果てまで守りきて
  御盾となりてゆく吾を
 沖のかもめの翼にのせて
  黒潮の彼方の吾妹に告げん

「ふじ学徒隊(積徳学徒隊)」の「積徳高等女学校」は、沖縄県那覇市久茂地にあった高等女学校で、1930年に私塾として開設した高等女学校

なお、「糸洲の壕」の入り口は2つあり、それぞれ「ウッカーガマ」と「ウンジャーガマ」と呼ばれていたという。慰霊碑は、ウッカーガマの入口にある。また、北西の「轟の壕」まで一部は繋がていた、ともいう。

鎮魂之碑

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川出身の将兵現地防衛招集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である

鎮魂の碑
(御霊よ。安らかに)

戦闘避難中に、当地で戦没した民間の慰霊碑

糸洲の壕

合掌す

場所:

https://maps.app.goo.gl/gVEVG3D9eFyq5RU67

近年(2025年)、整備が行われました。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/toretateitorepo/27891.html


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その6」へ

「沖縄陸軍病院山城本部壕跡」と「井原第一外科壕跡」(沖縄戦跡散策4)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その4」となります。

その3は、下記にて。

2022年10月記録です

「ひめゆりの塔」は、伊原第三外科壕の跡地。
ちかくには、同じように南部に追い込まれてきた陸軍病院本部壕と、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕などもあった

みたま安らかに


沖縄陸軍病院

昭和19年6月、開南中学に開設したことに始まる。
南風原に移転したのちに、昭和20年5月下旬、南部に分散移転し、伊原の近くの山城集落の「山城壕」が本部となった。6月18日に解散した。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1826.html


沖縄陸軍病院之塔

沖縄陸軍病院之塔
この塔は戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である
慰霊会(遺族及び戦友の会)が昭和39年1月26日に建立し平成4年6月23日これを再建す

春くると ひたすら待ちし 若草の 萌え立ついのち 君は捧げぬ
 水汲みに 行きし看護師 死ににけり 患者の水筒 四つ持ちしまま

陸軍病院の軍医であった長田紀春氏が詠んだ歌碑。

ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)
 沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
 沖縄県立第一高等女学校の前身は1900年(明治33年)に設置された「市立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
 1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。
 4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。
 5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。
 26日に学徒らは井原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、井原の壕へ分散配置されました。
 6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍のg猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ惑い、追い詰められ、多くの命が失われました。
 平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課

沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)
 地元ではサキアブと呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。
 1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアブに避難しました。
 5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕として、第一外科壕、第三外科壕を井原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ、分散した各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
 6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。
 糸満市 平成31年3月

下に降りることができる。

合掌

場所:

https://maps.app.goo.gl/G28xrGoZPsRcdzHP9


位置関係

陸軍病院本部壕と第一外科壕・第二外科壕・第三外科壕の位置関係


第一外科壕

第三外科壕(ひめゆりの塔)の近く。

碑文。
くずし字で非常に難解。。。

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である
米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった
軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である

ここで負傷戦没した生徒
(犠牲者の氏名省略)

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた
謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する

しらじらと 明けそむる野を 砲弾の
 雨に散りゆく 姿目に見ゆ
血にそまる 巌のしづくは 地底にしみて
 命の泉と 湧きて出でなむ 

  1974年 6月 ひめゆり同窓会

場所:

https://maps.app.goo.gl/vkhXLcBfB3TaUXfo8


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その5」へ

沖縄昭和高等女学校・梯梧学徒隊「梯梧之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝3)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その3」となります。

その2は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


梯梧之塔

「ひめゆりの塔」の隣接地に、「梯梧之塔」がある。
「梯梧」は、沖縄昭和高等女学校の校歌の一節にでてくる、沖縄県の木でもある「デイゴ」に由来する。

梯梧之塔

梯梧の塔説明碑文
 梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちなんで、「梯梧の塔」として建立された。
 昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。
 4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。
ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。
 無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。
 勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。
 所在地 糸満市米須1150番地
 建立年月日 昭和46年6月23日(移設)
 敷地面積 70坪
 合祀柱数 60柱
 管理者 梯梧同窓会
     慰霊奉賛会と永久管理契約済

梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文
 私立沖縄昭和高等女学校は昭和5年3月15日、山梨県北巨摩郡江草村出身の同校校長八巻太一氏によって那覇市崇元寺町(現泊町一丁目)に設立された。校舎は崇元寺橋の近く安里川沿いにあり当時、この付近に梯梧の並木道があって、梯梧の花は本校の象徴にもなっている。校舎は昭和20年5月、沖縄戦により焼失した。戦後、再建の取り組みが行われたが当時の情勢はそれを許さず、遂に閉校となった。
梯梧之塔は昭和25年8月1日、この沖縄戦で犠牲となった本校同窓生および教職員らの霊を慰めるため、八巻校長並びに同校関係者によって旧校舎跡に建立されたが昭和46年6月23日、ここ梯梧学徒隊ゆかりの地に元教職員、同窓生、遺族らの浄財によって移転建立された。

梯梧学徒隊(昭和高等女学校)
 昭和高等女学校は、1930年(昭和5年)に設立された、戦前の沖縄で一番若い私立女学校でした。
 1945年(昭和20年)3月15日ごろ、生徒たちは、新川のナゲーラ壕(現南風原町)の第62師団野戦病院に配置されました。
 4月1日に米軍が上陸し、宜野湾ー浦添戦線が激化し、負傷芸の激増に伴い、4月17日ごろに昭和高女生の9名は識名分室(現那覇市)へ配属されました。
 5月13日には、識名分室壕での勤務を終え生徒たちが一眠りしていたころ、壕入り口に爆弾が落ち生徒2名が亡くなりました。
 5月下旬、米軍が守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、野戦病院は5月27日に南部へ撤退することになりました。生徒たちは、負傷兵に肩を貸しあるいは担架を担ぎながら南部へ向かいました。6月の上旬、米須の壕に到着し、満杯の状態で全員入れず、生徒は井原の壕に入りました。
 6月8日、野戦病院の兵隊は看護婦や生徒を集め、解散命令を伝えました。生徒たちは、壕を出て米須の壕に行きましたが、19日に二度目の解散命令が出され、米須一帯を彷徨し、21日米軍に収容されました。

梯梧之塔
所在地 糸満市米須
設置 1950(昭和25)年8月1日
移設 1974(昭和49)6月23日
合祀者数 62柱
所有者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団

梯梧の塔に捧ぐ
いたましく 二八に散りし 乙女等の
         血潮に咲ける 紅の花
                 藤岡 豊子
ゆさぶりて 碑をゆさぶりて 思い切り
         きけどもきけぬ 声をききたし
一人来て 抱きしめて見ぬ わが友よ
         名刻まれし 濡れし碑文(いしぶみ)              
                 瑞慶覧 道子

梯梧隊の乙女のレリーフ

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_010/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/cW4LrygHxnNmUziU6


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その4」へ

荒崎海岸に追い込まれ自決した「ひめゆり学徒・散華の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝2)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その2」となります。

その1は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


ひめゆり学徒・散華の地

昭和20年6月18日、南風原の陸軍病院から南部に撤退し、伊原第三外科壕に避難していた「ひめゆり部隊(女師・一高女の看護女子学徒隊)」に解散命令が発布。
翌19日、第三外科壕に米軍によるガス攻撃があり壕内は地獄と化した。
第三外科壕を脱した、ひめゆり学徒隊は、小さなグループに分かれて、戦場を彷徨うこととなった。
南に追い込まれ、荒崎海岸一帯で隠れ場所を求めて右往左往していた人たちの中に「ひめゆり学徒」のグループもいた。

昭和20年6月21日、平良松四郎教諭(一高女教頭)が引率する学徒隊は、突如、米軍の自動小銃の凶弾に倒れ、そして混乱の最中で、手榴弾で自決をした。

ひめゆり学徒散華の跡

石版には、この地で亡くなった学徒隊や教員の名前が刻銘。

平良松四郎教頭(一高女)と、一高女生徒8名と卒業生1名、師女生徒3名と二高女1名、そして、一高女教諭2名の名が刻まれている。
生徒たちは、16歳や17歳などの若き女子学徒。

合掌

遠くからでも、ひめゆり学徒の最期の岩場がわかる。

荒崎海岸

場所:

https://maps.app.goo.gl/MmUkgArVCTE1sg938


関連資料

糸満市ホームページ

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1828.html

ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp/himeyuri/study_war


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その3」へ

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊「ひめゆりの塔」と「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝1)


沖縄へ

2022年10月記録です

2022年10月。
人生で初の沖縄に赴く機会があった。
しかし、それは能動的なものではなく、受動的なきっかけとする、ある意味で偶然の機会。
そう、たまたまで、社員旅行が「沖縄」だったのだ。
社員旅行であれど、滞在合計3日間のうち拘束は1.5日で、自由時間も1.5日。まるまる1日使える2日目と、午前中のみ使える半日の3日目があった。あとは、どのように使うか。

正直言って、沖縄の戦跡は、巡り始めたら終わりがない。官民を巻き込んでの地上戦の痕跡は至るところに残っている。私としては、はじめての沖ということもあり、行くべきところ、最低限、これは行っておかねばと決めた戦跡のみを巡り、そうして、手を合わせておきたいと考えていた。そうでないと収拾がつかない。
ただ、実のところ、私は車を運転する権利はあるが、身分証以外の活用をしていないレベルだったのでレンタカーという選択肢を有していなかった。そのため、沖縄では非常に不利ではあるが、バスをはじめとした公共交通機関のみで戦跡を回ろうと考えていた。

そうして、事前に沖縄で、どこを廻るかを調べていた際に、他部署ながらよく仕事を一緒にすることのあるAさんから、こう言われた。

Aさん
 「沖縄の自由行動、どうされますか?」
わたし
 「歴史好きだから、歴史散歩でブラタ○リするつもり」
Aさん
 「面白そうですね、沖縄は何度も行ったことあるので、知らないところに行けそうですね、ご一緒しても良いですか、ちなみに歴史はどんな歴史ですか?」
わたし
 「(語弊があるかもしれないですが)、沖縄の歴史って、大きく分けると2つかなと。琉球王国の歴史と、戦争の歴史。私が行こうと思っているのは、重い方です、、、」
Aさん
 「あっ、重い方ですか、、、」

Aさんは、「重い歴史」は余り知らないという。それでも「沖縄は車がないと不便ですよ、レンタカー手配しますよ」と、私の散策に乗ってきたので、そこで、大きく私のプランと行動範囲は変更されることとなった。
さらに直前に、私とAさんは自由行動で、沖縄の歴史散歩するということを聞いた同僚のBさん(Bさんは年齢的には人生の大先輩)も、沖縄の歴史には興味あるということで、そうしていつのまにか、ツアーみたいな感じで同行がきまって、都合3人で「沖縄慰霊の戦跡散策」を実施することとなった。

ちなみにAさんは、私の歴史散策の初手からの行程都合ということもあったが「地下壕」続きにかなりびっくりされ、「こんなにディープなところに行くとは思いませんでした」というような状況になり、途中から、「いやあー、沖縄ドライブ楽しいんで、遠慮せず」という状況だったような。。。

沖縄の南部地区は、1日を使って「レンターカー」での移動。
那覇市街地は、ソロ活動で半日使って「レンタサイクル」を活用した次第、でした。

以下、行程順ではなく、エリアごと、内容ごとに、順不同で掲載していきます。
「はじめての沖縄」ということもありますので、探訪漏れも多く、1日半の短い時間でしたが、沖縄巡拝の記録として、徒然と。

みたま安らかに


ひめゆりの塔・沖縄陸軍病院第三外科壕跡

沖縄の代表的な戦跡として、慰霊巡拝先として必須の地。
まずは、ひめゆりの塔から掲載をしていきます。

「2代目・ひめゆりの塔」の手間に、ちいさく「初代・ひめゆりの塔」が鎮座している。

ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなった「女師「一高女」の教師・学徒の慰霊碑。
終戦翌年の1946年、付近の収容所にいた真和志村民により建立された。

そして、「沖縄陸軍病院第三外科壕」跡が開口している。

刻銘碑
「女師「一高女」の教師・学徒戦没者の刻銘碑。戦後、間もない頃に建立されたために、戦没者全員は刻まれていない。

伊原第三外科壕
このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所。1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなった。ひめゆり学徒の最期の地のひとつである。

ひめゆりの塔
1957年に建立された新しいひめゆりの塔。
「納骨堂」を覆った白壁には、学徒戦没者の名を刻み、「女師「一高女」のシンボルである百合のレリーフを手むけた。
2009年、改修。学徒戦没者を追記。
納骨堂には、この洞窟「伊原第三外科壕」や「伊原第一外科壕」「荒崎海岸」など、沖縄戦最期の地から回収された遺骨が眠っている。


ひめゆり学徒隊

1944年12月、看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等学校の生徒で構成された部隊。
沖縄女子師範学校は沖縄第一高等学校と併設されていたことから、校名はことのあるものの実質的には一つの学校に等しかった。

1945年3月22日、両校の生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」は、沖縄第32軍直轄となる沖縄陸軍病院(通称:南風原陸軍第一病院)に看護要員として動員。40近くの横穴壕に分散配置された。
敗色濃厚となった6月18日に解散命令が出され、翌日19日からの1週間のあいだに多数の犠牲者を出した。最終的には、240人の学徒隊のうち、136名が死亡している。
戦後、最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に、慰霊塔として「ひめゆりの塔」が建立された。


沖縄の女子学徒隊

沖縄にあった旧制中学校21のすべての学校が動員された。
男子生徒は、鉄血勤皇隊、通信隊に配属され、女子生徒は、看護隊に配属された。

  • 沖縄県立女子師範学校・ひめゆり学徒隊:犠牲81名/動員157名(戦死率52%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊:犠牲42名/動員65名(戦死率65%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第二高等女学校・白梅学徒隊:犠牲17名/動員46名(戦死率37%)
     配属:第24師団第1野戦病院
  • 沖縄県立大三高等女学校・なごらん学徒隊:犠牲1名/動員10名(戦死率10%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院名護分院
  • 沖縄県立首里高等女学校・瑞泉学徒隊:犠牲33名/動員61名(戦死率54%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄積徳高等女学校・ふじ学徒隊:犠牲3名/動員25名(戦死率12%)
     配属:第24師団第2野戦病院
  • 昭和高等女学校・梯梧学徒隊:犠牲9名/動員17名(戦死率53%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄県立宮古高等女学校・宮古高女学徒隊:犠牲1名/動員48名(戦死率2%)
     配属:第28師団野戦病院・宮古島陸軍病院
  • 沖縄県立八重山高等女学校・八重山高女学徒隊:犠牲1名/動員60名(戦死率2%)
     配属:石垣島陸軍病院・海軍病院

沖縄戦の推移

1945年
3/17
 硫黄島の日本守備隊、玉砕する
3/23 
 ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。
 米軍、沖縄諸島に空襲を開始  
3/26
 米機動隊が慶良間諸島に上陸。地上戦のはじまり。島民集団自決。
4/1
 沖縄本島の中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷地区)に米軍上陸。
4/7
 沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方沖で撃沈される
5/23
 米軍が那覇市に進攻。
5/25
 陸軍病院、南部へ撤退。
5/27
 第32軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。
5/31
 米軍が首里を占領する。
6/18
 米軍司令官バックナー中将が糸満市前栄里で戦死する。
 学徒隊に解散命令。
6/19
 第三外科壕にガス弾が打ち込まれ、多くの学徒が死亡。
6/21
 荒崎海岸で

多くの学徒が死亡。(集団自決)
6/23
 第32軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。
7/2
 米軍、沖縄作戦終了宣言。


陸軍病院第三外科職員之碑・沖縄戦殉職医療人之碑

ひめゆり学徒とともに、第三外科壕にいた職員や、沖縄戦で殉職した医療関係者の慰霊碑。

沖縄戦殉職医療人之碑

陸軍病院第三外科職員之碑


ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp

「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦を伝える施設。
第三外科壕の下部、断面を垣間見ることができる。

ひめゆりの塔
沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最期の地のひとつである伊原第三外科壕跡に建立された慰霊碑。

ひめゆり平和祈念資料館
亡き学友の慰霊と平和への願いを発信する場として、同窓生たちが1989年に開館しました。写真や遺品、実物資料、生き残った学徒の証言集が、沖縄戦とひめゆり学徒の実相を伝えています。
正面は、ひめゆり学徒たちの学び舎、沖縄師範学校女子部・沖縄系ん立第一高等女学校を模し、校門までの並木道をなしていた相思樹が植えられています。
那覇にあった学園は沖縄戦で消滅しました。

沖縄戦とひめゆり学徒隊
動員
1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学とは戦場に動員されます。
ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の「沖縄陸軍病院」に配置されました。
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕にベットを備えただけの施設で、砲煙弾雨の中、学徒は医師と看護婦の下、負傷兵の看護や水汲み、伝令、食料運搬などを担いました。
4月1日の米軍上陸後の激しい戦闘により負傷兵が急増し、3つの分室ができていきます。

撤退
5月下旬、米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫り、5月25日、軍の南部撤退命令により、陸軍病院も南部への撤退が始まります。
学徒たちは砲弾と悪路の中をこの南部までたどり着きます。病院としての機能を失った後も6つの壕に分散して不難死、伝令や水汲み、食糧確保の任務に当たりました。

解散
6月18日夜、緊迫した戦況の中でひめゆり学徒に突然「解散命令」が下されます。激化する戦場で、負傷した学徒は壕に残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。

儀間真一顕彰碑
(ハーリー・シンイチ・ギマ)
沖縄系ハワイ2世、昭和27年に、ひめゆりの塔の敷地を購入するための資金援助をした。


ひめゆりの塔の記

ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
 いはまくら かたくも あらむ やすらかに
 ねむれ とぞいのる まなびの ともは

裏面には、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「校歌」が刻まれている。


いはまくら碑

いはまくら碑 1990
ひめゆり学徒の引率教師 仲宗根政善先生の歌
いはまくら 
 かたくもあらむ 
  やすらかに
ねむれとぞいのる 
 まなびのともは
「固いごつごつした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょうあ。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています」という哀悼の歌です。
島の南の果てに追いつめられて岩陰や洞窟で学友たちは亡くなっていきました。この恩師の歌は、戦争のおろかさと平和の素晴らしさを、亡き学友に代わって訴えていくことを誓う私たちの心そのものです。


赤心之塔

赤心之塔 1948
伊原第三外科壕に入っていた民間人(大田家)5名の戦没者の慰霊碑。遺族によって建立された。

女神の像

ひめゆりの石

井伊文子の歌碑
琉球王朝の末裔にあたる井伊文子氏の歌

ひめゆりのいしぶみに
ふかくぬかづけば
たいらぎをこひのむ
乙女らのの声す


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

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