2024年11月、愛媛県松山市に訪れる機会があった。自由時間がほとんどない中で、一箇所だけ行くのであれば、で、時間捻出して「愛媛縣護國神社」に足を運んでみました。
目次
愛媛縣護國神社
愛媛縣護國神社御由緒
愛媛縣護國神社は、明治32年「私祭招魂社」として創建(現松山東署付近)され、大正2年新立町多賀神社に移設。その後、昭和14年内務大臣指定護國神社として、その創建が認められ、愛媛県民の総意により現在の社地を選定し、同年10月社殿竣工遷座申し上げました。社号は愛媛縣護國神社に改称、神饌幣帛供進神社、県社に指定されました。昭和20年7月戦災により焼失しましたが、復興奉賛会を創設し県内外の御遺族崇敬者の皆様方からの御浄財及び勤労奉仕により、昭和26年から造営に着手し、昭和30年10月現在の社殿が竣工しました。一時期、神道指令により社号を御幸神社と改称するも昭和27年9月平和条約締結により社号を愛媛縣護國神社に復称し現在に至っています。
御祭神
明治戊辰の役から大東亜戦争に至る迄の幾多の事変戦役に於いて国防の重任に当り、国難に殉じられた愛媛県出身の護国の英霊をはじめ、社会公共の為に尽力し、愛媛県の産業文化に貢献して、永く県民に恩恵を垂れさせられた功労者、並びに消防・警察・自衛隊公務殉職者を奉斎し、県民畏敬の神社として唯今49、727柱の御神霊をご鎮祭申し上げて居ります。
愛媛縣護國神社御由緒
御祭神
明治戊辰の役より大東亜戦争に至る迄の国難に殉ぜられたる愛媛県出身の英霊
公務殉職者(自衛官・警察官・消防団員)
又郷土の産業・文化発展の功労者等
松山城初代城主 加藤嘉明命・俳人 正岡子規命
伊予絣の創始者 鍵谷カナ命
49,700余柱を御奉斎
ご由緒
明治32年「私祭招魂社」として創建
大正2年 新立町多賀神社に「愛媛招魂社」と改称移設
昭和14年 現在地に遷座
社号を「愛媛縣護國神社」と改称
神饌幣帛供進神社県社に指定
昭和20年7月26日 戦災により焼失
同26年から30年の4年間で現在の社殿を竣工
皇室のご崇敬
昭和41年4月 天皇皇后両陛下御親拝
昭和49年7月 皇太子同妃殿下御参拝
昭和28年10月 高松宮宣仁親王殿下御参拝
扁額「護國」のご奉納を賜る
昭和50年10月 常陸宮同妃殿下御参拝
護国神社
護國の英霊や愛媛の産業文化に功績のあった人々をまつった神社で、広い境内には戦没者の慰霊塔や殉職者の追悼碑などがある。また、万葉植物園が設けられ、万葉集に詠まれた多くの植物が歌とともに植えられているのも興味深い。
(道後村めぐり 第19番)
松山市
愛媛縣護國神社境内案内図
非常に細かい案内図は、参拝に際に助かる情報。
拝殿
拝する
ありがとうございます
拝殿には高松宮宣仁親王が揮毫した「護國」の額面が正面に掲げられている。昭和28年(1953年)の参拝時に奉納という。
松山御幸山を控える
松山御幸山麓に鎮座
御朱印
終戦70年記念事業顕彰碑
御幸殿新築、本殿改修、祈念史料室新設、神橋改修
祈念史料室 みゆき
愛媛縣護國神社
当社は、明治32年(1899)、私祭招魂社として現在の松山東警察署付近に創立、大正2年(1913)新立町の多賀神社境内に愛媛招魂社として移遷、昭和14年(1939)に歴史ある御幸の地に、愛媛縣護國神社と改称して創建された。
戦後、一時期御幸神社と称していたが、昭和27年(1952)に復称した。
爾来、正月三が日には県下一のご参拝を戴くなど、県民の心のよりどころとして鎮座しています。
愛媛縣護國神社の御祭神
御祭神は、戊辰戦争から大東亜戦争までの幾多の事変・戦役で、国難に殉じられた愛媛県出身の護国の英霊をはじめ、社会公共の為に尽力し、郷土の産業文化に貢献された功労者、並びに消防・警察・自衛隊の公務殉職者を奉斎しています。
祈念史料室みゆき
この祈念史料室みゆきは、終戦七十年記念事業の一つとして御幸殿の中に併設されました。
国のために尊い命を捧げ、現代日本の礎となられた英霊の遺品や遺書、手記などを通じて、御意志を受け継ぎ、平和と命の尊さを学ぶために、愛媛県遺族会等のご協力により開設しました。
梟や 聞耳立つる 三千騎
明治28年 正岡子規命
櫻井忠温格言碑 堀之内
櫻井忠温は日露戦争の際、歩兵第22聯隊の聯隊旗手として戦い、瀕死の重傷を負った。
『最も愛情あるものは、最も勇敢なり』
歩兵第22聯隊は、「伊予の肉弾連隊」と畏怖された精鋭部隊であった。数々の戦役に出征して武勲を重ね、日本軍屈指の戦果を挙げた。
日本騎兵の父秋山好古陸軍大将は、晩年に松山に帰郷し、中学校校長を務めた。中学校長時代に日露戦争で散華された愛媛県出身者を悼み、秋山好古揮毫の忠魂碑が愛媛県下には13箇所、建立された。
本土防空の戦闘機主翼の機銃
(99式20粍機銃)
愛媛の戦没者の実態
愛媛県戦没者慰霊塔(丸山墓地)
愛媛の部隊・出身者の活躍と最後
歩兵第22聯隊
満州から沖縄に派遣され、第32軍の隷下として沖縄戦で奮戦玉砕
第40師団第234聯隊
大陸打通作戦、中支で終戦
第65旅団歩兵第122聯隊
バターン半島攻略戦、第1支隊として南洋に転進し基地固守
南洋第6支隊
西部ニューギニアで奮戦、ジャングルを転進し304名中5人のみ復員
富山丸
沖縄輸送で轟沈、3,600名以上(うち愛媛県出身約370名)が犠牲
愛媛県下の空襲と戦後復興
空襲の激化と本土防空・松山の海軍航空隊(源田部隊)
愛媛県下では、松山、今治、宇和島が空襲被災
戦没者を奉恩顕彰し郷土で共に生きてきた人々
加藤嘉明命と正岡子規命
日本海軍零戦プロペラ
日本海軍零戦プロペラ
このプロペラは太平洋戦争当時最新鋭戦闘機として活躍した日本海軍の零式戦闘機に使用された可変ピッチ式(恒速プロペラ)のものである。
恒速プロペラは発動機の公称回転をたもつように速度の変化に敏速に応じて移動的にプロペラのピッチが調節される仕組になっているもので当時においては最高水準をいくものであった。
昭和43年10月宇和島市神田川原3区加藤勉氏が西宇和海で操漁中網にかかったものを回収し当松山駐とん部隊に寄贈されたものである。
(平成13年9月愛媛縣護國神社に移転しました)
歩兵第22聯隊の石柱と歩哨舎
石柱と歩哨舎
松山歩兵第22連隊は、明治17年2月7日創設以来最精強とうたわれた。この石柱は終戦まで60余年歳月の中に日本の盛衰を見つめながら幾多の将兵を送迎した由緒あるもので陸上自衛隊松山駐屯地にあったが、愛媛縣護國神社に移設し、その栄光をたたえつつ永久に保存することになった。
平成13年10月1日
忠魂社(歩兵第22聯隊忠魂社)
忠魂社沿革誌
当社は昭和五年一月県下市町村並に一般有志の浄財により堀之内兵営内、衛兵所西側に聯隊忠魂社として建設、同年五月三十日鎮座祭が執行せられた。
爾来毎年軍旗祭当日、戦没者の慰霊祭が盛大且厳粛に執行せられていたが、昭和二十年の終戦により翌二十一年一月現在地に奉遷された。
その後護國神社の例大祭に併せて英霊鎮魂の祭典が執り行われている。
歩兵第22連隊記念之碑
歩兵第22連隊記念之碑
歩兵第22聨隊は、明治19年8月17日明治天皇より初代杉山直矢大佐が軍旗を拝受、爾来明治27年の日清戦役、明治378年の日露戦役には二百三高地に桜井忠温少尉が軍旗を立て、大正3年第1次世界大戦にはシベリヤに出征し野中保教中佐、永田常治郎准尉等が輝かしい武功を立て、大東亜戦争に中支満州最後沖縄にて勇戦せしも其の甲斐なく昭和20年6月22日吉田勝第27代聨隊長以下玉砕し軍旗を捧焼し、、まことに感慨無量、松山聯隊の遺史を回顧し、国事に殉じたる戦友の英霊を慰め平和の記念とし、1基を建立して後世に伝えんとす
昭和44年5月27日
県会議長渡部高太郎氏沖縄軍旗捧燒ノ土奉納
大絵馬
恒例となっている地元出身の墨絵アーティスト・茂本ヒデキチさんによる奉納大絵馬
愛馬の像
忠勇な将兵の忠実な同伴者として、幾多の事変戦役に、戦線万里の荒野を暑さ寒さにも耐え、喜びも悲しみもともにしたその軍馬は、あるいは陣地に傷つき、病に倒れて骨を戦野に、さらしたものが少なくありません。
これを思うと傷心哀愁の情まことにせつないものがあります。
このたび、大東亜戦争50周年記念事業として、英霊の伴侶とすべく軍馬の功を称へ、霊を慰めるため、「愛馬の像」を建立した次第であります。
愛媛縣護國神社宮司 波爾荘 識
特別攻撃隊顕彰碑
あゝ特攻
私たちは決してあなたたちを忘れない
特別攻撃隊顕彰碑文
昭和十九年末、大東亜戦争の戦局も悪化の一途をたどる中、六千余名の勇士が航空特別攻撃隊として南溟の地に散華されました。日本の今日の平和と繁栄は、あなた達の至高至純の祖国愛と肉親愛の上に築かれたのであることを私達は決して忘れません。ここに愛媛県出身の七十四柱の顕彰慰霊の碑を建立し、その功績を讃え、精神を未来に伝えます。
平成二十年四月吉日
建立発起人
愛媛偕行石鉄会 日本会議愛媛県本部
愛媛郷友会 愛媛県隊友会
愛媛水交会 愛媛県海交会
天壌無窮碑(秋山好古揮毫)
秋山好古陸軍大将の揮毫。
昭和3年御大典・清水小学校開校記念碑として昭和3年建立。
戦後、GHQの撤去命令により記念碑を撤去保管し、後年に愛媛縣護國神社に再設置されたもの。撤去時に割れたものという。
天壌無窮とは、天地とともに永遠に極まりなく続くさま、を言う。
教育勅語「以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」(かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚あまつひつぎの御栄をたすけ奉れ。)
碑の道しるべ
歩兵第二十二聨隊
忠魂碑
歩兵第二十二聨隊 忠魂碑
昭和54年3月10日建立
題字 愛媛県知事 白石 春樹
碑文
聯隊は、明治19年8月17日明治天皇の聖諭と共に軍旗を親授され、堀之内に創設された。
尓来主として県内の若人が入営し、郷土聯隊として60有余年に亘り、日清、日露の両戦役を始め、シベリア派兵、上海事変、日支事変、北満の警備等、数度の外征に赫々たる武勲をたて、豫州健児の名聲を高めた。
大東亜戦争の末期には、沖縄に転進して本土防衛の重任にあたり、優勢なる米軍の猛攻を受け、敢然死斗防戦につとめたが、遂に昭和20年6月、沖縄南部地区の戦斗において、軍旗もろとも将兵全員玉砕した。
ここに、諸先輩の偉勲を偲び、その功績を称え、英霊の永久に安らかな鎮座を祈念する。
歩兵第百二二聯隊
南洋第一支隊
忠魂碑
忠魂碑
第65旅団歩兵第122連隊は 昭和15年8月 松山市に於て編成 同12月4日軍旗を親授された 昭和16年11月16日三津浜を出港 同23日台湾に上陸 大東亜戦争勃発するや 昭和17年1月1日 比島ルソン島に上陸 バタアン要塞攻略戦に参加 爾後北部ルソン島の戡定作戦に参加 昭和18年8月24日 マーシャル群島方面に転進のためマニラを出港 同年9月7日 クエゼリン ミレー ヤルート ウオツチエ マロエラップ 各島に上陸 各基地海軍指揮官に配属され 基地防衛の任に就く 同年12月 南海第1守備隊の生存者約300名を加え 南洋第1支隊に改編された 昭和18年11月以降 米軍の完全な制空海権下に 苛烈な砲爆撃と深刻な飢餓のもと 困苦欠乏に堪ええて 悪戦苦闘すること1年10ヶ月 能く基地固守の任務を完遂した
比島及び マーシャル群島を通じ 我が部隊戦病没者数は3千余名に上る
昭和50年5月3日
歩兵第百二十二聯隊 南洋支隊 会 建立 題字 渡邊祐之介
大東亜戦争下に 祖国の興亡を憂いつゝ 比島の山野に マーシャル群島の沙汀に 若くして散華された多くの戦友への 追悼の念は歳を重ね 世相の移り変るに従い 愈々深い
茲に 旧隊員一同相謀り 忠魂碑を建立し 不朽の功績と崇高な精神を永遠に顕彰する
鯨部隊
歩兵第二百三十四連隊
慰霊塔
慰霊塔
鯨部隊歩兵第二百三十四連隊
昭和14年8月部隊結成 同年10月6日中支戦線に出動 以来8年の間 中支 北支 南支に転戦 終戦により昭和21年5月末帰還 この間に戦歿せし 2768柱をはじめとし 護国の英霊のために之を建てる
昭和43年3月3日
鯨部隊 歩兵第234連隊生存者一同
鯨部隊歩兵第234連隊結成の地 松山御幸山麓護国神社の境内に 亡き戦友の御霊永久にお鎮り下さいと祈って 元連隊長 戸田義直氏の提唱で 慰霊塔を建立したものです
昭和47年3月5日
満洲第712部隊
歩兵第43聯隊
慰霊碑
満州第712部隊 歩兵第43聯隊 慰霊碑
碑文
昭和13年松山歩兵第22聨隊は松山より満州西東安に移駐した後第24師団に編入された為 昭和15年2月以降愛媛の若人は徳島歩兵第43聯隊等に入隊した 同年より聯隊は満洲第712部隊または錦2435部隊と呼称された
昭和19年第3大隊の617名は大宮島(グアム島)に分遣され同年9月末米軍との熾烈な戦いに於て玉砕し其のうち164名は愛媛県出身者であった
更に歩兵第43聯隊に在隊せし者で祖国の安泰と恒久平和を願いつつ国の砂として散華された多くの戦友の苦難を偲び御英霊に心からの感謝と畏敬の誠を捧げ茲に慰霊碑を建立す
平成7年5月
歩兵第43聯隊愛媛戦友会
慰霊碑建立委員会 他戦友一同
海軍戦没者慰霊碑
海軍戦没者慰霊碑
終戦50年の節目に当り、日本民族の繁栄と、世界平和を念じながら散華された、郷土出身1万496柱の英霊と、戦後復員し荒廃した祖国の復興に貢献された御霊に対し、永遠にその偉業を讃え、愛媛県海交会相図り愛媛縣護國神社の神域に慰霊碑を建立することができました。
ここに謹んで国家悠久の大義に殉じた海軍戦没者に鎮魂の誠を捧げて、その栄光と、併せて日本国の安泰と繁栄を祈念して、この慰霊碑を建立するものであります。
平成7年12月8日
愛媛県海交会
会長 清水義隆
会員一同
雄飛 豫科練鎮魂之碑
雄飛 豫科練鎮魂之碑
豫科練雄飛
それは、昭和5年日本海軍が航空兵力増強の期待を担って少年航空兵としての海軍豫科練習生制度を創設し弱冠15歳前後の紅顔無垢の少年達79名を第1期生として横須賀海軍航空隊に入隊させ呱々の声をあげたに始まる。爾来昭和20年8月の聖断下る日まで十年余の短い歴史に過ぎないが第24期生まで実に7萬1千名を数える。この間若人達は祖国を護らんと堅き決意を抱き飛行機搭乗員を志し飛行豫科練習生として続々入隊鉄石の猛訓練によく耐え搭乗員としての基礎を養い期待通りの成果をあげ大空に巣立っていった。
昭和12年支那事変勃発するや豫科練出身搭乗員は初陣の誉に浴しあの輝かしき渡洋爆撃行に列し活躍花を咲かせた。太平洋戦争においては、世界に誇る海の荒鷲としてハワイに、マレー沖に緒戦を飾り文字通り海軍航空隊の中核として熾烈な航空戦に従事し伝統の中に豫科練魂を築き上げ身を捨てて顧みない崇高な精神を鍛えあげた。戦い酣兄等は空の果てるところ海原遥か長躯翼を捷って祖国存亡の激戦に立ち向い、南太平洋、中部太平洋、遠くは印度洋に酷寒のアリューシャンに展開し常に第一線搭乗員として力の限り戦い、勇戦激闘赫々の武勲をたて武功を誇った。
戦雲急を告ぐる決戦のとき兄等は全員特攻を決意し何の代償も求めずひたすら祖国の繁栄を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じた。星霜すでに四十有余年瞑目すれば紅顔の英姿颯爽と今なお眼底に鮮やかなリ、愛媛県出身110柱在天の御霊よ希くば吾等が微哀を汲みて此処青松の神域に安らかに眠り給わんことを念じ碑を建立する。
平成元年10月15日
豫科練雄飛愛媛県人会
戦没陸軍少年飛行兵遺影顕彰碑
翔
亡き友の御霊に捧ぐ
昭和9年春2月、陸軍航空の華として少年飛行兵が誕生し、昭和20年8月終戦までの間、第1期生より第20期生迄約5万8千余名の若冠15歳前後の紅顔の少年達が情熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の夕に孜孜として猛訓練に励み黙々として古賢の道を学びつつひたすら死に通ずる大空へと巣立っていった。思えば十有二年の短い歴史ではあるが、此の間日支事変をはじめノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空の中核として大陸の空に南冥の果てにまた北辺の孤島に雄戦激闘し赫々の武功を誇ったがその多くは祖国の繁栄と同胞の平和を念じつつ莞爾として悠久の大義に殉じていったのである。戦禍絶えて36年今は還らぬ友の御霊を慰め、その栄誉と武勲を永く後世に伝えると共に真の平和を祈念してここに出身生存者相はかり、愛媛県出身陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立する。
昭和57年4月4日
陸軍少年飛行兵出身者の集い
愛媛少飛会
皇后陛下御歌
やすらかに
ねむれとぞ思ふ
君のため
いのちささげ
志ますらをの
とも
侍従入江相政謹書
殉國二十二烈士の碑
殉國二十二烈士の碑
昭和44年11月建之
白菊遺族会愛媛県支部
愛媛県戦争裁判殉国者慰霊碑 建設世話会
大東亞戦後の戦争裁判は世界史に汚辱の一章を加え犠牲者の遺族に消える日のない痛恨を印した
愛媛ゆかりの二十二烈士亦大節を貫き恩讐を越え祖國の弥栄を念じ従容として平和の人柱となった
今や轉位して裁きの神の座にます尊霊たちよみそなわせ 敗戦祖国は世界驚異の発展をとげアジアの諸民族は相次いで獨立の宿願を成就しました
21世紀は日本の世紀在天の英霊とこしえに祖國を守りたまえ
拓魂
拓魂
国のため旧満州へ渡り 再び祖国の土を踏むことなく散華されし愛媛の開拓者の御霊よ永遠に安らかに
昭和48年
満州開拓者殉難碑 建設委員会 建立
題字
愛媛県知事 白石 春樹
殉職女子挺身隊員慰霊之碑
挺身
殉職女子挺身隊員慰霊之碑
太平洋戦争激化の昭和十九年県立松山高等女学校卒業と同時に祖国の危急に応じて女子挺身隊員となり呉海軍工廠に赴き電気部三次電池工場に勤務中 終戦を三ヶ月程に控えた昭和二十年六月二十二日米機B29の爆撃を受け殉職された三柱の霊を慰め併せてこれら乙女達が身命をかけてかち得た国の平和が永遠に続く事を願ってこの碑を建てる
昭和五十二年十二月
愛媛県立松山高等女学校 四十二期生
殉職女子学徒追憶之碑
殉職女子学徒追憶之碑
戦はよしや無謀侵略の師であったにしてもこれら乙女達がその最期まで祖国に捧げた熱情は至純であった 時恰も終戦直前の昭和20年8月5日今治市空襲の夜波止浜へ通ずる通稱近見縣道に於て散った真白の花二十四遺骨は名勝波止浜の丘上に安らけく眠って戦なく争なき天国に久遠の楽を享けているがそのみ魂をこゝに請じて亡き友への追慕の誠を捧げると共にうまし国わが日の本のこの地上に永遠に戦火の災あらしめ給うなと祈るはわれら生けるものゝ心からなる願いである
昭和26年11月
安倍能成題字
坂本良介撰文
真鍋士鴻書丹
同窓生有志建之
鎮魂
鎮魂
第3航空教育隊
西部第99部隊
中部第571部隊
終焉地
この鎮魂碑は昭和54年6月城山公園堀の内の第3航空教育隊跡地に建立され、平成16年4月吉日に移設したものである。
熟田津の歌碑
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな
紀元1321年 今から1306年の昔 唐と組んだ新羅が 百済をくだして日本に向うのを憂えられた斉明天皇は 皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)その弟君の大海人皇子(後の天武天皇)などとともに 百済を助けるため 筑紫に軍を進められようとされた その途中 熟田津の石湯の行宮に泊らせられて 伊予水軍を集結し 兵船を整え 進発の時を待たれたのである。
時は来た!十五夜の月はまさに出でようとし 潮は満ちふくらんできた 軍を統率する中大兄皇子のかたわらに侍する額田王の詩情は高まってくる 天皇をようする大軍船団と 月の光と満潮とが融合して豊にたゆたい その大生命が満ちきった一瞬 充実しきった額田王の心気は発せられた 「今はこぎ出でな!」渾身の力をこめて しかも優容迫らず 清明雄大 緊密なる流動の節奏と磐石の重き格調をもって歌いあげられたのである 天皇の大号令が この歌にはこもっている
古今の絶唱がここに生まれたのである
この歌は 日本女性の詩歌として世界に誇り得るものであり また 日本の歴史的意義をもつものである
「今はこぎ出でな」と進発した当時の伊予水軍が 武運つたなく白村江の戦いに敗れ 国難に殉じたことをしのぶとき 哀悼の情切なるものがある しかし 潔く山桜のように散った伊予水軍の心気は ついに唐 新羅をして日本を侵させなかったのである
この歌碑を仰ぐもの よくこの大生命を感受し 雄大清明なる気象を養い 「いざ!」の充実した心気に生きられんことを
附記
この歌碑は 少年たちの壱円から特別の寄付まで また県内から県外まで 数多くの人々の心からなるきょ金によってできたのである しかし すべてその名をとどめないことにして ただ「熟田津の歌を讃うる会」とし ゆかしく千載までのこることを願うのである この歌碑の字は 元暦本万葉集から採ったものである
なお この碑は熟田津の場所をここと決定して建てたものではない
昭和42年7月5日
熟田津の歌を讃うる会
殉職自衛官等 慰霊之碑
殉職自衛官等
慰霊之碑
元防衛庁長官 増原恵吉 書
この慰霊碑は昭和25年警察予備隊創設以来自衛隊に勤務しわが国の平和と安全のために尽された愛媛県出身者でその職に殉ぜられた方、志半で物故された方、予備自衛官としての勤務期間中、物故された方、隊友会員として活躍中物故された方々の御霊をおまつりしてお慰めするため隊友会愛媛県支部連合会全員の意志により多くの方々の御理解御協力御厚志により建立したものであります
昭和53年9月24日 平成2年3月改修
社団法人 隊友会 愛媛県支部連合会
シベリア抑留者慰霊之碑
シベリア抑留者慰霊之碑
碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和20年8月15日を以て終結した。
然るに旧ソ連は、その宣言を守ることなく、終戦後、60余万人の日本人を酷寒のシベリア、モンゴル、北朝鮮、サハリン及び千島等の各地に連行抑留し、長期に亘る過酷な労働を強制した。
飢えと寒さと重労働の生き地獄の中、祖国日本への帰還の願いも空しく、本県出身者1千余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。誠に痛恨の極みである。
幾多の辛酸に耐えて帰国した抑留者、及び最愛の夫又は肉親を悲しくも失った遺族の私達は、苦節50余年を経た今日、この事に深く想いを致すとともに、その事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成、及び県内外各界各層の温かい賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
平成9年12月吉日
愛媛県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会
茶筅塔
ボーイスカウト松山第16団
結団30周年記念碑
弥栄
愛媛万葉苑
愛媛万葉苑
昭和28(1953)年、八木繁一が中心となり、この護国神社境内に、御霊を慰めるために「郷土植物園」として造られたのがはじまりである。
その後、園内に万葉集の傑作「熟田津にぎたつの歌」の碑が建立され、それを契機として、一帯に万葉歌人の詠んだ植物を蒐集栽培し、昭和43(1968)年に『愛媛万葉苑』として開苑した。「万葉集」4516首の歌のうち約1500首に約150種の植物が詠まれている。本苑にはムラサキ、フユアオイ等の希少植物や、食用のアワ、薬用のキキョウ、和紙衣料の原料のカジノキ、ミツマタのような日常的に有用な植物など百余種が植えられている。
苑内を散策しながら、和歌と植物を鑑賞することで、古人が植物に寄せた関心の深さ、観察眼の確かさ、大宮人の心のゆかしさ、古名と現代名の違いの驚きなど、各季節の味わいの中で、豊かな時間を過ごすことができる。
松山市教育委員会
華塚
殉職警察官消防組員 彰功碑
殉職警察官消防組員 彰功碑
伯爵 清浦奎吾 書
松山あれこれ
松山出張中のあれこれ。こあるメーカーのパートナーサミットにお呼ばれされたのだ。
道後温泉駅
坊っちゃん列車
道後温泉
行きの飛行機
旅館の蛇口みかん
夜の道後温泉
松山鯛めし弁当
会食
旅館の日本酒
朝食のみかんジュース
みかん
情報量が。
鯛めし
鯛そうめん
松山って、なんか、ざっくり20年ぶりっぽいかんじ。当時の私は伊予鉄に乗ることがメインだったんで、、、
こうして、久しぶりに視点を変えて訪れると、やっぱ楽しい。
今度はゆっくり再訪したいです。
※撮影:2024年11月