沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊「ひめゆりの塔」と「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝1)

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沖縄へ

2022年10月記録です

2022年10月。
人生で初の沖縄に赴く機会があった。
しかし、それは能動的なものではなく、受動的なきっかけとする、ある意味で偶然の機会。
そう、たまたまで、社員旅行が「沖縄」だったのだ。
社員旅行であれど、滞在合計3日間のうち拘束は1.5日で、自由時間も1.5日。まるまる1日使える2日目と、午前中のみ使える半日の3日目があった。あとは、どのように使うか。

正直言って、沖縄の戦跡は、巡り始めたら終わりがない。官民を巻き込んでの地上戦の痕跡は至るところに残っている。私としては、はじめての沖ということもあり、行くべきところ、最低限、これは行っておかねばと決めた戦跡のみを巡り、そうして、手を合わせておきたいと考えていた。そうでないと収拾がつかない。
ただ、実のところ、私は車を運転する権利はあるが、身分証以外の活用をしていないレベルだったのでレンタカーという選択肢を有していなかった。そのため、沖縄では非常に不利ではあるが、バスをはじめとした公共交通機関のみで戦跡を回ろうと考えていた。

そうして、事前に沖縄で、どこを廻るかを調べていた際に、他部署ながらよく仕事を一緒にすることのあるAさんから、こう言われた。

Aさん
 「沖縄の自由行動、どうされますか?」
わたし
 「歴史好きだから、歴史散歩でブラタ○リするつもり」
Aさん
 「面白そうですね、沖縄は何度も行ったことあるので、知らないところに行けそうですね、ご一緒しても良いですか、ちなみに歴史はどんな歴史ですか?」
わたし
 「(語弊があるかもしれないですが)、沖縄の歴史って、大きく分けると2つかなと。琉球王国の歴史と、戦争の歴史。私が行こうと思っているのは、重い方です、、、」
Aさん
 「あっ、重い方ですか、、、」

Aさんは、「重い歴史」は余り知らないという。それでも「沖縄は車がないと不便ですよ、レンタカー手配しますよ」と、私の散策に乗ってきたので、そこで、大きく私のプランと行動範囲は変更されることとなった。
さらに直前に、私とAさんは自由行動で、沖縄の歴史散歩するということを聞いた同僚のBさん(Bさんは年齢的には人生の大先輩)も、沖縄の歴史には興味あるということで、そうしていつのまにか、ツアーみたいな感じで同行がきまって、都合3人で「沖縄慰霊の戦跡散策」を実施することとなった。

ちなみにAさんは、私の歴史散策の初手からの行程都合ということもあったが「地下壕」続きにかなりびっくりされ、「こんなにディープなところに行くとは思いませんでした」というような状況になり、途中から、「いやあー、沖縄ドライブ楽しいんで、遠慮せず」という状況だったような。。。

沖縄の南部地区は、1日を使って「レンターカー」での移動。
那覇市街地は、ソロ活動で半日使って「レンタサイクル」を活用した次第、でした。

以下、行程順ではなく、エリアごと、内容ごとに、順不同で掲載していきます。
「はじめての沖縄」ということもありますので、探訪漏れも多く、1日半の短い時間でしたが、沖縄巡拝の記録として、徒然と。

みたま安らかに


ひめゆりの塔・沖縄陸軍病院第三外科壕跡

沖縄の代表的な戦跡として、慰霊巡拝先として必須の地。
まずは、ひめゆりの塔から掲載をしていきます。

「2代目・ひめゆりの塔」の手間に、ちいさく「初代・ひめゆりの塔」が鎮座している。

ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなった「女師「一高女」の教師・学徒の慰霊碑。
終戦翌年の1946年、付近の収容所にいた真和志村民により建立された。

そして、「沖縄陸軍病院第三外科壕」跡が開口している。

刻銘碑
「女師「一高女」の教師・学徒戦没者の刻銘碑。戦後、間もない頃に建立されたために、戦没者全員は刻まれていない。

伊原第三外科壕
このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所。1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなった。ひめゆり学徒の最期の地のひとつである。

ひめゆりの塔
1957年に建立された新しいひめゆりの塔。
「納骨堂」を覆った白壁には、学徒戦没者の名を刻み、「女師「一高女」のシンボルである百合のレリーフを手むけた。
2009年、改修。学徒戦没者を追記。
納骨堂には、この洞窟「伊原第三外科壕」や「伊原第一外科壕」「荒崎海岸」など、沖縄戦最期の地から回収された遺骨が眠っている。


ひめゆり学徒隊

1944年12月、看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等学校の生徒で構成された部隊。
沖縄女子師範学校は沖縄第一高等学校と併設されていたことから、校名はことのあるものの実質的には一つの学校に等しかった。

1945年3月22日、両校の生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」は、沖縄第32軍直轄となる沖縄陸軍病院(通称:南風原陸軍第一病院)に看護要員として動員。40近くの横穴壕に分散配置された。
敗色濃厚となった6月18日に解散命令が出され、翌日19日からの1週間のあいだに多数の犠牲者を出した。最終的には、240人の学徒隊のうち、136名が死亡している。
戦後、最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に、慰霊塔として「ひめゆりの塔」が建立された。


沖縄の女子学徒隊

沖縄にあった旧制中学校21のすべての学校が動員された。
男子生徒は、鉄血勤皇隊、通信隊に配属され、女子生徒は、看護隊に配属された。

  • 沖縄県立女子師範学校・ひめゆり学徒隊:犠牲81名/動員157名(戦死率52%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊:犠牲42名/動員65名(戦死率65%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第二高等女学校・白梅学徒隊:犠牲17名/動員46名(戦死率37%)
     配属:第24師団第1野戦病院
  • 沖縄県立大三高等女学校・なごらん学徒隊:犠牲1名/動員10名(戦死率10%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院名護分院
  • 沖縄県立首里高等女学校・瑞泉学徒隊:犠牲33名/動員61名(戦死率54%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄積徳高等女学校・ふじ学徒隊:犠牲3名/動員25名(戦死率12%)
     配属:第24師団第2野戦病院
  • 昭和高等女学校・梯梧学徒隊:犠牲9名/動員17名(戦死率53%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄県立宮古高等女学校・宮古高女学徒隊:犠牲1名/動員48名(戦死率2%)
     配属:第28師団野戦病院・宮古島陸軍病院
  • 沖縄県立八重山高等女学校・八重山高女学徒隊:犠牲1名/動員60名(戦死率2%)
     配属:石垣島陸軍病院・海軍病院

沖縄戦の推移

1945年
3/17
 硫黄島の日本守備隊、玉砕する
3/23 
 ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。
 米軍、沖縄諸島に空襲を開始  
3/26
 米機動隊が慶良間諸島に上陸。地上戦のはじまり。島民集団自決。
4/1
 沖縄本島の中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷地区)に米軍上陸。
4/7
 沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方沖で撃沈される
5/23
 米軍が那覇市に進攻。
5/25
 陸軍病院、南部へ撤退。
5/27
 第32軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。
5/31
 米軍が首里を占領する。
6/18
 米軍司令官バックナー中将が糸満市前栄里で戦死する。
 学徒隊に解散命令。
6/19
 第三外科壕にガス弾が打ち込まれ、多くの学徒が死亡。
6/21
 荒崎海岸で

多くの学徒が死亡。(集団自決)
6/23
 第32軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。
7/2
 米軍、沖縄作戦終了宣言。


陸軍病院第三外科職員之碑・沖縄戦殉職医療人之碑

ひめゆり学徒とともに、第三外科壕にいた職員や、沖縄戦で殉職した医療関係者の慰霊碑。

沖縄戦殉職医療人之碑

陸軍病院第三外科職員之碑


ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆり平和祈念資料館は、ひめゆり学徒隊の沖縄戦体験を伝える平和ミュージアムです

「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦を伝える施設。
第三外科壕の下部、断面を垣間見ることができる。

ひめゆりの塔
沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最期の地のひとつである伊原第三外科壕跡に建立された慰霊碑。

ひめゆり平和祈念資料館
亡き学友の慰霊と平和への願いを発信する場として、同窓生たちが1989年に開館しました。写真や遺品、実物資料、生き残った学徒の証言集が、沖縄戦とひめゆり学徒の実相を伝えています。
正面は、ひめゆり学徒たちの学び舎、沖縄師範学校女子部・沖縄系ん立第一高等女学校を模し、校門までの並木道をなしていた相思樹が植えられています。
那覇にあった学園は沖縄戦で消滅しました。

沖縄戦とひめゆり学徒隊
動員
1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学とは戦場に動員されます。
ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の「沖縄陸軍病院」に配置されました。
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕にベットを備えただけの施設で、砲煙弾雨の中、学徒は医師と看護婦の下、負傷兵の看護や水汲み、伝令、食料運搬などを担いました。
4月1日の米軍上陸後の激しい戦闘により負傷兵が急増し、3つの分室ができていきます。

撤退
5月下旬、米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫り、5月25日、軍の南部撤退命令により、陸軍病院も南部への撤退が始まります。
学徒たちは砲弾と悪路の中をこの南部までたどり着きます。病院としての機能を失った後も6つの壕に分散して不難死、伝令や水汲み、食糧確保の任務に当たりました。

解散
6月18日夜、緊迫した戦況の中でひめゆり学徒に突然「解散命令」が下されます。激化する戦場で、負傷した学徒は壕に残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。

儀間真一顕彰碑
(ハーリー・シンイチ・ギマ)
沖縄系ハワイ2世、昭和27年に、ひめゆりの塔の敷地を購入するための資金援助をした。


ひめゆりの塔の記

ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
 いはまくら かたくも あらむ やすらかに
 ねむれ とぞいのる まなびの ともは

裏面には、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「校歌」が刻まれている。


いはまくら碑

いはまくら碑 1990
ひめゆり学徒の引率教師 仲宗根政善先生の歌
いはまくら 
 かたくもあらむ 
  やすらかに
ねむれとぞいのる 
 まなびのともは
「固いごつごつした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょうあ。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています」という哀悼の歌です。
島の南の果てに追いつめられて岩陰や洞窟で学友たちは亡くなっていきました。この恩師の歌は、戦争のおろかさと平和の素晴らしさを、亡き学友に代わって訴えていくことを誓う私たちの心そのものです。


赤心之塔

赤心之塔 1948
伊原第三外科壕に入っていた民間人(大田家)5名の戦没者の慰霊碑。遺族によって建立された。

女神の像

ひめゆりの石

井伊文子の歌碑
琉球王朝の末裔にあたる井伊文子氏の歌

ひめゆりのいしぶみに
ふかくぬかづけば
たいらぎをこひのむ
乙女らのの声す


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その2」へ

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その2」となります。 その1は、下記にて。 2022年10月記録です みたま...
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