「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

「特攻観音堂」と「特攻勇士の像」

(特攻観音堂は平成30年5月撮影 )

世田谷観音 (世田谷山観音寺)

江戸三十三観音第32番札所

昭和26年に睦賢和尚が独力で建立。
同年5月、金竜山浅草寺に請い開眼の法を修したとされる寺院。 境内には特攻で犠牲となられた英霊を慰霊する「特攻観音堂」が鎮座。

入口の左右に。

石碑 「奉安 特攻平和観音」元竹田宮 竹田恒徳 書

門標 「世田谷山観音寺」元内閣総理大臣 吉田茂 書

参道の左手、赤門の奥には「旧小田原代官屋敷」
現在は観音寺本坊として使用。

特攻平和観音

昭和27年5月。
元海軍大将 及川古志郎、元海軍大将 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平らが発起人となり特攻平和観音像が造立。(法隆寺夢違観音像模写)
陸軍側及び海軍で犠牲になられた英名が各々二体の特攻平和観音尊像胎内に奉蔵されている。

特攻観音堂

昭和31年05月。世田谷観音寺内に旧宮家「華頂宮家」の持念仏堂を移築し「特攻平和観音」を遷座。

陸軍2244柱
 航空1355柱・空挺615柱・海上挺進265柱・戦車9柱
海軍4174柱
 航空2548柱・特潜437柱・回天104柱・震洋1085柱
合計6418柱

国のために生還を期することのない特攻作戦に志願して若き命を捧げた特攻隊員英名が「特攻平和観音」に奉蔵されている。

石碑「世界平和の礎」

昭和39年10月吉日 吉田茂 謹書
特攻観音堂の左手前に。

特別攻撃隊の頌

 わが国が存亡をかけた大東亜戦争においては、開戦当初から生還を期すことのない特攻作戦が決行された。
 弱冠十七、八歳から三十歳代までの勇士が、肉親への愛着を断ち切り洋々たるべき人生を捨てて、空に、海に、陸に、決然として肉弾攻撃を敢行し、偉大なる戦果を挙げ、ことごとく散華された。その数およそ六千柱。壮烈無比なこの攻撃は敵の心胆を寒からしめ、国民はひとしくその純忠に感泣した。
 特別攻撃隊の戦闘は、真に至高至純の愛国心の発露として国民の胸奥に生き続け、また世界の人人に強い感銘を与え、わが国永遠の平和と発展の礎となっている。
 ここに心から愛惜の情をこめて特別攻撃隊の諸資料を、この遊就館に納め、その精神と偉業とを後世に伝える。
昭和六十年十二月八日 特別攻撃隊慰霊顕彰会 会長 竹田恒徳

あゝ 特攻(特攻勇士の像

特攻隊戦没者慰霊顕彰会は全国各地に「特攻像」建立を行っており世田谷観音には平成19年09月23日建立。

私たちはあなたたちを忘れない
あゝ特攻

多くの「特攻勇士の像」が護國神社境内に建立されている中で、当寺には特攻観音堂があり地蔵菩薩と特攻像が並んで建立されている。

天山隊之碑

元海軍大将 高橋三吉 書
昭和36年12月 天山隊遺族会建之

特攻観音堂の左脇に慰霊碑。
「天山」は日本海軍が九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)後継機として配備した艦上攻撃機。戦争末期には零戦や彗星とともに特攻機となっている。碑には天山を模した彫刻あり。

「天山隊之碑」 碑銘
大東亜戦争末期昭和20年4月6日鹿児島県串良基地進発沖縄周辺に来寇中の敵機動部隊に体当り攻撃を敢行し戦艦5隻空母2隻及び艦種不詳3隻を轟沈或は大破し多大の戦果を挙げ全員散華せり
神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊員(以下個人名は略)

(もちろん記録として、歴史としては、そのような多大な戦果を挙げていなかったことは今では明らかではあるが、「戦果を挙げた」として信じて特攻された御英霊に対して無粋なことはしたくなく。歴史を知るものとして事象を理解しつつ… ここは、いち日本人の心情として碑銘に気持ちを委ねる。)

神州不滅特別攻撃隊之碑

昭和42年5月 神州不滅特別攻撃隊顕彰会建立

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日、祖国日本の敗戦と云う結果で終末を遂げたのであるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第一六六七五部隊に所属した今田均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日二宮准尉の偵察した赤峰附近に進駐し来るソ連軍戦車群に向けて大虎山飛行場を発進、前記戦車群に体当たり全員自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり 此処に此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し英霊の御魂よ永久に安かれと祈るものなり (碑銘引用は以上、以下個人名は略)

「特攻観音堂」
関連冊子などを戴きました… 公式サイト→PDFダウンロード可

「特攻平和観音経」
恭しく伏して惟んみるに天地開闢以来この世に生を享けしもの幾十百千万億兆なるを知らず。…
嗚呼尊い哉、嗚呼仰がん哉、長存不滅の光
南無特攻平和観世音菩薩…

公式サイトによると特攻平和観音様 月例参拝日が毎月18日午後2時より行われているということで。 機会があれば参列してみたいものです。


世田谷観音の境内を散策。
紙垂のある木。敬しく恭しい御神木。
ご住職のメッセージが掲示してあった。

大地は命の根源である

私達は大地を粗末に扱っている 大地は私達のものだと思っているからである そうではなくて私達が大地の一部なのだと知ればもっと愛情と敬意をもって扱うようになるだろう

阿弥陀堂(1枚目)は京都二条城からの移築という。
三層の建物は金閣寺を模している。向かい合った六角堂(不動堂/2枚目)も特徴的な様相。
寺歴は浅いが、移築建築や移築物が多い寺院。
不動堂「不動明王ならびに八大童子」は国重文。

狛獅子を従えた文殊観音様

境内にはさざれ石がありました。
「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」
良き苔むす。
ちょっと交通の便は悪いけれども、とても佳き空間でした。
また訪れたいと思います。

御英霊の真心に感謝と哀悼の誠を捧げつつ…

各地の「特攻勇士の像」

訪れたことのある、ほんの一部ではございますが。

靖國神社

特攻勇士を讃える

戦局がいよいよ悪化した大東亜戦争の末期、
陸軍航空 西尾少佐以下1344名、
義列空挺隊 奥山少佐以下88名、
戦車隊 丹羽准尉以下9名、
海上挺進戦隊 岡部少佐以下266名、
海軍航空 関大尉以下2514名、
特殊潜航艇 岩佐大尉以下436名、
回天 上別府大尉以下104名、
震洋 石川大尉以下1082名、
計5843名の陸海軍人は敢然として敵艦船等に突入散華され今日の平和と繁栄の我が日本の礎となられた。
その至純崇高な殉国の精神は、国民ひとしく敬仰追悼し、永久に語り継ぐべきものである。
平成17年(2005)6月28日
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会

群馬縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像 
平成21年3月建立

日本は昭和の一時期、米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った。
自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを開放するためだった。
戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島沖縄と敵の反攻を許した。
この時、一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必至の戦法が採られた。
貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。
その勇姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現在の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたか、
この像に問い続けて欲しい。

栃木縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士の像

私たちは決して忘れない

かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を、多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。
特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
     栃木県特攻慰霊顕彰の会

埼玉縣護國神社

埼玉県特攻勇士之像 (平成25年建立)

あの苛烈を極めた大東亜戦争の末期、多くの埼玉県出身の若者たちが特攻隊員となり家族・故郷・祖国を守るため、烈々たる祖国愛に燃え敢然として散華されました。
生還を期せず、若い命を進んで国に捧げられたこれら特攻隊員の崇高な精神が永く県民の心に刻まれるとともに次代を担う若門精神の糧となることを願うものであります。
ここに散華された英霊の勇姿を末永く後世に伝えるため、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会のご協力を得て、埼玉県下遺族、戦友、崇敬者団体をはじめ幅広い県民の真心籠るご浄財をもって埼玉県特攻勇士之象を建立し謹んで奉納いたします。 
平成二十五年十月吉日
埼玉県特攻勇士之像建設委員会

千葉縣護國神社

あゝ特攻
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った。
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった。
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した。
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた。 貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった。
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った。

その雄姿を此処に置く。
敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ、
命に代えて何を守ろうとしたのか、
この像に問いかけてほしい。

戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した。

日本国民よ、この事実を銘記せよ。

長野縣護國神社

あゝ特攻 特攻勇士之像

大東亜戦争の末期、特別攻撃隊が編成され、祖国の平和と繁栄を祈り、愛おしい父母妻子家族と別れ、一機一艇をもって敵艦に体当たりして、勇戦敢闘し散華されました。
長野県出身者は、陸海軍合せ百六十余名の若者が特攻隊員として戦死されております。
松本市内には、出撃を待つ多くの特攻隊員が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立って行きました。
又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童達と温かい交流もありました。
国家存亡の危機に敢然と立ち向かわれ、今日の平和な日本の礎となられた諸英霊の崇高なる精神を永く県民の心に刻み 、後世に伝えるため、終戦七十周年を期しここに建立いたしました。
平成27年10月10日 長野県特攻勇士之像建立委員会

國の為 誠の道を一筋に
 進み行くこそ大和魂
  秋山白厳 詠


特攻勇士之像 に拝する機会がありましたら、記事を追記してまいります・・・

谷田部海軍航空隊跡地散策

平成29年5月

谷田部へ

平成29年5月5日。
良い天気に誘われて前々から気になっていた場所にふらりと訪れてみることにしました。
茨城県内に点在した海軍航空基地跡でまだ未訪問だった場所。
「谷田部」
現在の行政的には茨城県つくば市谷田部

メモ程度に茨城南部の海軍航空隊を簡単に分類。

霞ヶ浦海軍航空隊(霞空・教育部隊・予科練)
 ↓
鹿島空(水上機隊)→北浦空
谷田部空(霞空補助)
土浦空・百里原空(予科練)

筑波海軍航空隊(戦闘機)
 ↓
神ノ池空(桜花隊)
谷田部空(戦闘機)

公共交通機関での谷田部へのアクセス方法はいくつかあるけど一番楽なのは「取手から谷田部車庫までのバス」かと思います。バス路線は土浦・牛久・水海道などあるようですが運転本数は取手が一番多いような気がします。

取手~谷田部車庫
所要時間60分910円

バスに揺られて1時間。
久しぶりに長距離路線バスに乗った感じです。

関東鉄道バス 終点
「谷田部車庫」

位置関係

全体の地図を貼っておきます。
地図上部の緑印が今回の散策ポイント。
谷田部車庫は筑波学園病院の北隣。
南部の緑枠は「滑走路跡」、現在の研究団地。
ここに芝張りの滑走路が広がっており、当時は93式中間練習機「赤トンボ」が舞っていたという。

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
 USA撮影
 コース番号 R2232
 写真番号 51
 撮影年月日 1948/12/04(昭23)

正門跡

谷田部車庫からいったん北上してT字路に到達。
この場所が「谷田部海軍航空隊」の入口であった。
ここより南に進むと「正門跡」(筑波学園病院前交差点)という。

この入口の角にあるスーパーがポイントです。

入口T字路の角に立つスーパー。
実は、戦後に元隊員が開業したスーパーだという。
(今は営業していない雰囲気でした)

店先に「桜と錨」帝国海軍徽章(シンボルマーク)が掲げられておりました。 これは胸熱…

消失した、とのことです。

そのまま南下。
関東鉄道バス谷田部車庫の南隣に「筑波学園病院」が見えてきます。

このあたりがかつての「正門」があった場所。
ここから南側がかつての基地跡。

谷田部海軍航空隊記念碑

「筑波学園病院」の駐車場の脇に記念碑が建立されておりました。

谷田部海軍航空隊記念碑
平成25年3月吉日 財団法人筑波麓仁会理事長

(補足→筑波学園病院のことです)

記念碑上部の戦闘機の石造造形が美しすぎて感無量でした。
目頭があつくなるほどに・・・

谷田部海軍航空隊記念碑
碑文

谷田部海軍航空隊は、昭和七年霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の補助飛行場としてこの地に開設され、練習機による飛行士養成を目的としていたが、昭和十四年独立し、零戦や紫電を主力として首都防空の実戦部隊となった。その後昭和十九年戦闘機操縦訓練隊となり沖縄方面の特攻作戦に従事した。戦後、跡地の一部建物(兵舎)を筑波学園病院の病棟として利用し、平成十一年に解体し現在に至っている。ここに恒久の世界平和を願いこの碑を建立するものである。
 平成二十五年三月吉日 
 財団法人筑波麓仁会

建立時の除幕式がニュースでありました。 以下にリンクを貼っておきます。

https://www.gakuen-hospital.or.jp/wp/?p=175

http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=13689590371307

零戦モニュメントが上部に設置された記念碑は神風特別攻撃隊「昭和隊」出撃時に隊員を見送ったとされる桜の木の下に設置という。

桜の季節に詣りたい場所…

病院のご尽力にも感謝。ありがとうございました。

谷田部海軍航空基地外壁跡

記念碑から西の方に。 正門にそって基地の境界を道なりに進むと古いコンクリ塀が見えてくる。 これは当時の谷田部海軍航空基地の外壁が流用されたものという。

さらに道なりに歩み、交差点を南に折れる。
空地にトラックが駐車。
なんとなく目をやると…
あぁこれは仕組まれたかのような偶然です。

「若鷲の歌」
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

常磐高速道路を眼下に。

常磐道を挟んで
左手(北)が基地の主要部、
右手(南)が芝張りの滑走路敷地。

前述の航空写真を見ると、主要部と滑走路部の間に橋がかかっているのがわかります。当時は用水路のように基地を囲むように窪みがあったようです。

飛行場橋

常磐道をまたぐ橋。 飛行場は既に残っていないけども、橋の名前に往時を偲ぶことができる。 航空隊本部と芝張り飛行場を結ぶ橋。 今はこの「飛行場橋」の向こうには「研究団地」が展開されている。

往時、この空間に芝張りの飛行場が展開していたという。

歴史だけが残った空間。

芝張りの飛行場は93式中間練習機「赤トンボ」用。
そして現在の常磐道の側道あたりに戦闘機用の滑走路が展開されていたという。

谷田部神社(谷田部海軍航空隊神社)

谷田部海軍航空隊神社(航空隊内の航空神社)を戦後に移築したもの。もともと基地内に鎮座していた神社を戦後の焼却を恐れて谷田部八坂神社境内に遷宮。旧基地エリアの再開発が落ち着いたのちに現在地に地区の守護神として鎮座した。

往時の名残を残す神社。
かつての海軍航空隊の守護神は、現在は谷田部集落の守護神となっていた。

心静かに拝する。
感謝と哀悼の念とともに。

防火水槽

また、谷田部神社の近くに航空基地なごりの防火水槽が残っていた。

谷田部海軍航空隊散策はざっと1時間半、2.5キロほどの所要でした。 残されたものは少なかったけど、なかなかに意義のある散策ができたかな、と。


続いて、谷田部海軍航空隊跡より三キロほど北西の(赤星印)に鎮座する鹿島神社に向かいます。

水田に水が張られ始め稲作の始まりを感じるなかに鎮守様が鎮座しておりました。
そこはなんの変哲もない神社のようですが…

土浦海軍航空隊神社の大鳥居(移設)
(つくば市小白硲鎮座の鹿島神社)

常総リビング記事

http://www.joyoliving.co.jp/sp/htg/data00021.htm

>旧海軍の土浦海軍航空隊内(阿見町青宿)にあった土浦航空隊神社の大鳥居が、つくば市小白硲の鹿島神社の鳥居として利用されている。

とのことで参拝しに参りました。

つくば市小白硲鎮座の鹿島神社

阿見から谷田部近くまで戦後のドサクサに紛れて誰がどうしてここに運んだかはわからないというが、この神社の大鳥居は「土浦海軍航空隊神社」のものであったという。
鳥居には昭和17年7月建立の銘あり。

神社としても個性的で興味深いお社でした。
御社殿脇のご神木の根本には大日如来が佇んでおり、境内地には神仏習合なんのそので石碑が立ち並んでおり。
地域鎮守として佳き気配に溢れておりました。

つくば市小白硲鎮座の鹿島神社。
社頭には「つくばの水田」が拡がる。
「あぁ、あそこに鎮座しているな」と遠くからでもわかる鎮守の杜。
清々しい気持ちの中で筑波の台地をノンビリと散策する贅沢なひととき。
海軍関連史跡と神社と。 まさにフィールドワークの醍醐味でもあった。

寄り道しつつ、つくばエキスプレス「みどりの駅」に到着。
行程はこんな感じでした。

谷田部車庫スタート~みどりの駅ゴール

距離、約8キロ 所要時間 約3時間  徒歩

陸軍調布飛行場跡散策

平成28年~

陸軍調布飛行場跡散策 (調布市/三鷹市/府中市)

  • 調布飛行場周辺
  • 高射砲台座跡
  • 飛行場排水路/排水門 ・門柱
  • 掩体壕(三鷹市大沢2基/白糸台)
  • 飛行場工事で遷座した神社仏閣
  • 調布郷土博物館保存「陸軍境界石」
  • 浅間山公園
  • 下仙川高射砲陣地跡

当時の調布飛行場位置関係

昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真。グーグルマップを加工。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス より
昭和20年1月6日に陸軍撮影の府中調布界隈の空撮写真を加工。

現在の調布飛行場は伊豆諸島を結ぶ東京島嶼部の大事な空路。
かつては首都防衛の要たる陸軍調布飛行場。

まずは家から自転車にて。
陸軍調布飛行場に関連する戦跡を幾つか廻ってみた全体の行程は、調布駅起点で4時間18キロの行程。

要所を押さえるのであれば、現在の調布飛行場を中心に武蔵野の森公園内の掩体壕2つ、白糸台駅近くの掩体壕などが見学しやすいです。

飛行場に向かつつ。
まずは三鷹市の「大沢コミュニティ通り」。
調布から飛行場方面にアクセスする道路。 この道路はかつての軍用道路。

大沢コミュニティの交差点から野川を望む。
調布飛行場側から見て対岸に、ちょっとした高台がある。
この高台に高射砲陣地があったのです。

首都防衛高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 調布隊

通称「どんぐり山」
保育園と老人ホームがあるこの場所が「首都防衛高射砲陣地跡」。 樹木で視界は覆われておりますが調布飛行場を見下ろす高台に位置しております。 ここには幾つか当時の名残のものがあり。

当時ここには6つの高射砲が備えられ、現在は4つの高射砲台座跡が残っているという。
敷地外より3つの台座跡が確認出来ました。

なお私が訪れたのは日曜日ということもあり、保育園はお休みで誰もいらっしゃいませんでした。
保育園がやっている時は、念のため関係者にご確認されて見学するのが良いと思います。
まあ、外からも見えますが。一応。

太平洋戦争
首都防衛高射砲陣地跡
東部第一九〇三部隊調布隊

戦火の本土に近づくに及び 首都防衛のため 昭和18年9月 此の地に 東部第1903部隊調布隊は 仲午六隊長以下186名を以て 陣地を構築し 高射砲6門 観測機材を設置して布陣した 数次にわたる米軍との交戦により 戦死4名負傷者多数を数えた
其の後 戦況の推移により日本海側に残された 唯一の食糧補給港である富山湾伏木港防衛のため 昭和20年4月末 北作健二隊長以下転進する迄 此の地で任務を遂行した 戦後 鈴木平三郎氏が陣地を現状のまま保存しており 且つこの地を福祉法人に寄付し永久に保存して下さるので 此の度 戦友一同相計りこの碑を建立し 永遠の平和を希求する共に英霊四君の冥福を祈り続ける事にした
 昭和56年2月吉日建立
 調布隊戦友一同

高射砲陣地跡石碑。
なお、日曜日で保育園休園のため望遠撮影です。前述同じく保育園内にありますので、開園時は許可を得て見学がベストです。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
1945年01月06日陸軍撮影(95D4-C2-20)より

どんぐり山をあとにして、飛行場方面へ。
次のポイントは野川。調布飛行場建設当時からの排水門が野川に面して残ってます。

陸軍調布飛行場 排水門・排水溝

この排水門から延びる排水溝が調布飛行場に向けて一部残っております。
このあたりも陸軍調布飛行場建設時からの名残。溝を固める玉石がポイント。
排水溝の話はまた後ほど、武蔵野の森公園内にて触れる予定。

陸軍調布飛行場 門柱

さて、飛行場方面に向かいましょう。
大沢五丁目バス停近く、道路の両脇にある大谷石製の門柱。
こちらは、陸軍調布飛行場名残の門柱。

調布飛行場。 昭和14年(1939)に建設着手。
門柱は竣工時に正門として設置。
戦後は戦争記憶の生き証人として保存されている。

門柱には「東京調布飛行場」と記載…ん?東東

これは「東京」の異体字である「東亰」と掘られていたものを戦後に何者か(GHQとも)が悪戯した為とされている。
確かに「亰」に追加された縦線の掘りが不自然。

調布飛行場。管制塔。
2013年に完成したばかりの新しい建物。 ターミナルからはちょっと離れますが奥の格納庫に展開されるプロペラカフェも人気スポット。

調布飛行場

飛行場の北側から西側にかけては、都立武蔵野の森公園が展開されてます。
そこに保存されている掩体壕が2つ。
三鷹市大沢。 大沢1号掩体壕、大沢2号掩体壕。
次の目的地はこちら。 航空写真でも掩体壕がわかります。

大沢1号掩体壕

大沢1号掩体壕。半地下構造。
入り口は塞がれており、そこには陸軍三式戦闘機「飛燕」の姿が掩体イメージとして描かれています。

大沢1号掩体壕。
あちこちから。
内部は完全に塞がれてますね。

掩体壕に格納されていた飛燕を1/10スケールで再現。
掩体壕カットモデル。 往時を偲ぶ。

解説看板。

_φ(・_・ 陸軍調布飛行場は南北1000メートル。東西700メートル。
掩体壕は有蓋30基、無蓋約30基あった。
現存は三鷹市武蔵野の森内に2基。府中市白糸台界隈に2基。

大沢2号掩体壕

こちらは、大沢2号。 同じく武蔵野の森公園内に。
蓋はされておらず、内部が覗ける様になってます。

ちょっとした丘の上から見ることも可能。
もっともこの場所は掩体壕を見るというよりも調布飛行場を見渡すことが出来る丘。

玉石造の水路

武蔵野の森公園の北側には玉石の水路が残る。
玉石は多摩川から。西武多摩川線の引き込みを利用。
こちらも陸軍調布飛行場時代の名残。

調布飛行場

調布飛行場を見渡す丘の上で休息。
ちょうど、 ドルニエ228が調布飛行場に帰ってきました。(三宅島航路406便)

おっ。
地上でドルニエ228がクロス。
三宅島航路406便の帰投、そしてこのあとは407便の離陸となります。
ちょうど良いタイミング。

ドルニエ228の離陸。
かつては首都防衛の要として三式戦闘機「飛燕」が飛び立ったこの場所から、 今は東京島嶼地域の要としてドルニエが飛ぶ。
プロペラの音をなびかせながら。

飛燕のプロペラ(一〇〇式輸送機プロペラと判明)

調布飛行場の北側には武蔵野の森公園。人見街道を挟んだ更に北側に野川公園。
その野川公園では「飛燕のプロペラ」が展示してあるという話を聞いたので行ってみました。

が、結論から書きますと「現在は展示中止。」
野川公園サービスセンターの中の人から、お話をお伺いしてみました。

野川公園で過去に展示していた「飛燕のプロペラ」
もともとは武蔵野の森公園の掩体壕とあわせて展示する計画でしたが、準備が整わなかったために一時的に野川公園で展示してました。現在はプロペラは武蔵野の森公園に返却しております。しかし、損傷が酷いために武蔵野の森公園での展示見通しがついてない状況のようです。」 とのことで。
ネットを検索すると散見される野川公園仮展示の「飛燕プロペラ」は現在は武蔵野の森公園預かりで非公開になっております。


「飛燕のプロペラ」は「武蔵野の森公園サービスセンター」で2019年10月より常設展示となりました。

※さらに研究の結果、一〇〇式輸送機プロペラと判明しました。
 展示当時は飛燕としての展示が施されているが、現在は展示形態も異なっているので注意
 再訪します。。。

プロペラ発見の経緯
 三鷹市が都立武蔵野の森公園の一角で進めていた大沢総合グラウンド整備事業で、平成21(2009)11月16日、下水管布設工事を行っていた際に、戦闘機のプロペラ3点が発見されました。プロペラは、工事関係者によって取り上げれ、三鷹市教育委員会に報告されました。
 当初予定していたグラウンドの管理棟部分の試堀調査終了後に、プロペラ発見地点の補足調査が行われ、発見地点の位置測量、出土深度の確認及び周囲の精査が行われました。プロペラは、南北8.8m(東西は、工事で掘削され、計測できなかった)、深さ2.3mの穴に埋まっていたことが確認されました。さらに、既に発見されていた3点のプロペラ以外に、他のプロペラ片数点が確認されましたが、腐食が激しく原形を留めていませんでした。また、穴の底面をさらに50cm掘り下げた小穴からスピナー(プロペラ軸の先端部分)が出土しました。専門家による鑑定の結果、スピナーとプロペラ1点は五式戦闘機のもの、残りの2点は三式戦闘機(飛燕)のものと判断されました。

近藤勇生家跡

調布飛行場北側の人見街道。
鎮座しているのは近藤神社。
近藤勇の生家跡に。名残としては産湯の井戸が残る。
近藤家は飛行場建設に巻き込まれている。

近藤勇は宮川家のうまれで近藤家に養子にでている。なので産湯の井戸は宮川家。
人見街道の北側にはさきほどの宮川家の近藤勇産湯の井戸と近藤神社があり、人見街道の南側すなわち調布飛行場側に現在も近藤家が残る。

近藤勇ゆかりの近藤道場(天然理心流道場)「撥雲館」。
調布飛行場の北側、人見街道に面した地に残る。
調布飛行場建設の為に従来の近藤家は取り壊されて移動しており、撥雲館もあわせて現在の近藤家敷地内に移築。

多磨霊園

人見街道を西に向かえば多磨霊園。
北西部に位置する多磨霊園や浅間山は樹木の多さをいかして分散秘匿地区として活用されていた、と。

現在の多磨霊園に飛行場関連の何か?が残っているわけではなく。
噴水塔に米軍機による機銃掃射の跡があるという話も聞いたが、老朽化で立ち入り出来ないのでは致し方がなく。


さて、人見街道から一気に南下。西武多摩川線に沿うように。
白糸台方面、甲州街道方面へと向かいます。

白糸台の掩体壕(非公開)

府中市白糸台界隈には掩体壕が二つ。そのうちの一つは民有地ゆえ詳細な場所は省略。
掩体壕の上に建屋が乗っかっており、掩体壕内が工場。
詳細は検索すれば過去に見学された方の内部レポもあがっておりますんで……。

白糸台の掩体壕

府中市白糸台の掩体壕。 以前は結構な荒地でしたが、近年再整備されて非常に良い保存状態となっております。

府中市の白糸台掩体壕。 周辺歴史マップ。

府中市の白糸台掩体壕。 案内看板。

道生神社

白糸台掩体壕をあとにして。
飛田給の道生神社へ。

「道生神社」(ミチオイ・ドウショウ)
祭神・宇気母智命(ウケモチノミコト)

創建年代は不詳。明治17年に飛田村の鎮守たる飛田神社と道生神社が合祀。

飛田神社(稲荷社)と道生神社(山王社)の合祀。
社殿は大正4年建立。 旧社地が昭和18年に調布飛行場用地となった為に現在地に遷座。現在地は旧品川通りに面している。

狛犬は昭和6年建立。
灯篭と手水盤は社殿と同じく大正4年建立。
つまり、社殿・灯篭・手水盤・狛犬は今は調布飛行場用地となってしまった旧社地からそのまま現在地に遷座とわかる。

調布市飛田給の道生神社。
飛田給とは飛田氏の給田地の意があるともされる。
その飛田村は陸軍調布飛行場となり鎮守様は御遷座。
遷座先でも往時の名残が境内に残っているのは嬉しく。

調布飛行場用地として、1社3寺が旧社地からの遷座を余儀無くされております。

1社は道生神社。
3寺は長専寺・覚證寺・ 光岳寺 。

画像は飛田給の道生神社までのロガーログ。
旧社地は飛行場用地となり、南に遷座。

分散秘匿地区。 掩体壕が足りない為に調布飛行場周辺で樹木が茂る場所が飛行機秘匿エリアとして活用。多磨霊園・浅間山・下石原八幡神社などが秘匿地区として使用。

下石原八幡神社

創建年代は不詳。 下石原地区の鎮守。当地の領主であった太田善右衛門(太田資忠(=太田道灌の弟とも甥とも?)を祖とする)の勧請とされる。
旧社格は村社。

戦時中は分散秘匿地区として陸軍調布飛行場の航空機を隠す為に境内林が活用された、と。
往時の面影を感じる事は難しいけれども、気にしながら境内林を眺めてみる

調布市郷土博物館

入口の脇にひっそりと立つ石標

陸軍境界石(陸軍標石)
説明はないけども、市内には「陸軍調布飛行場」がありましたので、その関係かと思われます。

浅間山

平成29年11月27日。
この日は府中市の浅間山公園に散策に赴いておりました。
今は長閑な自然公園であるけども、歴史を辿れば陸軍調布飛行場と府中燃料廠ゆかりの地ともいう。
とは言いつつも戦争に関する何かはあまり残っていない。

浅間山公園

東京の都立公園。 「堂山」「中山」「前山」と呼称される3つの頂から構成されている山。
標高79.6メートルの堂山山頂には浅間神社が鎮座。
周辺に広がる人見ヶ原の地は南北朝期の正平7年(1352)には足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が戦った古戦場(武蔵野合戦・人見ヶ原の合戦)でもある。

前山の山頂附近には「人見四郎の墓」跡がある。
人見氏は武蔵七党のひとつ猪俣党。周辺には「人見街道」と名も残っており近隣の豪族として名を馳せていたことが窺い知れる。人見四郎は平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として名を残す人物という。
墓跡の碑は平成2年府中市の建立。

前山から中山にかけての道 。

前山と中山を結ぶあたり、西面する高台は「関東の富士見百景」に制定された場所。
富士山と並んで見えるビル群は府中の町並み。
ここから富士山までは81キロの距離とのことで。

一度、山をおりて堂山の下へ。
この堂山の山頂には、その名の通りに「浅間神社」が鎮座。 麓から山頂まで一直線に参道が伸びています。
これは良いです。

浅間神社(人見浅間神社)
由緒等は不詳。

堂山の山頂

中山の麓にある祠。水神社。
堂山の浅間神社の御神体は中山の清泉から出現したものであるとも。

おみたらし
浅間神このところより出現すと伝う
人見浅間神社・水神社ともに人見稲荷神社(府中市若松町5-7-6)の管理。

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンク跡

陸軍燃料廠の秘匿燃料タンクがあったという浅間山公園。
今はなんとなく窪地が広がっている数カ所に、当時は秘匿燃料タンクがあったらしい。
面影はないけど、広がる空間から当時を夢想してみる。

下仙川高射砲陣地跡

京王線仙川駅

陸軍下仙川高射砲陣地跡
首都防衛高射砲陣地 下仙川隊


東京都調布市若葉町1丁目16−19付近
調布飛行場の南西にあった高射砲陣地。当時の高射砲陣地台座の極一部が何気なく残っており、今は姿を変え自治体の住宅案内地図の台座となっておりました。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」
http://mapps.gsi.go.jp/ 
1944年12月23日陸軍撮影(95C3-C6-101)画像より抜粋。

半円状に高射砲陣地が構築されているのがわかると思います。 この陣地の一番上の円が前ツイの台座跡となるようです。

高射砲台座跡。ほんの僅かだけ残った遺跡。

首都防衛高射砲陣地 下仙川隊

高射砲陣地台座跡の近くに。
一説には弾薬庫の跡とも。
私有地の奥にあるので間近で見ることは叶わず。

神雷桜と桜花~靖國神社の桜

靖國神社に献木された神雷桜から、往時を偲ぶきっかけを…

  • 靖國神社の神雷桜
  • 桜花公園の神雷桜
  • 桜花
  • 靖國櫻(靖国桜)

靖國神社

桜の季節になるとどうしても「桜花」のことに触れたくなります
桜賑わう靖國神社で、桜にまつわる先人たちの物語を。
以下に「神雷桜と桜花」にまつわるあれこれをまとめていきます

感謝と哀悼を…


桜花

この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

海軍神雷部隊「桜花」

母機である一式陸攻の爆弾倉に懸吊された状態でロケット特攻機「桜花」は目標近くまで運ばれ、放たれた桜花は操縦士もろとも目標に向かって突入する。

神雷部隊は特攻専門部隊であった…

神雷桜

かつて神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていた。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、そうして桜を奉納した。

奉納された桜は「神雷桜」と名を記されている。 (海軍神雷部隊戦友会)

神雷桜
海軍神雷部隊戦友会

今年もまた桜花の季節がやってくる。
靖國神社の桜は、戦友の想い、遺族の想いが込められし桜。 特別な桜。

 貴様と俺とは 同期の桜

 離れ離れに 散ろうとも

 花の都の 靖国神社

 春の梢に 咲いて会おう

境内の桜を見上げつつ、今年もまた往時を偲ぶよすがを。

「桜花」と共に戦いし神雷部隊。
その名を伝承する神雷桜。

靖國神社 神雷桜

見事な桜花… ありがとうございます


靖國神社みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭)

夏夜の神雷桜

第71回みたままつり(平成29年7月13日(木)前夜祭の朝)

ついつい神雷桜に目がいってしまう。葉桜の木陰で楽しむ境内。

平成29年5月

新緑の神雷桜

平成29年8月

夏の神雷桜


第七二一海軍航空隊
「神雷部隊」

https://ja.wikipedia.org/wiki/第七二一海軍航空隊

桜花

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)


神ノ池神雷桜・桜花公園

茨城県鹿嶋市光。 2016年撮影。
海軍神之池航空基地の跡地。
神雷部隊「桜花」練成の地。
この地にも戦友会の献木がある。 「神ノ池神雷桜」
いつの日か、この地の桜花が咲くときに訪れてみたい…

献木
神ノ池神雷桜
平成8年3月(1996)
寄贈 海軍神雷部隊戦友会

慰霊と感謝を。 若き海鷲たちに。

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

721航空隊「神雷部隊」として特攻機「櫻花(桜花)」訓練基地が展開。 この神ノ池で訓練をした若者たちが鹿屋に出撃し、そして鹿屋から特攻へと…

神ノ池海軍航空基地を物語る掩体壕。

その上部は自然へと帰りつつ。

掩体壕には復元された櫻花11型が展示してあった。

一式陸攻を母機とし、1200キロの爆弾に推進ロケットを装備した有人ロケット爆弾。敵艦上空で母機より切り離されて高速滑空し特攻…

神ノ池海軍航空基地

昭和19年。筑波海軍航空隊では戦闘機パイロット養成施設が手狭になった為に、神ノ池飛行場に戦闘機練成隊を新設し開隊。 のちに秘匿性の高さから桜花訓練基地となり、当地で訓練をつんだ若者たちが鹿屋から特攻へと飛び立つ事となる…

※ 神ノ池は「ごうのいけ」と読みます。常陸国風土記にも記載される歴史ある池。1969年に埋め立てる前は現在の7倍はあった、という。

神ノ池海軍航空基地は、そのほとんどが工場地域。

現在の航空写真で御覧の有様。 この掩体壕が、今日まで歴史を物語る遺産として残ったことにも感謝。

公園の由来
太平洋戦争末期、この地に海軍航空隊神之池基地が開設され、特攻兵器”櫻花”の訓練が行われました。
鹿島製鉄所では、地元及び櫻花関係者の御意向に沿い、構内に残る神之池基地の掩体壕の周辺を整備し、ゆかりの櫻花碑をここに移し、土地の歴史を記念する公園として開放することとしました。壕内には往時がしのべるよう櫻花の復元機を置きました。
この公園が、先の大戦の記憶が風化する中、平和への思いを新たにするよすがとなれば幸いです。
平成5年12月 住友金属工業株式会社鹿島製鉄所 所長 長谷 登

櫻花公園(桜花公園)

神雷竜巻
櫻花隊員

錬成之地

櫻花

山岡荘八

のちに時代小説作家として大家となる山岡荘八氏は当時、海軍報道班員として神雷部隊櫻花隊員と生活を共にしていた。


櫻花
山岡荘八碑裏

太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日、祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で、特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見た 。

やがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り、鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。

云わば神之池は、特別攻撃隊発祥の地として、わが日本国民として忘れてはならない、祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。

撰文 山岡荘八  昭和五十三年三月吉日 

建立者 元櫻花隊員小城久作 妻泰子

櫻花の碑。

前面には山岡荘八氏による建碑由来も記載。碑は元桜花隊員の小城久作氏が昭和53年に私費を投じて建立。

側面には小城氏の献歌もある。

 錬成の
 名残とどめぬ鹿島灘
 いまだただよう
 戦友のおもかげ

櫻花
山岡荘八


散った桜を静かに見送る。

手向け花を。散りし桜花を。

自然と手を合わせ頭を下げる。

ありがとうございました。

また来よう。桜の季節に。 そう感じさせる空間であった。


筑波海軍航空隊記念館

霞ヶ浦海軍航空隊(教育部隊・予科練)

鹿島空(水上機部隊独立)
谷田部空(霞空補助)
土浦空(霞空から予科練を引受)

筑波海軍航空隊(戦闘機)

★神ノ池空★(桜花部隊)
谷田部空(戦闘機)

桜花・筑波海軍航空基地 (茨城県笠間市 筑波海軍航空隊記念館にて。)


神栖中央公園

神栖中央公園。 ここに櫻花(桜花)が展示されてます。 ガラスショーケースの中に原寸大復元の桜花が。 この桜花は映画「サクラ花」の撮影で使われたものであり、2015年に神栖市に寄贈された。

櫻花(桜花)

映画「サクラ花 桜花 最期の特攻」復元機体。


桜花・靖國神社遊就館

靖國神社遊就館の大展示場の片隅に。

復元された「桜花一一型」と「海軍神雷部隊桜花攻撃ジオラマ」が展示してある。

圧巻で胸が詰まる空間。 しばし見上げ見つめ、静かに哀悼と感謝を捧げる空間。

その足跡を。

「靖國神社遊就館」
平成29年3月現在、大ホール展示のみ撮影可

http://yusyukan.yasukuni.jp


【靖國櫻】(靖国桜)

今回は「神雷桜」を例としましたが、境内に無数にある靖國桜にはそれぞれ奉納された人々の物語があります。

これからの桜の季節。

せっかくですので花の都「靖國神社」で桜を愛でながら、ちょっとだけでも感慨にふけっていただければ幸いです…

散る桜 残る桜も 散る桜

想い積もりし靖國櫻

花の都の靖國神社、春の梢に…

献木奉納桜「南会桜」
第六三四海軍航空隊呉瑞雲隊有志一同

第六三四海軍航空隊は航空戦艦で運用する水上機(瑞雲)艦上機部隊(彗星)部隊として整備。しかし連携する機会なく水上機基地航空隊として終戦まで運用。 第九三四海軍航空隊も水上機部隊。消耗により昭和19年10月解隊 。


靖國神社招魂斎庭跡。

その片隅に咲く緋桜。靖國桜。

空挺櫻

「花の都の靖國神社 庭の梢で咲いて会おう」

平成元年4月8日 陸軍落下傘部隊戦友一同

空挺櫻 (靖國神社招魂斎庭跡)
 散る桜 残る桜も 散る桜

陸軍落下傘部隊の歌 「空の神兵」
 藍より蒼き 大空に大空に
 たちまち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く

見上げていたらグッとくるものが… ありがとうございます…

神奈川県中央部の海軍史跡散策(寒川・大和・綾瀬)

 (平成29年6月・10月撮影)

※2017/6訪問
・寒川→相模海軍工廠跡と引込線(寒川支線)
・大和→厚木空ゆかりの神社

※2017/10訪問
・綾瀬→二相空ゆかりの神社

神奈川県中央部の海軍史跡散策

平成29年6月。
海老名に用事があったので思い出して近隣の戦争関連史跡(戦跡)散策を敢行してみた。 南の寒川町(相模海軍工廠跡) 東の大和市(厚木空神社関連) それぞれに海軍関連の史跡が僅かながらに残っておりました。

寒川町・相模海軍工廠跡と寒川支線

相模線寒川駅。 寒川支線と思われるスペースが線路左側に広がっている。 昭和59年(1984)に寒川支線は廃線。 開業は大正12年(1923年)。砂利貨物路線として開業し、近隣の発展とともに旅客輸送も始まり、工場地区への足とも成っていた路線。

地図を見てみると、わかりやすい。 JR相模線寒川駅より分岐し南西に伸びる路線(赤い線) これが「寒川支線」 廃線後の現在は遊歩道として整備されております 終点の「西寒川駅跡」の先の工場エリアが 戦時中は「相模海軍工廠」でした(赤枠あたり)

※余談

JR相模線寒川駅では全力で「寒川神社の最寄り駅は宮山駅です」と訴えてきます。 が、実は…寒川支線の分岐あたりから「寒川神社の表参道・一之鳥居」が始まっておりますので、「宮山駅」からアクセスするよりも「寒川駅」からアクセスするほうが本来の意味では正しいんですよねえ…

寒川支線の跡を辿りながら「相模海軍工廠跡碑」を目指して歩いてみましょう。

「大山踏切」 そういえば相模の大山(4枚目写真)が見えてましたね。 ここもきっと大山街道なのかな、と。 空間の広さが支線跡を感じさせる

寒川支線跡

相模線と寒川支線の分岐点のあたり。 この知らないと無駄でしか無い空間の広がりが線路跡を感じるスペースですね。

ゲート広場。 三方向の分岐点。 寒川駅方面から歩いてきて、「一之宮公園」が寒川支線へ伸びる遊歩道。 その反対側は前述した寒川神社の表参道。 寒川神社を示す方角は深き社叢が感じられますね。 ここは神社に行きたいところを我慢して、真逆の廃線跡を辿ってみます。

「寒川支線跡」 廃線跡の遊歩道。 いきなり脇の方に、きっとなにかの鉄道系の機械を置いていたであろう土台があったりしていきなりテンション上がってきました。 この遊歩道はきっと楽しいに違いない。 さて、線路跡の遊歩道を歩いてみましょう。

しばし歩くと「一之宮公園」に到着。 なにやら見えてきました。 車輪ですね。 なにやら廃線跡散歩が楽しくなってきました。


「一之宮公園」 一之宮公園内の廃線跡には往時のレールがひかれており、いやがうえにも気分が盛り上がってくる。 ゲート広場と一之宮公園と八角広場とを廃線跡の遊歩道が結んでおります。

「一之宮公園」 公園の両端に車輪が置いてありました。 さきほどのものとはまた別なもの。

「一之宮公園」から遊歩道を終点に向けて歩いてみます。 ここは踏切の跡・・・かな。

線路跡の遊歩道の脇に。 「工」の境界石。 これは「相模海軍工廠」時代の境界石?かもしれませんね。

「工」が刻まれたものは前述のひとつしか見受けられませんでしたが、 境界石というか標石はゴロゴロしてました。

一之宮緑道

旧国鉄相模支線跡地を利用して昭和60年度より整備を行ったものです。 延長は約900mであり、広場及び3つのタイプの園路から構成。

旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡

遊歩道の終点「八角広場」 そこに往時を偲ぶ石碑がある。 この地は 国鉄相模線寒川支線(海軍工廠引込線)でもあり、 海軍工廠が展開された場所でもあった。

石碑裏面
ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000平方メートル)の跡地である。
往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。 第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。 建立 相廠会 及び 協力企業 昭和63年春

この地にあった旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠が展開されていた。

ちょうど西寒川駅跡の前を神奈中バスが走っていきました。

この八角広場にも往時のレールが残っておりました。

たぶんこれが「八角広場」の由来。 これだけ(往時を偲ぶものでもなく)唐突過ぎ。

この八角公園から先は工場エリア。海軍工廠時代名残のレンガ造の建物は近年撤去されたと風の噂に聞き格別な何かは残っておらず。 またかつてはここ「西寒川駅」より先に「四之宮駅」というのもあったが、それも特に何も残っておらず、で。 ※相模四之宮は相模川対岸の前鳥神社

帰りも同じ道を歩く。廃線跡の遊歩道を。 丹念に見ると・・・これも鉄路の名残ですね。 やはり楽しい。

再び戻ってきた「一之宮公園」にて廃線跡のレールを愛でる。 見つけました、古レールの刻印。 1925  1926 とありました。西暦でしょうか? ※ 開業は1923年(大正12年) 「S」マークも気になります。

更には「2606」の記載。 上記の「1925・1926」とは表記が違いますね。

※ 寒川支線(相模鉄道)開業は1923年(大正12年) 相模海軍工廠は1943年開業(昭和18年) 皇紀2606年は1946年 、昭和21年

30kgレール、Aはレールの種類、八幡製鉄所のマーク、皇紀2606年4月製造、OHは平炉製鋼。

古レールの刻印探しは楽しいけど、人々の憩いの広場となっている公園内でレールをマジマジと覗き込んでいる姿は滑稽でもあり・・・

「寒川支線跡と相模海軍工廠跡」 9時に寒川駅から歩きだして廃線跡の遊歩道を往復。 所要時間は約90分。歩行距離は約3.5キロでした。 さて、次は寒川駅から相模線を北上。 海老名駅を経由し相模鉄道にて大和駅を目指します。

大和市・厚木空ゆかりの神社

大和市の南西には「厚木航空基地」が展開。綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、現在はアメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。 戦前は「厚木海軍航空隊」が展開。海軍の首都防空の要であった「第三〇二海軍航空隊」が配備。

もちろん「厚木航空基地」そのものを探索する事は今回は出来ませんので、ゆかりの神社を2社詣でることとします。 大和駅から相模鉄道に沿って東に歩くこと15分、深見神社に到着。神社フリーク的には相模国延喜式内社13座の1座として有名ですね。

深見神社

相模国延喜式内社13座の1社。 御祭神は闇龗神・武甕槌神・建御名方神 雄略天皇22年(約1500年前)の創建という。 明治6年郷社列格するも明治9年隣地出火類焼し公称社格不詳となる。 昭和17年に再建し改めて郷社列格。

相模国延喜式内社13座の1社。 境内には寛政3年(1791年)に建立された神社碑がある。 この神社碑は相模線に面した北面鳥居の脇、境内の北東角にあった。 (最初わからなくて神職さんに場所を尋ねてしまいました) ちなみに御社殿は南面しているので参道の導線はチグハグ…

「深見神社」

ご神木なんじゃもんじゃの木(ハルニレ) 樹齢約500年。

深見神社境内摂社
靖國社 (元・厚木空神社)

境内に鎮座する靖國社はもと「厚木空神社」。 厚木海軍航空隊の守護神として厚木航空隊の戦死者を祀っていたが終戦後に廃祀(取除き)が命じられ深見神社に遷座。 深見部落の戦死者を合祀し昭和26年に鎮座祭を執り行った。

「雄飛」碑 碑面裏(引用)
第302海軍航空隊は、昭和19年4月勇将小園安名司令のもと、厚木基地に雷電・零戦・彗星・月光・銀河の精鋭機を擁し、本土防衛部隊として編成された。
同年11月B-29来襲に始まる防衛戦闘において302空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃ってB-29・P-51・F6F等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時、徹底抗戦を叫び、世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている
終戦に至るまでの戦闘において数多くの隊員を失ったが戦没者は海軍葬をもって基地内の厚木空神社の祀られた 終戦後同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され地元出身戦没者の英霊を合祀して靖國社となり今日に及んでいる 戦没者の霊を慰め302空の名を永く留めるためこの地に之を建てる

首都防空の要として機能していた厚木海軍航空隊(第302海軍航空隊)。 歴史的には終戦の瞬間に強烈なエピソードを残した小園安名司令のインパクトが大きい。世にいう厚木航空隊事件。 往時を偲び深謝する。

4月第一日曜日には「厚木海軍航空隊の慰霊祭」が深見神社靖國社で斎行されているとのことです。(戦友会は3年前に高齢化で解散済)

「深見神社」

御由緒書きと御朱印を頂戴致しました。 達筆でした。 ありがとうございます。

大和天満宮

「深見神社」をあとにして次に向かったのは「大和天満宮」。 御社殿が2階にあるのが見えますね。 2016年に敷地再整備で新築された神社。 実はこちらも創建由来が厚木海軍航空隊と関係があるのです。

「大和市文化創造拠点シリウス」 2Fデッキ広場に「大和天満宮」が鎮座している。

御社殿は2016年造営。 創建としては厚木海軍航空隊に遡る。 昭和19年に厚木基地内に祀られた「厚木空神社」は、犠牲者をまつる社殿と天照大神をまつる社殿の二棟があったという。

「厚木空神社」のうち犠牲者の御神霊を祀る御社殿は深見神社に遷座し前述の靖國社へ。天照大神の御神霊を祀る御社殿は現在地に住民が運び出したという。 厚木海軍航空基地にGHQ先遣隊が降り立ったのが8月28日。社殿運び出しはGHQが厚木に到着前の事だったという。

戦後、上記のような経緯もあり厚木空神社の社殿を運び出して流用。 その際に住民協議の結果、菅原道真公を祭神として勧請し大和天満宮(当初は南大和天満宮)として創建。 当時の海軍厚木空神社流用社殿は昭和27年に新築され昭和38年改築、平成28年新築となっている。

「深見神社」 「大和天満宮」

御朱印を戴きました。 厚木海軍航空隊の「厚木空神社」に関係する2社の神社を並びで。 「深見神社靖國社」は厚木空慰霊の祭祀を引き続き行い、 「大和天満宮」は新たな住民加護の祭祀を行う。

大和天満宮神職さん(座間神社からの出向とのことでした)に話をお伺いしました。 御社殿を新しくしたのを機に、ご由緒書も新しくしている最中だとかで、私が参拝した6月ではまだ出来上がっておりませんでした。 出来上がったら郵送しますよと行ってくれましたが、また来たときにでも、と。

本ツイは以上で〆

寒川で廃線跡と海軍工廠跡をみて、 大和で海軍航空隊神社の名残に接した、 そんな神奈川中央部での海軍関連史跡散策でした。 少しずつにはなりますが往時を偲ぶる地を、 こうして引き続き参っていきたいと思っております。

綾瀬市・二相空ゆかりの神社

二相空 → 第二相模野海軍航空隊

深谷神社

先日、海老名に赴いた際に時間を作って綾瀬まで赴いておりました。 綾瀬は駅がないんですよね。海老名駅から綾瀬市役所までバスで訪れ参拝。 が、深谷神社が今回のメインではなく。 今回のテーマは「深谷神社に隣接する祠」となります。

綾瀬市戦没者慰霊堂

いつのころから(綾瀬市が管理する)「慰霊堂」と呼ばれるようになったかは不詳だが、平成8年に発行された資料には「綾瀬神社」と明記されている祠が深谷神社のとなりに鎮座している。この祠、実は厚木海軍航空隊ともゆかりがあり・・・。

平成14年に覆殿新築。覆殿の中に神式宮殿有り。 この慰霊堂の元となった祠は昭和35年に現在地に遷座。戦前の「海軍航空隊神社」であった。すなわち「第二相模野海軍航空隊内神社」として建立という。 (神奈川県忠魂碑等建立調査集・参考)

第二相模野海軍航空隊

昭和17年に厚木飛行場の西側に「相模野海軍航空隊」(第一相模野)が開隊。整備兵養成航空隊。昭和18年に「第二相模野海軍航空隊」が厚木飛行場「第一相模野」南に設置。追浜空からの整備予備学生の受入を行っている。前述の祠はこの整備兵養成航空隊の崇敬神社という。

厚木飛行場主力航空部隊としては本土防空の「厚木海軍航空隊」(第302海軍航空隊)が展開されており、ゆかりの神社が東の大和市「深見神社」境内摂社「靖國社」(厚木空神社」。 そして厚木飛行場の西側である綾瀬市に航空整備兵養成の「第二相模野航空隊」(二相空)ゆかりの「綾瀬神社」。

綾瀬市戦没者慰霊堂
かつての綾瀬神社
戦前の第二相模野航空隊の崇敬神社

現在は深谷神社(綾瀬市)の隣に鎮座している。 慰霊堂として整備されており、平成14年に「覆殿」平成15年に「山門」が新造されている。 空間内には幾つかの慰霊碑もあつまっていたので見てみましょう…

慰霊堂の前に林立するひときわ大きな碑が「忠霊碑」(靖國神社宮司筑波藤麿書)昭和32年建立。綾瀬町出身の戦没者240余名を祀る。

殉国兵士招魂之碑

向かって右側に。 明治32年4月建立。 (日清戦争後の)明治28年に陸軍病院で病死した兵士を祀る。

日露戦役招魂碑(向かって左)

陸軍大将男爵乃木希典書・明治40年3月建立 綾瀬町出身の日露戦争での戦病歿者を祀る。

いまでこそ「綾瀬市戦没者慰霊堂」という無宗教方式っぽい慰霊施設であるが、かつてこの祠は「綾瀬神社」と呼称されていたという。 さらには、この地に遷座する前は厚木飛行場の傍らで海軍航空隊の崇敬社(第二相模野航空隊の崇敬神社)であったという遍歴を偲びつつ、雨の中、静かに合掌を…

追記捕捉

なお今回、綾瀬市戦没者慰霊堂の祠が旧海軍ゆかりの神社であったというのを知ったのは靖國神社が発行した「神奈川県忠魂碑等建立調査集」の記録によります。 神奈川県は護國神社がない県(竣工前に終戦・三ツ沢公園忠霊塔)のため靖國神社が調査を担当したとのことで…