「艦船」カテゴリーアーカイブ

戦艦武蔵の碑

平成28年3月撮影

武蔵一宮・氷川神社(大宮氷川神社)

旧帝国海軍最後の戦艦が大和型戦艦二番艦「武蔵」

武蔵に勧請された艦内神社は武蔵一宮氷川神社。沈没より71年後の平成27年(2015)10月24日。昨年、遺族悲願の顕彰碑が境内に建立。

戦艦武蔵

 戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
 パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
 昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
 昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。
 ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。

平成27年10月24日建立
 戦艦武蔵顕彰会
協賛団体
 軍艦武蔵会
 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)

設立趣旨
 連合艦隊旗艦であり世界最大の戦艦武蔵がフィリピン沖で戦没してから平成26年10月24日で満70年となりました。「武蔵」の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました「大宮」の地名の由来ともなった「大いなる宮居」として尊崇されている氷川神社が鎮守するこの大宮後において、没後70年を節目として多くの心ある有志が集まり、戦艦武蔵顕彰会が設立されました。
 当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
 平成27年10月24日
  戦艦武蔵顕彰会会長 新藤享弘
  権宮司 東角井真臣 揮毫

吉村昭さんの名著「戦艦武蔵」を片手に。
筑波空記念館の武蔵コーナーを思い出しつつ。

宇垣纏は「戦藻録」にて、
武蔵沈没の報を受け、以下のように記している。
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり」

シブヤン海にて、71年ぶりに姿を伝えた戦艦武蔵に敬意を表し、犠牲となられた戦艦武蔵・乗組員・関係者に感謝と哀悼の誠を捧げる。

軍艦多摩慰霊碑

平成26年10月25日撮影

平成30年12月撮影

2014年10月 大國魂神社境内に建立された軍艦多摩慰霊碑。 碑が建立された慰霊祭の翌日に見に行ってきました。

境内参道脇におおきな石碑がある。 忠魂永存。 昭和33年4月12日。 徳富蘇峰撰。門人静峯塩崎彦書。 その傍に昨日10月25日。新しい碑が建立されました。

大日本帝国海軍 
軍艦多摩戦歿者慰霊碑

玉の緒の
 あらんかぎりは
  大神の
御恵うけて
 國や守らん
海軍少佐松川彦太郎
大正十三年一月二十七日献歌

大国魂神社境内に 平成二十六年十月二十五日建立

碑裏文

軍艦多摩
 球磨型二等巡洋艦 基準排水量五一〇〇頓 全長一六二・一五米 全幅一四・一七米 出力九〇〇〇〇馬力 速力三六節
 艦内には守護神として大國魂神社が祀られていた。  
 昭和十九年十月十八日、捷一号作戦が発動され、多摩は第一機動部隊の一艦として出撃した。 二十五日、フィリピンエンガノ岬沖に於いて敵機動部隊と交戦し機関室に被雷、呉へ単艦回航中、米潜水艦ジャラオの雷撃により沈没した。 山本岩多艦長以下総員戦死。 北緯二一度二三分、東経一二七度一九分、時間午後十一時十分。
 本年、軍艦多摩沈没七十年にあたり、軍艦多摩と戦死された英霊を鎮め、世界の恒久平和を祈念しこの碑を建立する。

艦歴
大正 七年八月 三菱長崎造船所に於いて起工
大正 十年一月 竣工 呉鎮守府籍に編入
大正十一年五月 軍艦多摩鎮祭の為慰霊祭を奉仕
大正十三年一月 松川彦太郎少佐 御神璽拝受の為来社参拝
昭和 二年十月 横須賀鎮守府籍に移籍
昭和十六年七月 聯合艦隊に編入
昭和十七年五月 アリューシャン攻略作戦支援
昭和十七年十月 第二次アリューシャン攻略作戦従事
昭和十八年三月 アッツ島輸送船団護衛従事
昭和十八年三月 アッツ島沖海戦参加
昭和十八年七月 キスカ島撤収護衛従事
昭和十九年六月 硫黄島へ陸軍部隊輸送
昭和十九年十月二十五日  
 捷一号作戦フィリピンエンガノ岬沖海戦参加
 米潜水艦ジャラオによる被雷三本 海没
昭和十九年十二月二十日 除籍

平成二十六年十月二十五日  
 大國魂神社 宮司 猿渡昌盛  
 軍艦多摩顕彰会  
 大國魂神社氏子青年崇敬会  
 
 題字 吉野大巨  
 詠歌書 荒井紫峰  
 石工 室井石材

在りし日の姿を偲ぶ。

軽巡洋艦多摩。

70年目にして。

沈没の日(10月25日)に合わせて建立された慰霊碑。

艦内神社として勧請されていた大国魂神社の神霊でもって慰霊をする。

駆逐艦 初霜の錨

平成28年5月撮影

旧帝国海軍駆逐艦「初霜」の錨
墨田区:山田記念病院

初霜の錨

一等駆逐艦初春型の4番艦 「初霜」
その錨が記念として保存されていた。
今となっては数少ないあり日の帝国海軍のよすがを偲びに。

墨田区の山田記念病院。

入口脇に初霜の錨が保存されています。
病院の初代院長が初霜に乗艦したことがあったというご縁でもって。

場所 https://goo.gl/maps/LmStTMAmjiw …

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。


 この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、 最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
 終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
 私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐 山田正明


初霜

横須賀浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31日に起工。翌34年9月27日に竣工。
各地で勇戦し、坊ノ岬沖海戦…所謂あの大和特攻作戦からも生還するも終戦直前の昭和20年7月30日に舞鶴にて機雷触雷し沈没。
このとき第17駆逐隊として「初霜」最期の僚艦が「雪風」だった。

大和特攻作戦からも生還した幸運艦であったが、終戦まであと半月のところで擱座。
擱座・着底した初霜は戦後に解体。
錨が初霜にゆかりのあった山田病院院長の手によってこうして保存されている。

「新潟空襲で孤軍奮闘した船」軍用船宇品丸慰霊塔

平成30年12月撮影・新潟市

軍用船宇品丸慰霊塔(新潟市中央区)

初の日本陸軍保有軍用輸送船「宇品丸」
陸軍運輸部・船舶部隊の拠点が置かれた宇品の名を冠した船。
この船は、新潟空襲に際して、米軍機をひきつけ弾薬を浪費させたことにより、新潟を護った軍用船であった。

昭和20年8月10日「新潟空襲」
新潟港に襲来する米軍機に対し唯一応戦した宇品丸は米軍機1機を撃墜。
宇品丸の船員3人、兵員16人が戦死している。

軍用船宇品丸慰霊塔

宇品丸慰霊塔建立の趣意書
大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日米軍の戦斗機(グラマン)数機により新潟港湾附近の空襲を受けた際、偶々同港山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の兵士は敢然としてこれを迎撃奮戦した為に米軍機も攻撃目標を宇品丸に集中して弾丸のほとんど全部を撃ち尽して逃走した。
その為港湾施設及び市街は最小限度の被害で済んだが宇品丸の乗員はほとんど玉砕した。 昭和29年地元山田町外有志相図り新潟市の救神となった宇品丸勇士の英霊を慰めようと慰霊塔建立の議あり。
茲に当時の市長村田三郎氏の筆を得てささやか乍ら建立を実現し以来毎年町内会にて慰霊祭を執り行ない英霊に感謝の意を表している次第である。

嗚呼悲壮
 宇品の勇士花と散り
その名も数も無きあとの  
 霊なぐさむと伏し拝む

歌碑  
 ああ悲壮 
世界平和を   
  夢に抱き  
 玉砕しけり 
宇品の勇士

歌碑裏

大東亜戦争の終戦間近い昭和20年8月10日新潟港湾付近の空襲を受けた際、山田町側に停泊中の軍用船宇品丸の勇士は国土防衛に敢然として迎撃奮戦し乗員はほとんど玉砕した
その慰霊50年忌に当たり、永遠の世界平和とミタマの安らかなるご冥福を祈念しここに之れを建立する
 平成6年8月吉日 (以下個人名は略)


宇品丸 (陸軍輸送船)

日本陸軍運輸部保有の輸送船。
米国にて1919年(大正8年)竣工、総トン数は2214トンの小型貨物船。

1929年、陸軍省は当時「宗安丸」として民間就航していた当船を購入し「宇品丸」と命名。 陸軍省運輸部の拠点にして陸軍船舶部門の中心が宇品であった。
宇品丸は陸軍所有の初の輸送船として、そして陸軍運輸部の顔として宇品を拠点に訓練に従事。
海軍とも協力し、模擬上陸船訓練なども実施され、また軍需輸送にも使用された。

1941年の大東亜戦争開戦後は主として瀬戸内海を拠点に輸送や訓練に活躍。

昭和20年、宇品丸は日本海での食糧輸送に就く。7月6日、新潟沖で米軍敷設の機雷に接触し浸水、沈没防止の為に信濃川河口で擱座。
8月10日、新潟市はF6F戦闘機16機の空襲を受ける。
宇品丸は高射砲・機銃あわせて6門で応戦し米軍機1機を撃墜するも被弾炎上。150人の乗員のうち船員3人兵員16人が戦死。

昭和21年5月、戦後も放置されていた宇品丸のサルベージが開始。浮揚に成功し舞鶴港に曳航され修理。

昭和25年のポツダム命令によって宇品丸は朝鮮郵船に払い下げられ、1958年には室町海運に譲渡、1966年までは持ち船として船名が確認できていた。


宇品丸慰霊塔 「宇品丸」が座礁していた場所に近い山田町町内会をはじめとする有志らが、8月10日の交戦により死亡した兵士・船員の霊を慰めるため、昭和29(1954)年、に「軍用船宇品丸慰霊塔」を建立。
慰霊祭は8月10日。
平成8(1996)年からは地元有志が興源寺で慰霊祭を続けている。

近くの「「入船みなとタワー」からみた信濃川河口と日本海。 宇品丸は信濃川河口に擱座していた。
ちょうど対岸には「あざれあ」(新日本海フェリー)も停泊。

先日、新潟にを訪れる機会がありましたので、ちょっとだけ足を伸ばして「宇品丸慰霊塔」に参拝した記録でした。


2023年10月追記

周辺が工事中でした。工事は2024年3月まで。

平和祈念碑

宇品丸の碑の近く、水戸教公園に、新潟市の平和祈念碑がある。

https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/danjo/jinken/heiwakatsudo/heiwa_kinenhi.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/nigata_nigata_001/index.html

新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」などの多数の船舶や工場民家などに大きな被害を受け勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。
さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くがひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ戦争の犠牲となり尊い命を亡くされました。
また当時、市内の捕虜収容所に収容されあるいは強制連行されて来ていた外国の人々の多くも異国である新潟の地で亡くなっております。
あれから五十年余りが経過し、新潟市は今市民のたゆみない熱意と粘り強さによって中核市として目覚ましい発展を続けております。
しかし、私たちは、今日の発展が多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。
市域で最も激しい戦禍にあった新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに世界の恒久平和を願うものであります。
 平成十年八月十日
  新潟市長 長谷川 義明

場所

https://maps.app.goo.gl/JCmY6BmzcqbTVznD6


関連記事

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.html

https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_10.html

https://www.sankei.com/article/20150811-HSYDYZKHOBNG3AODPVQBKR3BW4/

陸軍護衛空母「山汐丸の錨」(横浜)

2018年11月及び2023年12月撮影・横浜市


山汐丸の錨

「山汐丸(陸軍護衛空母)」
横浜みなとみらい地区の片隅に赤さびた大きな錨が展示してある。

昭和19年に三菱重工業横浜船渠で2TL型タンカー5番船として起工された山汐丸は、昭和20年1月27日に竣工。
形式上は民間船であったが陸軍指揮下で船団護衛艦兼用輸送船として運用予定であった。

しかし既に南方航路も閉ざされており就役を待たずに石炭炊き貨物船(既にタンカー輸送船として運用出来ない為)に改造が決まる。

三菱重工横浜船渠において係留待機中、昭和20年2月の空襲で大破着底し終戦。
戦後の解体中に沈没。
そのまま擱座状態で埋められ「山汐岸壁」へと。

由来の看板がある。

造船所と横浜を記憶する「イカリ」
  このイカリは「みなとみらいセンタービル」工事中に発掘されたものでビル建設の一環として事業主様により設置・展示されました。
この敷地には、一八九一(明治二十四)年に創業した横浜船渠株式会社がありました。その後、三菱重工業株式会社横浜造船所となり、約一千隻の船を建造しましたが、一九八三(昭和五十八)年に移転し、この地は「みなとみらい」となりました。
 イカリの主は陸軍航空母艦「山汐丸」(一五、八六四総トン)です。「山汐丸」は一九四五(昭和二十)年に建造され、油の輸送と船団護衛のため、飛行機を搭載していました。
二〇一一(平成二十三)年 三月
 三菱重工業株式会社
 原動機事業本部横浜製作所
  第二十八代所長 加藤敏彦

イカリ

明治24年以来、山汐丸をはじめ約1000隻の船を建造してきた三菱重工業株式会社横浜造船所は、昭和58年に移転し再開発「みなとみらい」と生まれ変わる。
平成23年(2008)に、みなとみらいセンタービルの建設工事の際、「山汐丸の錨」が発見され同ビルの脇の広場に展示。

昭和12年(1937)に帝国海軍が採用したホールズ型イカリだという。

場所

https://maps.app.goo.gl/4bVnCrMxFyxxAGLK9


Wikipedia「山汐丸」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%b1%b1%e6%b1%90%e4%b8%b8 …

山汐丸

特2TL型戦時標準船(2TL型油槽船5番船)
船団護衛空母兼用タンカー輸送船
三菱重工業横浜船渠
竣工1945年1月27日
排水量15,864t
全長148.0m
全幅20.4m
最大速力15kt
昭和20年(1945)2月17日、飛行甲板大破し浸水着底

山汐丸は大洋に漕ぎ出すこともなく竣工から沈没までを三菱重工業横浜船渠(三菱重工業横浜造船所)の地で過ごした。

埋められた錨は、みなとみらい再開発でよみがえり、今は三菱重工業横浜造船所の跡地にそびえ立つ「三菱重工横浜ビル」の方向を見つつ静かに鎮座している…


関連

「三菱重工横浜ビル」

「横浜船渠」と「みなとみらい」

https://senseki-kikou.net/?p=6468