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豊川海軍工廠跡地散策

平成30年6月

平成30年6月のある日。
この日の午前中は「豊橋」を巡っておりました。

豊橋の戦跡散策

位置関係

国土地理院の航空写真から。
1946年09月21日に米軍が撮影した写真を一部抜粋。
写真データ:M263-A-3-13

豊川へ

午後は豊橋から豊川に移動。
13時、豊川駅到着。

駅前にレンタサイクルがあればよかったのですが、駅前にはなく。
豊川市が運用するレンタサイクルが「桜ヶ丘ミュージアム」で無料貸出だったので、まずはそこまで移動。
駅からちょっと遠い。20分くらい歩きました。

専用線路

現在は「日本車輌製造 豊川製作所」で製造される車両の輸送用線路であるが、この側線のルーツは「豊川海軍工廠」へ通じる線路だった。
「豊川海軍工廠」時代は通勤者を運んだ線路。

線路を横断して、「豊川海軍工廠平和公園」に向かいます。

豊川海軍工廠

日本海軍の工廠として、機銃や弾丸の製造を行っていた。当時は東洋随一の規模と称された。

昭和14年(1939)12月に5番目の海軍工廠として「豊川海軍工廠」が開廠する。
拡張を続け昭和20年2月の段階では従業員は職員400名、工員10000名、徴用工員40000名、動員学徒6000名の計56400名規模であったという。

豊川空襲

昭和20年8月7日、B-29爆撃機124機による大規模爆撃を受け工廠は壊滅。
犠牲者は工員や勤労学生を含め2600名を超えると言われている。

豊川海軍工廠平和公園

平成30年6月9日に新しく整備されたばかりの平和公園。

13時30分。到着。

豊川市サイト

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/heiwakouen.html

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/heiwakouensisetu.html

豊川海軍工廠敷地外周の土塁と排水路

工廠敷地外周の土塁と排水路
豊川海軍工廠は敷地外周に土塁が巡り、その外側には排水路が設けられ数位と画されており、工廠内外への出入りは正門・西門・北門・北東門など限られておりました。昭和20(1945)年8月7日の空襲では、工廠外へ避難しようと人が集まった正門・西門附近に500ポンド爆弾が着弾し多くの犠牲者を出すなど、敷地が土塁と排水路により画され門が限られていたことは、空襲被害を大きくした一つの要員でもありました。排水路は戦後の改修整備で姿を変えつつも、今もなお豊川海軍工廠の存在を大地に刻んでいます。

防空壕跡

防空壕跡
豊川海軍工廠の敷地内には、空襲に備えた防空壕が各所に設けられていました。幹部職員が使用した鉄筋コンクリート地下室構造の防空壕もあったようですが、多くは素掘りで天井を木材で組み、その上に土を盛った簡単なもので、至近弾に対してほとんど無力なものでした。この説明板の左右にあるくぼんだところは防空壕の跡です。発掘調査の結果、全長4.5m、幅1m、深さ1.2mの長方形の本体に、二箇所の出入り口が屈折してとりつくコの字型の平面形であることが確認され(右側の防空壕)、掩蓋(天井の覆い)が無かった可能性もあります。公園内には、同じ構造の防空壕跡が3基残っています。

豊川海軍工廠時代の街路灯

豊川海軍工廠の構内通路の両側には、互い違いに街路灯が設置されていました。高さは4.45mで、鉄筋コンクリート製の柱身の上に鉄製の傘がのり、電球のソケットが傘の中心に埋め込まれています(園内に保存展示している街路灯は傘が失われています)。工廠内は、電気が地下配線となっており、電線は地下から中空となっている街路灯の柱身を通していました。公園整備前には園内に10基の街路灯が残存していましたが、そのうち8基を元位置及びその近くに保存・展示しています。

豊川海軍工廠当時の水槽跡

500ポンド爆弾の着弾跡

ここの旧第一火薬庫基底部をめぐるコンクリート側溝が壊れているのは、昭和20年(1945)8月7日の豊川海軍工廠の空襲で500ポンド爆弾がこの場所に着弾したことによるものです。この空襲では、124機のアメリカ軍B29爆撃機により3,256発もの爆弾が、10時13分から39分までの26分間に投下され、工員、職員、一般市民ら2,500名を超える人々が犠牲となりました。平和公園のある工廠の北側一帯は比較的空襲の被害が少なかったエリアですが、この空襲では短時間に大量の爆弾が投下され大きな被害を出しました。

旧第一火薬庫(豊川市指定史跡)

この建物は、鉄筋コンクリート・ラーメン構造(強固に接合された柱や梁などの軸組みによって建物を支える構造)の平屋建で、構造体に土をかぶせているため、建物の外観が見えません。本公園周辺は、豊川海軍工廠の火薬類を製造した工場があった場所で、火薬の保管のために使用された施設です。建物規模(盛土基底部で計測)は、東西47.75m、南北37.40mで、トンネル状の東西通路の北側に三つの部屋が並んでおり、部屋の出入口部には、全長27.15m、幅1.75mの木製足場が設けられています。木製足場から部屋に入ると間口6.87m、奥行2.14mの前室があり、その奥に間口8.21m、奥行7.87mの主室があります。鉄筋コンクリート造の部屋の内部に板壁を設けて二重壁構造とし、コンクリート壁と板壁の間の中空層が屋根部にある換気塔や北側の盛土基底部にある通気口などに通じるなど、火薬の保管のため室内の換気を調節する工夫が随所にみられます。

火薬庫入り口
火薬庫換気口

旧第一火薬庫・内部

旧第一火薬庫と旧第三信管置場(ともに豊川市指定史跡)建物内部については、文化財保護のため常時公開はしていないが、見学時間のタイミングが合えば豊川海軍工廠語り継ぎボランティア案内により見学可能。

https://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/koen/toyokawaheiwakouen/zanzonikoukengaku.html

今回は運良くタイミングがあわせられたので、内部も見学。

手前の部屋

湿気を防ぐための二重壁構造が確認できるように展示してある。

奥の部屋

通路展示

配電盤と水道管など

この配電盤は、海軍工廠当時に使用されていたもので、平和公園東側にある旧薬筒乾燥場にあったものを、平和公園整備にあわせて移設しました。また、水道管は公園整備工事の不発弾処理で見つかったもので、制水弁には「水昭和十四年」、「水昭和十七年」の文字がみられます。

旧第三信管置場(豊川市指定史跡)

この建物は、弾丸の起爆装置である信管を保管した施設と考えられます。建物を高さ約5mの土塁で囲み、土塁内には南側のトンネルを介して出入するようになっており、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするものです。建物規模は、東西21.00m、南北10.00mで、東西方向の廊下の北側に三つの部屋が並びます。建物構造は、壁と廊下の屋根を鉄筋コンクリート造としますが、部屋の小屋組(屋根を支える骨組み)は木造となっています。これは部屋内で爆発事故が起きた際に、木造の屋根を吹き飛ばすことにより、鉄筋コンクリート造の躯体を残す工夫と考えられ、建物周囲の土塁とともに、豊川海軍工廠では火薬類を製造した施設に多く見られる建物構造です。各部屋の南北両側の壁上部には照明器具が設けられており、電球の交換は通気口のある部屋外側の扉を開閉して行う構造で、室内側はすりガラスで密閉されています。これは照明器具が発生する熱を、室内に入れないための工夫と考えられます。

旧第三信管置場・内部

豊川市指定史跡 豊川海軍工廠遺跡
「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」保存・修理工事概要
(略)
事業概要
昭和14年(1939)に開庁した豊川海軍工廠は、日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在である。その設置は昭和18年(1943)の豊川市制施行の原動力となり、また昭和20年8月7日の空襲では2500人以上が犠牲となり多大な被害を出すなど、豊川海軍工廠は本市の近代史を理解する上で欠くことのできない歴史的事象である。
戦後、工廠跡地は工業団地、陸上自衛隊豊川駐屯地などに生まれ変わり復興を果たすが、ここ豊川海軍工廠平和公園及びその周辺地域では、空襲の被害を免れた旧工廠施設が名古屋大学の研究施設として再利用され、戦争遺跡として価値がクローズアップされてきた。
本事業は、戦争の記憶を伝えるモノ、豊川市の近代史を語るに欠かせない豊川海軍工廠を象徴する遺跡として「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」を保存することを目的とし豊川海軍工廠平和公園整備事業として、保存・修理を実施したものである。

工事概要
保存対象である「旧第三信管置場」と「旧第一火薬庫」は倉庫の一種であり、保管するものが火器に関わるものだったため、発火の原因を極力避け、また万一の場合にも周囲に被害を及ぼさないように工夫されていた。終戦後、名古屋大学が研究施設として活用する際に軽微な改装を施したが、この二つの遺構は当時の姿をよく伝えている。
しかしながら、長年の風雨によって破損・老朽化が進み、また遺構の周囲には草木が繁茂していたため、保存・修理の方針は、第一にこの貴重な戦争遺構を安全で容易に公開できる状態に復すること、第二に遺構のこれまでの時間経過を見学者が体験できるよう、破損・老朽化した部分すべてを建設当時の姿に修復するのではなく、部分的な復原にとどめることとした。

海軍の錨マーク付きの木材

豊川海軍工廠で使用されたと考えられるフライス盤と旋盤
(名古屋大学寄贈)
ここにある2台の機械は、名古屋大学空電研究所(現宇宙地球環境研究所)で観測用機器の制作や補修等のために使用されてきたものです。右側が横フライス盤(切削加工を行う工作機械で、刃物が回転して切削を行う)、左側が旋盤(切削加工を行う工作機械で、フライス盤と違い製品が回転して切削を行う)で、取り付けられているプレートから、横フライス盤は昭和16年(1941)、旋盤は昭和17年(1942)の製造と考えられます。当時としては高性能な機械であり、海軍工廠の使用機器を戦後に払い下げを受けたものと考えられます。

フライス盤
昭和17年
旋盤
昭和16年

建物を取り囲む土塁

豊川海軍工廠の北側エリアには、生産品の機銃の弾丸などで使用する火薬類を取り扱う建物が多くありました。これらの建物には土塁に取り囲まれたものがありますが、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするためのものです。本公園及び隣接する名古屋大学豊川キャンパス内には、このような建物を取り囲む土塁が数箇所残っており、土塁内外の基底部にコンクリート側溝を設けるもn(Aタイプ)と、土塁の外側には側溝を設けず(素掘り側溝が存在した可能性はあります)、内側の建物に石組みを備えた素掘り側溝を設けるもの(Bタイプ)があることが分かっています。また、土塁内外にはトンネルを介して出入りしますが、Aタイプは幅が広いトンネル、Bタイプは幅が狭いトンネルが設けられています。この二つのタイプの土塁構造は同時期の工法差ではなく、建設時期の差によるものと思われ、AタイプがBタイプに先行すると考えられます。この旧第三信管置場のど類はBタイプです。

豊川海軍工廠平和公園は再整備されたばかりでした。その再整備直後に運良く足を運ぶことができたのも、ボランティアさんの説明と時間がピッタリだったのも、何かの御縁かもしれません。再整備され見学しやすくなった戦跡の一方で公園外(名古屋大学豊川キャンパス)に残存している戦跡は更地になる方向だとかで・・・

さて、次の目的地に移動します。
豊川海軍工廠の西側を南下して、名鉄豊川線の南側にある墓苑に。

豊川市諏訪墓地
(豊川海軍工廠 諏訪慰霊碑)

元豊川海軍工廠被爆による戦没者のための施設です。
豊川市

墓苑内には豊川海軍工廠で犠牲となった皆様の慰霊碑が並んでいる。
ひとつひとつと対座し、そして合掌を。

豊商健児之碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

豊橋市立商業高等学校
豊商健児之碑

碑文
 神明宮の風清く
 森厳森に溢れたり
 聖諭奉載自己完結
 いざや励まむ友よ永劫に
太平洋戦争耐なる昭和十九年四月、我等豊商健児四百四十余名は学徒勤労動員令下、使命感に燃え紫紺の桐花旗はためく母校をあとに勇躍豊川海軍工廠に出動、増産にその愛国の至誠と青春の情熱を捧げた
爾来一年五ヶ月、昭和二十年八月七日、敵B29を主力とする戦爆連合百六十九機の波状攻撃による大空襲に遭遇、二千五百有余名の犠牲者と運命を共にされた友、又学徒出陣して白雲流るる南溟の果に、波騒ぐわだつみの底に、或いは北斗の星輝くシベリヤの原野に散華された友、又志半ばにして病に斃れた友等、祖国日本の栄光を信じ護国の礎となられた学友十二名の鎮魂と世界平和を祈念し、我等の友情と団結の象徴として同級生相図り、母校創立八十周年並びに卒業四十周年を記念し此処に此の碑を建立する
昭和六十一年九月
 豊橋市立商業学校
  第十八回卒業桐八会
  第十九回卒業桐久会

松操女学校慰霊碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)

昭和24年8月7日建立
 松操女子高等学校職員生徒
 松操学園 同窓会
 松操高等女学校 遺友会

松操殉職者之墓

昭和24年8月7日建立

供養の碑

「若き乙女の松操よ 永遠に安らかであれ」
戦時下、豊川海軍工廠において昭和20年8月7日の空襲により二千五百余名の多くの命が奪われ豊橋松操裁縫女学校より勤労学徒として動員された教師、生徒、当校卒業の女子挺身隊の中より四十七名の若い尊い犠牲者を出したことは痛恨の極みであります。ここに五十回忌を迎えるにあたり、この思いを永久に忘れることなく、深くからだに刻みこみ、犠牲になった松操の乙女達よ心安らかれとご冥福を祈りここに供養の碑を建立するものであります。
平成6年7月8日
財団法人 松操学園

立命館大学戦没学生慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

追悼文
広島に原爆が投下された日の翌昭和二十年八月七日午前九時二十五分から約一時間にわたり豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のために工廠にあった立命館大学の学生のうち表記の四名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り安らかな眠りを念願する。

昭和五十一年八月七日建立
立命館大学
立命館大学学友会 
立命館大学二十二年専経専法同窓会一堂 
遺族一同

豊川海軍工廠
総務部戦没者六十柱之霊塔

愛知高等実修女子校慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)

学徒動員により豊川海軍工廠に出勤中爆死せる愛知高等実修女子校生徒並びに卒業生二十九柱の霊ここに眠る(略

昭和二十五年三月二十一日建立
殉職者遺族一同 
愛知実修女子高等学校教職員一同 
愛知実修女子高等学校同窓会

豊川海軍工廠行員養成所 友魂之碑

豊川海軍工廠工員養成所は中堅幹部の養成機関として昭和十五年に開設
一期生から六期生まで数えて約4千名がひたむきに学んだ
今ここに三十三年の歳月を回想し不幸にして戦禍に遇れた多くの友を偲び 第二養成所跡に之を建立した
昭和五十四年三月二十一日  
元豊川海軍工廠工員養成所 
豊養会

記念樹 

海軍教官

早稲田大学戦没学生之碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)

昭和二十年八月七日(一九四五)豊川海軍工廠空爆ニ殉難死シタ故学友十二名ノ慰霊菩提(略

豊川海軍工廠
会計物資部戦没者五十三柱之霊

豊川海軍工廠
会計部計算部戦没者之霊

豊川海軍工廠
会計部慰霊碑

火材料係・指材料係

豊川海軍工廠
会計部機銃材料係供養塔

感謝と哀悼を

合掌

諏訪墓地をあとにして、北上。豊川海軍工廠の南側に向かう。
南門橋の交差点にも供養塔がある。

供養塔(豊川海軍工廠・南門橋)

供養塔建立の由来
この供養塔は、古よりこの地において戦乱により不慮の最期を遂げられた諸人、豊川海軍工廠戦没者並びに当構内における殉職者諸精霊供養のため、昭和54年8月10日に建立された。
はじめ、供養塔は当構内中央に建立されたが、豊川海軍工廠戦没者のご遺族並びに関係各位のご要望もあり、豊川市の遊歩道計画と期をあわせ、広く全国の皆様のお詣りがしやすいよう当敷地に遷座、諸精霊を供養し、合わせて永くこの地の平穏と繁栄を祈念する。
平成5年8月5日
建立者 株式会社 熊谷組

哀悼の意を。。。

南門橋の供養塔から東に赴くと、かつての「正門」の地に。

豊川海軍工廠正門跡
(日本車輌製造株式会社 豊川製作所)

豊川海軍工廠の正門は、現在は日本車輌製造株式会社の門として活用されている。

豊川海軍工廠開廠記念植樹ケヤキ並木

正門から一直線に伸びるケヤキ並木は豊川海軍工廠の開庁記念植樹という。

平和の像
(豊川海軍工廠神社跡地)

平和の像由来記
豊川海軍工廠は、東アジアに戦雲がたれこめた昭和十四年十二月、重火器、弾薬を製造する目的をもって開設された。
第二次世界大戦勃発とともに規模を光学兵器等の製造にまで拡大し、徴用工員、女子挺身隊員、学徒報国隊員を各地から動員して総員五万五千人を数えたが、昭和二十年八月七日午前十時三十分、アメリカ空軍の爆撃により一瞬にして尊い二千四百七十七名の人命を失い、広大を誇った工場も壊滅した。
終戦を迎えるや戦時中全従業員をもって組織した報国会が奉仕して、妙厳寺境内に大供養塔を建立し、台座に戦死者芳名を刻して冥福を祈った。
昭和三十二年八月七日、殉国者の十三回忌を迎えるにあたり元従業員をもって八七会を結成し、英霊の慰霊会員相互の親睦につとめ、毎年八月七日には盛大な慰霊祭を執り行い今日に至っている。
この間昭和三十七年には、金沢市卯辰山山頂に豊川海軍工廠女子挺身隊殉国者乙女の像が建立され同年八月十八日八七会員が金沢市を訪れて地下に眠る女子挺身隊員の慰霊祭を執り行った。
これを契機に被爆地豊川市に平和の像建立の委員会を結成し目的達成に努力した。
これが募金にあたっては豊川市を中心に全国各地から一千三百万円の浄財を集めることができた。
像の製作は、金沢美術工芸大学教授彫刻家矩幸成氏の力作を高岡市堺鋳芸社に委嘱し、昭和四十年八月一日完成をまって陸上自衛隊豊川駐屯部隊の協力を得て輸送隊を編成し、北陸道、東海道をパレードして沿道の県庁、市役所に立寄り、八月三日現地に安着した。
途上豊川海軍工廠において戦死した従業員の遺族が涙とともに礼拝する場面が各地に展開され、平和の像建立の意義がいかに大であるかを知ることができた。
かくして昭和四十年八月七日、数千の参会者を得て盛大な除幕式を挙行した。
ちなみに八七会の名称は、豊川海軍工廠壊滅の日八月七日を意味したものである。
記念すべき像の建立にあたり、この碑を建てる。
昭和四十年八月七日  
八七会

かなざわの松
由来
この松は殉難おとめの像の建つ金沢市の卯辰山公園から平和之像と共に陸送、この所に移植したものです。
八七会

殉難おとめの像は金沢市の「卯辰山公園」にある像。石川県出身の女子挺身隊員も豊川海軍工廠にて52名が犠牲となっている。

豊川海軍工廠植樹の桜並木

1941年に豊川海軍工廠によって植樹された桜並木。桜トンネルとして愛されている。
余談だが、奥に見える三重塔は、某新興宗教団体・・・。

海軍標石

豊川海軍工廠の南側に残っている。中日新聞社豊川通信局の手前。

豊川海軍工廠戦没者供養塔

豊川稲荷の隣に。

供養塔の由来
昭和二十年八月七日午前十時三十分突如米軍機B29の大編隊が豊川海軍工廠に来襲。数千の爆弾、焼夷弾、無数の機銃弾が投下され廠内は一瞬修羅の巷と化し阿鼻叫喚のうちに職員、従業員、学徒、女子挺身隊員、雇員、傭員等の尊い命二千有余を奪ってしまった。其の惨状目を被はしめ混乱の状筆舌の及ぶところではなかった。
同年八月十五日終戦和平となるや豊川海軍工廠報国団が中心となり現地 に供養塔を建立して挺身国難に殉じた英霊二千余柱の冥福を祈らんとの議が起こり全国の資金と団員の汗の奉仕とにより十月二十五日地鎮祭を行い翌二十一年九月二十三日竣工除幕式を挙行した。
因に塔中には戦死者名簿と廠内縁りの土を納め各工場の石定盤に戦死者氏名を刻し台座周囲に組込み以て永久に冥福を祈らんとした。
偶々昭和三十二年八月七日此の地に於て英霊十三回忌法要厳修の際、生存者一同相諮り供養塔の概要を記し後世に伝えんとて此の碑を建立す。
右記す
昭和三十二年八月七日  
元豊川海軍工廠従業員生存者一同
八七会

供養塔
昭和20年10月 豊川海軍工廠従業員一同建立

供養塔の四方には、戦没者の御名前が

職員 103名
総務部 204名
指揮兵器部 122名
機銃部 346名
光学部 111名
火工部 632名
器材部 176名
会計部 178名
医務部 17名
工員養成所 83名
派遣兵員 120名

学徒 452名
 早稲田大学
 日本大学
 明治大学
 立命館専門学校
 摂南工業専門学校
 豊橋市立工業学校
 豊橋中学校
 豊橋第三中学校
 豊橋市立商業学校
 豊川中学校
 成章中学校
 豊橋市立第二商業学校
 豊橋松操高等女学校
 豊橋桜ヶ丘高等女学校
 豊橋市立高等女学校
 豊橋市立女子商業学校
 豊橋高等家政女学校
 愛知高等実修女学校
 新城高等女学校
 国府高等女学校
 豊川高等女学校
 気賀高等女学校
 緑ヶ丘高等女学校
 誠心高等女学校
 国府国民学校
 牛久保国民学校
 前芝国民学校
 豊川国民学校
 小坂井東国民学校
 一宮西部国民学校
 八南国民学校

合計2544名

それぞれのお名前が刻まれていた。

感謝と哀悼を・・・

大慈地蔵尊

昭和二十年八月七日、当市に於ける戦災没者二千四百三十九霊の成仏と永劫の冥福を祈り茲に大慈地蔵尊を造顕し奉る

供養塔の後方の森の中に。

明治27-8年 明治37-8年
戦没牛馬記念碑

明治39年秋再建
三河国牛馬商

今回の散策で唯一、豊川海軍工廠とは関係のない石碑。

16時過ぎ。
ひととおり豊川海軍工廠関連の散策をおえたので、レンタサイクルを返却しに桜ヶ丘ミュージアムに。ギア無しの自転車で結構頑張りました。

豊川海軍工廠、東洋随一の規模を誇った海軍工廠。
そのほんの僅かであれ、当時の様子を知ることができ、そして当時の惨劇を知ることができました。
豊川海軍工廠平和公園、良き施設でした。
しかし豊川市の平和公園の整備に感謝しつつも、その公園の対象外となった旧海軍工廠用地は売却され再開発。なんとも複雑な心持ち。ここまで残っていたものを、再開発という名のもとにいとも簡単に破壊してしまう状況に極めて悔しく。何もできずにその事実を受け入れるしかないのですが・・・。

https://www.tonichi.net/news/index.php?id=73360

この日は豊橋と豊川の戦跡をはしごしたために、知識欲も満足をしてしまい、豊川稲荷などには立ち寄らずに離脱。また豊川には来たいものです。

ありがとうございました。

名古屋熱田の戦跡散策

平成29年1月

・名古屋陸軍造兵廠跡
・熱田神宮被爆鳥居
・堀川被爆護岸堤防

平成29年1月29日昼過ぎ。熱田到着。
過去、熱田神宮には何度か参拝に来たことはあった。しかしかつては熱田神宮と境外社などしか訪れておらず、で。
熱田に戦争関連の史跡が残っているとは露知らず、でした。


神宮東公園

JR熱田駅に東側に、「神宮東公園」という公園がある。
その一番北の方に、案内も特にないけどなにやら記念碑のようなものがあって、それが最初の目的地。


名古屋陸軍造兵廠跡

1904年(明37)東京砲兵工廠熱田兵器製造所として発足。
1923年(大12)名古屋工廠熱田兵器製造所。
1940年(昭15)名古屋陸軍造兵廠熱田製造所。

名古屋陸軍造兵廠シンボルマークは「名古屋城の金鯱」をイメージしたもの。

名古屋陸軍造兵廠跡・碑文

名古屋陸軍造兵廠は明治三十七年陸軍省がこの地に東京砲兵工廠分廠として創設以来昭和二十年八月の終戦まで国家の要請に応えて来た。 第二次大戦末期には本部の外、熱田・高蔵・千草・鳥居松・鷹来・楠・柳津等の製造所を有し、三万五千人が奉職して居た。 私達は多くの殉職者のご冥福と世界平和を祈ります。 碑は名古屋陸軍造兵廠のマークで名古屋城の金の鯱を象ったものである。
 昭和五十四年十一月三日
  名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会

一大軍需工場であった熱田の地を偲ぶ記念碑。
いまは静かな公園の片隅に佇むこの記念碑に見向きをする人もすくなくはなってしまったが、私のような人がときより訪れるわけで。
往時を偲び、自然と手を合わせてしまう場所でもある・・・

名古屋陸軍造兵廠跡
現在はその敷地の大部分を「中京倉庫」が活用をしている。
倉庫敷地内にはおそらく往時からと思われるレンガ造りの建造物が点在しておりました。

中京倉庫敷地の一番北側。
道路に面してレンガ造りの建物が横たわっております。
これはなかなか見ごたえのある建造物ですね。

歩道橋から俯瞰してレンガ建物を見学することが出来ました。
これは圧巻。

名古屋陸軍造兵廠跡
中京倉庫の敷地内には、よく見るとほかにもレンガ建物が点在してますね。

名鉄とレンガが一緒に見れるポイントに、心がワクワクしてます。


熱田神宮

さて、続いては熱田神宮さんへ。
熱田神宮を境内境外含めじっくり参拝すると半日は余裕で消費してしまいますが、さすがに時間がないので今回はさくっと参ります。
名鉄神宮前駅の入り口から参進。
東門ですね。
・・・というか、熱田神宮宮廳の入り口ですね。

参拝。
すごい人出です・・・さすが熱田さんや。

熱田神宮さんの御朱印・・・いえ熱田神宮さんでは「御神印」と表現しております。
今回は熱田神宮さんの御神印だけを頂戴致しました。
(別宮や境内社・境外社、それぞれ参ればいろいろいただけます)

御神木 大楠
圧巻の存在感です。


熱田神宮 南の鳥居

さて本題。 熱田神宮に訪れたのは参拝したかったというのも勿論ですが、戦災の記憶がここにもあるわけで。

昭和20年6月9日。
米軍爆撃機B29が名古屋市熱田区を空襲。
熱田神宮南側の鳥居には、その時の爆弾の破片で受けた傷とされるものが残っておりました。 破片傷だけで済んでおり類焼を免れたのは奇跡的というしかなく。

さて、熱田神宮の次は、川岸に向かいます。
熱田神宮の川岸といえば、察しの良い方は「七里の渡し」(東海道熱田‐桑名の海路)を思い出すかもしれませんが、今回は七里の渡しのある堀川の対岸のちょっと北側になります。

めざす目標は愛知時計電機のすぐ隣の土手。


愛知時計電機

航空機製造メーカーとして著名であった「愛知航空機」は、まさにこの愛知時計電機から航空分門が分社した会社であり、親会社の「愛知時計電機」もまた戦前は軍需産業を担っていた。

さきほどの熱田神宮の鳥居でも触れた、昭和20年6月9日の熱田空襲の本命目標は、それこそ軍需工場であった「愛知時計電機」や「名古屋陸軍造兵廠」であった。
写真は 「愛知時計電機」 本社建屋(名古屋市まちなみデザイン貢献賞受賞)


熱田空襲 被爆堤防

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃を喰らった堤防が移築の上で保存されている。

被爆堤防の碑文

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

護岸表面にみられるくぼみ。写真では伝えにくいが、見た目以上に深くくぼんでおります。試しに10円玉を置いてみました。爆弾の破片の威力の大きさを感じることが出来ます。

往時を記録する堤防を前にして、空襲で犠牲になった方々のことを思い静かに手を合わせる。

愛知縣護國神社

平成29年1月参拝

この日は名古屋市内を散策しておりました。

歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…

愛知県名古屋市中区三の丸鎮座

内務大臣指定護国神社
別表神社

戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。

明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。

1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。

大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。

昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。

境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。

お手水。献水像。

鎮魂

マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建

太玉柱

終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
 愛知縣護國神社

拝する

ありがとうございます

御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。

靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。

実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。

狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。

さて、境内の奥に参ります。

国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。

戦艦大和記念碑

この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納

46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km

戦艦大和記念碑

碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
 昭和四十二年四月七日
  東海地区 戦艦大和会

建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…

この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。

戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前

戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。

パラオ海軍部隊慰霊碑

太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む

大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。

慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。

パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる

海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。

パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。

昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・

海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔

碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる  あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会

海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。

海軍飛行予備学生慰霊塔

海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略

神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名 
うち651名が予備学生出身者

刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…

この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。

再訪しないといけません・・・

護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。


豊橋の戦跡散策

平成30年6月撮影

  • 愛知県豊橋市内に点在する戦争史跡関連の散策
  • 主に豊橋公園と愛知大学豊橋キャンパスを中心に

平成30年6月下旬。愛知県豊橋市に足を運ぶ機会がありまして。軍都豊橋と呼ばれた街。
「豊橋公園」は歩兵第18聯隊
「愛知大学豊橋キャンパス」は第15師団
今回はこの2つを軸にして散策を展開していきます。

位置関係

「国土地理院」地図・空中写真閲覧サービス
1946年(昭21)07月16日の米軍撮影(ファイル:USA-M197-A-3No1-10)写真及びgoogle航空写真を加工

今回は豊橋陸軍墓地、工兵第15大隊、豊橋海軍航空隊方面には行けませんでした。18聯隊と15師団をメインに散策。

豊橋公園

かつての吉田城跡(三河吉田藩/豊橋城・豊橋藩)
明治維新後の版籍奉還により明治政府管轄。明治4年(1871)兵部省管轄。吉田城址に兵舎建設が進められ明治18年から大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が移駐。

歩兵第18聯隊の正門と哨舎(豊橋公園)

明治31年に新設された営門。当初は木製であったが昭和10年台にコンクリート製に変更。

公園の入口にいまも残る哨舎が味わい深くて素晴らしい。
ついつい歩哨のように中に入って立ってみたくなったり。

歩兵第18聯隊・弾薬庫跡 (豊橋公園)

コンクリート製。床下は換気のために開けてあり、屋根は万が一の爆発時には爆風が抜けるように簡素な作りとなっている。

歩兵第18聯隊・馬頭観世音(豊橋公園)

紀元二千六百年建之
中部第六十二部隊長松本信吉書
昭和16年の紀元2600年に際して建立。軍馬守護神として馬頭観世音を祀る。

豊橋公園
公園内の片隅に寄せられていたこれはなんだろう。
庭園の残骸なのかな。
獅子だったり灯籠だったり。
気配的にはコンクリの雰囲気は新しそうなので、求めている史跡とは関係ないと思われるが。

歩兵第18聯隊・記念樹(豊橋公園)

表に「記念樹」、裏に「昭和5年兵」と刻まれている。
オガタマノキ(招霊木)

「歩兵第十八聯隊之阯」(豊橋公園)

昭和39年建立
副碑・平成9年建立
歩十八会(戦友会)
志を同じくするわれら会員は、この碑のもとに相集い、歩兵第18聨隊戦没将兵の業績顕彰及び慰霊並びに戦友、遺族の相互親睦及び福祉向上に努め、その歴史を後世に伝えるものである…

歩兵第十八聯隊之阯 裏面
我歩兵第十八聨隊ハ明治十七年夏名古屋鎮台下ニ創設 
八月十五日軍旗奉戴 
翌春豊橋旧城址内ノ新営ニ移リ尓後衛戍ス
(略)
大東亜戦争ノ緊迫スルヤ十九年二月南方ニ赴援シ防守に努ム 
夏米軍ノ大挙来攻ニ会シ衆寡敵セズ相次デさいぱん島及ぐあむ島ニ軍旗ヲ奉焼シテ玉砕セリ…
(略)
茲ニ同志相謀リ地ヲ旧営址ニ選ビ碑ヲ建テ事ヲ録シ先人陣中ノ偉績ヲ顕彰シ併セテ殉国ノ英霊ヲ弔イ其功勲ヲ不朽ニ伝ウ
昭和三十九年八月 元歩兵第十八聨隊々員有志建

歩兵第十八聯隊
明治17年(1884)名古屋にて設置され明治19年までに豊橋に移駐。
大東亜戦争では昭和19年3月にテニアン島進駐途中で輸送船が雷撃され聯隊は大損害を受けつつサイパン島に上陸。5月にグアム島に移駐。7月に米軍がグアム島に上陸し激戦を繰り広げ7月25日に軍旗奉焼し歩兵第18聯隊は玉砕。

彌健神社跡
奮藩祖豊城神社旧鎮座地(豊橋公園)

歩兵第18聯隊の営内神社跡。
鳥居は昭和8年4月3日建立(献納/三遠國防義會)
現在、社殿があった場所には「神武天皇銅像」が移設されている。
神武天皇像は、かつて歩兵第十八聯隊の戦病死者を追悼するために建立された軍人記念碑が遷座したもの。

神武天皇像(豊橋公園)

装いは故実に基づいた古代武人を模したもの。御尊顔はよりどころがないために、かしこくも 明治大帝をお写し申し上げた銅像。
かつては歩兵第18聯隊練兵場にて戦病死者を追悼する軍人記念碑として設置され敗戦後に当地に遷座。

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4348

旗杭は昭和12年4月、國防婦人會田原町分會の献納。

此処に歩兵第百十八聯隊ありき
歩兵第118聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
軍靴の跡
 我が歩兵第百十八連隊(中部第六十二部隊)は昭和十六年四月一日国家の要請に応えこの地において編成され同年五月二十一日初代聨隊長陸軍大佐徳弘保衛が宮中で天皇陛下より軍旗を親授さる
 昭和十八年七月六日第四十三師団急遽編成に伴い主力は軍旗を奉じ静岡に移駐 或る者は他部隊に転属さる 
 越えて昭和十九年五月三十日祖国防衛の大任を帯び海路はるばるサイパン島守備の途につくもその大半が敵潜水艦のため海没の悲運に遭う
 一部上陸せるものは間もなく開始されたサイパン島攻防戦において昭和十九年七月七日軍旗とともに聖寿の万歳と皇国の弥栄を祈念しつつ全員玉砕す
 ここに生存者将兵相計り記念碑を建立 尽忠の偉業を顕彰し殉国の英霊を弔う

昭和五十五年十一月二日
 元歩兵第百十八連隊関係者有志建之

歩兵第二百二十九聯隊記念碑 (豊橋公園)

碑文
 歩兵第二百二十九聯隊は、昭和14年8月7日この地に於て陸軍大佐吉武秀人を初代聯隊長として編成完了。
 9月13日軍旗を授かり、10月13日豊橋を出発、征途についた。
 以後、泥濘の良口会戦をはじめとする南支那における幾多の戦闘の後、第二代聯隊長陸軍大佐田中良三郎率下の香港攻略作戦に始まり、南部スマトラ作戦、ガダルカナル島の戦いを含むニューギニア作戦、更に陸軍大佐平田源次郎を第三代聯隊長とするムンダ、ズンゲン、ラバウルなどを戦場としたソロモン及びビスマルク群島防衛戦から第五次ビスマルク戦に至るまで、大東亜戦争における最も画期的な作戦に参加した。
 かくて戦局不利とはいえ志気未だ軒昴たるうちに終戦を迎え、昭和20年8月18日ニューブリテン島のラバウルにおいて聯隊長以下慟哭裡に光輝ある歴戦の軍旗を奉焼、一塊の灰と化せしめた。
 聯隊生存者一同は、この灰をいま聯隊発祥の地に埋め、英霊の安らかんこと、足跡のとこしえならんことを祈念するものである。

昭和45年9月15日
 元歩兵第二百二十九聯隊戦友会(福々会)之を建立す

歩兵第十八聯隊
将校集会所通用門門柱跡 (豊橋公園)

将校集会所通用門の門柱跡。コンクリート製。上部に黄色のタイルで装飾が施されている。

歩兵第十八聯隊 聯隊記念碑跡 (豊橋公園)

かつてここには聯隊記念碑があった。もともとは上に砲弾型の碑が乗っていたというが現在は台座だけが残る。
戦後に台座の文字を埋めたようで、セメントの下に碑銘や碑文が埋もれていた。

表「聯隊記念碑」
裏「一北満派…」「一済南事変」と一部露出している。

歩兵第十八聯隊 貯水槽跡 (豊橋公園)

防火貯槽跡とされる部位。コンクリートの平面部が残る。

歩兵第十八聯隊 灰捨場跡 (豊橋公園)

煉瓦造り。
現在は塞がれているが上部の穴が開いており、裏側へ灰を掻き出して堀に落ちるようになっている。

戦災復興碑 (豊橋公園)

昭和33年10月建立

碑文
太平洋戦争の戦局非にして国内各都市が敵機の来襲におびやかされつつあつた昭和二十年六月十九日夜半ついに我が豊橋市も敵機B29の集中攻撃を受け市民必死の防禦もその甲斐なく瞬時にして市街地の大半を壊滅せしめらるに至つた
被災坪数128万6千、焼失戸数1万6千886、罹災者7万1502、死者624、重軽傷者344の犠牲を出し、惨憺たる焼土の混乱と窮乏とは人をして再び起つ日あるやを疑わしめたしかるに市民愛郷の熱誠と復興の意欲とは打つて一丸となり全燼なおふすぶる荒廃の中にこの日から雄々しくもたくましき建設が始められた
爾来十有三年全市民の刻苦たゆまぬ復興の努力は着々として功を奏し全国戦災都市にさきがけ産業経済文化の要衝として旧に倍する大豊橋市の盛容を見るに至つた今や再建復興の業成るに及びいたましくも尊き当時の犠牲者の冥福を祈り幾多の窮乏と苦難を排してこの大業に参加した市民不滅の業績をたたえ本市悠久の前途を祝福してここに戦災復興記念の碑を建立し大豊橋市の象徴とする
昭和33年10月

吉田城鉄櫓(豊橋公園)

内部は無料公開もしているけど、この日は外部のみで。

歩兵第18聯隊・西門門柱

豊橋公園の西側、豊橋市役所に面した国道1号線の脇に保存されている。
煉瓦造りの門柱で笠石は花崗岩。
明治18年の聯隊創設時は営門として使用されていたという。
国道1号線工事のために昭和34年に現在地に移築。
現在は門柱部と木製扉部をわずかに残している。

豊橋市公会堂

豊橋公園・市役所の手前にある「豊橋市公会堂」
昭和6年(1931)8月24日竣工。国の登録有形文化財。太平洋戦争末期の昭和20年6月の豊橋空襲で市が大きな被害を受けた際には豊橋市役所の機能がこの建物に一時移転している。


愛知大学豊橋キャンパス

かつての第15師団

歩兵第60聯隊正門跡
( 愛知大学豊橋キャンパス副門 )

現在は愛知大学豊橋キャンパスの副門
愛知大学前駅のすぐ隣に大学の門がある。
今風にリニューアルはされているが

当時の門柱の面影も残しつつ。(当時の門柱ではないと思われますが。)
まずはここからキャンパス散策と参りましょう。

第15師団
豊橋陸軍教導学校
豊橋陸軍予備士官学校

日露戦争で日本は従来師団の総てを動員してしまった為に本土駐留師団がなくなる事態に陥ってしまった。そこで「第15師団」を含む4個師団が新設され第15師団は明治38年(1905)4月1日に愛知県豊橋市で編成。

大正14年(1925)のいわゆる宇垣軍縮にて第15師団は第13・第17・第18師団と共に廃止される。宇垣軍縮で廃止された第15師団の残された施設を利用して、昭和2年に下士官候補者教育のため「豊橋陸軍教導学校」が開設され、昭和14年には甲種幹部候補生教育の「豊橋陸軍予備士官学校」が開設。 ゆえに本記事では同じ敷地内で「第15師団」だったり「陸軍教導学校」だったりが交じります 。

第15師団そのものは、日中戦争に際して大正14年に廃止された師団番号を利用し復活している。第二次編成としての第15師団は昭和13年に編成。この第二次編成は豊橋とは関係せず。

豊橋第15師団の地は、宇垣軍縮後は騎兵第4旅団司令部を経て陸軍教導学校、陸軍予備士官学校が置かれ、戦後は愛知大学へと推移していく。

豊橋陸軍教導学校・予備士官学校の神社跡
(愛知大学豊橋キャンパス副門広場)

歩兵六十聯隊正門から敷地内に入ったすぐの場所にこんもりとした円形造園がある。この場所にかつて陸軍学校時代は神社が鎮座していたという。
今は格別な何かは残っておらず空間だけが物語っているような雰囲気。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山
(愛知大学豊橋キャンパス学生会館裏)

昭和2年の昭和天皇行幸を記念して昭和6年に陸軍教導学校の生徒によって築かれた小山で吹雪山と命名された。
山頂には記念碑が建てられている。陸軍第15師団司令部開庁から豊橋陸軍教導学校開校、豊橋陸軍予備士官学校、そして閉校まで物語る記念碑。

豊橋陸軍教導学校・吹雪山記念碑
豊橋陸軍教導学校時代の構内図が描かれている。
愛知大学豊橋キャンパス内で現存している建物は後述しますが「大講堂」「将校集会所」「養生舎」「機銃廠」「学校本部=第15師団司令部庁舎」

歩兵第60聯隊・将校集会所門柱

コンクリート製門柱 (愛知大学豊橋キャンパス内哲学の森)

歩兵第60聯隊・将校集会所
(愛知大学豊橋キャンパス・旧研究所)

よくぞ残ってくれましたといった感じです。
陸軍のシンボル五芒星もありますね。

豊橋陸軍教導学校大講堂
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館)

陸軍教導学校の大講堂として昭和2年に建立。鉄筋造。

天皇陛下行幸記念松
豊橋陸軍教導学校大講堂前
(愛知大学豊橋キャンパス第二体育館前)

昭和2年開校の陸軍教導学校に昭和天皇が行幸されたことを記念して植樹された松。当時の橋陸軍教導学校大講堂前に植樹された。

豊橋陸軍教導学校火薬庫(火薬倉)土塁跡
(愛知大学豊橋キャンパス・プール周辺)

プールの周辺に残る土塁は火薬庫の名残。 火薬庫は当時は土塁で覆われており、今でも土塁の一部が大学構内に残っている。

皇太子嘉仁親王殿下御手植松
(愛知大学豊橋キャンパス短大門付近)

大正天皇が皇太子時代の明治43年11月20日に豊橋偕行社(後述)に御駐泊された際にお手植えされた松と記念碑。 記念碑は昭和3年11月の御即位式に建立されている。

豊橋偕行社跡
(愛知大学短期大学本館跡地)

豊橋偕行社を戦後は愛知大学短期大学本館として利用されていたが老朽化により平成23年(2011)に取り壊し。
偕行社は各師団に置かれていた陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)を兼ねた一種の迎賓館施設。

在りし日の姿~Wikipediaより参考

第十五師団機銃廠
豊橋陸軍教導学校二機銃廠
(愛知大学中部地方産業研究所所属産業館)

明治41年に建造された機銃整備のための建屋。 基礎は煉瓦、壁は下見板張。
屋根瓦に陸軍のシンボル五芒星アリ

皇太子裕仁親王殿下御手植松
碑は大正14年に第15師団廃止の際に建立。

久邇宮邦彦親王殿下お手植松
大正7年、第15師団長として演習台覧の際の御手植松。

御大典記念幟立
昭和天皇即位礼がおこなわれた昭和3年11月10日建立。

豊橋陸軍教導学校・養正舎

昭和2年建立。 建屋の裏の塀は豊橋陸軍教導学校時代に設けられたコンクリート製の塀。 豊橋鉄道との境目。

豊橋陸軍教導学校・塀

昭和2年の豊橋陸軍教導学校時代に設けられたというコンクリート製の塀。 豊橋鉄道の線路との境界線をになっている。 現在も愛知大学の境界線。

第十五師団司令部址

明治41年(1908)誘致運動をした豊橋市に設置された。この地には師団司令部のほか、騎兵第4旅団司令部、歩兵第60聯隊などが置かれた。しかし師団は大正14年(1925)に廃止となり、その後は陸軍予備士官学校などに利用された。

陸軍第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館)

国登録文化財 陸軍第15師団司令部庁舎として明治41年(1908)建立。 建物は木造2階建、寄棟造の桟瓦葺で、両翼屋を背後に突き出したコの字形の平面形を持つ。外壁は板貼りで装飾をあまり用いない軍隊関連建物らしい簡素な造り。木造の現存司令部としては貴重。

第15師団司令部庁舎
(愛知大学旧本館・愛知大学記念館)
正面

裏側はコの字。

第15師団司令部庁舎 (愛知大学旧本館・愛知大学記念館) 館内内部公開もしてますので入ってみましょう。
公開は月~土曜(日月祝は休館) 開館時間は10:00から16:00まで。 日曜と祝日は入れないのでご注意を。

http://edu.aichi-u.ac.jp/toa/about.html

正面入り口

正面階段

入り口の階段をあがった2階の正面
陸軍第15師団司令部時代には師団長室、戦後は学長室として使われた部屋

2階廊下

2階から外を

脇階段
けっこうな軋み音を感じた

1階

この日は見学者は私以外には居ない空間。
贅沢な時間を過ごすことが出来ました。
ありがとうございました。

第15師団司令部・正門
(愛知大学豊橋キャンパス正門)

石造りの門柱が残る。 この正門の奥に第15師団司令部庁舎がある。 このあとは愛知大学を離れて、周辺の関連史跡を見て廻りましょう。

第3師団兵器部豊橋出張所・正門と哨舎
(南部中学校)

愛知大学豊橋キャンパス(第15師団)の南方には第3師団兵器部が展開されておりました。
豊橋鉄道の線路越しに当時の哨舎と正門が保存されている。
南部中学校には、これ以外にも当時の門があるようだけれども校内は未見。

門柱・騎兵第26連隊跡?
(合同宿舎王ケ崎住宅敷地内)

詳細はわかりませんが、不自然極まりなく門柱が残ってました。
所在地には騎兵第26聯隊の場所。
道路を挟んだ向こう側は騎兵第25聯隊。
コンクリで煉瓦を隠すように覆っていますが、コンクリの上から扉金具も見えますね。

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎・記念碑
(王ヶ崎東公園)

哨舎があるとついつい中に入って歩哨をしてしまいます・・・

騎兵第26聯隊跡

騎兵第26聯隊跡碑
松井麻之助書 松井麻之助は終戦時の騎兵第26聯隊長(陸軍中佐)。
西竹一らと共に、1936年のベルリンオリンピックに馬術競技日本代表として出場した経歴を持つ。戦後は調教師調教師として活躍。

騎兵第4旅団
 騎兵第26聯隊
明治42年4月1日 創設
明治42年9月23日 軍旗拝授
昭和21年5月18日 復員解隊

戦歴
昭和7年10月~昭和13年7月 満洲事変
昭和13年8月~昭和16年11月 支那事変
昭和16年12月~昭和20年8月 大東亜戦争

昭和46年軍旗拝授記念日
騎兵第26聨隊会建之

騎兵第26聯隊
創立以来在隊者将兵数
豊橋駐屯時代 明42.4~昭7.9 約7000名
満洲事変参加 昭7.10~昭14.7 約3000名
支那事変参加 昭14.8~昭16.11 約3500名
大東亜戦争参加  昭16.12~昭20.8 約4000名
計 約17500名
祖国のため殉じた戦(病)死者数 440余名
聨隊が従事した戦闘回数 230回

騎兵第26聯隊
聨隊が受けた賞詞感状
昭和14年4月 南昌攻略作戦 賞詞授与
昭和14年7月 襄東会戦 感状授与
昭和16年6月 中原会戦 賞詞授与
昭和18年9月 武号作戦 感謝状授与
昭和19年11月 一号作戦 感状授与
昭和20年3月 老河口作戦 感状授与
此の碑の建設に直接協力した人員数 1000名
(以下略

騎兵第26聯隊
軍旗遺品合祠記念碑
明治42年9月23日明治天皇から親授された軍旗は聨隊の象徴として戦中嚇々の武勲を樹てたが昭和20年8月25日北支河南省郾城で奉焼された
奉焼された灰の一部を秘かに持ち帰った者数名が奉持していたので靖国神社に奉納すると共に茲にこれを合祠することにした
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

愛馬の鬣等埋没記念碑
我が聯隊の機動力の源泉として戦場を雄飛した軍馬のうち最後までその役に盡した960余頭は戦後異国にありて1頭だに祖国に帰ることはなかった
幸いに復員者数名が愛馬の鬣を持ち帰り保存して居られたのでそれを集め茲に埋没して愛馬に対し限りない感謝と親愛の情を披瀝しその霊を悼むものである
昭和63年4月28日騎兵第26聯隊会

騎兵第26聯隊跡 門柱と哨舎、記念碑が残る公園。(王ヶ崎東公園)

輜重兵第15大隊門柱
(愛知県立豊橋工業高等学校)

高校の敷地内に門柱が残されている。
文教地区はかつては軍事関連の場合が多い。
 愛知県立豊橋工業高校は輜重兵第15大隊
 愛知県立時習館高校は野砲兵第21聯隊
 豊橋市立福岡小学校は騎兵第19聯隊

時間都合でこのエリアはこのぐらいにしまして次の目的地に移動します…

愛知大学界隈から15分ほど北東に歩いていくと愛知大学が管理している飛地がある。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 

豊橋市指定有形文化財 明治45年(1912)建立。
第15師団長官舎→豊橋陸軍教導学校長官舎→豊橋陸軍予備士官学校長官舎。
昭和21年に愛知大学開設に伴い愛知大学学長公館などに使用。

「第15師団長官舎」 (愛知大学公館) 
豊橋市指定有形文化財
明治45年(1912)造。
洋館と和館が併設された平屋。洋館は公室、和館は私室として利用。 和漢洋館とも木造寄棟造桟瓦葺。
ほぼ完全の状態で残る師団長官舎としては全国でも稀な例であり、明治末期の和館洋館併設の木造住宅としても貴重。

洋館部分

和館部分

和館部分
1986年のカレンダー
30年以上、時を止めた空間がここにはあった

いつの日か、公開することはあるのだろうか・・・

「第15師団長官舎」(愛知大学公館) 
第15師団長官舎の地から豊橋鉄道小池駅に向かう途中、見つけました。

陸軍省所轄地 陸軍境界標石

9時半に愛知大学到着して散策開始、散策終了させたのが12時半。 ざっと3時間で愛知大学とその周辺の戦跡散策をしたかたちとなりました。
豊橋編はこれにて〆

今回、行ききれなかったところ(宿題)

時間の都合で今回の散策であきらめたところも多数。豊橋市内にはほかにも戦争当時を物語る遺跡が点在しております。
また次に往訪するときまでの宿題として。

豊橋市美術博物館 > 豊橋の美術・歴史・文化財・戦争遺跡を知る > 郷土の戦争遺跡・資料

http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=3315

中島飛行機半田製作所飛行場跡と半田散策

平成29年1月撮影

中島飛行機半田製作所

知多半田地区には、戦前に中島飛行機の工場があった。

中島飛行機といえば陸軍の戦闘機「隼」「鍾馗」「疾風」などが有名であるが、この半田製作所では海軍機を製造。

1943年1月末に主要建物が完成し半田製作所開設。
中島飛行機半田製作所では、主に海軍機2種類を製造。

艦上攻撃機「天山」
半田第1号機は1943年12月8日に完成。
終戦までに月産最大90機、平均月産49機、総生産機数は977機。

艦上偵察機「彩雲」
偵察機として抜群の性能を誇り、海軍最速機として追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」は有名。
半田第1号機は1944年6月に完成。半田製作所での制作機は427機。

北東の駅がJR武豊線「亀崎駅」(後述)。
西が「乙川駅」。
その南側の工場が中島飛行機半田製作所が転換された「輸送機工業株式会社」(富士重工の子会社)。
往時の滑走路跡を書いてみました。

中島飛行機半田製作所 滑走路跡

滑走路は長さ924mの1本。
南東側が堤防に当たるため、生産機である天山や彩雲を離陸できても着陸はできない離陸専用滑走路だったという。
ここより離陸した天山や彩雲は鈴鹿航空隊などに空輸されて再整備のうえで海軍へ納入された、と。

中島飛行機半田製作所の工場は滑走路の西に展開。
中島飛行機半田製作所は、戦後は輸送機工業株式会社に。(富士重工の子会社)。隣接する半田ソーラー発電所も当時の工場跡。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。

もうね、この滑走路末端部の「ターニングポイント」がこんな風に残って、往時の歴史を物語っているって興奮しますよね。

こりゃ、せっかく半田界隈にいるのであれば現地に行ってみないと。

戦後に米軍が撮影した航空写真

USA-R728-25
1947年12月26日撮影(昭22)
ターニングパッドと滑走路がはっきりと見える。無数の穴痕も・・・。
USA-R1493-154
1948年06月07日(昭23)
東の滑走路と、中央の工場部分がよく分かる。

中島飛行機半田製作所滑走路末端部
「ターニングパッド」跡


コンクリが見事に曲線を描いており、滑走路わきの排水路を構築しておりました。 円の中心部は住宅地となっておりますので、そちらは余り写さないように…。

円の反対側。
こちらは枯草に覆われ気味でしたが、排水路はキチンと残ってます。

この砂利が混じったコンクリート具合がステキです。

円形のターニングパッドから、真っ直ぐな に伸びる滑走路方向へと歩いてみました。

現地には案内看板のようなものは一切ないけど、間違いなくこの場所から戦地へと海軍機「天山」「彩雲」が飛び立っていった歴史があるのだ。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。
知らない人が見れば、ただの側溝。この側溝が戦前からここにあって、こうして今の世でもここにある奇跡に感謝する。歴史遺産として、静かに軍需工場の名残を伝えている空間は積極的な保存ではなく…ここにいつまでこうして残っていることか…と。

中島飛行機半田製作所跡

滑走路跡から西に歩むと「輸送機工業株式会社」がみえてくる。中島飛行機半田製作所の地に戦後に設立された会社。
2004年に富士重工業の完全子会社となっている。

建屋には大きく「SUBARU」 中島飛行機のDNAを継ぐ会社でもある。

JR武豊線「乙川駅」

この駅もまた中島飛行機半田製作所と縁が深い駅なのだ。工場への貨物側線を引くために高低差をなくす嵩上げ工事(盛土)を行い、その工事費用を中島飛行機が全額負担したという。
今も乙川駅の入口付近は嵩上げ名残の急坂が残っている。

中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫

そのまま歩いて辿り着いたのは「半田赤レンガ建物」

今でこそオシャレな建物ではあるが、このレンガ建物も紆余曲折あり、当初はビール工場、そして戦中は「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」となっていたのだ。

明治31年(1898年)にカブトビール製造工場として誕生。
昭和19年(1944年)に中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として活用され、戦後は民間のコーンスターチ製造工場となり、平成8年3月が半田市が所有。
登録有形文化財・近代化産業遺産

昭和20年(1945)7月15日。
「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」に米軍P-51戦闘機が超低空で飛来し急降下による機銃掃射を受け、その傷跡がレンガ壁面に残っている。この空襲では衣糧倉庫に火災も発生しており一部焼失する被害も出ている、と。

半田赤レンガ建物、今回は時間が無かったので外側を眺めただけで退散。
残念なことに赤レンガ建物の復刻ビールにありつけなかったのだ。半田ってビールもあれば、酒蔵もある(国盛)良い街ですね。これは今度ゆっくりもう一度来たい街になりました。


付記

JR武豊線「亀崎駅」
(JR最古の現役駅舎)

駅全体を損ねないカラーリングではあれど一際に大きいエレベーター跨線橋は2014年に新設されたもの。 今回の注目点はこれではなく駅舎そのもの。

この亀崎駅の駅舎。
なんと、1886年(明治19年)の開業当時から残るものとして「日本最古の現役駅舎」とされている。
(異説ありますが、現役駅舎として最古級なのは間違いなし)
この佇まい。
佳き雰囲気を醸し出しています。
とても綺麗です。

建物資産標
M19年1月

日本最古の現役駅舎。
当駅は、JR東海が2013年10月1日より導入した「集中旅客サービスシステム」により、大府駅管理の無人駅となっている。

駅舎後方。
まるで住居のようでもあり、面白いですね。(いまは無人駅だけど)
駅自体はこじんまりと綺麗に良くまとまっていました。
佳き駅舎。
もっとも、あっという間に鑑賞が終わってしまったので…さて、次に参りましょう…

JR武豊線「半田駅」
(JR最古の現役跨線橋)

日本最古の現役駅舎「亀崎駅」に次いで鉄道ネタとして訪れたのが同じくJR武豊線「半田駅」。
(亀崎駅から歩いてきて)到着は11時ごろでした。

※半田駅の跨線橋は2021年6月で現役運用終了。半田市が保存に向けて調整中という。

半田駅の跨線橋は、建築当時から変わらずに利用されている現役の跨線橋としては日本最古。
コチラも古く1910年(明治43年)11月完成という。
まずは駅の外側から見学してみましょう。

奇しくも武豊線には明治の鉄道建築物が集中して残っていることになります。
今回、たまたま半田に用事があったので、こうして見学できることになり運がよいです。これは。
跨線橋に萌えてきました。これもまた良い建造物です。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
良き味わい。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
跨線橋の脇には「ランプ小屋」も。 こちらも良き味わい。

せっかくなので入場券を買って中も見てみましょう。

開駅 明治19年3月(1886)
このこ線橋は、明治43年11月に完成 JRでは最古の駅です。

階段部分の斜めのガラス窓が美しい。

そして通路の天井。

跨線橋の根本。
ホーム上でずっと興奮しまくってます、わたしw

鉄柱には「明四十三 鐡道新橋」と書いてあるのかな。

こんな感じに跨線橋にだいぶ萌えてしまった私がいました。
まさか武豊線に歴史的な価値のある鉄道建造物があるとは思いもよらずで。

愛知航空機工場スリップ跡散策

平成29年1月撮影

愛知航空機永徳機体工場スリップ跡。 (稲永スリップ跡)

平成29年1月28日午後。
名古屋駅から「あおなみ線」に乗り南下を。
観光地的ではない場所。目的地は「野跡駅」より徒歩10分ほどだった。

通称、「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」。
「稲永スリップ跡」ともいわれる場所へ。

現在は「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
戦前は「愛知航空機永徳工場」。
この愛知航空機(愛知時計電機から分社)は主に海軍機を製造していた軍需工場。
その南西にある跡地…

稲永スリップ跡

スリップとは?
つまり「滑る」わけであり「スロープ」「水上機用傾斜面」のことをいう。

水上機は車輪の変わりに下駄(フロート)をつけており、地上から斜面を滑り着水するのだ。

愛知航空機

戦前日本では屈指の航空機メーカー。
日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造してきた会社。

代表作
「九九式艦上爆撃機」
「流星」
「流星改」
「零式水上偵察機」
「瑞雲」
「晴嵐」
「九八式水上偵察機(夜偵)」…
水冷式発動機「アツタ」
など。

このスリップから水面へ滑り出し飛び立っていった水上機たちに想いを馳せる…

零式水上偵察機(零式水偵)
戦艦・巡洋艦・潜水艦などの艦載機として、また水上基地からも運用できる長距離偵察機として昭和15年12月採用。
愛知航空機での生産数133機。

瑞雲
水上偵察機と水上爆撃機(急降下爆撃も含め)の統合を目指し、開発は難航するも昭和18年8月制式採用。
日本海軍が誇る傑作水上機のひとつ。

第634航空隊として、第四航空戦隊・航空戦艦「伊勢・日向」に搭載予定だったが…(師匠…
総生産数は約220機。

晴嵐
水上攻撃機・特殊攻撃機
伊400型・伊13型潜水艦に搭載。急降下爆撃も可能な潜水艦搭載用水上攻撃機。
昭和18年11月に初号機完成。
愛知航空機が産んだ最後の傑作水上機。

「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」
(稲永スリップ跡)

ちょうど私が訪れた時、15時ごろは干潮から満潮へとシフトしている最中でした。
赤い屋根は稲永スポーツセンター。
この先にかつての愛知航空機がありました、

この凸部は係留用の杭でしょうか?
コンクリートの粗さがたまらなく、歴史を感じさせてくれます。

石段が残っていました。

スロープになっているのがわかります。

しばし、往時を偲び佇むとき。

このスリップを滑りつつ、水面から大空へと飛び立てし水上機たちに想いを馳せる。

堤防の上より。
気がつけば、界隈で1時間近くを過ごしてしまいました。

感無量の空間。ここには案内看板もなにもないけれども、往時の激動の時代を伝承し歴史を刻みし空間が残っているのだ。

このスリップ跡界隈は、現在はラムサール条約湿地「藤前干潟」でもある。

現在の「愛知機械工業株式会社永徳工場」。
(戦前は「愛知航空機永徳工場」。昭和20年8月の終戦により軍需工場から民需転換)

脇を歩きながら、駅にもどりましょう。
現在の愛知機械工業株式会社は、日産の子会社。

あおなみ線「野跡駅」(のせき・えき)に戻ってきました。
名古屋駅から電車一本20分で行ける戦争史跡。往時の感じることが出来る貴重な空間。良き場所でした。

軍艦「長門」を偲ぶ

軍艦「長門」

「軍艦長門の碑」
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする

撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)


昭和21年(1946)7月28日深夜から29日未明にかけて。
1隻の艦が人知れずに太平洋の海へと姿を隠していった。

帝国海軍
戦艦「長門」

そんな彼女を偲ぶよすがに…

※写真はウィキペディアより

「陸奥と長門は日本の誇り」

昭和5年の少年倶楽部「いろはかるた」にあるとおりに、正にこの長門型こそが日本の誇りであった。
戦前戦中は長門と陸奥こそが「大日本帝国海軍」を代表する戦艦であり、国民から愛され慕われた戦艦。
あれっ?と思った人も居るかもしれない…

帝国海軍の戦艦を往時の少年たちは当たり前のように諳んじていた。
「長門陸奥、扶桑山城、伊勢日向、金剛比叡、榛名霧島」
この10隻が開戦時の戦艦・巡洋戦艦。

「大和武蔵」は?
戦中は大和型の存在そのものが極秘であり多くの国民はその艦を知る良しもなかったのです…。

開戦時の連合艦隊旗艦「長門」。
昭和16年12月2日の「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電は、この長門から打電。(大和の竣工は昭和16年12月16日、開戦直後)

※写真はウィキペディアより

建造当初から煙突排煙処理が問題となり大正13年(1924)に屈曲煙突に大改装。この姿が国民に親しまれ一番印象に残る姿とも。
私も一番好きな姿です。 (この屈曲煙突は昭和の大改装で廃止)

※写真はウィキペディアより

太平洋戦争時は、大和武蔵ともども主力艦として温存。
昭和17年2月には、連合艦隊旗艦の座を大和に譲っている。

艦に心あり

捷一号作戦では西村艦隊旗艦の予定であったが、宇垣纏第一戦隊司令官の反対で主力に編入。西村艦隊としてスリガオ海峡に突入することはなかった。

宇垣纏『戦藻録』
昭和19年3月6日、宇垣纏第一戦隊司令官は駆逐艦谷風より第一戦隊旗艦長門に乗艦した際に
「長門に着任、中将旗を掲げ死所とす。長門も縁ありてここに四度目の乗艦なり。艦に心あり余の乗艦を喜べば、余は彼女の健在と今日迄の奮闘を謝するものなり」と記している。宇垣は度々「長門」に乗艦しており、この一文からも長門を愛していたことが感じ取れる。
さらには、宇垣は捷一号作戦 にて武蔵が沈んだ際にも(『戦藻録』 昭和19年10月24日)
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり
思えば限りなきことなるも無理な戦なれば致し方がなし。明日大和にして同一の運命とならば麾下なお長門の存するあらんも、もはや隊を為さず、司令官として存在の意義なし。・・・」
と麾下の「長門」の存在を意識をしていた。

昭和20年7月18日。
横須賀空襲において艦橋が破壊され、そのまま修復されること無く中破で終戦。唯一残った戦艦であった。

8月30日に米軍に接収。
昭和21年3月18日にクロスロード作戦(米軍核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島ビキニ環礁に向け日本を出港。

その最後の姿を物語る絵画と写真。 昭和21年米軍接収の写真。

※写真はウィキペディアより
※画像はウィキペディアより

昭和21年7月1日の第一実験では爆心地から約1.5 kmの距離でほとんど無傷。長門とともに標的艦とされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂は爆心地近くの為に大破炎上、翌日沈没。

そして7月25日の第二実験。爆心地から900-1000m。 実験直後は傾斜を生じるも長門は海上に浮かんでいた。

その4日後の7月29日の朝。 実験関係者が「長門」の浮かんでいた海面を見れば、その姿は海上にはなく、静かに沈んでいた・・・。

阿川弘之著「軍艦長門の生涯」

激動の大正・昭和 日本の運命を背負った一隻の軍艦
… …
遠くビキニの海に沈む… 軍艦長門の生涯には あの時代の 日本と日本人がある!

軍艦長門碑

ありし日の
聯合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
政一書

揮毫は海軍中将新見政一
撰文は阿川弘之

長門の母港横須賀ヴェルニー公園にて

軍艦長門碑のモニュメントも 「屈曲煙突」時代をかたどっておりました。
多くの国民が耳目してきた帝国海軍のシンボルたる 「連合艦隊旗艦長門」の姿を。

軍艦「長門の副錨」

(平成30年6月撮影)

先日、中京方面に赴く用事があったので立ち寄ってきました。
岡崎市の東公園。
東岡崎駅から市民病院方面のバスに乗り東公園口にて下車。
東公園の中央に堂々とした記念碑がある。

「海の記念碑」
ここに軍艦「長門の副錨」が記念碑として保存されていた。

「海の記念碑」

碑文
時まさに岡崎市制六十周年
ここに岡崎市海友会は、創立六十五周年を記念し、戦艦「長門」の副錨をもって「海の記念碑」を建立する。
これは海国日本の永遠の平和を祈念する心の発露である。
昭和五十二年三月 岡崎市 海友会

シンボルになっている錨は戦艦長門の副錨で、戦後まもなくビキニ環礁でアメリカ合衆国の原爆実験の標的にされたときの唯一の遺品です。 この碑により、人々に広く戦争の悲惨さを知らしめ我国の恒久平和を願う象徴として設置されました。
※一説には昭和9年改装時に取り外した副錨とも

岡崎市の東公園。
長門の副錨の後方には恐竜のモニュメント。
こうして恐竜と対比してみれば長門の副錨の大きさがわか・・・?

長門の忘れ形見・・・

しばしのとき
長門を思い起こし、感慨にふける空間・・・

岡崎市 東公園
「三景艦主砲砲弾」
昭和57年4月29日 岡崎市海友会 創立70周年記念建立。
日清戦争の際に清国北洋艦隊「定遠」「鎮遠」に対抗するために整備した「松島」「厳島」「橋立」を三景艦と呼称。その32センチ主砲弾も記念碑に。

付記
岡崎市 東公園
公園には邸宅もありました。
「本多忠次邸」
こちらの本多さんは忠勝系の本多の末裔。昭和7年に世田谷に建てた住宅の移築保存だそうで。 このときは、すでに夕刻で閉門していたので外観のみの見学。

姉妹艦「陸奥」はこちらにて