平成30年6月
平成30年6月のある日。
この日の午前中は「豊橋」を巡っておりました。
目次
位置関係
国土地理院の航空写真から。
1946年09月21日に米軍が撮影した写真を一部抜粋。
写真データ:M263-A-3-13
豊川へ
午後は豊橋から豊川に移動。
13時、豊川駅到着。
駅前にレンタサイクルがあればよかったのですが、駅前にはなく。
豊川市が運用するレンタサイクルが「桜ヶ丘ミュージアム」で無料貸出だったので、まずはそこまで移動。
駅からちょっと遠い。20分くらい歩きました。
専用線路
現在は「日本車輌製造 豊川製作所」で製造される車両の輸送用線路であるが、この側線のルーツは「豊川海軍工廠」へ通じる線路だった。
「豊川海軍工廠」時代は通勤者を運んだ線路。
線路を横断して、「豊川海軍工廠平和公園」に向かいます。
豊川海軍工廠
日本海軍の工廠として、機銃や弾丸の製造を行っていた。当時は東洋随一の規模と称された。
昭和14年(1939)12月に5番目の海軍工廠として「豊川海軍工廠」が開廠する。
拡張を続け昭和20年2月の段階では従業員は職員400名、工員10000名、徴用工員40000名、動員学徒6000名の計56400名規模であったという。
豊川空襲
昭和20年8月7日、B-29爆撃機124機による大規模爆撃を受け工廠は壊滅。
犠牲者は工員や勤労学生を含め2600名を超えると言われている。
豊川海軍工廠平和公園
平成30年6月9日に新しく整備されたばかりの平和公園。
13時30分。到着。
豊川市サイト
豊川海軍工廠敷地外周の土塁と排水路
工廠敷地外周の土塁と排水路
豊川海軍工廠は敷地外周に土塁が巡り、その外側には排水路が設けられ数位と画されており、工廠内外への出入りは正門・西門・北門・北東門など限られておりました。昭和20(1945)年8月7日の空襲では、工廠外へ避難しようと人が集まった正門・西門附近に500ポンド爆弾が着弾し多くの犠牲者を出すなど、敷地が土塁と排水路により画され門が限られていたことは、空襲被害を大きくした一つの要員でもありました。排水路は戦後の改修整備で姿を変えつつも、今もなお豊川海軍工廠の存在を大地に刻んでいます。
防空壕跡
防空壕跡
豊川海軍工廠の敷地内には、空襲に備えた防空壕が各所に設けられていました。幹部職員が使用した鉄筋コンクリート地下室構造の防空壕もあったようですが、多くは素掘りで天井を木材で組み、その上に土を盛った簡単なもので、至近弾に対してほとんど無力なものでした。この説明板の左右にあるくぼんだところは防空壕の跡です。発掘調査の結果、全長4.5m、幅1m、深さ1.2mの長方形の本体に、二箇所の出入り口が屈折してとりつくコの字型の平面形であることが確認され(右側の防空壕)、掩蓋(天井の覆い)が無かった可能性もあります。公園内には、同じ構造の防空壕跡が3基残っています。
豊川海軍工廠時代の街路灯
豊川海軍工廠の構内通路の両側には、互い違いに街路灯が設置されていました。高さは4.45mで、鉄筋コンクリート製の柱身の上に鉄製の傘がのり、電球のソケットが傘の中心に埋め込まれています(園内に保存展示している街路灯は傘が失われています)。工廠内は、電気が地下配線となっており、電線は地下から中空となっている街路灯の柱身を通していました。公園整備前には園内に10基の街路灯が残存していましたが、そのうち8基を元位置及びその近くに保存・展示しています。
豊川海軍工廠当時の水槽跡
500ポンド爆弾の着弾跡
ここの旧第一火薬庫基底部をめぐるコンクリート側溝が壊れているのは、昭和20年(1945)8月7日の豊川海軍工廠の空襲で500ポンド爆弾がこの場所に着弾したことによるものです。この空襲では、124機のアメリカ軍B29爆撃機により3,256発もの爆弾が、10時13分から39分までの26分間に投下され、工員、職員、一般市民ら2,500名を超える人々が犠牲となりました。平和公園のある工廠の北側一帯は比較的空襲の被害が少なかったエリアですが、この空襲では短時間に大量の爆弾が投下され大きな被害を出しました。
旧第一火薬庫(豊川市指定史跡)
この建物は、鉄筋コンクリート・ラーメン構造(強固に接合された柱や梁などの軸組みによって建物を支える構造)の平屋建で、構造体に土をかぶせているため、建物の外観が見えません。本公園周辺は、豊川海軍工廠の火薬類を製造した工場があった場所で、火薬の保管のために使用された施設です。建物規模(盛土基底部で計測)は、東西47.75m、南北37.40mで、トンネル状の東西通路の北側に三つの部屋が並んでおり、部屋の出入口部には、全長27.15m、幅1.75mの木製足場が設けられています。木製足場から部屋に入ると間口6.87m、奥行2.14mの前室があり、その奥に間口8.21m、奥行7.87mの主室があります。鉄筋コンクリート造の部屋の内部に板壁を設けて二重壁構造とし、コンクリート壁と板壁の間の中空層が屋根部にある換気塔や北側の盛土基底部にある通気口などに通じるなど、火薬の保管のため室内の換気を調節する工夫が随所にみられます。
旧第一火薬庫・内部
旧第一火薬庫と旧第三信管置場(ともに豊川市指定史跡)建物内部については、文化財保護のため常時公開はしていないが、見学時間のタイミングが合えば豊川海軍工廠語り継ぎボランティア案内により見学可能。
今回は運良くタイミングがあわせられたので、内部も見学。
手前の部屋
奥の部屋
通路展示
配電盤と水道管など
この配電盤は、海軍工廠当時に使用されていたもので、平和公園東側にある旧薬筒乾燥場にあったものを、平和公園整備にあわせて移設しました。また、水道管は公園整備工事の不発弾処理で見つかったもので、制水弁には「水昭和十四年」、「水昭和十七年」の文字がみられます。
旧第三信管置場(豊川市指定史跡)
この建物は、弾丸の起爆装置である信管を保管した施設と考えられます。建物を高さ約5mの土塁で囲み、土塁内には南側のトンネルを介して出入するようになっており、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするものです。建物規模は、東西21.00m、南北10.00mで、東西方向の廊下の北側に三つの部屋が並びます。建物構造は、壁と廊下の屋根を鉄筋コンクリート造としますが、部屋の小屋組(屋根を支える骨組み)は木造となっています。これは部屋内で爆発事故が起きた際に、木造の屋根を吹き飛ばすことにより、鉄筋コンクリート造の躯体を残す工夫と考えられ、建物周囲の土塁とともに、豊川海軍工廠では火薬類を製造した施設に多く見られる建物構造です。各部屋の南北両側の壁上部には照明器具が設けられており、電球の交換は通気口のある部屋外側の扉を開閉して行う構造で、室内側はすりガラスで密閉されています。これは照明器具が発生する熱を、室内に入れないための工夫と考えられます。
旧第三信管置場・内部
豊川市指定史跡 豊川海軍工廠遺跡
「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」保存・修理工事概要
(略)
事業概要
昭和14年(1939)に開庁した豊川海軍工廠は、日中戦争から太平洋戦争、終戦に向かった日本の戦前の昭和史を如実に示す存在である。その設置は昭和18年(1943)の豊川市制施行の原動力となり、また昭和20年8月7日の空襲では2500人以上が犠牲となり多大な被害を出すなど、豊川海軍工廠は本市の近代史を理解する上で欠くことのできない歴史的事象である。
戦後、工廠跡地は工業団地、陸上自衛隊豊川駐屯地などに生まれ変わり復興を果たすが、ここ豊川海軍工廠平和公園及びその周辺地域では、空襲の被害を免れた旧工廠施設が名古屋大学の研究施設として再利用され、戦争遺跡として価値がクローズアップされてきた。
本事業は、戦争の記憶を伝えるモノ、豊川市の近代史を語るに欠かせない豊川海軍工廠を象徴する遺跡として「旧第三信管置場」「旧第一火薬庫」を保存することを目的とし豊川海軍工廠平和公園整備事業として、保存・修理を実施したものである。
工事概要
保存対象である「旧第三信管置場」と「旧第一火薬庫」は倉庫の一種であり、保管するものが火器に関わるものだったため、発火の原因を極力避け、また万一の場合にも周囲に被害を及ぼさないように工夫されていた。終戦後、名古屋大学が研究施設として活用する際に軽微な改装を施したが、この二つの遺構は当時の姿をよく伝えている。
しかしながら、長年の風雨によって破損・老朽化が進み、また遺構の周囲には草木が繁茂していたため、保存・修理の方針は、第一にこの貴重な戦争遺構を安全で容易に公開できる状態に復すること、第二に遺構のこれまでの時間経過を見学者が体験できるよう、破損・老朽化した部分すべてを建設当時の姿に修復するのではなく、部分的な復原にとどめることとした。
豊川海軍工廠で使用されたと考えられるフライス盤と旋盤
(名古屋大学寄贈)
ここにある2台の機械は、名古屋大学空電研究所(現宇宙地球環境研究所)で観測用機器の制作や補修等のために使用されてきたものです。右側が横フライス盤(切削加工を行う工作機械で、刃物が回転して切削を行う)、左側が旋盤(切削加工を行う工作機械で、フライス盤と違い製品が回転して切削を行う)で、取り付けられているプレートから、横フライス盤は昭和16年(1941)、旋盤は昭和17年(1942)の製造と考えられます。当時としては高性能な機械であり、海軍工廠の使用機器を戦後に払い下げを受けたものと考えられます。
建物を取り囲む土塁
豊川海軍工廠の北側エリアには、生産品の機銃の弾丸などで使用する火薬類を取り扱う建物が多くありました。これらの建物には土塁に取り囲まれたものがありますが、これは爆発事故が起きた際に、周囲に被害が及ばないようにするためのものです。本公園及び隣接する名古屋大学豊川キャンパス内には、このような建物を取り囲む土塁が数箇所残っており、土塁内外の基底部にコンクリート側溝を設けるもn(Aタイプ)と、土塁の外側には側溝を設けず(素掘り側溝が存在した可能性はあります)、内側の建物に石組みを備えた素掘り側溝を設けるもの(Bタイプ)があることが分かっています。また、土塁内外にはトンネルを介して出入りしますが、Aタイプは幅が広いトンネル、Bタイプは幅が狭いトンネルが設けられています。この二つのタイプの土塁構造は同時期の工法差ではなく、建設時期の差によるものと思われ、AタイプがBタイプに先行すると考えられます。この旧第三信管置場のど類はBタイプです。
豊川海軍工廠平和公園は再整備されたばかりでした。その再整備直後に運良く足を運ぶことができたのも、ボランティアさんの説明と時間がピッタリだったのも、何かの御縁かもしれません。再整備され見学しやすくなった戦跡の一方で公園外(名古屋大学豊川キャンパス)に残存している戦跡は更地になる方向だとかで・・・
さて、次の目的地に移動します。
豊川海軍工廠の西側を南下して、名鉄豊川線の南側にある墓苑に。
豊川市諏訪墓地
(豊川海軍工廠 諏訪慰霊碑)
元豊川海軍工廠被爆による戦没者のための施設です。
豊川市
墓苑内には豊川海軍工廠で犠牲となった皆様の慰霊碑が並んでいる。
ひとつひとつと対座し、そして合掌を。
豊商健児之碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)
豊橋市立商業高等学校
豊商健児之碑
碑文
神明宮の風清く
森厳森に溢れたり
聖諭奉載自己完結
いざや励まむ友よ永劫に
太平洋戦争耐なる昭和十九年四月、我等豊商健児四百四十余名は学徒勤労動員令下、使命感に燃え紫紺の桐花旗はためく母校をあとに勇躍豊川海軍工廠に出動、増産にその愛国の至誠と青春の情熱を捧げた
爾来一年五ヶ月、昭和二十年八月七日、敵B29を主力とする戦爆連合百六十九機の波状攻撃による大空襲に遭遇、二千五百有余名の犠牲者と運命を共にされた友、又学徒出陣して白雲流るる南溟の果に、波騒ぐわだつみの底に、或いは北斗の星輝くシベリヤの原野に散華された友、又志半ばにして病に斃れた友等、祖国日本の栄光を信じ護国の礎となられた学友十二名の鎮魂と世界平和を祈念し、我等の友情と団結の象徴として同級生相図り、母校創立八十周年並びに卒業四十周年を記念し此処に此の碑を建立する
昭和六十一年九月
豊橋市立商業学校
第十八回卒業桐八会
第十九回卒業桐久会
松操女学校慰霊碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)
昭和24年8月7日建立
松操女子高等学校職員生徒
松操学園 同窓会
松操高等女学校 遺友会
松操殉職者之墓
昭和24年8月7日建立
供養の碑
「若き乙女の松操よ 永遠に安らかであれ」
戦時下、豊川海軍工廠において昭和20年8月7日の空襲により二千五百余名の多くの命が奪われ豊橋松操裁縫女学校より勤労学徒として動員された教師、生徒、当校卒業の女子挺身隊の中より四十七名の若い尊い犠牲者を出したことは痛恨の極みであります。ここに五十回忌を迎えるにあたり、この思いを永久に忘れることなく、深くからだに刻みこみ、犠牲になった松操の乙女達よ心安らかれとご冥福を祈りここに供養の碑を建立するものであります。
平成6年7月8日
財団法人 松操学園
立命館大学戦没学生慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)
追悼文
広島に原爆が投下された日の翌昭和二十年八月七日午前九時二十五分から約一時間にわたり豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のために工廠にあった立命館大学の学生のうち表記の四名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り安らかな眠りを念願する。
昭和五十一年八月七日建立
立命館大学
立命館大学学友会
立命館大学二十二年専経専法同窓会一堂
遺族一同
豊川海軍工廠
総務部戦没者六十柱之霊塔
愛知高等実修女子校慰霊碑
(豊川海軍工廠学徒動員犠牲者慰霊碑)
学徒動員により豊川海軍工廠に出勤中爆死せる愛知高等実修女子校生徒並びに卒業生二十九柱の霊ここに眠る(略
昭和二十五年三月二十一日建立
殉職者遺族一同
愛知実修女子高等学校教職員一同
愛知実修女子高等学校同窓会
豊川海軍工廠行員養成所 友魂之碑
豊川海軍工廠工員養成所は中堅幹部の養成機関として昭和十五年に開設
一期生から六期生まで数えて約4千名がひたむきに学んだ
今ここに三十三年の歳月を回想し不幸にして戦禍に遇れた多くの友を偲び 第二養成所跡に之を建立した
昭和五十四年三月二十一日
元豊川海軍工廠工員養成所
豊養会
記念樹
海軍教官
早稲田大学戦没学生之碑
(豊川海軍工廠犠牲者慰霊碑)
昭和二十年八月七日(一九四五)豊川海軍工廠空爆ニ殉難死シタ故学友十二名ノ慰霊菩提(略
豊川海軍工廠
会計物資部戦没者五十三柱之霊
豊川海軍工廠
会計部計算部戦没者之霊
豊川海軍工廠
会計部慰霊碑
火材料係・指材料係
豊川海軍工廠
会計部機銃材料係供養塔
感謝と哀悼を
合掌
諏訪墓地をあとにして、北上。豊川海軍工廠の南側に向かう。
南門橋の交差点にも供養塔がある。
供養塔(豊川海軍工廠・南門橋)
供養塔建立の由来
この供養塔は、古よりこの地において戦乱により不慮の最期を遂げられた諸人、豊川海軍工廠戦没者並びに当構内における殉職者諸精霊供養のため、昭和54年8月10日に建立された。
はじめ、供養塔は当構内中央に建立されたが、豊川海軍工廠戦没者のご遺族並びに関係各位のご要望もあり、豊川市の遊歩道計画と期をあわせ、広く全国の皆様のお詣りがしやすいよう当敷地に遷座、諸精霊を供養し、合わせて永くこの地の平穏と繁栄を祈念する。
平成5年8月5日
建立者 株式会社 熊谷組
哀悼の意を。。。
南門橋の供養塔から東に赴くと、かつての「正門」の地に。
豊川海軍工廠正門跡
(日本車輌製造株式会社 豊川製作所)
豊川海軍工廠の正門は、現在は日本車輌製造株式会社の門として活用されている。
豊川海軍工廠開廠記念植樹ケヤキ並木
正門から一直線に伸びるケヤキ並木は豊川海軍工廠の開庁記念植樹という。
平和の像
(豊川海軍工廠神社跡地)
平和の像由来記
豊川海軍工廠は、東アジアに戦雲がたれこめた昭和十四年十二月、重火器、弾薬を製造する目的をもって開設された。
第二次世界大戦勃発とともに規模を光学兵器等の製造にまで拡大し、徴用工員、女子挺身隊員、学徒報国隊員を各地から動員して総員五万五千人を数えたが、昭和二十年八月七日午前十時三十分、アメリカ空軍の爆撃により一瞬にして尊い二千四百七十七名の人命を失い、広大を誇った工場も壊滅した。
終戦を迎えるや戦時中全従業員をもって組織した報国会が奉仕して、妙厳寺境内に大供養塔を建立し、台座に戦死者芳名を刻して冥福を祈った。
昭和三十二年八月七日、殉国者の十三回忌を迎えるにあたり元従業員をもって八七会を結成し、英霊の慰霊会員相互の親睦につとめ、毎年八月七日には盛大な慰霊祭を執り行い今日に至っている。
この間昭和三十七年には、金沢市卯辰山山頂に豊川海軍工廠女子挺身隊殉国者乙女の像が建立され同年八月十八日八七会員が金沢市を訪れて地下に眠る女子挺身隊員の慰霊祭を執り行った。
これを契機に被爆地豊川市に平和の像建立の委員会を結成し目的達成に努力した。
これが募金にあたっては豊川市を中心に全国各地から一千三百万円の浄財を集めることができた。
像の製作は、金沢美術工芸大学教授彫刻家矩幸成氏の力作を高岡市堺鋳芸社に委嘱し、昭和四十年八月一日完成をまって陸上自衛隊豊川駐屯部隊の協力を得て輸送隊を編成し、北陸道、東海道をパレードして沿道の県庁、市役所に立寄り、八月三日現地に安着した。
途上豊川海軍工廠において戦死した従業員の遺族が涙とともに礼拝する場面が各地に展開され、平和の像建立の意義がいかに大であるかを知ることができた。
かくして昭和四十年八月七日、数千の参会者を得て盛大な除幕式を挙行した。
ちなみに八七会の名称は、豊川海軍工廠壊滅の日八月七日を意味したものである。
記念すべき像の建立にあたり、この碑を建てる。
昭和四十年八月七日
八七会
かなざわの松
由来
この松は殉難おとめの像の建つ金沢市の卯辰山公園から平和之像と共に陸送、この所に移植したものです。
八七会
殉難おとめの像は金沢市の「卯辰山公園」にある像。石川県出身の女子挺身隊員も豊川海軍工廠にて52名が犠牲となっている。
豊川海軍工廠植樹の桜並木
1941年に豊川海軍工廠によって植樹された桜並木。桜トンネルとして愛されている。
余談だが、奥に見える三重塔は、某新興宗教団体・・・。
海軍標石
豊川海軍工廠の南側に残っている。中日新聞社豊川通信局の手前。
豊川海軍工廠戦没者供養塔
豊川稲荷の隣に。
供養塔の由来
昭和二十年八月七日午前十時三十分突如米軍機B29の大編隊が豊川海軍工廠に来襲。数千の爆弾、焼夷弾、無数の機銃弾が投下され廠内は一瞬修羅の巷と化し阿鼻叫喚のうちに職員、従業員、学徒、女子挺身隊員、雇員、傭員等の尊い命二千有余を奪ってしまった。其の惨状目を被はしめ混乱の状筆舌の及ぶところではなかった。
同年八月十五日終戦和平となるや豊川海軍工廠報国団が中心となり現地 に供養塔を建立して挺身国難に殉じた英霊二千余柱の冥福を祈らんとの議が起こり全国の資金と団員の汗の奉仕とにより十月二十五日地鎮祭を行い翌二十一年九月二十三日竣工除幕式を挙行した。
因に塔中には戦死者名簿と廠内縁りの土を納め各工場の石定盤に戦死者氏名を刻し台座周囲に組込み以て永久に冥福を祈らんとした。
偶々昭和三十二年八月七日此の地に於て英霊十三回忌法要厳修の際、生存者一同相諮り供養塔の概要を記し後世に伝えんとて此の碑を建立す。
右記す
昭和三十二年八月七日
元豊川海軍工廠従業員生存者一同
八七会
供養塔の四方には、戦没者の御名前が
職員 103名
総務部 204名
指揮兵器部 122名
機銃部 346名
光学部 111名
火工部 632名
器材部 176名
会計部 178名
医務部 17名
工員養成所 83名
派遣兵員 120名
学徒 452名
早稲田大学
日本大学
明治大学
立命館専門学校
摂南工業専門学校
豊橋市立工業学校
豊橋中学校
豊橋第三中学校
豊橋市立商業学校
豊川中学校
成章中学校
豊橋市立第二商業学校
豊橋松操高等女学校
豊橋桜ヶ丘高等女学校
豊橋市立高等女学校
豊橋市立女子商業学校
豊橋高等家政女学校
愛知高等実修女学校
新城高等女学校
国府高等女学校
豊川高等女学校
気賀高等女学校
緑ヶ丘高等女学校
誠心高等女学校
国府国民学校
牛久保国民学校
前芝国民学校
豊川国民学校
小坂井東国民学校
一宮西部国民学校
八南国民学校
合計2544名
それぞれのお名前が刻まれていた。
感謝と哀悼を・・・
大慈地蔵尊
昭和二十年八月七日、当市に於ける戦災没者二千四百三十九霊の成仏と永劫の冥福を祈り茲に大慈地蔵尊を造顕し奉る
供養塔の後方の森の中に。
明治27-8年 明治37-8年
戦没牛馬記念碑
明治39年秋再建
三河国牛馬商
今回の散策で唯一、豊川海軍工廠とは関係のない石碑。
16時過ぎ。
ひととおり豊川海軍工廠関連の散策をおえたので、レンタサイクルを返却しに桜ヶ丘ミュージアムに。ギア無しの自転車で結構頑張りました。
豊川海軍工廠、東洋随一の規模を誇った海軍工廠。
そのほんの僅かであれ、当時の様子を知ることができ、そして当時の惨劇を知ることができました。
豊川海軍工廠平和公園、良き施設でした。
しかし豊川市の平和公園の整備に感謝しつつも、その公園の対象外となった旧海軍工廠用地は売却され再開発。なんとも複雑な心持ち。ここまで残っていたものを、再開発という名のもとにいとも簡単に破壊してしまう状況に極めて悔しく。何もできずにその事実を受け入れるしかないのですが・・・。
この日は豊橋と豊川の戦跡をはしごしたために、知識欲も満足をしてしまい、豊川稲荷などには立ち寄らずに離脱。また豊川には来たいものです。
ありがとうございました。
〆
コメント
詳しくありがとうございます。
私の母方の祖父の名前が、供養塔の石碑に刻まれていると思います。
いつか行って来ようと思います。
コメントありがとうございます。御祖父様のお名前、供養塔で、ぜひ見つけてください。
岡本様が足を運ばれる際に、この記事が役に立てば、幸いです。