平成29年1月参拝
この日は名古屋市内を散策しておりました。
歴史の重みを感じながら…
御祭神の御心に感謝と哀悼を…
愛知県名古屋市中区三の丸鎮座
内務大臣指定護国神社
別表神社
戊辰戦争から第二次世界大戦までの愛知県関係の戦没者9万3千余柱を祀る。
創建は明治2年(1869年)。
明治2年5月「旌忠社」として、尾張藩主徳川慶勝が戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀り祠を建てたのに始まる。
1875年(明治8年)招魂社。
1901年(明治34年)官祭招魂社。
1939年(昭和14年)愛知縣護國神社に改称。
大戦後「愛知神社」に改称。
昭和30年に元の社名に復した。
昭和20年3月19日空襲で社殿焼失し、昭和33年に本殿・拝殿等、昭和57年に社務所、平成10年に神門・舞殿・廻廊が再建。
境内裏手には「官祭招魂社」「愛知神社」の社号標が残る。
お手水。献水像。
目次
鎮魂
マリアナ戦
渇死兵五万
希一杓献水
為平和四十周年記念之建
太玉柱
終戦50週年を機に、祖国・同胞・家族を護るため、身命を捧げられた愛知縣護國神社の御祭神九万参千余柱の神霊に感謝の誠を杉の真柱(地上9.3メートル)に託し、これを太玉串として捧げ、御英霊の遺訓を体し、今日まで祖国日本繁栄のため、盡瘁された先人をも顕彰し恒久の和平と安泰を祈念して建立。
愛知縣護國神社
拝する
ありがとうございます
御朱印を戴きました。
今日は護國神社を参拝すると決めていたから、持参した靖國神社の御朱印帳に。
靖國桜の舞う御朱印帳を巫女さんにお渡しした際に、巫女さんがニコって微笑まれたのが、ほんのりと嬉しく。
実は参拝したこの日(1月29日)、境内では餅つき大会が行われておりました。
流石に余所者がふらりと戴くのも気がひけるので、雰囲気だけは堪能し満足させていただきました。
狛犬さん。
護國神社に相応しい力強さがあります。
さて、境内の奥に参ります。
国旗掲揚台・・・と思ったら「宮城遥拝所」でございました。
戦艦大和記念碑
この記念碑には戦艦「大和」の主砲・四六糎砲(46センチ)九一式徹甲弾の実物が使用されている。
東海地区戦艦大和会奉納
46センチ九一式徹甲弾
長さ1955mm、重量1,460kg、最大射程42km
戦艦大和記念碑
碑文
戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった。
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和二十年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進行して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及駆逐艦八隻とともに、徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した。
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け優先奮闘したが、われには一機の護衛戦闘機もなく被害は累積して遂に沈没す。
この時伊藤司令官、有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした。
時に昭和二十年四月七日沖縄の北四八〇粁、想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気迫と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう。
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する。
昭和四十二年四月七日
東海地区 戦艦大和会
建立は4月7日。
まさに戦艦大和の沈んだ日。碑文を前にし目頭を熱くする…
この記念碑を目の前にし、当時の歴史を伝える徹甲弾に触れながら、散華された方々に静かに感謝と哀悼を捧げる。
戦艦大和記念碑
捧戦艦大和碑前
戦艦大和乗組の英霊2,700余柱を顕彰のため、東海地区戦艦大和会が昭和42年4月7日建立。記念碑主体は大和主砲(四六糎砲)弾の実物。昭和60年4月7日に整備改修。
パラオ海軍部隊慰霊碑
太平洋戦争に於てパラオ島を死守し奮戦せる海軍兵士の霊を永遠に慰む
大東亜戦争の激戦地パラオ海域の英霊を顕彰のため、海軍パラオ会中部支部が昭和54年2月2日建立。
慰霊碑主体は駆逐艦主錨の実物の錨と錨鎖。
住友重機寄贈(未装備品在庫を寄贈)。
パラオ海軍部隊慰霊碑
絶対国防圏最前線。パラオ諸島。 19年2月トラック島空襲により根拠地をパラオまで撤退せざるを得なかった海軍。それに対し追い詰める米軍によるパラオ大空襲は3月30日発生。これが古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職した海軍乙事件の引き金となる
海軍乙事件
昭和19年3月31日、パラオ島大空襲により司令部のミンダナオ島ダバオ退避を決行。
連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将らがダバオに向けて搭乗した二式大艇1番機が墜落により殉職し、参謀長福留繁中将らが乗る2番機は不時着しゲリラの捕虜となった事件。
写真は多磨霊園の古賀峯一墓と福留繁墓。
パラオ諸島で最大の激戦となったのがペリリュー島の戦い。
昭和19年9月15日に上陸したアメリカ軍は制圧するまで2ヶ月を要し、このペリリューの戦いがその後の日本軍の硫黄島や沖縄防衛戦に影響を与えることになった・・・
海軍飛行予備学生 飛行科士官 慰霊塔
碑文
はるかなる 雲流るる 果てにねむる あまたの若き み霊に捧ぐ
昭和四十三年十一月 社団法人白鴎遺族会
海軍飛行予備学生出身の英霊2400余柱を慰霊顕彰。
社団法人白鴎遺族会の愛知岐阜三重の三支部が建立。
海軍飛行予備学生慰霊塔
海軍飛行予備学生の概要
満洲事変のさなか昭和9年に入隊の1期生から第二次世界大戦末期昭和19年入隊の15期生まで 生徒は同18年入隊の1期生と同19年入隊の2期生で操縦偵察各専修と飛行要務にわかれた
入隊者10932名うち戦没2437名(以下略
神風特別攻撃隊
連合艦隊布告神風特別攻撃隊の士官戦没は769名
うち651名が予備学生出身者
刻まれし名の重みを感じつつ。 静かに手を合わせる。 合掌…
この頃(平成29年1月)は、護國神社の慰霊碑を悉皆調査、ことごとく参拝するという意識を有していなかったために、記録が足りません。
再訪しないといけません・・・
護國神社をあとにする。
境内の慰霊碑がある側とは反対側に、和風建築物があり。
「昭和館」と銘打っていた。
その隣にある桜華会館では「愛知平和記念館」が併設しているとのことで覗いてみたけど建物自体が閉まっていて。どうやら日曜休みのようで。 残念。
〆
コメント
私は、約6年前に、愛知県大和会の会員のお爺様に、昭和の森の大和主砲弾前にてお会いしました。
その方のお名前は、高橋海軍中尉です。大和生き残りだそうです。
呉の港の海底に、占領軍が上陸するから、大和の主砲弾2発を沈めて隠しておいたが、占領軍が引き上げた後、戦友同士で資金を集めて、サルベージ船に依頼し、靖國 遊就館に1発、そして、愛知県護国神社の昭和の森に1発、鎮魂の為に鎮座させたそうです。
最近、お目にかかっていないが、もう、他界なさってしまったのでしょうか?
コメントありがとうございます。
主砲弾のエピソード、知りませんでした。靖國の遊就館と愛知護国神社に奉納されている主砲弾にはこのようなエピソードがあったんですね、次回は意識して拝見させていただきます。
そして、海軍中尉様がご存命であれば95歳以上ですよね、、、
貴重なエピソードありがとうございます。