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「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

「怨親平等の観音様」松井石根大将と興亜観音・殉国七士之碑(熱海)

静岡県熱海市伊豆山。
太平洋を望む風光明媚な伊豆山鳴沢山の中腹。

陸軍大将 松井岩根が願主となって支那事変戦歿者を「怨親平等」わけへだてなしに慰霊供養するために建立された「興亜観音」が鎮まり、そして「殉国七士」をはじめとした昭和殉難者(殉国刑死者・ABC級戦犯)1068柱の御英霊、大東亜戦争戦歿者を慰霊する聖地が、熱海伊豆山にあった。

※「興亞観音」が正しい記載ですが、
 以下は一般的な「興亜観音」で記載致します。


興亜観音へ

興亜観音に赴くバスの本数は少ない。「興亜観音前」バス停というバス停があることにはあるが、いかんせん本数が少ないので、熱海駅からは「伊豆山循環」を利用して「小学校入口」バス停から歩くのがよい。

興亜観音前バス停のちかくにあるリゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山&VIALA」。この地は、かつて熱海に隠棲した松井石根陸軍大将宅跡。

興亜観音前バス停から、伊豆山鳴沢山を登る。
この山の中腹に興亜観音が静まる。

この先は駐車場。車であがってくるのも大変そうだ。


興亜観音(礼拝山興亜観音)

わけへだてなし「怨親平等」の観音様。
昭和15年(1940)2月24日に、松井石根陸軍大将の発願により支那事変での日支両軍の戦没者を、等しく弔慰、供養するために建立。
寺院としては、日蓮宗から分かれた法華宗陣門流系であるが、興亜観音はこれにも属さず、日本で唯一の独自の歴史と祭祀を持った独立した寺院。

御参拝の御方様へ
伊豆山の急な山道をお登りになり、ようこそ『平和の御使い 興亜観音』においでくださいました。ここ礼拝山(鳴沢山)は鎌倉幕府を開いた源頼朝が源氏の再興を祈願した祈りのお山でございます。
そして昭和15年、陸軍大将松井石根閣下が日支事変で命を落とされた日中双方の兵士の御霊を弔うため平和を祈願し、
この地に「興亜観音」を建立されました。

 以来長い年月の間、風雨に耐え、野に立っておられる観音様は、かつて戦場であった中国大陸の方に向かい、今も深い慈悲のまなざしで見つめていらっしゃいます。午前11時から午後3時頃が観音様のお顔がもっとも美しく輝く時間でございます。どうぞごゆりと心静かにお参りくださいませ。 合掌
 興亜観音 住職

興亜観音
施無畏
 願主 陸軍大将 松井石根書

施無畏(せむい)
仏語。
菩薩が、その威力や方便で衆生の種々の畏怖を取り去って救うこと。
無畏を施すこと。三施の一つ。施無畏力をもっているために,観世音菩薩は施無畏者と呼ばれる。

コトバンク 施無畏
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BD%E7%84%A1%E7%95%8F-87688#:~:text=%E3%81%9B%E2%80%90%E3%82%80%E3%81%84%E3%80%94%E2%80%90%E3%83%A0%E3%83%B0,%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%A7%B0%E3%80%82

松井石根は、熱海の自宅にも無畏の名を冠していた。

決意の證
松井石根大将は、支那事変初期に於ける敵、味方双方の戦没将兵を平等に弔う為に、興亜観音を建立されました。同大将は私共に忠誠心を以て國の為に命を捧げた日本将兵は、永遠に供養されなければならぬ事と、忠誠心の極まった所に生ずる佛心、即ち敵といえども戦没者の霊を丁重に弔う、我が國武士道の伝統に基づく「信」を教えられたのです。これは平和への願いであり、あらゆる善行の基本です。同大将の辞世の内に「自他平等、誠の心」とあり、これこそ武士道精神、声なき声、心の光として人を導いているのです。
 日本国民が天から与えられた至上命令は、人類の文明を破却から守る事です。私共は天を敬い、人を愛して、身を慎んで善を行い、自らに課す精神生活の充実が、我が民族の道徳水準の向上となり、これこそが人類の文明を破却から守る原動力になると言う堅い信念を以て、興亜観音を心の拠り所として善行に励もうと思います。
(以下略)

来山の若き人よ
 名にし負う伊豆山の
明媚なる風光を
 愛づると共に
しばしここに足を留めて
 篁のかそけき風の音の
底なる日本精神の
 真髄なる「天上の声」に
  耳を傾け給え。

平成19年春 興亜観音刻名石版奉納事業 

興亜観音

この場所には、不審者侵入阻止のために扉付きの山門を建立予定。
興亜観音建立80年記念奉賛事業で建立予定であったが、コロナ禍により延期。


偶然が重なり、興亜観音の伊丹妙浄住職のご案内で参拝をさせていただく。
伊丹妙浄住職は、興亜観音の4代目住職。
 「遠いところからわざわざありがとうございます」
 「興亜観音は知っておられましたか」
 「最近はお若い方の参拝も多くなりました」
非常に物腰の低い慈愛に満ちた住職様。


松井石根と興亜観音

松井 石根(まつい いわね)
明治11年(1878年)7月27日 – 昭和23年(1948年)12月23日
最終階級は陸軍大将。大亜細亜協会を設立し大亜細亜協会会長を務める。
上海派遣軍司令官として、「いわゆる南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて処刑された。

松井石根は、成城学校卒業後に陸軍幼年学校に進学し、陸軍士官学校へ入学。
陸軍士官学校を9期次席卒業し、明治34年に陸軍大学校に入学。陸大在学中に日露戦争に従軍。
明治39年に陸大を18期主席卒業。
明治40年、清国に派遣され、孫文と親交。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。また、蒋介石とも親交を深めた。
昭和2年、陸軍中将に昇進。
昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が高まるなか、6月4日に張作霖爆殺事件が勃発。前年に松井石根が調整して蒋介石の来日を働きかけ、合意していた「田中義一・蔣介石会談」(国民党による中国統一と日本の満蒙開発承認)が完全に瓦解してしまった。
松井石根の中国構想は破綻し、そして蒋介石は日本への不信感を高め、そうして昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国へと進んでいってしまう。
松井石根は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立(松井は設立発起人、後に会長に就任)。10月に陸軍大将に昇進。昭和9年に現役を退き予備役となる。

支那事変
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。
予備役だった松井石根に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。
そうして8月20日、上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて上海に向けて出港した。
10月30日には、上海軍と第10軍を統括する中支那派遣軍司令官も兼任。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行。日本軍が優勢となり11月12日上海陥落。

南京攻略戦
11月19日、第10軍は、独断で中国軍を追撃、「南京攻略戦」を開始してしまう。松井石根は暴走を制止したが間に合わず第10軍の暴走を追認せざるを得なかった。11月28日、参謀本部は、後追いで南京攻略命令を 発令。
12月4日、朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官に就任。中支那方面軍司令官専任となる。
そのまま南京攻略戦の指揮にあた り、12月10日に総攻撃を開始、13日に南京城は陥落し、17日に南京入城式が行われた。
南京入城の翌日12月18日に、南京戦において亡くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。松井石根は祭主として「中国軍の戦没者も併せて慰霊するようにせよ」としたが師団長から異論が出たために、日本軍戦没者のみの慰霊となったが、松井石根は、すでにこのときに日本と中国と両軍の慰霊を考えていた。

松井石根は独自の和平交渉を行おうとしていたが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言(近衛声明)で、松井石根の交渉の芽は全て摘まれてしまった。
松井石根は、軍中央部から中国寄りと見られ、その考え方の相違から更迭されてしまい、昭和13年2月に帰国し、再び予備役となった。

興亜観音
昭和13年5月、滞在していた熱海伊豆山温泉旅館涼々園主人の古島安二氏に伊豆山で余生を過ごしたいこと、戦歿将兵の供養などを打ち明け、古島氏が松井石根に協力。「観音像」を建立することとなった。

興亜観音の原型製作は、愛知県常滑の陶工柴山清風氏が快諾。
松井石根の後任で中支那派遣軍司令官となっていた畑俊六陸軍大将に「上海上陸以来、南京入城に至るまでの各戦場の土」の用意をお願いし10樽ほど送ってもらって、柴山清風氏と、そして彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼し、漁師合作で「興亜観音」塑像が完成。高さ1丈(3.3m)、推定重量は約600kg。

開眼式は朱桜わ15年2月24日、芝増上寺大島徹水僧正を導師として執り行われた。
柴山清風氏の露座「興亜観音」と同じ姿の瀬戸焼2尺(60.6cm)の「興亜観音」も堂内に安置。

その後
軍籍を離れた松井石根は、「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動、興亜思想の普及などに務めるとともに、仏門に励み、朝昼の二回、興亜観音堂に参拝するのが日課となっていた。
1945年8月15日、熱海伊豆山の自宅で終戦を迎える。11月19日、松井は戦犯指定を受けたが、肺炎を患っていたために巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期。
1946年3月5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経を上げるのを日課としていた。

松井石根は、極東国際軍事裁判において、A級戦犯(平和に対する罪)としては無罪であったが、B級戦犯(通例の戦争犯罪)では「捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)」での有罪とされ、死刑判決。
東京裁判においては首席検察官を務めたジョセフ・キーナン検事はこの判決について、『なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑まではないか。』と判決を批判していた。

昭和23年(1948年)12月23日
巣鴨プリズン内で松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の死刑が執行された。
松井石根は享年70歳没。昭和53年(1978年)、昭和殉難者として靖国神社へ合祀。


興亜観音の部下英霊に捧ぐ

以下に、松井石根の「興亜観音」建立に至った心持ちが取材された記事を引用する。

戦場の霊土で作り奉った
興亜観音の部下英霊に捧ぐ
 元中支方面軍最高司令官陸軍大将 松井石根

 (前略)記者は、堂主として余生を送るために、本籍までここに移されたといふ将軍を、観音堂に程近い、伊豆山麓のお住居にお訪ねして、将軍の興亜観音を建立された御心境を伺った。(記者)

 部下の英霊と共に住みたい —- それが、私の永い間の願ひであった。

 いまここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心から歓ばしく思ふのである。

 大命を拝して江南の野に転戦し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。
 南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。
 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。
 この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。
 また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
 ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。
 その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。
 この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。
 命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。

 すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。
 しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである
 両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。
 そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大非の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。

 更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
 諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。
 私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。
 携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。
 この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。
 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。
 諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。
 いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。
 私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。
 しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。
 言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。
 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。

「主婦の友」昭和15(1940)年4月号
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ 松井石根
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/6-2.html

興亜観音の後ろの崖は、最近は開発で山に追われたイノシシが頻繁に通行して、その際に木々やがれきを落としていくという。昔は観音様の周りの草木を伐採していたが、最近は観音様を護るクッションとして茂らせている、とは伊丹妙浄住職のお話。
樹木が「見苦しくて申し訳ないです」ともお話されましたが、いえいえ緑に包まれた観音様のお姿もお美しいです。

「彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立」された。
興亜観音は、中国大陸の方向を向いて鎮座している。

国土安穏
日本古来の伝統ある良き日本の心を大切に日々に感謝
御参詣各位の御健康を心からお祈り申し上げます
 礼拝山興亜観音

興亜観音縁起
支那事変は友隣相打ちて莫大の生命を喪滅す 実に千歳の悲惨事なり 然りといえども是所謂東亜氏族救済の聖戦なり おもふに此の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇慈悲の行 真に興亜の礎たらんとする意に出てたるものなり 予大命を拝して江南の野に転戦し亡ふ所の生霊算せいれいさんなし まことに痛惜の至りに堪へす 茲に此等の霊を弔ふ為に、 彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、 此の功徳を以て永く怨親平等に回向し、 諸人とともに彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る
因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心なる協力を感謝す
 紀元二千六百年二月
  願主 陸軍大将松井石根誌

紀元二千六百年は昭和15年。

興亜観音の右並びに3つの石碑が林立している。

南無妙法蓮華経
大東亜戦殉国刑死一〇六八霊位供養碑

(裏面)昭和43年12月8日 有志建之

大東亜戦争戦歿将士英霊菩薩

(裏面)
昭和19年4月
 願主 陸軍大将 松井石根 建之


七士之碑

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。

七士之碑
吉田茂書

昭和34年4月17日、興亜観音奉賛会建之

すめろぎの
 おほみいのちに
  代りませる
七つのみたま
 います奥城

松井石根
板垣征四郎
東条英機
土肥原賢二
木村兵太郎
武藤章
広田弘毅

七士之碑裏面
殉国七士 処刑直前の揮毫の写し


興亜観音・七士之碑爆破事件

昭和46年(1971)12月12日。
赤軍派「東アジア反日武装戦線」グループ数名が、「七士之碑」にダイナマイトを仕掛け爆破を行った。

「七士の碑」から、さらに導火線は「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑」を一巻きし、30メートルほど離れた「興亜観音」の腰にも導火線を巻きつけ、それぞれにダイナマイトを仕掛けた。
22時少し前、時限装置が発動し大爆音とともに「七士の碑」は粉々に砕けるも、隣の「1068名霊位供養碑」に上部「南無妙法蓮華経」の「法蓮」のところで、導火線がショートし、供養碑と観音様は爆破を逃れた。いまも、ショートして黒くなった部分が見てわかる。
「七士の碑」は爆破されて粉々になってしまったが、復旧作業が行われ、3つに割れた石を元に破片をあわせドイツ製の接着剤を用いて復元された。

南無妙法蓮華経の「法蓮」が黒くなっているのが、導線がショートし黒く焼けた部分。

爆破事件の際に砕けた「七士之碑」の破片。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


興亜観音本堂

本堂は熱田神宮造営の余材を用いて建立された。昭和15年の建立。

興亜観音
陸軍大将松井石根

当興亜観音は戦没者の慰霊と御供養をする霊場です
英霊緒霊位に畏敬の念を抱き現在ある幸せに感謝の心で御参詣を賜れば真にありがたく存じます
 礼拝山興亜観音

相模湾を望む


興亜観音本堂・堂内

伊丹妙浄住職の読経
南無妙法蓮華経 唱和し拝する。 

合掌

支那事変の犠牲者、大東亜戦争の犠牲者、極東軍事裁判で処刑された昭和殉難者、そして七士の御霊に。

堂内の様々な事物に関して、伊丹妙浄住職のお話を拝聴する。
ありがとうございます。
堂内総て撮影可、とのことでお話をお伺いしたあとで、パシャリパシャリと。
住職からお伺い出来たお話を踏まえて、ほんの一部ですが、以下に記載させていただきます。

興亜観音
朝香宮殿下(朝香宮鳩彦王)による揮毫扁額

興亜観音

霊座されている興亜観音と同じ姿で作られた、2尺(60,6cm)の瀬戸焼による観音様。

右       「日本国民戦死者霊牌」
中央  観音菩薩「松井将軍部下戦死者霊名(23,104柱)」
左       「中華民国戦死者霊牌」
 「殉国刑死1068柱の霊」
 「七士の霊」(松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)

支那事変日本戦歿者霊位

支那事変中華戦歿者霊位

松井石根閣下を祀る神棚

興亜観音 
 岩根書

パール判事

パール判事は、昭和28年、3度目の来日の際に興亜観音に参詣された。都合2回参詣されたという。

殉国七士 処刑前の揮毫(写し)

七士は、死刑執行の3分前に、両手が縛られた状態で最後の揮毫をおこなった。

昭和15年に画かれた中国の人々の様子

松井石根書

万歳
 岩根

巣鴨プリズンにて。
絞首刑台に向かう直前、最初の組(土肥原、松井、東條、武藤)は、松井石根大将の音頭で万歳三唱をされたという。
「天皇陛下万歳」 「大日本帝国万歳
それぞれ三唱。しかし、手錠のせいで、両手は胸の高さまでしか上がらなかった。
その次の組(板垣、広田、木村)は、前の組の万歳が聞こえていたということもあり、板垣征四郎大将の音頭で同じく万歳三唱を行った。

松井大将の外套

八紘一宇の絵画

松井石根大将の獄中の遺書(扇面)
その生涯を五言絶句に詠む

昭和21(1946)年から約3年間A級戦犯として巣鴨の獄中にあった松井石根大将。
昭和22年7月、古稀の誕生日に際して白扇の地紙に五言絶句の漢詩を以ってご自分の生涯を22行に集約して揮毫された遺書ともいうべき由緒あるもの。

上記を書き下し

古希誕辰 述懐
明治戊寅の夏 尾張牧野に生る
清和源氏の裔 歴代金城に仕ふ
武兵の第六男 幼にして凌雲の気有り
十六陸軍に入り 廿歳少尉に任ず
累升、大将を承け 勲位寵恩全し
夙に東方の事を志し 支に遊ぶこと十数年
初時燕京に赴き 又江滬に駐留す
朝野の士人と交り 日華親善に努む
帰って帷幕の賛に當り 出でて旅・師・聯に長たり
三次欧米に経き 軍縮・執権を談ず
審に國際の難きを知り 画策す東洋の社
侶中・偉和に座し 鞍を懸けて草野に臥す
上海の兵変に逢ひ  起き来たりて晩節を揮ふ
征師真に涙血 力戦愈々仁威
首府金陵を降し 皇軍神武熾なり
巧成りて戟を収めて還り 内朝の参議に任ず
興亜同盟立ち 大東亜戦酣なるや
中外の事を籌謀し 歴巡して西南に説く
国破れて戦犯の人となり 落莫たり幽牢の裏
老骨古希を迎へて 痩身荘志を埋む
俯して地に恥る無く 仰いで亦天に羞る没し
面壁専ら道を求め 心を放つ一味の禅
  昭和丁亥夏七月  巣鴨獄中に於て
   孤峯 石根

興亜観音開眼式
記念絵葉書
昭和15年2月

松井石根とご家族のお写真

衆生皆姑息
正気払神州
無為観音力
普明照亜洲
松井石根大将辞世 田中正明書

田中正明は松井石根の私設秘書であった。

堂本印象画伯の天龍画

堂本印象は近代日本画の大家

興亜観音本堂


本堂脇の休憩所

伊丹妙浄住職から、お茶をいただきつつ、談笑させていただく。
ありがとうございます。

興亜観音ヲ奉る

松井石根大将が巣鴨刑務所で記した興亜観音の詩

北京仏学研究院より松井大将閣下に贈られた書

作業された職人に手跡がついた木材。最近の合成木材では手跡がつくことがなく、これはこれで貴重なもの、だそうだ。

用材奉納
名古屋木材組合有志
昭和15年11月

熱田神宮の余材で建立。

徐州会戦 堤防修復の絵画

相模湾と狛犬
狛犬は昭和17年10月奉納


一段下がった場所にあったお堂は、乙女の祈りを捧げるお堂だった。

乙女の祈り

乙女の祈り
ソ連兵に身を汚されるくらいなら私たちは命を絶って純潔を守りますと昭和21年6月21日に、ハルピンにて22名の従軍看護婦さんが青酸カリで自決なされました。
この建屋の祭壇の従軍看護婦観音像を見守るように多くの観音像が安置され、総ての観音像の御胎内には、観音経がお収められています。
已む無き自決を決断せざるを得なかった清らかな乙女たちに思いを馳せ、無念の声なき声に耳を傾け、祈りを捧げましょう。 合掌

なぜか、小笠原海軍中将の額が。
小笠原長生は明治のイメージが強いけど、戦後まで長生きしてたな、そういえば。 

朝香宮殿下お手植えの菩提樹

昭和15年、松井大将の部隊に随行されていたご縁から朝香宮殿下が、興亜観音開山式の際にお手植えされた。

昭和17年10月奉納の掲揚台

熱海市中心部の方向を望む。
東海道本線は伊豆山の下をトンネルで抜ける。

相模湾、かすかに熱海城が見える。


各地の興亜観音

熱海の興亜観音が建立され、松井石根大将の「怨親平等思想」が広まると、共鳴した僧侶が自らの寺院にも「興亜観音」を建立したいと松井閣下に申し出があった。

  • 昭和16年8月11日  三重県尾鷲市 曹洞宗寺院 金剛寺
  • 昭和17年5月3日  富山県入善町 浄土真宗 養照寺
  • 昭和18年3月27日  奈良県桜井市 浄土宗 蓮台寺

機会があれば、これらの寺院にも参詣したいと思います。


授与品

お忙しいところ、伊丹妙浄住職には、大変お世話になりました。
ありがとうございます。

ちなみに、興亜観音でも御朱印をいただくことは可能です。昨今のブームの中でも、興亜観音で頂いている人は少ないようで、いわゆる御朱印サイトにも掲載がほとんどありませんでした。
ただし、興亜観音で御朱印をいただくためには帳面の持参が必要です。私は「興亜観音で御朱印」ということがすっかり念頭になかった為に、帳面を持参しておりませんでした。次回、参拝時には、靖國神社の御朱印帳を持参して参拝させていただこうと思います。

ご由緒書を頂き、御札を授かりました。

実は、松井石根大将のことは、さほどに深くは知っていなかった私でした。
今回、東亜観音にて松井石根大将の「施無畏」「怨親平等」のお心持ちを知ることが出来、認識を大いに深めることができました。

ありがとうございます。
また参拝させていただきます。


参考

参考文献として、「興亜観音を守る会」会報を使用したが、いわゆる「興亜観音問題」は私はよく知らない。「興亜観音を守る会」が守ることを放棄して崩壊した(平成23年に解散)という。
なお、昭和17年に設立された「興亜観音奉賛会」が唯一の公式団体。

興亜観音を守る会会報バックナンバー
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/backnumber.html
興亜観音第2号
興亜観音ものがたり 第1回
興亜観音第3号(平成8年4月18日号)
興亜観音はどうして建立されたか 伊丹忍礼
興亜観音ものがたり 第2回
興亜観音第6号(平成9年10月18日号)
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ ・・・松井石根(「主婦の友」昭和15年4月号より)
興亜観音第7号(平成10年4月18日号)
殉国七士の墓、興亜観音にその墓があるわけ  伊丹忍礼

興亜観音公式サイト
http://www.koakannon.org/index.html
興亜観音 いつも そして 永遠に
https://www.facebook.com/kouakannon/
興亜観音リーフレット
http://www.koakannon.org/box2/k03.pdf
興亜観音のいわれ(創建時 本修院道場主 伊丹忍礼)
http://www.koakannon.org/box4/a01.pdf


関連

市ヶ谷
極東軍事裁判は市ヶ谷の法廷で執り行われた

巣鴨拘置所
松井石根をはじめとする殉国七士は巣鴨プリズンで処刑された

久保山
松井石根をはじめとする殉国七士が火葬され、そして遺骨灰が収集された

靖國神社
殉国七士をはじめとする昭和殉難者の皆様は靖國神社に祀られている

殉国七士を偲ぶ慰霊の鐘

「河野壽大尉自決の地」二・二六事件と熱海陸軍病院跡

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。

2・26事件と河野壽大尉

河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

河野壽大尉以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

牧野伸顕
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、君側の奸( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

二・二六事件
河野壽大尉自決の地

河野寿大尉自決の地
 河野寿大尉(28才)はニ・ニ六事件において、湯河原の伊藤屋旅館の貸別荘(当時)である光風荘に滞在していた牧野伸顕前内大臣(大久保利通の二男、麻生太郎元総理の曾祖父)を8名で襲撃し、護衛の皆川義孝巡査と相撃ちとなり、熱海の陸軍病院で治療をした。
 ニ・ニ六事件は陸軍皇道派の青年将校が、世界恐慌を発端とした昭和恐慌、また冷害による凶作によって疲弊する東北地方の農村の状況を座視し得ず、世直しを目指して取起した事件。昭和11年2月26日、第一師団を中心に1,483名を率いて、政府要人および天皇側近6名を襲撃し4日後には反乱軍となり鎮圧された。
 反乱軍となった河野大尉は3月5日、兄の司氏に果物ナイフを差し入れて貰い、午後3時半頃、病院の裏山で割腹し首を6箇所も切って、翌朝6時半絶命した。
 陸軍病院は戦後、国立熱海病院となった。昭和39年熱海バイパス国道の開通によって病院は分断され、山側は国家公務員共済組合連合会(KKR)に売却された。病院は取り壊され荒地となって放置されていた。
 平成2年に地元有志が自決跡に目印の石を置き、平成5年に標柱を立てたが、KKRホテルの建設に伴いそれらは撤去させられ、平成15年6月19日に関係者一同で現在地に石碑を建立した。
 光風荘は日本で唯一のニ・ニ六事件資料館として土日祭日開館しており、入館時間は午前10時~午後2時半。
 湯河原駅より奥湯河原行きバス乗車、万葉公園入口下車、徒歩1分。
 問合せは、湯河原町役場・地域政策課(0465・63・2111)
平成25年9月 
 看板菅理者川久保勲0557(83)4636

入口にはいくつかの案内があった。

熱海陸軍病院裏門跡
河野寿大尉自決の地
豆相人車鉄道軽便路

場所

https://goo.gl/maps/hqVFnt3ZzPrGL1NG8


東京第一衛戍病院熱海分院
熱海陸軍病院
(現・国際医療福祉大学熱海病院)

現在の国際医療福祉大学熱海病院とKKRホテル熱海のあるあたりに、当時は熱海陸軍病院があった。

明治44年(1911)5月、東京第一衛戍病院熱海分院が創設。
昭和13年(1938)2月、臨時東京第一陸軍病院熱海分院と改称。
昭和20年(1945)12月、終戦により厚生省に移管、国立東京第一病院熱海分院として発足。
昭和25年(1950)7月、国立東京第一病院から分離独立し、国立熱海病院に改称。
平成19年(2007年)2月、国際医療福祉大学熱海病院となる。

熱海陸軍病院の裏山。河野寿大尉自決の地。

KKRホテル熱海。
写真の後方奥に、熱海病院


熱海陸軍病院の陸軍境界標石

河野寿大尉自決の地から山の反対側に当たる場所。熱海駅側に標石が残っていた。

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/khT5H6qyBNakEuAUA

熱海

風光明媚な熱海の海を望みながら、自決された河野大尉。
二・二六事件の歴史をほんの僅かに残していた、熱海でした。


関連

渋谷にある「二・二六事件慰霊碑」は、河野壽大尉の兄であった河野司氏が中心となって建立された。

麻布の賢崇寺は、二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。

河野司さんが代表を務めていた佛心會(仏心会)

https://busshinkai.or.jp/

「二・二六事件」海軍の動き。

こちらは湯河原。

2・26事件資料館「光風荘」

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/koufusou.html

浜松陸軍墓地跡と戦跡散策【浜松1】

令和元年7月

浜松に赴く用事があったので、脚を運んでみました。

浜松陸軍墓地跡
(住吉墓苑平和記念広場)

浜松には歩兵第67聯隊が明治41年(1908)に進出したことにより軍都としての一歩が始まる。。
大正15年(1926)には立川の陸軍飛行第7聯隊が進出。のちに浜松陸軍飛行学校として拡大し、また三方原教導飛行団なども展開。周辺には軍需工場も展開され、浜松は一大軍事拠点となっていた。

浜松陸軍墓地は明治41年の歩兵第67聯隊の進出にあわせて、兵営・練兵場などとあわせて設置された。

昭和18年(1943)に浜松陸軍墓地の地に「忠霊殿」が竣工。戦後は遺族会が管理していたが平成17年(2005)に老朽化により解体。忠霊殿祀られていた10857体の位牌は処分を強いられたという。

総務省サイトには【1万857柱の戦死、戦災死者を合紀する住吉「忠霊殿」 】があると記載されているが、その忠霊殿は、既にない・・・

総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 浜松市における戦災の状況(静岡)

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html

浜松の瓦屋さん(柳本産業)のサイトに「忠魂殿」屋根瓦が保管されている旨の記事がありました。(2010年の記事、現在はわかりません)

https://yanagimoto.hamazo.tv/e2561754.html

公園に保存するという話も立ち消えてしまたようで、なんとも複雑な気持ち。
次回、浜松に訪れる機会があれば、この瓦屋さんにも足を運んで、残っていれば拝見させていただきたいな、と思いつつ。

濱松陸軍墓地道
(浜松陸軍墓地跡)

濱松陸軍墓地道
昭和七年十月 濱松會建之

平和の道標
皆さんの美しい故郷の
山や河を守り
日本の平和と豊かな
暮らしを願いながら
長い戦争の中で
亡くなられました。
今日の平和を思う時
私達はここに眠る人々を
決して忘れません。
この尊い心を受け継ぎ
感謝の心を持って
一日、一日を
大切に生きましょう。
 平成25年9月吉日
 浜松市遺族会

英霊顕彰之碑
(浜松陸軍墓地跡)

英霊顕彰之碑
昭和57年7月17日
静霊奉賛会浜松市連合支部長建立

平和祈念の碑
(浜松陸軍墓地跡)

平和祈念の碑
 この碑は、戦争中軍人や軍属として、弾丸に傷つき、あるいは、病魔に侵された傷痍軍人、及びその生涯を献身的に扶けた妻の記念碑である。
 われらは、戦争の悲惨を、身をもって体験した者として、二度と戦争をくりかえすことのないよう心から訴える。
 ここに、日本の繁栄と世界の恒久平和を祈念し、われらが最後の傷痍軍人であり、またその妻であることを願ってこの碑を建てる。

 終戦50周年記念
 平成7年8月吉日
 浜松市傷痍軍人会
 同 妻の会

忠霊殿 扁額か?
(浜松陸軍墓地跡)

忠霊殿
昭和廿八年八月とある。戦後の昭和28年に作られた忠霊殿の扁額か。

前述のとおり、ここにあった忠霊殿は解体されてしまった。

陸軍標石

「陸軍用地」と記載のある標石が、住吉墓苑平和記念広場公園内(恐らく移築されたもの)と、住吉墓苑南古墳近くの2つを確認。

「住吉墓苑平和記念広場」内の陸軍標石

「住吉墓苑南古墳」の近くにある陸軍標石

住吉墓苑南古墳

住吉墓苑南古墳 住吉四丁目
旧陸軍墓地(現青少年の家南側)にある住吉墓苑古墳は、古墳時代中期末、五~六世紀の前方後円墳である。現在は高さ3米、直径30米ほどの後円部が残るのみであるが、墳丘には楠やはぜの木などの多くの木々が枝を広げ、各種の野鳥の四季折々の住みかとなっている。
戦後、旧陸軍墓地は住吉墓苑と改められ、青少年の家、白亜の霊廟の忠霊殿などとともに、広く市民の憩いの場として親しまれている。

あぁ、「白亜の霊廟の忠霊殿」・・・

青少年の家

この地図をみて、いまさら気づきました。。。。
「トーチカ」ってなんですか???
見損ねました・・・あちゃあ。

門柱跡
(浜松陸軍墓地跡)

位置関係(浜松陸軍墓地)

今昔マップ on the web 」より。
「歩兵営」と「練兵場」「陸軍墓地」があるのがわかる。
(大正6年測図)
「歩兵営」は現在の「静岡大学浜松キャンパス」
「練兵場」は現在の「和知山公園」

静岡大学浜松キャンパス には、往時の門柱が残るというが今回は未訪問。
さきほどのトーチカとあわせて次回の宿題とする。


浜松城公園に移動。

浜松市戦災被爆者慰霊碑
(浜松城公園)

浜松市戦災被爆者慰霊碑
浜松市長 平山博三 書

慰霊碑撰文
昭和十六年(一九四一年)十二月八日
太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った
この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた
特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた
人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった
しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく
かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである
 昭和五十四年三月二十一日
 浜松市戦災被爆者慰霊記念碑建設委員会

浜松市及び周辺の空襲被害状況
戦災死者 3,549人
戦災重軽傷者 4,870人
全半壊建物 7,536戸
全焼家屋 20,303戸
半焼家屋 462戸
投下弾 3,081発
焼夷弾 79,553発
砲弾(艦砲射撃) 20,000発
飛来機 B29 557機
    小型機 500機
被災地域 全市の70%

合掌。


浜松復興記念館

戦後の復興土地区画整理事業が昭和58年3月に終了したことを記念して、昭和63年に開館。

艦砲弾の破片、焼夷弾の弾頭、爆弾の筒
武蔵
武蔵

浜松市復興記念館公式サイト

http://fukkoukinenkan.com/

浜松城公園の南、五社神社・諏訪神社の南に位置している。この場所はかつての浜松医学校跡。

せっかくなので、こちらにも足を運んでみた。
郷土資料からみる戦争資料と復興資料。こじんまりとした空間であれど、なかなか見応えはあった。
浜松は空爆のみならず艦砲射撃を受けた街ということもあり、その破片も生々しく。

五社公園

向かいの五社公園は「旧浜松市役所」という。
さらに前にさかのぼると「杉浦国頭邸跡」という。
いくつかの記念碑があった。

戊辰之役報国隊紀念碑(五社公園)

遠州報国隊。
慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで勝利し、徳川慶喜追討のため江戸に向かった官軍に、同行・協力するため神職を中心に結成された有志隊。

万葉歌碑 引馬野爾の歌 (五社公園)

万葉集遠江歌考
賀茂馬渕

浜松といえば賀茂真淵。すっかり失念していました。

愛郷 顕彰碑(五社公園)

浜松市消防殉職者を祀る。昭和41年建立。

誠忠碑・鳩の塔(五社公園)

帝国在郷軍人会浜松連合分会が発起、浜松尚兵義会が建立。
大正8年(1919)の創建。
日清戦争・日露戦争・第一次大戦の戦死者の霊を祀る。

ここには何も説明がなく、予備知識がないとまったくよくわからない塔。
ただ造形美と、堂々とした姿に「これは只者ではない」と感じさせるなにかがある。忠魂塔と知れば、なおさらである。
できることであれば解説板を設けてほしい。ちょっと残念な状態が嘆かわしく。


浜松には、「 エアーパーク 航空自衛隊浜松広報館 」もあり、他にも多くの戦跡が残っており見どころ豊富。
次回以降の課題としたいと思う。