浜松三方原の陸軍戦跡散策【浜松3】

「三方原の戦跡」と書いてしまうと、元亀3年(1572)、三方原古戦場での徳川家康と武田信玄の「三方原合戦(三方原の戦い)」の跡地を巡る散策になってしまいそうなので「三方原の陸軍戦跡」ということで。
それもそれで興味があるが、ここでは「浜松の三方原に展開された大日本帝国陸軍関連の戦跡」を巡ってみたいと思う。
この日は、浜松駅近くでレンタサイクルを借りての散策でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。 零式艦上戦闘機五...

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


三方原陸軍飛行場跡地散策

半田山トーチカ(半田町のトーチカ)

静岡県浜松市東区半田町に残るトーチカ。

前面部のみのトーチカ。なぜか西を向いている。
防衛を考えると南を向くべきでは?
もっともこのトーチカは再開発で移築されたものともいう。真偽不詳。

西を向いている。三方原飛行場の方向。

トーチカの跡
 太平洋戦争中、この船岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名残が今もみられる。幸いにもトーチカは使用されることはなく、平和な時代を迎えた今、当社の新鋭工場が建てられ、活躍しているというのも新しい時代の流れである。
 平成3年4月吉日 株式会社桜井製作所

場所


三方原飛行場の掩体壕

三方原飛行場のあったエリアの北側に。
民家の一部に掩体壕が残っている。

場所


東三方神社(赤松の鳥居)

奥山半僧坊への参詣道に鎮座。「赤松の鳥居」は奥山半僧坊への遥拝所でもあった。
昭和16年6月に陸軍よって松の大木や鳥居・石碑などが敵の攻撃目標にあるという理由で撤去。
当地の西側に三方原陸軍飛行場があり、このあたりが「三方原爆撃場」として使用された。
戦後、三方原陸軍飛行場は開拓地として再開発され、昭和39年に鳥居再建された。

これも、三方原陸軍飛行場に連なる戦跡のひとつ。

場所


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱だという。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角にあった三方原の演習廠舎に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もあるというが、調査漏れで未探索。悔しい。
ひとまず、Googleストリートビューでお茶を濁す。
※再訪しないと

場所

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四勇士の碑跡

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

三方原陸軍飛行場の飛行第7聯隊の重爆撃機の墜落地点に建立された慰霊碑・・・がない。

説明解説板はあれど、慰霊碑がない。
「この碑は・・・」って説明があるのに、ない。

誰かに訪ねたいとおもっても、誰もいない。。。
このときは、撤去された??と思い、諦め。

改めて少ない情報を手がかりに調べてみると、どうやら近くの「三方原神社」に移築されているらしい。
こちらも再訪、ですね。。。

ここに慰霊碑があった。

在りし日のGoogleストリートビュー
情報がなさすぎて、無くなっていることがわからんなかった。。。

墜落現場の場所

移築場所?三方原神社(ただし未確認)


徳川家康のエピソードで有名な「小豆餅」。ここにも「昭和の戦跡」があった。

第一航測聯隊跡

第一航測連隊(中部百三十部隊・陸軍航空通信隊第130部隊)
航測技術の取得を目的とした教育部隊。
第一航測連隊は、当時最新の航空工学の部隊であった。戦局悪化の昭和20年7月に滋賀県日野町周辺に貨車300両と兵員1500余名が疎開。小豆餅地区の残留部隊300余名は残務や農園作業に従事し終戦を迎えている。

(表面)第一航測聯隊跡
(裏面)有志一同之を建つ 昭和61年9月 

碑誌
第一航測聯隊は、昭和17年4月22日、水戸市郊外にあった第11航空教育隊において、聯隊本部、第一、第ニ中隊および材料廠をもって編成。4月末、三方原演習廠舎に移駐、12月新兵舎の完成とともに、八個中隊の編成を完結し、ここ小豆餅地区に屯し、昭和20年7月、滋賀県日野町周辺に部隊移動、終戦を迎えた。
聯隊の使命は、地一号方向探知機および対空二号無線機をもって、友軍機の、航空基地への帰投誘導や各種作戦任務飛行の航行支援にあたる航測手の、基本教育と錬成訓練をもって本旨とした。

黒松は、当時からの面影を残す。

「小豆餅子供の遊び場」公園内に、第一航測聯隊の碑があった。

場所


六所神社

静岡県浜松市東区半田山鎮座。
延喜式神名帳(遠江国・長上郡)「朝日波多加神社」延喜式内論社(小社)。旧村社。
浜松医科大学の東側に鎮座。台地を背にし東面している。

境内には地元の方々によって「日清日露戦役記念碑」「大東亜戦争慰霊碑」「忠魂碑」、そして「平和観音」が建立されている。

平和観音は平成7年11月建立。

場所


三方原古戦場跡(犀ヶ崖)

もちろん三方ヶ原なので、「三方ヶ原合戦」の戦跡記念碑も界隈にはある。
正確には、この地は「三方原の戦い」で破れた徳川家康が、浜松城に迫る武田信玄軍に対し、地の利を生かして反撃し一矢報いた「犀ヶ崖の戦い」の戦跡。


三方原エリアは、結果として散策漏れ多数。
また浜松を訪問する機会があるときに再訪したいと思ってます。

※撮影及び散策は、2020年11月


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