浜松駅周辺の戦跡散策【浜松5】

浜松駅周辺の戦跡散策。浜松空襲の名残をたどってみる。


揚子橋に残る弾痕

馬込川にかかる揚子橋(ようずばし)。橋の南北に激しく機銃掃射による弾痕が残っている。弾痕は約50箇所にも及ぶという。

浜松は、その都市の規模に比べ、異様なほど多くの空襲を受けた。また艦砲射撃も受けている。
軍事施設や軍需工場が集まっており、また東海道の要衝でもあり、東京や名古屋を爆撃するB29の飛行航路にも当たっていたという複数要因があった。

揚子橋の弾痕がいつのものかは不詳。

場所


動員学徒追悼・慈光観音像(林泉寺)

学徒動員により動員現場で死亡した娘を追悼する母親の願いを受けて、1999年に建立。
観音像は学徒動員された10代の若き女性を模している。

慈光観音
為 学徒動員
青春散華

場所


戦歿者慰霊塔(河合楽器)

河合楽器の敷地内にある慰霊塔。河合楽器関係者の戦歿者を祀る。
河合楽器も軍需工場に指定されピアノ工場では爆弾倉や脚扉が作られていたという。
そこでは学徒動員も行われ、芥田学園や西遠女子学園などの多くの女学生が動員され、そして空襲等で亡くなっている。

場所

〒430-0925 静岡県浜松市中区寺島町199

市民の木・プラタナス

市民の木
 昭和20年6月18日の”浜松大空襲”により市街地の大半が焦土と化し、プラタナスの並木も枯死したと思われました。
 しかし、奇跡的に3本だけは幹に焦げ傷を残しながらも市民の愛の手に守られ、2年後の春に見事に発芽しました。
 以後このプラタナスは通行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。
 戦火の中からよみがえり市民ともに生きた木として、昭和39年6月には”市民の木”と命名された記念すべき樹木です。
 浜松市

場所


静岡銀行浜松営業部(旧遠州銀行本店)

昭和3年(1928)竣工。中村與資平設計の銀行建築。浜松市指定文化財。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所


鴨江アートセンター(旧浜松警察署)

昭和3年(1928)竣工。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所


木下恵介記念館(旧浜松銀行協会)

昭和5年(1930)竣工。浜松市指定有形文化財。
設計は、中村與資平。前述の旧遠州銀行本店と同じ設計者。
浜松空襲を耐えた建築物。上記の警察署の向かいにある。

中村與資平は静岡県内に多くの建物を残している。
豊橋市公会堂、静岡市役所本館、静岡市公会堂、静岡県庁本館など。

場所


夢告地蔵尊

戦争の犠牲となったお地蔵様。

夢告地蔵尊由来
この地蔵尊は安政五年(西暦一八五八年)に大流行したコレラで死んだ人達を供養する為建立されたもので、延命地蔵尊と呼ばれ、遺族達の香華が絶えなかった程の大繁昌ぶりであった。その後明治七年、小野組の大火災に遭い、更に廃仏毀釈の影響で取り壊し令が出て、地中に埋められた。大正八年になって當町住人小柳丈之助といふ人が、「地蔵尊が地上に出たい。」といふ夢を見て、町民一体となり埋められたと思われる庚申堂境内をあちらこちら掘り捜した結果、三日目に發見地蔵尊を復元し、夢告地蔵尊と銘命した。當時このことが異常な評判を博し、特に、花柳界に反響を及ぼし、東西より粋な婦人の参拝が後を絶えなかったと云ふ。其の後、大東亜戦争中、爆撃と艦砲射撃により、御本体御堂共目茶目茶に破壊されてしまったが、戦後再び地蔵尊を復元し、昭和二十六年、現在の場所に、御堂を造り、恭々しくお祀りしたのである。昭和五十一年にいたり、この御堂はすでに老朽化し、倒壊寸前の状態にあり、之の新築を計画したるところ、幸いにして町内外有志の御賛同と御喜捨を得て、茲に総檜造りの御堂を、新築落成したのである。
昭和五十一年六月二十五日落成式佳日誌 世話人

場所


一連の浜松の散策記録はひとまずこれで〆。
浜松は戦争関連の歴史が多く残されており、まだまだ散策しきれていません、きっとまた訪れることもあるかとは思いますので、そのときには別途追記していきます。

※撮影及び散策は2020年11月


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