浜松陸軍墓地跡と戦跡散策

令和元年7月

浜松に赴く用事があったので、脚を運んでみました。

浜松陸軍墓地跡
(住吉墓苑平和記念広場)

浜松には歩兵第67聯隊が明治41年(1908)に進出したことにより軍都としての一歩が始まる。。
大正15年(1926)には立川の陸軍飛行第7聯隊が進出。のちに浜松陸軍飛行学校として拡大し、また三方原教導飛行団なども展開。周辺には軍需工場も展開され、浜松は一大軍事拠点となっていた。

浜松陸軍墓地は明治41年の歩兵第67聯隊の進出にあわせて、兵営・練兵場などとあわせて設置された。

昭和18年(1943)に浜松陸軍墓地の地に「忠霊殿」が竣工。戦後は遺族会が管理していたが平成17年(2005)に老朽化により解体。忠霊殿祀られていた10857体の位牌は処分を強いられたという。

総務省サイトには【1万857柱の戦死、戦災死者を合紀する住吉「忠霊殿」 】があると記載されているが、その忠霊殿は、既にない・・・

総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 浜松市における戦災の状況(静岡)

浜松の瓦屋さん(柳本産業)のサイトに「忠魂殿」屋根瓦が保管されている旨の記事がありました。(2010年の記事、現在はわかりません)

  今日は 広島に原爆が投下された日 広島は65回目の原爆忌を迎えました     二度と繰り返し...

公園に保存するという話も立ち消えてしまたようで、なんとも複雑な気持ち。
次回、浜松に訪れる機会があれば、この瓦屋さんにも足を運んで、残っていれば拝見させていただきたいな、と思いつつ。

濱松陸軍墓地道
(浜松陸軍墓地跡)

濱松陸軍墓地道
昭和七年十月 濱松會建之

平和の道標
皆さんの美しい故郷の
山や河を守り
日本の平和と豊かな
暮らしを願いながら
長い戦争の中で
亡くなられました。
今日の平和を思う時
私達はここに眠る人々を
決して忘れません。
この尊い心を受け継ぎ
感謝の心を持って
一日、一日を
大切に生きましょう。
 平成25年9月吉日
 浜松市遺族会

英霊顕彰之碑
(浜松陸軍墓地跡)

英霊顕彰之碑
昭和57年7月17日
静霊奉賛会浜松市連合支部長建立

平和祈念の碑
(浜松陸軍墓地跡)

平和祈念の碑
 この碑は、戦争中軍人や軍属として、弾丸に傷つき、あるいは、病魔に侵された傷痍軍人、及びその生涯を献身的に扶けた妻の記念碑である。
 われらは、戦争の悲惨を、身をもって体験した者として、二度と戦争をくりかえすことのないよう心から訴える。
 ここに、日本の繁栄と世界の恒久平和を祈念し、われらが最後の傷痍軍人であり、またその妻であることを願ってこの碑を建てる。

 終戦50周年記念
 平成7年8月吉日
 浜松市傷痍軍人会
 同 妻の会

忠霊殿 扁額か?
(浜松陸軍墓地跡)

忠霊殿
昭和廿八年八月とある。戦後の昭和28年に作られた忠霊殿の扁額か。

前述のとおり、ここにあった忠霊殿は解体されてしまった。

陸軍標石

「陸軍用地」と記載のある標石が、住吉墓苑平和記念広場公園内(恐らく移築されたもの)と、住吉墓苑南古墳近くの2つを確認。

「住吉墓苑平和記念広場」内の陸軍標石

「住吉墓苑南古墳」の近くにある陸軍標石

住吉墓苑南古墳

住吉墓苑南古墳 住吉四丁目
旧陸軍墓地(現青少年の家南側)にある住吉墓苑古墳は、古墳時代中期末、五~六世紀の前方後円墳である。現在は高さ3米、直径30米ほどの後円部が残るのみであるが、墳丘には楠やはぜの木などの多くの木々が枝を広げ、各種の野鳥の四季折々の住みかとなっている。
戦後、旧陸軍墓地は住吉墓苑と改められ、青少年の家、白亜の霊廟の忠霊殿などとともに、広く市民の憩いの場として親しまれている。

あぁ、「白亜の霊廟の忠霊殿」・・・

青少年の家

この地図をみて、いまさら気づきました。。。。
「トーチカ」ってなんですか???
見損ねました・・・あちゃあ。

門柱跡
(浜松陸軍墓地跡)

位置関係(浜松陸軍墓地)

今昔マップ on the web 」より。
「歩兵営」と「練兵場」「陸軍墓地」があるのがわかる。
(大正6年測図)
「歩兵営」は現在の「静岡大学浜松キャンパス」
「練兵場」は現在の「和知山公園」

静岡大学浜松キャンパス には、往時の門柱が残るというが今回は未訪問。
さきほどのトーチカとあわせて次回の宿題とする。


浜松城公園に移動。

浜松市戦災被爆者慰霊碑
(浜松城公園)

浜松市戦災被爆者慰霊碑
浜松市長 平山博三 書

慰霊碑撰文
昭和十六年(一九四一年)十二月八日
太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った
この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた
特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた
人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった
しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく
かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである
 昭和五十四年三月二十一日
 浜松市戦災被爆者慰霊記念碑建設委員会

浜松市及び周辺の空襲被害状況
戦災死者 3,549人
戦災重軽傷者 4,870人
全半壊建物 7,536戸
全焼家屋 20,303戸
半焼家屋 462戸
投下弾 3,081発
焼夷弾 79,553発
砲弾(艦砲射撃) 20,000発
飛来機 B29 557機
    小型機 500機
被災地域 全市の70%

合掌。


浜松復興記念館

戦後の復興土地区画整理事業が昭和58年3月に終了したことを記念して、昭和63年に開館。

艦砲弾の破片、焼夷弾の弾頭、爆弾の筒
武蔵
武蔵

浜松市復興記念館公式サイト

浜松城公園の南、五社神社・諏訪神社の南に位置している。この場所はかつての浜松医学校跡。

せっかくなので、こちらにも足を運んでみた。
郷土資料からみる戦争資料と復興資料。こじんまりとした空間であれど、なかなか見応えはあった。
浜松は空爆のみならず艦砲射撃を受けた街ということもあり、その破片も生々しく。

五社公園

向かいの五社公園は「旧浜松市役所」という。
さらに前にさかのぼると「杉浦国頭邸跡」という。
いくつかの記念碑があった。

戊辰之役報国隊紀念碑(五社公園)

遠州報国隊。
慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで勝利し、徳川慶喜追討のため江戸に向かった官軍に、同行・協力するため神職を中心に結成された有志隊。

万葉歌碑 引馬野爾の歌 (五社公園)

万葉集遠江歌考
賀茂馬渕

浜松といえば賀茂真淵。すっかり失念していました。

愛郷 顕彰碑(五社公園)

浜松市消防殉職者を祀る。昭和41年建立。

誠忠碑・鳩の塔(五社公園)

帝国在郷軍人会浜松連合分会が発起、浜松尚兵義会が建立。
大正8年(1919)の創建。
日清戦争・日露戦争・第一次大戦の戦死者の霊を祀る。

ここには何も説明がなく、予備知識がないとまったくよくわからない塔。
ただ造形美と、堂々とした姿に「これは只者ではない」と感じさせるなにかがある。忠魂塔と知れば、なおさらである。
できることであれば解説板を設けてほしい。ちょっと残念な状態が嘆かわしく。


浜松には、「 エアーパーク 航空自衛隊浜松広報館 」もあり、他にも多くの戦跡が残っており見どころ豊富。次回以降の課題としたいと思う。