「東京都‐23区東部(江東,墨田,台東,荒川,足立,葛飾,江戸川)」カテゴリーアーカイブ

駆逐艦 不知火の錨(初代)

日露戦争で活躍した初代不知火の錨が、墨田区立両国小学校に保存してあった。

不知火(東雲型駆逐艦4番艦)

1899年(明治32年)、イギリス・ソーニクロフト社で竣工。イギリスのD級駆逐艦の準同型艦。
1904年(明治37年)、日露戦争では第2艦隊第5駆逐隊に所属。旅順口攻撃や黄海海戦・日本海海戦などに参加。
1925年(大正14年)廃船。

錨の由来
 この錨は日露戦争(1904年~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63,5メートル・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
 錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
 猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊次郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。
 平成3年
 両国(相生・江東)小学校同窓会


場所


関連

駆逐艦 初霜の錨

近隣

芥川龍之介文学碑

芥川龍之介は、不知火の錨が保存されている、両国小学校の出身

吉良邸跡

忠臣蔵の吉良邸が近所。

勝海舟生誕の地

墨田区立両国公園

勝海舟に関しては別記事でまとめる予定。

ドーリットル空襲と石出巳之助之墓

ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本本土初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

水元小学校と石出巳之助君

昭和17年4月17日(土曜日)
この日は土曜日だったので半ドン、つまり午前中で学校の授業は終わりだった。

4月に入学したばかりの東京都水元国民学校学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君(13歳)たちは午前の授業を終え、12時過ぎに校門を出たところで「空襲警報」が鳴ったという。
空襲警報を聞き、石出巳之助君たちは日頃の訓練どおりに急いで校舎に引き返し教室の机の下に潜ろうと廊下を走っていたところで、B-25の機銃掃射を受け背中に命中。応急処置を施すも、午後2時に命を引き取った。

石出くんを機銃掃射したB-25は、米空母ホーネットを8時30分に発艦したドーリットル隊3番機であった。3番機は水元国民学校に15発の機銃掃射を行ったという。

日本発空襲の被害は、東京だけで死者は39名であった。

翌日の新聞(朝日新聞)は、「鬼畜の敵、校庭を掃射」等、報じている。
また実際にはB-25を1機も撃墜していないが「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との報道もなされた。

東部軍司令部発表(昭和17年4月18日午後2時)
「午後零時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰で渡らせらる。」

石出巳之助之墓

戒名は「悲運銃撃善士」
石出君の死は、軍部による国威発揚に利用されたのだ。

墓前にて合掌。

(表) 石出巳之助之墓
(左) 悲運銃撃善士 昭和十七年四月十八日
(右) 昭和十七年四月十八日
    米國敵機ノ機銃彈ヲ受ケテ死亡ス
    性温和至純至孝身體強健ニシテ
    將來ヲ囑望セラレシニ此ノ災禍ニ遭ヒテ殉難ス 
    享年十四歳
(裏) 昭和十七年八月
    施主 石出文五郎建之

石出巳之助之墓

第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :
初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。

空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

葛飾区史(葛飾区総務部総務課)http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-9-4-86.html

上記、葛飾区史(葛飾区総務部総務課)のサイトより写真を引用。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)
石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。
なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。

石出くんのお墓は「法林寺」にある。

浄土宗寺院の見池山法林寺

総務省>一般戦災死没者の追悼>石出巳之助之墓

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_katsushika_city001/index.html


旧水元小学校

石出くんが通っていた水元国民学校の校舎の一部が今も残されている。
現在は、葛飾区強度と天文の博物館の管理ではあるが、耐震性の問題があり平成28年で「教育資料館」としては閉館。立入禁止となっている。

葛飾区指定有形文化財
水元小学校旧校舎 1棟
 所在地 葛飾区水元4丁目21番1号
 指定年月日 昭和59年(1984)2月27日

 この建物は、水元村立水元尋常高等小学校の増築校舎として、大正14年(1925)7月20日に竣工しました。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災の影響で材木が不足していたことから、アメリカから輸入した松材を用いて建築、当時としては構造上の強化も図られています。
 竣工当時は、廊下に沿って4部屋の教室がありましたが、現在の校舎新築に伴い昭和40年(1965)に北側の教室2部屋が撤去されました。この際に発見された棟札には、棟上げ日(大正14年5月16日)の他、当時の関係者の名前が記載されています。その後も、南側の2教室は昭和57年(1982)まで校舎として使用されました。
 昭和58年(1983)に現在地に曳家のうえ、建設当初の状態に復元されて、平成28年(2016)3月まで葛飾区教育資料館として使用されました。
 大正時代に建てられた校舎として貴重なことから、昭和59年2月に、葛飾区指定有形文化財に指定されています。
 葛飾区教育委員会

葛飾区郷土と天文の博物館>旧教育資料館 関連展示

https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php


位置関係

国土地理院
ファイル;C36(8913)-C1-297
1944年10月24日-日本陸軍撮影。

水元小学校が上空からでも目立つのがわかる。
(機銃掃射すべき対象物でないこともわかるはずだが。)

現在の様子。水元公園は戦前は水田地帯であったのが意外。

以上、
ドーリットル空襲と、本土空襲最初の犠牲者の一人であった石出巳之助さんにまつわる話でした。

東京大空襲・慰霊

撮影:平成29年3月及び平成30年3月

昭和20年(1945)3月10日
「東京大空襲」
罹災者は100万人を超え、死者は7万から10万人以上といわれている…

3月10日。
毎年この日には、墨田区横網町公園「東京都慰霊堂」や台東区隅田公園「戦災により亡くなられた方々の碑」をはじめ、都内各所にて東京大空襲に関連した追悼慰霊行事がある。

慰霊鎮魂の日

合掌

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html


言問橋

東京大空襲の際、浅草方面及び向島方面へ避難する人々などが、橋の上で交叉し身動きがとれない状態となってしまった。
それは、浅草(台東区)と本所深川(墨田区)とそれぞれの住民が川の向こう岸は安全だと信じて、火を逃れ対岸に逃げるために橋に殺到したためだった。
そうこうしているうちに橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。

石柱には黒焦げた跡が残る・・・


言問橋の欄干と縁石

江戸東京博物館には、言問橋の欄干と縁石が保存されている。

言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人びとだけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ日が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。


関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑

場所は変わって隅田川の下流、東京湾のかつての防波堤。

賑わう「台場公園」の片隅にヒッソリとある石碑。

関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑
東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
 これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
 いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
 平成六年三月吉日  東京都港湾局


東京都慰霊堂(横綱町公園)
旧陸軍被服廠跡地

墨田区・都立横網町公園
「東京都の歴史的建造物」選定

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

伊東忠太設計。
昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建。
昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨も納め、死亡者の霊を合祀。昭和26年に現在の姿に。仏教各宗により慰霊祭祀されている。

当地は元々「陸軍被服廠」があったが1922年に赤羽に移転し、東京市が買収し公園として整備しているさなかに関東大震災が発生。造成中の横網町公園に避難していた3万8千人が犠牲となり、昭和5年に震災記念堂が創建。

200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。
三重塔は高さ約41m。基部が納骨堂。

昭和20年3月10日、東京大空襲。
多くの公園や寺院などに犠牲者が仮埋葬。終戦後に身元不明の遺骨などを「震災記念堂」納骨堂を拡張し合祀。
昭和26年(1951年)に「東京都慰霊堂」と改称され現在に至る。
祭壇には震災死亡者・空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した位牌が2基祀られている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都


震災遭難児童弔魂像

震災遭難児童弔魂像
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災により東京市小学校児童約5000人が亡くなりました。
 この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により彫刻家小倉右一郎氏に制作を依頼、昭和6(1931)年5月16日に除幕式が行われました。
 その後、像部分は、昭和19(1944)年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36(1961)年、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津山昌平、山畑阿利一両氏に制作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。(略


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲
となりました。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
 この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
 斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
 平成13年3月 東京都

内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められており、3月10日と9月1日の法要の際は、内部公開も行われる。

花壇のレイアウトデザインは、都度都度かわるという。


東京都復興記念館

震災記念堂(東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年に建立。
「東京都の歴史的建造物」選定。

https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

(上記サイトより引用)
東京都復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。
震災の記念品などは当初震災記念堂に展示する予定でしたが、昭和4年(1929年)に開催された帝都復興展覧会に出品された資料も加わり、その数が膨大となったことから予定を変更して「復興記念館」を建設し、展示することとしたものです。
大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されました。
その後、第二次世界大戦の空襲により東京都下で亡くなった方々の遺骨を震災記念堂に合祀したため、記念館においても、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
平成元年(1989年)には、震災記念屋外展示場の解説等も充実させています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成29年11月~31年3月にかけて、基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事を実施し、設備を含めて大幅に改修しました。
現在は、外壁の改修に着手していて、特徴あるテラコッタ仕上げなどの修復をしています。

摩耗していた怪獣は、復元リニューアル(令和3年3月撮影)

復興記念館館内

昭和4年開催 帝都復興展覧会出品模型
第二号幹線九段坂付近(靖國神社前) 復興局出品


築地本願寺慈光院

東京都慰霊堂のある墨田区横網町公園の南隣に。
陸軍本所被服廠跡にたつ寺院。

震災慰霊。
関東大震災を祈念して建立された寺院。
境内の梵鐘は、関東大震災および第二次世界大戦の犠牲者を偲ぶ。3月10日には、戦災記念追悼法要・東日本大震災追悼法要が斎行される。


なお、東京大空襲に際して、軍人・軍属の犠牲者は「東京都戦没者霊苑」において慰霊追悼している。

東京都戦没者霊苑


東京大空襲関連

戦災電柱

本記事は、ひとまず

戦争の犠牲になった動物たち「上野動物園と動物慰霊碑」

令和元年(2019)11月

「上野動物園」
日本で最初の動物園、明治15年(1882)開園。
東京市時代の戦前は「東京市公園局・上野恩賜公園動物園」と称していた。
現在の正式名称は「東京都恩賜上野動物園」

そんな歴史由緒ある上野動物園の園内に、ひっそりと「動物慰霊碑」があった。

これもまた戦跡としての慰霊碑・・・。

合掌を


戦時猛獣処分

戦争において空襲等に巻き込まれた動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防ぐための殺処分のことをいう。


上野動物園の戦時猛獣処分

昭和18年(1943)以降、日本の各動物園で戦時猛獣処分が行われた。
食糧不足も重なり、多くの動物達も、戦争の犠牲となった。

昭和18年8月11日に上野動物園において、象1匹の殺処分が決定したのを皮切りに、昭和19年には全国の動物園で戦時猛獣処分が始まった。
処分は軍部による命令ではなく、あくまで行政機関の命令をうけた動物園の判断での実施であったという。

昭和18年8月16日、大達茂雄東京都長官(東京市と東京府が廃止されて東京都が設置された際の初代東京都知事)は、上野動物園などの都内の動物園に猛獣殺処分を発令。
これは前職でシンガポール市長(昭南特別市長)を努めていた大達茂雄が、既に時局の厳しさを感じ取り、猛獣被害予防という点以外にも、国民の危機意識を高めるために行ったという側面もある。
大達茂雄東京都長官が決断をした、昭和18年夏の段階では、まだ東京に対して空襲が頻発する前段階であり、そのため空襲のために殺処分が決まった、というわけでもなかった。
しかし「絵本」では、わかりやすく、軍の命令、空襲が続く中で・・・となっている。

上野動物園では、ゾウ・ライオン・トラ・クマ・ヒョウ・ヘビなど14種27頭が殺処分対象となる。
特に気性が荒く危険とされていたゾウの「ジョン」は、処分命令に先立つ8月11日に早くも殺処分が決定され、13日から絶食状態となっていた。 
そうして、8月17日から9月1日までに、ゾウ1頭(ジョン)を含む24頭の殺処分され、そして9月23日に最後のゾウが死亡し、計画された一連の殺処分が終わった。

なかでも、3頭のインドゾウの殺処分は特に有名。
気性の荒い「ジョン」は、いち早く8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日後の8月29日に餓死。残る2頭のゾウも餓死による殺処分。
当初は、ゾウも他の動物と同じように薬殺が予定されていたが、繊細なゾウは毒餌を受け入れなかったために餓死させることとなったという。
食べ物を欲した象たちは、痩せた体でヨロヨロと飼育員の前で必死の芸をしたという。芸当をすれば、きっと餌がもらえると信じての行動であったが、飼育員たちは餌を与えることは出来ず、ただただ、象たちのやせ細る姿を見守ることしか出来なかった。
そうして、9月11日に「ワンリー(別称「花子」)」が餓死、最後まで残った「トンキー」も9月23日に餓死した。

昭和18年9月2日に「時局捨身動物」として戦時猛獣処分実施が公表。
さらには、9月4日には「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)が斎行された。
慰霊祭は象舎の前で行われたが、そのときはまだ象舎では「ワンリー(花子)」と「トンキー」は絶食中でも生存しており、慰霊祭に際して象舎に鯨幕を張り、象の姿を見せないために目隠しをしたという。

「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)
位牌は「殉難猛獣霊位」
墓標は「時局捨身動物」


上野動物園の猛獣を懇切処置

懇切処置という表現といい、記事の文面のもやもやした言い回しが、時局を表していて、とても複雑な気持ちになる・・・。

昭和18年(1943年)9月2日
同盟時事月報(通号208号) 第7巻 第09号

上野動物園の猛獣を懇切処置

【二日】東京都では、日頃都民から限りない親愛の情をもたれて来た、上野動物園の人気者象の花子さんを始めライオンなどの猛獣が、馴染みの姿を柵から消す処置がとられた。
(東京都発表)(二日午後二時)
東京都に於いては非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣をこのほど懇切に処置した。依ってこれらの動物供養のため、来る四日午後二時、本園内動物慰霊塔に於て、浅草寺大森大僧正を導師として法要を営む。如何に馴れた動物でも激烈な衝撃によって怖るべき狂乱状態となるので、誠に不憫ながらライオン以下の猛獣を処置することは止むを得ざる次第で、平素愛護を頂いた都民皆様の御諒解を願ひ度い。


上野動物園 動物慰霊碑

動物よ安らかに
 古賀忠道書

古賀忠道(1903-1986)
1937年に園長制度が設立され上野動物園初代園長に就任。
戦前から戦後まで上野動物園とともにあったお人。
「動物よ安らかに」に重みを感じる。
1962年の動物園創立80周年記念行事を最後に園長を引退。

「動物園は平和なり」は古賀忠道氏の残した言葉。

なお、動物慰霊の後方に見える、石塔は、津藩藤堂家墓地。
上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京の「上野」は高虎の領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
上野の寛永寺内にあった藤堂高虎の菩提寺「寒松院」の地が、上野動物園となり、そして、藤堂高虎を始めとした歴代の藤堂藩主の墓は、上野動物園内に残された。なお、藤堂家墓地は非公開立入禁止エリア。

動物慰霊碑
動物慰霊碑は、動物園で死亡した動物の霊をなぐさめるためのものです。戦争の犠牲となった動物たちをはじめ、園内で暮らしたすべての動物たちが供養されています。ブロンズのリボンは動物への愛情と弔意をあらわし、フクロウは動物たちの霊をみまもる象徴として選ばれました。
最初は1931年に、今のゴリラとトラの森付近に建立され、当時は動物たちを近くに埋葬していました。この慰霊碑は1975年、園内の改修にあたり新たに建立されました。


上野動物園旧正門

明治44年建立。昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。


上野動物園

上野動物園。久しぶりに園内に。

象舎の裏に慰霊碑がある。


上野動物園モノレール(廃止)

「東京都交通局 上野懸垂線」
日本で最初に開業したモノレール。 開業は1957年。日本最短のモノレール。
現在の車両は4台目の車両(2001年導入)であったが、令和元年(2019年)11月1日で車両経年劣化もあり運行休止。

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/monorail/


関連

動物慰霊碑

上野界隈の散策

上野公園の戦跡・近代史跡散策

令和元年10月

上野恩賜公園、通称は「上野公園」
「戦争に纏わる史跡」「近代史跡」としての公園散策をしてみた。

時忘れじの塔

東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
初代林家三平夫人の海老名香葉子さんらにより平成17年3月9日建立

時忘れじの塔
関東大震災(大正十二年)東京大空襲(昭和二十年)

  東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を
思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の
目印として、この時計台を寄贈しました。
 建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子
 建立有志一同

海老名香葉子さんのもう一つの慰霊碑
「哀しみの東京大空襲」

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city005/index.html


上野大仏(上野大佛)

もともとは 明暦万治(1655~1660)頃に建立された像高約6メートルの釈迦如来坐像であった。
幕末の上野戦争では辛くも被害を免れたが、明治6年に大仏殿が解体され、そして大正12年(1923)の関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴体部以下が上野寛永寺に保管され再建を目指すも資金難により頓挫。
昭和15年(1940)に顔面部を除く頭部及び胴体部は、戦時中の金属供出で失われ、現在は顔面部のみがレリーフとして、昭和47年に旧跡の地に安置された。これ以上落ちない合格大仏として現在では信仰を集めている


小松宮彰仁親王銅像

小松宮彰仁親王銅像
台東区上野公園八番
 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
 銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川官能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
 平成8年7月
 台東区教育委員会


グラント将軍植樹碑

ユリシーズ・シンプソン・グラント
南北戦争時の北軍の将軍
アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領として第18代アメリカ大統領(1869‐1877)に就任。
1872年にアメリカを訪問した岩倉使節団と会見。
大統領職後の1879年7月から9月まで国賓として日本に滞在、アメリカ大統領経験者では初めて日本にきた人物でもある。

「Let us have peace」
将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む植樹碑。

グラント将軍植樹碑
上野公園八番
 明治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。
 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。
 平成4年11月
 台東区教育委員会


明治天皇日本美術協會行幸所阯

上野の森美術館

史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和16年8月文部大臣指定

昭和18年3月建設


西郷隆盛銅像

西郷像は高村光雲作、犬(ツン)は後藤貞行作
明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が説かれたのをきっかけに建設計画が始まり、明治31年(1898)12月18日に西郷隆盛銅像除幕式が行われた。
銅像の高さは370.1cm。頭部が大きく見えるのは足下からの遠近法を考慮したデザインという。

敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。

近くには、かなりの年代を経たと思われる燈籠が残されていた。


西郷像の右手に。

摂政宮関東大震災視察碑

大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日 天皇陛下此に臨御あらせられ親しく街衢の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て 聖恩を不朽に傳へんとす。

西郷像の奥に。

彰義隊の墓

彰義隊の墓(台東区有形文化財)
上野公園一番
 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成8年3月
 台東区教育委員会


そのほか

動物慰霊之碑(陸軍獣医学校・両国回向院)

平成30年参拝

かつて陸軍獣医学校内にあった「動物慰霊之碑」(昭和3年3月建立)が、紆余曲折あって、戦後に両国回向院に移転している。
陸軍獣医学校 はかつては世田谷区の、現在の 駒場学園高等学校 のあたりにあった。(後日まとめます)

両国回向院(本所回向院)は、動物供養でも著名な寺院さん。

動物慰霊之碑

昭和3年3月建立陸軍獣医総監 岡田勝男 謹書。
岡田勝男は、東京帝大獣医学科卒の陸軍獣医中将。

昭和三年三月
動物慰霊之碑
陸軍獣医総監 岡田勝男 建立

碑裏面
この碑は東京都世田谷区下代田町旧陸軍獣医学校内にあったもので、同校明治以降の教育研究に犠牲となった動物及び物言えぬ戦士として戦場に散華した軍用動物の霊を慰めるため、当時の学校長岡田勝男氏により建立され懇ろに祀られて来たのであるが、昭和20年敗戦の後は全く荒廃に委ねられて来たこと、幸い当回向院並に多数援助者の厚志により、今回この地に移し永く供養し得ることとなったこと、当時それら40数万に及ぶ軍用動物と生死を共にした旧陸軍獣医部員5千余名の深く喜びとするところである。
昭和38年4月29日
紫陽会
会長 渡辺満太郎

陸軍獣医学校の跡はこちら


回向院

 明暦3年(1557)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
墨田区 

諸宗山 回向院
明暦三年(一六五七年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万8千余人を弔うために建立された。
本尊 阿弥陀如来 (東京都重要文化財)
安政大地震(一八五五年)の死者2万5千人余を初めとして、江戸府内の無縁仏、天地地変に因る死者も埋葬され近くは大正12年の関東大震災の死者10万余人の分骨も納骨堂に安置されています(以下略

「こんなに焼けたか」昭和天皇と富岡八幡宮

令和元年5月撮影・門前仲町

富岡八幡宮

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。


天皇陛下御野立所

(おのだちしょ)

天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡幸ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ

東京都

昭和三十五年四月二十九日建立

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮

 昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結した。8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明

 昭和天皇は、ここ富岡八幡宮から
東京大空襲の被災地を視察されました

江戸・東京の発展と、日本の平和と発展を願い、ここに石碑を建立する
平成31年3月18日
富岡八幡宮友の会

「日本ニュース 第248号」でも、 昭和天皇の視察のようすが記録されている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=001

先日、富岡八幡宮に参拝する機会がありまして、手水舎脇に新たに設立された「石碑」を拝見。
東京大空襲後の東京を、1週間後の3月18日に 昭和天皇は富岡八幡宮から御巡幸なされ、焼け野原の様子をご覧になられたという。

参拝を

灯籠は明治45年奉納。
昭和天皇御巡幸の際も石灯籠は戦災から逃れ残っていた。


天皇陛下御製

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

 元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

鈴木 一(はじめ)氏は、侍従長・首相 鈴木貫太郎の長男。
元陸軍主計中尉、首相秘書官、侍従次長、外務省入国管理庁長官などを努めた。

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会


天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

この碑の歴史的な意義とは別の、お家騒動的な話は、格別には触れません。
一時期は埋められていた「宮司」の二文字も戻されておりました。

合掌。

天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑
富岡八幡宮宮司富岡長子謹書

天皇皇后両陛下には、平成24年8月12日、富岡八幡宮に行幸啓の栄を賜りました。
この行幸啓は、昭和天皇が昭和20年3月18日という東京大空襲のわずか8日後に被害状況ご視察のため、当神社に行幸あそばされたことを忍ばれてのことと拝察され、当日はご参拝の後、婚儀殿にて東京大空襲に被災した江東区民と御懇談になり、当時の体験談を熱心にお聞きになって親しくお言葉をおかけになられました。(後略)
平成26年4月26日 江東区長 山崎孝明

https://www.tomiokahachimangu.club/

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/shahou/h2404/htmls/p05.html


富岡八幡宮の周辺にいくつか近代史的なスポットがありますのであわせて掲載。

石造燈明台

明治31年 深川公園

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会

dav
dig

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

たまに足を運びたくなる深川散歩でした


関連

「明治丸」と「東京高等商船学校」(東京海洋大学)

平成29年7月

海の日(7月第3月曜日)

海の日は1995年(平成7年)に制定され1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つ。
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。
祝日化される前は「海の記念日」(7月20日)

海の記念日

海の記念日は1876年(明治9年)、 明治天皇の東北地方巡幸の際、汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなみ1941年(昭和16年)に制定。
その後、明治丸は東京商船学校練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。

東京海洋大学

海の記念日・明治天皇ゆかりの「明治丸」は東京海洋大学越中島キャンパスにて保存されている。

本日、「海の日」記念行事として東京海洋大学にて公開などが行われていたので、行って参りました。

最寄りはJR越中島駅。
駅のタイルも海洋っぽい感じで良いですね。

私の目的は「明治丸」
まだ見たことがなかったので、せっかくだから海の日に見学してみたかったのだ。

明治丸

明治丸は明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し明治7年に竣工した鉄船。翌8年横浜に回航。
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に日本政府の調査団を乗せ英国船より早く小笠原に到達し日本統治を宣言。これにより小笠原諸島は我国の領土となった。

明治9年(1876年)  明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から明治丸に乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着。
この安着された7月20日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され平成8年に国民の祝日「海の日」となる。
写真は明治丸船内の 明治天皇御座所

明治丸は、その後の約20年間を燈台巡廻船として活躍し明治29年に商船学校に譲渡。
係留練習船として昭和20年までの約50年間に5000余人の海の若人を育成。

大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲では被災民を収容するなど災害救援にも貢献。

明治丸は終戦後の1945年(昭和20年)9月には商船学校とともに進駐米軍に接収され酒保とされる。
接収中の1951年に係船地で座礁したのを契機に接収解除。

1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが1954年に老朽化のため練習船の任務は解除となる。

昭和53年(1978)、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、かつ現存する唯一の「鉄船」として「明治丸」は国の重要文化財に指定。
「船としての重要文化財指定」は明治丸が初めてであった。

平成27年に大規模修復工事が終了し現在の姿を伝える。

船首と船尾に装飾として使用されている「アカンサス文様」(アカンサスは地中海原産)は日本の船の文様としては珍しく、この船がイギリス産であることを物語っている。(日本での定番の文様は「唐草文様」)

近くでは、ちょうどアカンサスの花が咲いておりました。

この日は海の日イベントでの開放日となっておりましたので船内も自由に見学できました。(普段はガイド引率のようです)

前甲板など。
大規模修復工事のあとということもあってかなり綺麗です。

舵は後甲鈑に。
まっすぐに伸びるマストが気持ち良いです。

船内に降りる階段。

船内後方は曲線美しいサロンとなっておりました。
明治天皇もここで休まれたと。

空間は上甲版に作られた天窓の光が差し込む自然の明るさ。当時は船には電気が導入なかったために暗くなると蝋燭が柱に設けられたスプリング機能付き台座(柱頭ランプ)などに灯されたとのことです。

船内前方は船員室などがあったといいます。
現在は展示スペースなど。
やはり天窓が大きく明るい日差しを船内に届けておりました。 この時代の船は、ひと味違いますね。

窓が豊富にあるのは明かりを取り込む工夫。
電気がなかった時代の特徴。
これが軍艦だとここから砲身が伸びてきますが・・・


アンカーの塔

商船教育発祥を記念して昭和40年に85周年記念として建立。
このアンカー(錨)は係留練習船としての明治丸をポンド内に定置する際に使用されたもの。
アンカー主幹は北極を、ストックは天の赤道を指している。

日本海軍駆逐艦「磯風」
左舷プロペラ

ん?
17駆の磯風は大和随伴で沖縄…と思ったらこちらは初代磯風でした。
(17駆の磯風は2代目)

1918年(大正7)竣工
1935年(昭和10)除籍

百周年記念資料館

日本海軍制式短艇用コンパス(上陸用舟艇に使用)
昭和16年

鉄球の羅針盤から鉄板と磁力棒へと進化。
ジャイロコンパスはもうちょっと後。

左は「九〇式三号磁気羅針儀1型」(昭和18年)
大きな鉄球は「戦艦伊勢用大型自差修正用鉄球」

軍人が帯刀してるだけでも磁場が狂うらしいです

90式測深儀(指示部・発振部)
昭和18年

百周年記念資料館
文系の私には細かいレベルではよくわかりませんが、エンジン機関とか歯車とか航海学に関するものとかいろいろ盛り沢山。

大成丸 (初代)関係資料

1903年12月2日に進水。日露戦争開戦の年に竣工した本船は海軍に徴用され試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事。
1906年に東京高等商船学校の航海練習船として運用開始。

大成丸 (初代)
練習船として活躍するも1941年に再び海軍に徴用。
輸送船として石炭輸送に従事。航行可能状態で終戦を迎えたが1945年10月9日11時頃に神戸港内で米軍残存機雷に触雷して沈没。

写真は遺品の御真影奉安庫


キャンパス周辺の史跡を散策してみます。

東京商船大学1号館
(現・東京海洋大学海洋工学部1号館)

関東大震災で焼失した校舎跡地に昭和7年(1932)建設。
航海船橋を模した建造物。
登録有形文化財。

東京海洋大学

明治8年11月(1875)私立三菱商船学校が東京に設立
明治15年(1882)三菱商船学校は官立となり東京商船学校と改称
大正14年(1925)東京高等商船学校と改称

戦時中は、東京高等商船学校に入校した学生は海軍予備生徒に任命され兵籍に入り徴兵の対象外となった。海軍予備生徒は海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の生徒に準じる立場であり、下士官の上位、准士官の下位に位置づけられた。卒業後は海軍予備少尉。

1号館は昭和7年の建造ゆえに正確には文部省所管の官立「東京高等商船学校」時代の建物となる。

1945年(昭和20年)に 東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し「高等商船学校」が発足。
消耗が激しい海軍初級士官の大量養成の一端を担っている。

戦後は東京商船大学と呼称していたが、2003年に東京水産大学と統合して東京海洋大学となる。

越中島→元・東京商船大学(工学系)
品川 →元・東京水産大学(水産系)

統合して「海洋」だけど、たしかに両者の趣はだいぶ違いますね。

第一観測台 (東京海洋大学・越中島)

明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一といわれた天体望遠鏡を備え教育研究に使用された。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

第二観測台 (東京海洋大学・越中島)

第一観測台と同時期の明治36年(1903)建設。(官立「商船学校」時代)
子午儀室と呼称され、内部には子午線測定用望遠鏡が備えられた。
平成9年(1997)に登録有形文化財。

G.E.O.ラムゼー功徳碑 (東京海洋大学・越中島)

ラムゼー先生は明治9年から6年間に渡り、前身の私立「三菱商船学校」時代に航海術を教えた教員。
没後の明治19年(1886)に門弟達によって碑が建立された。
碑には琅西君(=ラムゼー氏)と記載されている。

招魂碑 (東京海洋大学・越中島)

東京商船学校の生徒であった田福重右衛門は英国船に乗船し米国に渡る途中で暴風雨に遭遇して死亡した。
この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建立。
題字は逓信大臣榎本武揚の篆書。

精神不滅碑 (東京海洋大学・越中島)

昭和19年8月、清水高等商船学校生徒3名は不屈の精神で持って遠泳訓練に挑んだが豪雨の影響もあり最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡。この碑は敢闘精神を記すために昭和19年11月に建立。
撰文は清水高等商船学校長・海軍中将 松永次郎

管船長石像 (東京海洋大学・越中島)

菅源三郎は商船学校を卒業後、上海航路貨客船・長崎丸の船長として活躍。
昭和17年に長崎港外で機雷に触れたが沈没するまで同船を指揮。救助された後も遭難者への事後処理に奔走し責任を負って自決。
昭和20年1月建立。

船模型は長崎丸姉妹船の上海丸

明治天皇聖蹟(越中島)

こちらは大学の敷地に食い込むように建立されておりましたが、現在は敷地外の扱い。
碑文を読み解くと、

明治天皇聖蹟(近衛文麿謹書)
紀元二千六百年記念建設
越中島には明治3年9月、明治5年9月、明治6年12月、明治8年6月に天覧の為に行幸された由

さて10時に越中島キャンパスにたどり着いてランチ休憩も含めて気がつけば3時間経過の13時すぎ。
ちょうど13時35分に越中島キャンパスから品川キャンパスを結ぶシャトルバスが運行でしたので、バスに揺られてなんとなく品川キャンパスに向かいます。

写真は豊洲運河から明治丸

品川キャンパスは歴史要素が薄いのでサラリと終わります。
品川は元水産大学なので、越中島のような船メイン(海軍要素あり)ではなく、海の生き物中心。


14時。品川キャンパスに到着。

この地は旧海軍経理学校品川校跡地。往時を偲ぶものはない。

海軍経理学校品川校舎は昭和18年に開設され昭和19年には築地から品川に本校機能が移転。 終戦後に米軍に接収され、そののち東京水産大学が展開された。

築地  →海軍経理学校之碑
東郷神社→海軍経理学校正門敷石
靖國神社→海軍経理学校正門敷石と品川校の揚艇柱部品など

この地で保存されている船

雲鷹丸

登録有形文化財。 東京水産大学の前身、農商務省水産講習所の第2代練習船。
1909年竣工。1929年航海終了、その後は係留練習船として活躍。
昭和37年に喫水線上部船体を現在地に移設し現在に至っている。


ノルウェー式捕鯨砲
19世紀末の近代捕鯨で船首に備えられた捕鯨砲 旧型と新型

鯨ギャラリー
セミクジラとコククジラの骨格が展示

品川キャンパス内での歴史的建造物

中部講堂(なかべこうどう)

昭和34年(1959)水産関係の実業家であった大洋漁業(株)社長中部謙吉氏が寄贈した建造物。当時は旧海軍経理学校及びGHQ接収建造物を校舎流用しており満足な施設がない時代であった。

「中部講堂」の周辺にある記念碑など。
松原新之助像(水産講習所初代専任所長)
伊谷以知二郎像(水産講習所第三代所長)
水産翁碑(水産伝習所第二代所長・村田保水産翁記念碑)

水産大学・・・東京海洋大学品川キャンパスの写真は以上。
マリンサイエンスで剥製や骨格などを見学したりして海の生き物たちの造詣を深めるのもなかなかよろしでしたが、ワタシ的にはやはり商船な越中島の方が楽しかったようです。


明治神宮
なぜ7月20日に「海の日」が制定されたのですか?

http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/04.html

国立科学博物館と上野散策

平成30年10月撮影

高射第一師団司令部(国立科学博物館)

昭和19年12月、東部高射砲集団を改編して「高射第一師団」創設。
京浜地方を主とする本州東部の防空(高射砲)を担った。

昭和20年5月に、司令部を代官山から上野の東京科学博物館本館(現・国立科学博物館日本館)に移転。

国立科学博物館としては、現在の日本館は昭和5年竣工(1930年)

当時は東京博物館・上野新館。
戦争中の昭和20年3月10日に博物館は閉館し標本を近県6か所に疎開。
昭和20年5月に建物が軍に徴用され終戦まで高射第1師団の司令部となっている。

零式艦上戦闘機21型 改造複座機
 国立科学博物館展示

※令和3年、科博廣澤航空博物館に展示移転

ここに展示されているのは、ラバウルにて魔改造された複座偵察機仕様の零戦。
栄エンジンがよく見えるようにカウルを外した状態で展示。

日本の航空技術を代表する飛行機
零式艦上戦闘機
21型改造複座機

この零戦は、1972年(昭和47年)ラバウル北西ニューブリテン島沖の海底で発見され、引き上げられた。ベースは零戦21型で、数機の部品を合わせて作られており、偵察用として2座席に改造されている。

この機体は、エンジンが見えるようエンジンカバーを外して展示しています。

1944年にラバウル航空隊が撤退した後に、現地残留部隊が数機の零戦を組み合わせて複座偵察機に改造した機体。
ベース機は中島製31870号機。機番53-122

国立国会図書館国際子ども図書館
(帝国図書館)

旧帝国図書館は明治39年(1906)竣工の第一期工事と昭和4年(1929)竣工の第二期の二次にわたって建設され、構造は第一期が鉄骨補強煉瓦造り、第二期増築部分が鉄筋コンクリート造り。

上野公園近くの国際子ども図書館の前庭に。

「小泉八雲記念碑」
昭和10年建立。
小泉八雲の東京帝国大学時代の教え子であった土井晩翠が、23歳で結核によりなくなった長男英一の遺言に基づいて、小泉八雲を偲んで建立したものという。

小泉八雲記念碑

碑文
先生原名ハ らふかぢお・へるん 英国ノ人 西紀千八百五十年地中海ノ れふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ 職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ 千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル 先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
昭和10年(1935)6月
藍谷温 撰 市河三喜 書

土井林吉が土井晩翠のこと。
碑の左右には「筆開皇國華」「文盡人情美」と。

2002年に安藤忠雄建築研究所が中心となって歴史的建造物の保全を軸に設計がおこなわれたのが現在の姿。

上野界隈は散策が半端なので、追記するかも。

建物以外の上の散策はこちらも

旧・陸奥宗光邸

平成30年10月撮影

鶯谷駅から歓楽街を抜けた先、住宅地の突き当りに古風な洋館が今も残っている。

この古風な洋館。
明治16年(1883)から明治20年までの期間が陸奥宗光邸であった。
この洋館は都内に現存する住宅建築洋館としては最古の一つとされている。

陸奥宗光邸

陸奥宗光が外交官・外務大臣として活躍する前の時代。

西南戦争時に反政府的な動きをしていた為、禁錮五年の刑を受けた陸奥宗光が明治16年(1883)に出獄したあと、9月に邸宅を購入して住んだのがこの洋館だった。

明治17年4月から19年2月まで陸奥宗光がロンドン留学中は妻子が居住。

陸奥宗光の帰国後、明治20年(1887)4月に六本木に引越すまで、この洋館で過ごしていた。

邸宅は明治21年に借金返済と息子廣吉の留学費用捻出のために売却。
明治40年頃に長谷川武次郎が購入し住居兼長谷川弘文社社屋として使用。
以後、大正昭和と引き継がれ、現在は長谷川武次郎子孫の西宮家の所有。

屋敷の裏側。
ちょうど裏側が新しい住宅建築中で更地になっていたので、運良く裏を見ることもできました。

陸奥宗光の晩年の邸宅は古河庭園として整備されており有名。

一方でこちらは鶯谷(根岸)の住宅地にひっそりと埋もれており、知る人も少ない気配。

蔦に覆われはじめており、この先はどうなるのかな、と。
歴史的な価値がありつつも、個人所有のようなので先行きを心配しつつ。

陸奥宗光邸としては、旧古河庭園や大磯などが有名。未訪問ですのでそのうち。
宿題・・・

戦災電柱

平成29年11月撮影 台東区三筋町

台東区三筋の住宅地のなかに残る戦跡。

昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。

場所→台東区三筋1ー13ー12
https://goo.gl/maps/h4N11AgjgHu …

第二次世界大戦下の1945(昭和20)年3月10日、米軍機B29による東京大空襲で、10万人以上の貴重な人命が失われ、三筋町も一面に火の海となりました。辛うじて焼け残ったこの電柱には当時の惨状が刻みこまれています。私達はこの悲惨な歴史の生き証人としての電柱を保存することにより、あのような悲劇をひき起こした戦争を二度とくり返さないことを神に誓い、恒久の世界平和を宣言するものであります。
 Mar 101988 焼け残った電柱を保存する会

台東区三筋町の住宅地のなかに残る戦跡。
昭和20年3月10日、東京大空襲のさなかで辛うじて焼け残った電柱。
交差点の向こうにみえる赤い鳥居は「梅森稲荷神社」


黒焦げの電柱(複製)

現地に保存されている電柱の複製が、江戸東京博物館に保存されている。

 台東区三筋1-13の交差点角に立っていた電柱で、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で被災したものである。高さは本来7mほどあったが、焼けて半分ほどになってしまった上に、黒く炭化してしまった。
 戦後は街路灯として使用されていたが、付近の交通が頻繁になり、撤去することになった。しかし空襲の記憶を語り継ぐ資料として現地保存されていた。
 1995年(平成7)、当館に収蔵された。


関連

東京大空襲・慰霊


駆逐艦 初霜の錨

平成28年5月撮影

旧帝国海軍駆逐艦「初霜」の錨
墨田区:山田記念病院

初霜の錨

一等駆逐艦初春型の4番艦 「初霜」
その錨が記念として保存されていた。
今となっては数少ないあり日の帝国海軍のよすがを偲びに。

墨田区の山田記念病院。

入口脇に初霜の錨が保存されています。
病院の初代院長が初霜に乗艦したことがあったというご縁でもって。

場所 https://goo.gl/maps/LmStTMAmjiw …

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。


 この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。 初霜はさきの大戦に北はアリューシャン列島、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海で勇戦、 最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷擱坐して任務を終わった。
 終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合軍に接収された。 初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。
 私は昭和15年軍医長として初霜に乗込み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年5月
山田病院初代院長
元海軍々医少佐 山田正明


初霜

横須賀浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31日に起工。翌34年9月27日に竣工。
各地で勇戦し、坊ノ岬沖海戦…所謂あの大和特攻作戦からも生還するも終戦直前の昭和20年7月30日に舞鶴にて機雷触雷し沈没。
このとき第17駆逐隊として「初霜」最期の僚艦が「雪風」だった。

大和特攻作戦からも生還した幸運艦であったが、終戦まであと半月のところで擱座。
擱座・着底した初霜は戦後に解体。
錨が初霜にゆかりのあった山田病院院長の手によってこうして保存されている。